日本における神信仰と自然の関連性
日本における神信仰と自然の関連性について考えてみたい。まずは「神」に対する地域ごとの違いについて述べよう。
そもそも、「神」ということばについて私たちは大きな誤解をしているのではないか。現在の私たちは、キリスト教におけるゴッドも日本におけるそれも、同じ「神」ということばで一括りにしてしまっている。しかし、それで良いのだろうか。和辻哲郎の『風土』を見てみよう。乱暴な本なので注意も必要であるが、参考になる。和辻は世界を大きく三つの風土に分類する。「砂漠型」、「牧場型」、「モンスーン型」である。注目すべきは、風土による超越観念の違いである。
例えば、一神教においては、人間に指示を与えるトップが神であり、神は人間である。神が人間の側に存在していると言い換えても良い。『聖書』にも神と似たものとして人間を作ったという記述がある。この場合、どのような方法で神の存在を確かめることが出来るか。自然を愛し、自然を理性によって認識することに他ならない。美しい自然の法則の発見は神の発見でもある。即ち、神への信仰によって自然科学は発展していったのである。自然を支配し、利用する風土ならではの宗教の誕生である。
では、モンスーン型の風土において誕生した多神教の世界はどうか。豊かな自然の恵みに対し、人々は非常に受け身の姿勢をとる。時には、災害という形で自然が猛威を振るうこともある。そこに法則性はない。人々は災厄、つまり祟りをもたらすものを祀ることによって、その存在を神として認識するようになっていったのである。更に、災厄の後の五穀豊穣にも神の存在を実感した。むしろ祟らないものは神とならないのである。
さて、両者の根本的な違いは何であろうか。それは人間の側にあるか、自然の側にあるか、という神のいる場所の違いである。ここまで来れば、ゴッドを神と訳すのがいかに乱暴であるかが理解出来よう。このことをきちんと理解した上で、具体的に日本における神信仰について考えてみたい。
日本の神とは、どのような存在なのだろうか。大野晋氏は、「雄略天皇が葛城山に登った際、葛城の一言主大神に会い、多くの贈り物をする」という『古事記』中の話しを例に挙げた上で、次のように述べている。引用しよう。「(前略)山を領有するカミは、姿を見せないのが普通で、カミは幽界の存在であり、顕界の人間のように可視的存在でないものであったことが、これでよくわかる。(中略)第二に重要なことは雄略天皇が葛城の一言主大神に多くのものを差出していることである。カミの気持を静めるにはマツル(物を差出す)ことが重要であり、カミは物を欲しがる存在とも見られている。」(大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書、一九七四年)一九六頁より引用。)
村上重良氏も、同様の主張をしている。「(前略)仏教の仏、菩薩、諸神が、好悪の情をもち、人間にたいして愛情を抱き、人間の内面にかかわる存在とされたのにたいし、カミは、人間にとって測りかねる不気味で怖ろしい存在であった。カミは、人間にかかったり、託宣を下してその意思を人間に示し、人間は、事あるごとに神意を伺い、ひたすら怖れおののいて、神威の発動の鎮静をねがった。」(村上重良『神と日本人――日本宗教史探訪』(東海大学出版会、一九八四年)七頁より引用。)
私は人間と人間との関わりが宗教を生み出していると考えるようになった。即ち、人と人との関わりを大切にするということは伝統や文化に基づいた神信仰、ひいては自分自身をも大切にするということなのである。 これからは開かれた地域を目指しつつ、地元住民一人一人が自分の足元を見つめ直すという相補的な取り組みが必要になってくると言える。私自身も、自分の生まれ育った地域社会や現在住んでいる地域社会を大切にしたい。その上で新しい社会を作り出していきたいと思う。
宗教とは何か。それは「超越者、超越的なものを想定し、それらと関係すること」であると言える。科学の発達した現在において、宗教など学ぶ必要はないという意見もある。また、一連のオウム真理教に代表される宗教団体の起こす事件によって「宗教は怖いものだ」と言われるようにもなっている。だが、本当にそうだろうか。むしろ、科学が発達した今だからこそ、宗教を人間という原点に戻り、もう一度考え直すべきだと言えなくはないだろうか。
科学は「いかに存在しているか」という存在の仕組みを調べることは出来る。しかし、「何故存在しているのか」という問いには答えられない。だからこそ、宗教の役割は今もあるのだと言える。宗教を材料として根源的なものを考えることが第一歩なのである。
伊藤整『文学入門』(講談社文芸文庫、二〇〇四年)
第一章 物語りの成立とその形式
「物語り」と神の関連性について
「物語りというものの起りは、多く宗教と関係があるらしい。神の心を静めるために物語りを神に捧げるとか、あるいは神の定めた人間の社会の秩序が、いかにこの世に行われているかということを現わすために物語りを作る、というような形式で始まるのが、どの国でも共通したことのようである。」(一五頁より引用。)
「文学の発生は呪術的なものであるといふのは、イギリスのケンブリッジ・リチュアリストと呼ばれる文化人類学者、ジェイムズ・フレイザーやギルバート・マリの考へ方ですが、日本ではその影響下に、といふよりも柳田國男を介してそれを学んで、折口信夫が日本文学の発生を民俗学的に考へました。」(丸谷才一『ゴシップ的日本語論』(文藝春秋、二〇〇四年)八六頁より引用。)
「物語り」と芸能(『平家物語』の成立過程)
「日本では、源平の戦争の後などに失業した武士や、怪我をした武士や、盲目になった武士たちの中の、学問のある者が、その戦争の情況を語り伝えながら、僧侶の形で、各地を乞食して歩いた。そのうちに、それらの人々の体験がしだいに創作に形成され、修正されていって、「平家物語」とか「義経記」というようなものになった。それを語る人が琵琶法師と呼ばれる半分僧侶のような放浪の乞食であったことは、「イリアード」や「オディッセイ」の成立と似ている。」(一六頁より引用。)
日本語文体論
「物語りは、初めは韻文の形で語られるのが一般的な習わしであった。物語りであって、同時に歌として人に聞かせるものであるから、自然にそうなるのである。現在の芸術の中では、浪花節がこの形式を保存している。語りやすく、かつ歌いやすいことが必要であるから、韻律的な文体、日本語では七五調や五七調を主とした文体が採用される。(‥‥注・和歌や俳句なども。)それは歌うために必要であるばかりでなく、記憶されるためにも便利であるから、多く韻文体で作られたのである。それらの物語りの各部分がそれぞれの体験者や、体験者の弟子たちに口伝えに伝えられてゆくうちに、一つ一つのエピソード(小話または挿話)が、しだいに磨きあげられて変ってゆく。」(一七頁より引用。)