閑話 青岩院
今回は青岩院さんの話。短いです。
また今後、景虎はかげとらと読み、けいこの名前が出るときにはけいこにだけルビを振ります。
五庵寺の仏間で観音像を前に一人の尼が熱心に祈りを捧げていた。
彼女の名は青岩院。長尾景虎の生母である。
その頬には止めどなく涙が流れていた。
愛する我が子、景虎の死を嘆いて。
そして、愛することにした神仏の御使いの娘を思って。
事の発端は、三日前の昼時の事であった。
一頭の早馬が栃尾の城から文を届けに来たのである。
「本庄様から・・・一体何事でしょうか?」
栃尾城には息子の景虎が今は居るが、特に文のやり取りなどはしていなかった。
元より、敵の多い春日山から追い出される形で逃げてきた親子は隙を見せないように慎重にしていたのだから。
何がもとで言いがかりを付けられるとも限らない。
だから息子可愛さはあれども、安易なやり取りは避けたのである。
何やら嫌な予感がして、文を受け取りはしたものの、封を開けずに仏壇に供え念仏を唱えた。
まるで文から邪気を払うような必死さを顔に浮かべて。
半刻ほど念仏を唱えた青岩院は、心を静めて文をようやく手に取った。
御仏に捧げるかのように恭しく礼をして、いざ文を開けて文字を追う内に、彼女の顔色は青ざめていく。
そこには、とても信じられないことが書かれていた。
息子景虎が女子であり、これまでの記憶を失くしていると。
その様な筈はない。
虎千代は、いや景虎は紛れもない男子であった。
自らお腹を痛めて産んだ唯一の子供の性別を間違えるはずもない。
それも殿である長尾為景が望んだ女子となんて。
青岩院は正直に言えば男でも女でも良かった。生まれてくる我が子が健やかであればと。
それが夫、為景が望まない男子であったとしても。
いざ生まれれば、正室の上杉の方の子らと共に可愛がってくれるだろうと信じていた。
ところがである。
生まれた虎千代は為景に疎まれてしまった。
為景には晴景、景康、景房の三人の男子がおり、これ以上の男子を望んでいなかったのだ。むしろ、領地を分けることも視野に入れるなら邪魔者でしかなかった。
それに引き換え、姫ならば敵の多い三条長尾家にとって婚姻で一族や揚北衆の有力国人を取り込むのに使えると考えていたのである。
故に為景の落胆から嫌悪へと感情が変わるのに時を必要としなかった。
乳母さえ与えられず、大名の子としては珍しい、実母である青岩院が乳をやり、おしめを変えるなどの全ての育児を任された。
ただ、為景の感情とは正反対に虎千代の面倒を見てきた青岩院は父の分の愛情も込めて、それはもう目に入れても痛くない程に我が子を愛し慈しんできたのである。
虎千代を7歳で林泉寺に入れたのは為景の判断だった。
僧としてしまえば世俗の事とは無縁となり、領地経営に煩わされることもないからだ。
一方で青岩院も信心深く、高名な僧である天室光育のいる林泉寺にお勤めに出ることは悪いことではないと思っていた。
そして彼女の思惑通りに虎千代は文武両道な一廉の人物へと成長して行ったのである。
いずれ三条長尾家が危急に見舞われた際に助けになれるようにである。
その虎千代が、いや、景虎が矢を受けて落馬したら女子になっていたなど、眉唾ものだった。
しかし、本庄実乃の人柄を知る青岩院は、彼がそんな嘘や冗談を言う人ではないと理解している。
であるならば、この事は真実。
「景虎は、女子に生まれ変わった?」
ぽつりと漏れた言の葉。
ならば何故?
為景の怨念が景虎を黄泉に呼び、女子の魂を植え付けたのであろうか?
しかしそれでは、肉体が女子になった理由にはならない気がした。
容姿から声まで景虎と同じで性別だけが逆という。
それならばいっその事、景虎が生まれ変わった女子が神仏のお力で景虎が落命した正にその時、入れ替えられたのではあるまいか。
そう考えれば、その女子が景虎の人生を知らないのも頷ける。
輪廻転生を顧みても前の世の事を覚えていたという者の話など古今東西聞かないのだから。
「女子の景虎には何やら使命があるのかもしれません」
そうでなければ神仏が景虎の死を隠すような真似はしないでしょうと。
そこまで思考できた青岩院は、次に女子の事を思った。
その子は何処でどの様な生活を送っていたのか?
少なくとも、ここ越後の人ではあるまい。
年月も今より先の世の者ではなかろうか。
景虎が亡くなって直ぐに生まれ変わったとしても15年は成長に必要になる。
もしかしたらもっと何十年や何百年も先の事かもしれない。
「ああ・・・何と不憫な子だ事・・・」
きっとこの世には愛する人も愛される人も居ないことでしょう。
思い至った青岩院は静かに瞳を閉じ人知れず涙した。
「神仏も何と酷なことを申し付けるのでしょうか・・・」
景虎は死んだ。
そして景虎の生まれ変わりである女子もかの世においては死んだも同然であろうと推測できた。
「でしたら、私は二人の景虎を弔い、今の景虎を愛しましょう」
そう決意した青岩院の表情は観音菩薩のような笑みを浮かべ慈悲の涙を流し続けるのであった。
何気に真相に近い予測を立てた青岩院さん。前話の話の裏にはこんな思いがありました。