歪んだ世界の、そのムコウガワには。~君に、もう一度会いたかった~
無機質で殺風景な、コンクリートロード。小鳥も寄り付かない、乱雑に垂れ下がった電線。
「……おい、待てってば!」
義明は、一言の説明もなく先を急ぐ親友、千陽を引き留めようとしていた。
見慣れた通学路からは外れ、住宅街と大通りの区別が曖昧になっている。平日の朝、高校とは真反対に駆けだした彼女を追いかける内に、義明たちは街の周縁部までやってきていた。
高校で定められた制服とは、似ても似つかないTシャツ一枚。スカートに代えて、動きやすい半ズボン。千陽は、今日から半グレにでもなる気なのだろうか。提出物忘れゼロ回の彼女が、王道を違えるとは考えづらい。
後ろ姿を捕まえようと、義明も前へと足を進める。のだが……。
(……千陽って、こんなに足が速かったか……?)
千陽は、徒競走で最下位の旗下が指定席だ。体育だけは大の不得手で、極度の運動音痴が故に内申点が危うかった彼女が、である。短時間で急成長する練習法があるのなら、ぜひともご教授願いたい。
頭を左右に揺らし、足を前に振り出した走り。ランニング初心者の典型例である。振幅の小さいメトロノームと言っても差し支えなさそうだ。
我武者羅に不慣れな道を走破してきた千陽が、信号に引っ掛かった。これで、ようやく事情が聞けるようになる。
「……どうしちゃったんだよ、千陽……」
今日は、朝から異世界が広がっていた。通行人に目もくれない自転車に撥ねられそうになったと思えば、千陽は逆方向へ逃避する。腐っても陸上部が一般女子に追いつけないというオマケ付きで。
千陽は、義明に反応する素振りを見せない。ただ赤信号を見つめ、何者かと交信している。日頃見せていた、周囲のリーダーとしてまとめ上げる剛腕の顔は、そこに無い。
横断歩道を進む会社に囚われた大人たちから、怪異の目線を浴びる。それはそうだ、女子高生が気の乗らない朝から微動だにせずつっ立っているのだから。
「千陽、何かあったなら……」
少しでも力になれるように頑張る、と負荷を分散させることは出来なかった。言葉が詰まって、吐き出そうとする意志も失われてしまったのだ。
千陽の目前には、電柱に寄りかかった萎れかけの花束が置かれていた。現実世界はカラーだが、この一画はモノクロに見える。花弁に精力が感じられず、どれもこれも真っ白である。
……もしかして、親しい人が……。
自称コミュ障の義明でも、察する能力は備えている。
全体が震え始めた千陽に、何も言葉をかけてやれない。義明は、千陽の持つ別の世界を知らない。心に踏み込む権利を所持してはいなかった。
世の中には、共有できる悲しみとそうでないものがある。何でもかんでも介入すれば人を救えるのではない。独力で切り拓かなければいけない道もあるのだ。
信号がまた点滅して、進入禁止に切り替わる。何百人が、凍てつく風に吹かれた彼女を素通りしただろう。誰一人として、声をかける者はいなかった。……義明を含めて。
永遠とも思われた時間は、千陽がしゃがみ込んだことによって打破された。いや、直立姿勢を維持できなかったと言うべきか。手のひらで顔を押さえ、おぼつかない目に花束を焼き付けていた。
「……気が済んだら、声でもかけてくれ、な」
分銅を乗せただけで崩れそうな、千陽の背。不幸と立ち向かうには、余りにも貧弱だ。援護射撃すらままならない技量でも、最大限のことは尽くしたい。
千陽は、ポケットから何かを取り出した。それは色彩の入った写真だった。左側で幸福を爆発させているのが、彼女自身。高校の看板が立てかけられているので、入学式のものだ。
義明が釘付けになったのは、その隣。切磋琢磨の土俵にも立てなかったが、根性で同じ道を選び取った、千陽とは幼い頃からの付き合いがある親友。
……俺、だよな……。
正真正銘、義明であった。格好つけてクールに振舞う、当時の自分だった。
義明と千陽以外に、映りこむ被写体はいない。まさか、対象が端で切れているのでもないだろう。
……つまり……?
物事としては整理できても、解釈が宙に浮いている。現に、義明は真後ろで結末を案じていた。天から見守っていたのではない。
供えてある、白い花束。その前で崩れ落ちる千陽。取り出された義明との写真。どれも、一つの帰結を提案している。論理を合わせようとすると、あり得ない結論が導き出される。
この供養されている張本人が、義明ということだ。
「……どうして……。……どうして、こんなことに……」
くぐもって晴れない、千陽の捻り出した声。目の周りは乾ききって、何度もこすった赤い痕が目立つ。涙さえも出せなかった苦闘が、伝染してきた。
自分自身は、今ここにいる。それを証明するためにも、過去を遡っていく。
……昨日は……。昨日は……?
食べた物が思い出せないのでも、授業内容が定着していないのでもない。前日、先々日、その前……。直近の日々が、抜け落ちていた。白紙で上書きと言うよりは、元から存在しないかのように。
巡り巡ったなけなしの頭で、整合性のある都合の良い論理を探す。どんな断片でも、有利な証言であればそれでいい。
義明の中で、一向に進展しない議論が巻き起こっていた。千陽のことなど、片隅からも消え去って。
現実に自己の存在を主張しようとすればするほど、理想が遠ざかっていく。手を伸ばせばすぐにでも届きそうだった未来が、厳重な金庫へと閉じ込められていくのだ。
「……よし、あき……」
千陽が、写真を正面にしてうなだれた。全てが、一点に集約された。
……俺は……。
不可解な事柄の歯車が、軋みながら動き出した。恐ろしいほどに滞らず、今の義明まで運動が続いている。波動の前線上で、義明は振動していた。
「……義明、よしあき……」
乾燥していた内なる叫びが、湿りかけていた。千陽は揺らめいて、魂が今にも身体の足枷から解き放たれそうになっている。
……交通事故で死んだんだな、俺は……。
不思議なことに、涙が出てこない。死後の世界は、あらゆる機能が停止してしまうのだろうか。
兆候は幾度も義明に訪れていた。千陽から無視を決め込まれた(勘違いだが)こと、後ろ姿を見ているはずなのに千陽の感情が読み取れること、何故か千陽に追いつけないこと……。全てが、事の顛末を物語っていたのだ。
「……あ、やっと……。涙、流れてくれた……」
自身に起きたであろう事故を、もう義明は受け止めていた。抗うにしては厳しすぎる事実が、服従を促していた。
事故が起きてから、どれくらいの時間が経過しているのだろう。少なくとも、期間が空いているのは間違いなさそうだ。
千陽の肩に手をかけた。掠りもせず、無情にもすり抜ける。本人がここにいるのに、慰めることすらできない。歯がゆさで、卒倒してしまいそうになる。
「……もし、義明がこれを聞いててくれてるなら……。……私の顔、見てほしい……」
独り言が、空を漂う。気まずそうにしては通り過ぎる世間が、憎たらしくて仕方がない。
伝言の紙飛行機を受け取った義明は、千陽を迂回し、目線の高さを合わせた。真っすぐ突き抜けても変わらないのだろうが、彼女の存在を否定しているようで、気乗りしなかったのだ。
留めきれなかった千陽の涙が、あちらこちらから溢れ出ていた。何にも覆われていない、素の千陽だった。
「……上手く、笑顔になってるかな……」
衝動的な感情と、強制ポジティブシンキングが拮抗して、純粋な満開の笑顔では無かった。見る人が見れば、薄っぺらいと酷評するのだろう。
……よく、出来てる。
それでも、千陽全開だった。停滞期でも前方を見据え、決して自身を見失わない千陽が蘇っていた。
悲観の海に溺れてしまわないだけの芯が、彼女にはある。救助器具を投げ入れてやれないのは残念な限りだが、彼女ならやっていけるはずだ。
こちらからの一方的な依存だと思っていた関係は、偏見で塗られた虚構だった。千陽にとってもかけがえのない友として生きていられたことが、義明の恐怖を打ち消してくれる。
「……今日は、もう行かなくちゃ……」
まだ重りを引きずったままで、しかし千陽は立ち上がっていた。なんという精神力なのだろうか。皆が抱く理想像と乖離しまいと、立派な姿を見せている。
傍にいてくれていたのが千陽だとは、つくづく幸せ者だ。
……もう一度だけ、千陽に会わせてくれたなら……。
もう叶わぬ願いが、冷酷にも全身を駆け巡った。
私服姿の大親友を、義明はずっと見守っていた。落としそうになるものを堪え、彼女が道に迷わず曲がり角に消えていくまで……。
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