妖隠録 弐 ~ 天井嘗
この鳥居をくぐったら、もう戻っては来れないような気がした。
そんなわたしの恍惚の懼れを嘲笑うかのように、影にひそんだ鴉が乾いた声で飛び立った。
黄昏の暗がりで、手招くように竹林が揺れている。
そのさざめきはざわりと頬を掠め、ぞろりと体の内側を鑢で撫でるように、不快で心地良い痛みを連れてきた。
ゆらり。わたしは歩いている。
苔生した石段の上。
ゆらり、ゆらりと幽鬼のように。
ゆらり、ゆらりと揺れていた。
溶けた飴のような夕方の太陽が、徐々に目の前に姿を現し、ふり返ると、わたしの影は長く濃く、石畳にべったりと張りついていた。
鳥居にぶら下がっていた男は、見覚えのある姿だった。
さりとてそれは、思い出せるほど親しいわけでもなく、無様なほど滑稽で、それゆえに気味の悪い笑顔でわたしを見おろしているのである。
一定の間隔で、
ぎしィ――、
ぎしィ――、
と軋ませて。
ぎしィ――、
ぎしィ――、
と。
音をたてていたのは、はたして古びた木の鳥居であったか荒縄であったか。それとも、男の弛緩した関節であったろうか。
わたしは男の足下に跪き、まるで赤子が単調な動きの電動玩具で心慰めるかのように、その振動を、安らかで、とても清らかな気持ちで眺めていた。
ぎしィ――、ぎしィ――、と規則正しく。
ぎしィ――、ぎしィ――、揺れながら。
まるで巨大な振り子時計か、逆立ちしたメトロノォムでも見ているように。
そうしてそれらが刻む時間を、飽きることもなく、過ぎることさえも忘れて。
わたしは食い入るように眼を見開いたまま、だらしなく口を開き、惚けのように涎の垂れるがままになって、なおも目が離せない。
どろりと腐った果実が、視界のすべてだった。果実は濁った目で、溶けた真っ赤な太陽を見つめていた。
その、父であったモノは――
わたしは――、父が嫌いだった。
けれども、同時に愛してもいた。
父もわたしを愛してくれていた。誰よりも、誰よりも、母よりも、ずっと愛してくれていた。
だから、わたしも父を愛していた。誰よりも、誰よりも、母よりも、ずっと愛していた。
けれどもわたしは、――父が嫌いだった。憎んでいた。それも、殺したいほどに。
わたしが初めて父に強い憎しみを抱いたのは、父が初めてわたしを激しく愛してくれた日でもあった。
その日のことを、一生忘れることはない。
何度忘れようと試みたことか。そのたびに記憶は、あの忌々しい悪夢のような出来事の一切を再生し、そうして執拗にくり返し、わたしを舐るのだ。
込みあげてくる嘔吐感に苛まれ、そのたびに洗面所に駆けこんだ。
いつの頃からだろう。
父がじっとりと不快な目で、わたしを見るようになったのは。そしてその眼差しに、肉親とは異なる光をもつようになったのは。
朝起きて顔を合わせる時、学校から帰ってきた時、お風呂あがりの寝る前。
それはしだいに、手洗いに立つ時や、お風呂に入っている時、部屋で眠っている時などにも感じられるようになって、さすがのわたしも、これはおかしいのではないかと疑いだした矢先に――あの事件が起きたのだ。
(千明、千明……)
あの日、父がわたしの上で泣いていた。
(お前だけはそばにいてくれな。母さんみたいに、父さんを捨てたりしないでくれな。俺にはもうお前だけなんだ。なあ、千明、千明……)
わたしは身を貫かれる痛みに泣き、絶望に苦しみ喘いだ。
ああ、父さん――
わたしハあなたヲ、殺シテシマイタイデス。
人の目が怖い。誰かに見られるのが怖い。
他人さまが眠りにつく深夜に目を覚まし、他人さまが起きだす朝方に布団にもぐる生活を、もう何年もくり返している。もう長いこと日の光を浴びていない。
わたしがこういう生活を始めたのは、十三の頃だった。
子供の頃には健やかだった小麦色の肌も、今ではすっかり青白く透き通るぐらいになってしまった。そんなわたしを、祖母はまるで月の光のようだと言った。
ひとりになったわたしは、夜の間にたまに少しだけ働き、かろうじて生活している。
孤独を慰めるような趣味もないし、友人恋人もなければ、目立って欲もない。ただ生きて、ただ過ごして、そうしていつか人知れず死んでしまうことが、わたしの望む人生だった。
夜はどっぷりと、腐った死の臭いが張りついている。
わたしの吐きだす息と同じ臭いだった。夜が肺を満たすからだ。
夜は父だった。
父の吐きだす息が、わたしの肺に流れ込むたびに、どんなに嫌悪しても拒絶しても、それは血に溶けて、体中にくまなくめぐるのだ。
だから、わたしの臭いは父と同じ。口からは夜がこぼれる。それを誰かに見られないよう、わたしは人前でマスクを外さない。
――今日も誰かに見られている気がする。
夜の部屋。ひとりきりの家。ぼんやり天井を見る。
染みが広がっている。昨日より、ほんの少しだけ大きくなっているような気がする。
昔、祖母が「あれはねぇ、天井嘗めの仕業だよ」と教えてくれた。
天井嘗めってなぁに、とたずねるわたしに、祖母は「妖怪だよ、千明ちゃん」と笑った。
わたしはその妖怪というものが怖くて、わんわん泣いてしまった。すると祖母は何度も何度も、「大丈夫だよ、怖くないよ」と頭をなでてくれた。
それでもやっぱり人間、目に見えないものが一番怖いのだ。
その時から妖怪は――、ことに天井嘗めは、わたしにとって一番おそろしいものになった。
祖母の古い家には、いつも妖怪がいた。
襖の影、木戸の裏、障子の奥、天井の上……
至るところに見えない暗がりがあって、そこにわたしは見えない影を見る。
けれども、見えないから、本当にそこにいるのかわからない。なのにそれらは、闇の中で生きていて、いつもわたしの見えないところからわたしを観察しているのだ。
つまり、わたしが良い子かどうか。ちゃんと好き嫌いせずなんでも食べて、両親の言うことをよく聞いて、しっかり勉強する子かどうか。
そのために、一日中どこにいてもわたしを監視しているのだ。
やがて大きくなって、祖母が死んで、そんな影の存在が薄れてしばらくした頃に、その監視者は父に変わった。
どこにいても父は、わたしを見ていた。
朝起きて顔を合わせる時、学校から帰ってきた時、手洗いに行く時や、お風呂に入っている時、部屋で眠っている時。
電気のついていない家の暗がりに、父はじっと座っていて、わたしの行動の逐一に目を光らせているのだ。
(千明。おかえり。ご飯は食べたか、千明。学校は楽しいか、千明。父さんは好きか、千明。千明、千明千明千明千明千明千明千明千明……)
――いやだ。
(こっちへ来なさい、千明。父さんの近くに来なさい。ほら、もっと父さんのそばに、父さんの手の届くところに……来なさい!)
いやだ!
厭だ、嫌だ。いやだいやだいやだ!
気持ち悪い。穢らわしい。汚らしい!
近寄らないで。触らないで。舐めないで!
――目が見ている。
木目だとわかっている。目。わかっていても、それはわたしを監視する目に他ならない。
天井からじっと。
目が。
見ている。
ああ、いっそ――、針でも刺してやりたい気持ちになる。そうすれば、もうわたしを見ることもないだろう。
天井嘗めという妖怪は、夜、ひとが寝静まった頃に活動するのだという。とても平和的な妖怪だ。
そう考えれば、怖くないのかもしれない。それでも目が覚めるたび、天井の染みが広がっているのを見るたびに、やっぱり怖くなる。
だから夜は眠らずに、起きていることにしている。そうすれば、天井嘗めも現れない。
わたしが逆に、監視してやるのだ。
それでわかった。
これはひとつのルールだ。人間と妖怪とが、お互い棲み分けて暮らしていくための。
わたしの全身をくまなく舐める、父のざらついた煙草臭い舌は、わたしが眠っていようと起きていようとお構いなしだった。
そこには秩序がないのだ。
ルールがなければ、正否も善悪も求めることはできない。ただ力と欲望と、悲しみだけがあった。
「だから……殺したんですね?」
不意に誰かが言った。
わたしはふり返る。
ざわざわと、竹林がさざめいているだけで、そこに声の主の姿を見つけることはできなかった。
夕日を浴びて鮮やかに染まる鳥居には、相変わらず男が無様にぶら下がっている。
父が死んでしまって、しばらくして、わたしはようやく自由になった。
なにをしても許されたけど、なにをしてもひとりだった。
母が出て行って、祖母が死んで、父もいなくなったこの家は、たまらないほどにとても広かった。とても汚くて、ゴミと生活が充満していた。
台所の隅、手洗い場の奥、床板の下、壁の中、天井の裏……なにもないはずの場所なのに、時々なにかいるような気配がする。
排水口からはドブの臭いがあがってくるので、家のなかはいつも腐った臭いがするから、わたしの鼻はもうずっとおかしい。ネズミもゴキブリもよく見かけた。
でも、それじゃない。
わたしにはわかる。
わたしの見えないところで、見えないなにかが、見えないように見ている気がする。
わたしはそれを、見てないふりして見ようとするけれど、やっぱり見つけることができないので、見つからないように見なかったことにしている。
父の大きな目が、わたしを監視している。
今日も目だけが、わたしの行動を追いかけている。
どこにいても、どこに逃げても、どこに隠れても、わたしはすぐに見つけられてしまう。捕まって、連れ戻されてしまう。
(さあおいで、千明。父さんのところへおいで。ああ、こんなに震えて、なにをおびえているんだ。ちっとも怖いことなんてないだろう?)
ぎょろりと目を剥き、真っ赤な舌を見せる。その舌が、今日もわたしを舐めるのだろう。
母によく似たわたしの顔を。母によく似ているというわたしの体を。匂いも、味も。そっくりだと、父が言うのだ!
そんなことないのに。なにを言ってるんだ。ちっともわからない。全然わからない。
どんなに嫌がっても、拒んでも、そのざらついた汚く臭い父の舌からは逃れられない。
だって、父はそれがとても大好きだから。
不快でも恐ろしくても、わたしには逆らうことができない。
(あれはねぇ、千明ちゃん。天井嘗めの仕業だよ)
なんでその妖怪は、天井を嘗めるのだろう。天井はおいしいのだろうか。
わたしは汗ばむ身体を畳の上に投げだして、ずっと天井を見ている。嘗められる天井も、はたしてこんな気持ちなんだろうかと考えながら。
天井の染みが日に日に、少しずつ、少しずつ大きくなっていくのがわかる。
夜にわたしが寝てしまうからいけないのだ。
天井嘗めが染みをつけてしまうのだ。
けれどもわたしは良い子だったから、暗くなったらもう寝るようにと父に言われているから、真っ暗な部屋で布団をかぶって寝てしまう。
その時にはもう、父はすっかり満足してしまって、わたしはとてもぐったりとしている頃だったから、夜はいつも真っ暗なのだ。
それまでは、真っ赤な舌や血走った目がわたしを支配しようと蹂躙するから、真っ暗な方がいい。
わたしは赤い色が嫌いだ。
あれは嫌なものを思い出させる。
赤い鳥居。ぽつんと立つ。ゆらり揺れる。
赤い縄。赤い幟。赤い、赤い。
記憶のそれは、幼少の幻影。
――どこだったろう。
なんだろう。
頭が痛い。
わたしは時々、襖の影や木戸の裏、障子の奥を確認したくなる。
いつもわたしを窺っているそれらは、父がいないときに限って現れるようで、父がいる時には、少しの気配も感じさせないのだ。
なるほど、これが棲み分けなんだなと、わたしは気だるさのなかでぼんやり理解した。
わたしは妖怪というものをよく知らない。
恐ろしい妖怪もいるだろう。悪さをする妖怪もいるだろう。だが、そうでない妖怪もいるのだろう。
この家にいる天井嘗めはどうだろう。
ひとは人のなかでその存在を残す。認識されなければ生きていないことと同じ。
妖怪とて同じに違いない。
わたしがその染みに気づいたことで、天井嘗めは妖怪として生きている。だから、その染みは証だった。
天井を見あげるのはわたしは日課だったし、染みに気づいていたのもずっとわたしだけだった。
だからそれは、天井嘗めとわたしのささやかな交流のようなものではなかったのか。
そう思うようになると、この不気味な染みにも、不思議と愛おしさに似た懐かしさを感じるのである。
わたしはこの家のなかでしか認められない。
ある日父が、いつもわたしが天井ばかり眺めているからなのか、「なにか面白いものでもあるのか?」とたずねてきた。
でも、わたしが見ているのは天井の染みだったから、きっと父にとっては、ちっとも面白いものじゃないだろう。それでまた機嫌をそこねたりして、わたしが痛い目に遭うのは嫌だなぁと思った。
けれどもその時の父は――ぎょろ目をいまにも飛び出さんばかりに見開いて、いつも不健康な顔色は土気色になって、紫色のくちびるを震わせるのだ。
(あれはネズミだよ。ネズミが死んでいるんだよ、千明。なにも怖いことはない)
死んで、腐っているのだろうと。
祖母と同じように、祖母とは違うことを言う。
きっと。
怖いのだろう。
怖がっているのは、わたしよりも父の方だったのかもしれない。
家は古くて、よく天井裏をネズミが走っている。夜寝ているときなどは、時々びっくりするぐらいの音で駆けまわっていることがある。柱を齧る音も耳にする。祖母が罠を仕掛けて捕まえたこともあったけど、ちっとも改善したりはしなかった。
別にいいと思う。ネズミだって同じ家に住んでいるんだ。
わたしたちは畳の上で暮らしているから、使っていない天井の上ぐらい貸してあげても罰はあたるまい。これも住み分けだろう。
でも、父が言うのだ。長くなって本当は切りたくてしょうがない髪を撫でながら。
――やっぱり追い出してしまわないとな。ここは父さんと千明だけの家なんだから。
染みは相変わらず、日増しに広がっていった。
それに気づいた時には愕然とした。
一晩中わたしが監視しているのに現れないのだから、昼間眠っているときに嘗めているのだろうか。父のように。眠ったわたしを舐めるのだろうか。
いや。どうも妖怪天井嘗めというのは、夜に出るものとは限らないようだ。
しかし昼間に現れたからといって、家人に姿も見られずに、しっかりと自分の存在を示していくわけだから、なかなかのやり手である。しかも、無害であるだけに性質が悪い。
わたしの肌は、月のように青白くて冷たい。
それが腕のなかで赤く熱を帯びるのを、父がとても気に入っているということもひそかに知っている。
わたしが父を悦ばせていると知った時、どんなにかこの身が愛おしいほどに呪わしかったことだろう。けれども、それがどれほど誇らしかったことか。
いつの間にか、父を上から見おろしている自分に気づいた時、あふれでた優越の愉悦に震えたのだ。
もう、ただ痛みと絶望に泣くだけの子供ではなくなっていた。
その日、初めてわたしは自分から父の唇を求めた。
ずっと苦くて不快だった臭みは、その日に限ってとても甘く、わたしを恍惚の陶酔の高みに誘った。
――愛している。
わたしの唇は、乾いた響きでありえない言葉を呟いていた。
――愛している、父さん。
血走った目は一瞬、信じられないようなものでも見るように、怯えの翳りを見せた。憐れむようにまぶたを伏せ、逃げるように視線をそらした。
(俺もだよ、千明……父さんだけの千明……)
嘘だ。
わたしは笑おうか詰ろうか迷った挙句、静かに父を抱きしめることにした。
二人の汗の匂いが、臭い家に満ちている。
父はされるがままだった。
(愛しているよ、千明)
うわ言のように呟きながら。目を閉じて。上でわたしがどんな顔をしているのか、見ることもなかったのだ。
光も届かない部屋の隅は、澱でも溜まったように、ひどく淀んで濁っていた。そこに真っ黒な影が佇んでいるのを、わたしはなんとなく知っていた。
ああ――、やっと見えた、と思った。
人形したあの影は、きっと妖怪であろう。
小さい頃から恐れていたものが見えた時、それに旧知の友のような懐かしさを感じた。
その反面、自分がいままでとは違う世界に来てしまったと認めることになったのだ。
妖怪が見えるということは、きっとわたしも妖怪になってしまったんだろう。
切ないような痛みに襲われた。不思議と悲しみはなかった。無論、喜びでもない。
なのに、わたしは笑っていた。
顔を隠し、父も笑っていた。
この世界は、とても虚ろで平和だと思った。
――鳥居の前。
夕方の長く伸びた影。真っ赤な世界に黒い影。
目の前にぶらさがる、父であったモノ。
この鳥居を。くぐったら――
もう――戻れない、気が――した。
「選ぶのは貴方だ」
ふり返る。その声。
暗い影が。
すぐそこに。
真っ黒な外套を頭からすっぽり被って、どんな姿かもわからない。でも声はたしかに、男であろう。大きくもなく、小さくもなく、若くもないが、年とった感じでもない。不思議な――奇妙で不気味な男。
しかしわたしは、その姿を知っている。
「わたしは死んだのでしょうか。それとも、これから殺されるんですか」
男の顔は、不思議と見えない。光の加減なのだろうか。それではあまりに不自然だ。
だったらそれは、見てはいけないものなのだろう。
「鎌は持たないのですね」
外套の下で、死神は少しだけ意外そうに笑ったようだった。
「生憎と水先案内人にすぎません」
男の言葉は淡々としていた。
「あれは魂と体を切り離すために使う、言わば、人としての死を強制する物。必要ならばお見せしますが」
わたしは息をついた。
死神が連れて行く世界だから、先は見えている。
なのに。
(選ぶのは貴方だ)
というのか。
「ついて行かなくてもいいのですか?」
からかうようにたずねると、男は肩をすくめた。
「代わりの者が来るだけですが。……猶予はあるでしょう」
面白いことを言う死神だった。
「志摩禰、と申します」
しかも名前まである。
「死真似、ね」
とんだ狂言回しだ。わたしが言うと、彼はまた意外そうな顔をした。
といっても顔が見えるわけではなかったが。どうしてか、表情までわかる気がした。もうわたしは、完全に彼らの側になっているのだ。
「家にいたのはあなたですか?」
いつもわたしを見ていた影。わたしを監視していたのは――
男は答えない。だとしたらわたしは、随分前から死に魅入られていたということなのだろうか。
――いや、そうではない。そうではないのだ。
誰もいない家。父も出かけた家には、どこにも行けないわたしがひとり。
見上げる天井は、もうとっくに気づいてる。知っているはずなのに知らないふりをしていた不自然さ――わずかに湿気で膨張しているのだ。
あれは、上からだ。
下から天井嘗めが、舌で湿らせたわけではないのだ。
ぎしィ――、ぎしィ――、と、天井裏を軋ませる。
押入れの天袋を踏み越えて、闇の先。ぎしィ――、ぎしィ――、と、わたしの足音。
埃が。ネズミが。臭いが。そこはきっと楽園。
ぎしィ――、ぎしィ――、と、天板を踏み抜いてしまわぬよう。慎重に。
逃げるネズミの群れ。糞と腐敗。
それにまみれて――
天井の隅。部屋の上。きっとそう。
ネズミが齧っていたのは、柱ではなく白い――骨。首に巻きついているのは、真っ赤な紐。
捩れたように胸を絞ると、吐き出された胃液と混じって、腐った臭いは強くなった。
(なにをしている!)
突然貫く懐中電灯の細長い光。
(ち、千明……千明、お前なにを――っ)
青白い父の顔。裏腹に血走った目。紫色の唇は小さく震える。
(見たのか――見たんだな……?)
恐ろしい顔。父の顔。いつも恐ろしいけど、いつもより恐ろしい。化物か、妖怪のようだ。
表情ひとつ変えず、やってくる。わたしを捕まえようと。その手で。
言うことを聞かない悪い子には――お仕置きが――……
考える間もなく、無理矢理に組み敷かれる。いつもの光景なのに、いつもとは違う。首を押さえつける暴力。それは致死の力。
わたしは必死に手を伸ばす。つかんだのは赤い紐。長い。
赤い鳥居。ぽつんと立つ。ゆらり揺れる。
赤い縄。赤い幟。赤い、赤い。
記憶のそれは、幼少の幻影。
この場所で――
わたしは殺された母を見ている。殺した父を知っている。
もしわたしが非力な女であったなら、あの時の力勝負はどうなっていたのかわからない。老いた父は、たとえ非力であったとしても、息子の腕力には勝てなかったのだ。
「……貴方にお礼を」
死神は言った。
「死は――認識されなければ、死と理解されない。気づいてくれて、ありがとうございます」
ああそうか。ようやく気づく。彼はわたしを連れて行こうとしているのではない。
彼の仕事は終わったのだ。
それがわかると、なんだかとてもさみしい気持ちになった。
ぎしィ――、ぎしィ――、と果実が揺れる。
わたしが殺した父が、わたしを見下ろしている。重みに耐えられず、荒縄からは首が抜け落ちそうだ。
見開かれた虚ろな目。口の端から長く伸びた舌。
なんだか――、天井嘗めのようだった。