約束に形があるのなら
「あら」
お盆に熱燗をのせて台所から和室に戻ってきた私は小さく声をあげた。
目の前には炬燵で突っ伏して眠るおじいさん。
私は「やれやれ」と天板にお盆を置く。
「もう、炬燵で寝ないって約束したのに」
口を尖らせながら半纏をおじいさんの肩にかけてあげる。
「せっかく作ってきたのに……」
炬燵に入って二つあるお猪口をひとつ手に取り熱燗を注ぐ。
ぐいっと飲んでほっとひと息。
おいしい。
庭の方に目をやる。
下半分が硝子になった雪見障子。
はらはらと雪が降るのが見える。
「雪見酒ね……」
小さく微笑む。
この家を建てる時、おじいさんが唯一こだわったのが、この障子だった。
その時は「普通のでいいじゃない」と反対したが、この季節が来るとそれでよかったのだと思える。
そうそう、そう言えばその時も約束をしたんだった。
掃除はあなたがしてねって。
不満そうだったけれど、今では私が掃除しようとすると怒るのよね。俺がするって。
その必死な姿を思い出してクスクスと笑ってしまう。
良かったわね、あなた、我が家に来て。とても大切にしてもらっているもの。
「ん……」
おじいさんが小さく声をあげて目を覚ます。
「あら、お目覚めですか」
ぼんやりとしたまま、自分に掛けられた半纏を見る。
「ああ、ありがとう」
こちらを見ながらにっこり笑う。
こう言うふとした優しさに気付いて、素直に「ありがとう」と言えるところは良いところだと思う。
おじいさんの目が炬燵の上を見る。
「おお、熱燗、作ってきてくれたのか」
「作ってきましたよ。もうぬる燗かもしれませんけど」
「それでもいいよ。ほら、ばあさんも」
2つのお猪口にお酒を注ぐ。
先に飲んだことは黙っておいて、有り難く受け取る。
お猪口をぶつけて乾杯。
「雪見酒だなあ」
お気に入りの雪見障子を眺めながら私と同じことを言うので笑ってしまう。
小さな約束から大きな約束まで。共に過ごすうちにした約束はたくさんある。
消えて、作って、また消えて。
きっとその繰り返し。
でも、消えないものも確かにある。
「ずっとあなたのそばにいます」
真っ赤になってプロポーズしてくれたおじいさんに私が約束したもの。
それはまだ破られずにここにある。
もしも約束に形があるのなら、それはどんな姿をしているのだろう。
掌にのるほど小さなものなのか。
それとも見上げるほど大きなものなのか。
守られた月日と共に大きさは変わるのかもしれない。
大きく大きく膨らんだそれは約束が破られた時、消えてしまうのだろうか。
その時は──
雪見障子に雪見酒。
硝子の向こうに雪が降る。
あの雪のように綺麗なものを降らせて欲しい。
残された者が寂しくないように。
せめての名残があって欲しい。
からっぽになったお猪口にはおじいさんの手で次のお酒が注がれる。
秘かにそんなことを思いながら、少しぬるくなったそれをちびりと飲んだ。