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薄暗く差し込む光に舞い散る細かな埃が照らされた部屋。黒い太縁眼鏡をかけ、黒い羽織を着た男が机と向かいあっていた。
机の横には木目調の洒落たハンガーラック、部屋の縁を取り囲むようにして本棚がびっしりと隙間無く嵌められており、活字の海の様相をしている。
使い古されている机なのだろうか。足の部分が白い絶縁テープでぐるぐる巻きに補強されていたり、机の上の面には他愛も無い人なのか化け物の類であるのか分からない落書きがあったりしている。
ただその男は机の一点を見つめ、少しの合間ゆっくり目を瞑ったかと思えば、ゆるりと目を開け、何かを羨望する、懐かしむ、諦めたような笑顔を見せた。
ゆっくりと、ゆっくりと机の上を埃を払うように撫で、その後机の横に位置する洒落たハンガーラックから帽子を大雑把に取り上げ、自らの頭に乗せた。
「此れに関しては仕方が無いのだ、君は…きっと許しちゃアくれ無いだろうね、すまないねぇ」
と1人呟き。
くしゃと乗せた帽子の鍔を左手の人差し指と親指でつまみ、目元が隠れるぐらいに深々と被り直し、また部屋を見回した。
そうして何かに気がついたのか
「そうだそうだ、此れは忘れていっちゃアいけないね」
と机の上に置かれてある羽ペンを手に取り、持っている鞄へと丁寧に仕舞い込んだ。
すると男は本当に用が終わったのだろう。
「恐らく今日でお別れだろう、私の直感が正ければ。この部屋とも、この世界とも…」
「じゃア、行ってくるとするかね」
トン、と机の上の左端に飾ってあった誰かとのツーショットが入ってある写真を人差し指で軽く弾き倒し、くるりと机がある方に背を向けた。
その後、男はトントントンと小気味良く階段を下り、玄関に降りて行った。ゆっくりと扉の鍵をガチャと開け、ドアノブに手をかけ押し、男は明るい陽射しに照らされた。
少ししてから、バタンと扉は閉じ、暗闇と静寂だけが空間には残された。
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私は、未だ君のその少し風に煽られ舞っている赤茶色の髪の毛の1本から、丁寧に手入れされた爪の先まで鮮明に記憶している。あの日の美しい景色さえも君の魅力を更に引き立たせる装置となる様子が忘れられないのだ。
そう言えば、あの日は今日とよく似た日本中全ての氷菓を溶かすほどの炎天下だったなと今更思い出してしまった。
摂氏36度、この間までは春うららとでも言いたげな春の陽気が漂っていたにも関わらず、初夏を過ぎた辺りから一気にカラッと乾いた空気となってしまった。
蛙の大合唱が耳を劈く梅雨を過ぎた辺りから、あア夏が始まって仕舞うと思いはしたが、こうなって仕舞うとは誰が予期出来たのか。まア、私には到底そんな所業は無理な話だ。
予知、予期目視等の占星術の類について私は門外漢であったし、君は余程その才能に満ち溢れていた筈であると私は思う。
君はきっとその才能故に残酷に理解していたのだろう、私が今日この日亡くなることを。
きっと夏が似合う君のことだ、斯様な時でもカラッと笑っているのだろうか。それとも梅雨の様な湿度でいるのだろうか。今は亡き私には到底推測がままならない事象である。
この手紙を読み始めた時から、嫌、今物を書いているから部屋を出て行ってはくれないか、と君に言いつけた時からもしかすると察されているのかもしれない。いや、すまないねぇ。
この手紙は私の遺書である。それだけが正に現実であり、真実であり、きっと、君や私にとっての此れをしたためる意義である。
君が此れに対して如何様な感情を抱くかは私には未知数だ、とでも最後に言っておこうと思う。
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ぽたりぽたり、雫が頰を伝っては遺書へ落ちて行く。
「先生、何故斯様なことを為さったのですか」
落ちた雫が紙の上で留まり、乾いたインクを潤していく。滲み、混ざって、はっきりとした輪郭が少しづつ、少しづつ喪われて行く。
「何故、先生」
先日、俺が冒険者として食っていける迄に鍛え上げて下さった先生が逝去された。その理由は魔王族の上位の者共に襲撃されていた冒険者パーティーの助太刀に入り、魔王族、先生、両者満身創痍の末相打ちと相成ったからだ。
—きっと仕方の無い事だ。
先生は困っている者が居れば自らを顧みず他人を優先し、他人の為に全力を尽くす事を嫌と言う程俺は知っている。その人を身体の真中から蕩かしてしまう優しさを、真っ直ぐな目を。
先生は優しいのだ。だから、避けられぬ、仕方の無い事なのだ。
そう思わなければ、そう自らを諭さなければ、この溶岩の様に沸々と煮えたぎる気持ちを抑える事が出来ない。如何なる寒さの気体も個体も素の液体に戻してしまう、蒸発させて空気に戻してしまう程の熱さだ。
俺は先生が文に書いてある通り物事を見通す能力、未来予知を生来会得してしまっている。吉兆も、凶兆も知りたくなくとも分かって仕舞う。だから、だからあんなに心配していたのに。
あの日、先生に
「頼むから部屋を出て行ってはくれないか、今、君には見せられない大切な文を書いている途中だから」
と言われた時に引き留めておけば良かった。
そう思ってももう遅いのだ。既に失われた生命を取り戻す術など現在の魔法、魔術では依然として見つかっていないと云う。
実際には、先生が家を出て行かれたあの日の前夜、煩わしい程うざったらしい程押し寄せてきていた予知夢は全く来なかったのだ。ぱたりと突然一切合切綺麗に見ず、その時はよく寝れたなと満足げにそして不思議な面持ちで背伸びをしたことを覚えている。
普段と異なる、それは俺にとっては凶兆である事が多いのに、あろう事か何故か夢を見ない事に安堵してしまっていた俺はその事をすっぱりと忘れていた。
愚か者め、俺の…
「愚か、者…」
この垂れる雫は何だ、それを認識することすら難しくなってきた。いつも先生には振り回されている。
振り回され過ぎてしまっている。
ここで一度俺の記憶は途切れることとなった。
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