異世界転生系妹も推しに弱い
妹(主人公)も一応ラブコメ要員です、という話になります。このシリーズは基本的に切なさとか擦れ違いとかとは無縁になりますので、ご了承ください。
トリフィリス王国は、この世界――アヴォンドモリアの中でも最大の多民族国家である。
国と同じ名の大陸は円に近い形をしていて、南から西は海峡を挟んでカリューク共和国と隣り合っている。
東側の外海に幾つかの群島を持ち、本土には一年中雪に覆われた山岳部や、深く切り立った渓谷、良質な泥が採れる湿地など、さまざまな地形を擁していて、多彩な種類の動植物や人種が、それぞれの土地に合わせた営みを送っている。
島の中央には王都が聳え立ち、その周りを囲うようにして土地柄を反映した四つの主要都市が築かれ、更にその外側には四方を守護する四家の辺境伯領、各辺境伯領の間を埋めるようにして四つの特区が構えており――我がドラクロワ家は、北寄りの内陸部、ちょうど北辺境伯メシエ領と北方都市ガルメスタの間にある土地を領として賜り、治めている。
ドラクロワ領は、針葉樹林と美しい山河が広がる山嶺地域だ。
石造りの建物や緩やかな石畳の道が整備された街が山間にあり、そこを中心として幾つかの村や集落が存在している。特産品は畜産物が主だが、魔術の触媒や魔法薬の材料として重宝される珍しい高山植物もそこそこ有名だ。
そして、他の地方に比べると比較的竜種が多く生息しており、ドラクロワ領のみに生息する固有種などの観測目的で、研究者や観光客が少なからず訪れる。
牧歌的かつ自然美溢れる景観、地元で採れる畜産物、竜の固有種の生息地、一年通して涼しい気候。
街道を使えば王都から一日程、空路を使えばその半分以下の時間で往復出来る我が領は、物流も領地経営も安定していることもあってか、程よく田舎で程よく便利だ。
故に、裕福な平民からお偉い貴族様まで幅広く訪れる、客層の広い避暑地として一般的に知られている。
その外観を分かりやすく一言で言ってしまえば――某アルプスの少女が住んでいる高山地帯あたりがちょっと都会化してるかな? といった具合だろうか。
もちろん、某アルプスの少女が住んでいる山では飛竜の類は飛んだりしないし、季節の花を背負った綿山羊が野山を闊歩したりもしない。ドラクロワ領では日常風景であるけれど。
(朝の空気は一際美味しいなあ)
風を切り、太陽の光を背に浴びながらぐるりと旋回した。鼻腔をくすぐる清々しいにおいで肺を満たしてから、高度を落として速度を緩めていく。
湖面に反射する白いひかりが、なめらかな軌跡を描いて後をついてくるのを眺めながら、もう一度身体を捻って天を仰ぐように背面飛行。
そのまま上昇ついでに宙返りをして大きく翔けば、上空を飛んでいた飛竜のつがいが、「お見事!」と上機嫌そうに囃し立てた。
ああ、なんて楽しいのだろう!
上機嫌で青々とした空の遊泳を満喫していると、きらり、目の端に特徴的な光を捉える。
昼間でも眩く目立つその光が、自分を呼ぶ為の輝きであると良く知っていた。迷わず光源の方へと向かい、ちかちかと明滅する光の元へ接近したところで、目を閉じる。
ぱき、と、硬質で乾いた高音が弾けて、周囲に光が飛び散った。
それまで身体を包んでいたものが、中心に向かって引っ張られるような感覚が一瞬して――土と青草が、サクリと音を立てて靴底を受け止める。
うむ、我ながら見事な着地。素晴らしい。
「お嬢、おかえりなさいませ! 相変わらず見事な飛びっぷりっすねぇ」
そんな風に自画自賛をしていると、馴染みの顔の鹿人の使用人が元気に手を振り、朗らかな笑顔で私を出迎えてくれた。額の横から伸びる見事な角に引っ掛けられた魔石カンテラが、ガチャガチャと彼の動きに合わせて揺れているのがなんとも微笑ましい。
「お出迎えありがとう、マイルズ! 貴方も朝から元気ですね」
「はっはっは、俺達は早寝早起き、元気が取り柄っすから。怪我も病気もなーんも心配いりませんぜ」
「だから貴方の村の人々はいつも溌剌としているのかしら?」
「そりゃもう! 体力が有り余ってんですよ。チビ達なんかここ最近はお嬢に会いたいってずっと騒ぎっぱなしでね」
「あら、本当? 少し先になるかもしれないけれど、お伺いしますと伝えてください」
「ありがとうございます! 村のみんなと美味いチーズとパンを用意して待ってますから!」
きゃいきゃいと二人ではしゃいでいると、「エル」と短く私を呼ぶ声がした。私は思わずその場で肩を跳ね上げながら、声の方へと素早く振り向く。視界に捉えたダークブロンドの御髪に、歓喜を抑え切れず上擦った声を上げてしまった。
「ああっフロルくん!!」
存在を認識してしまうと、身体は否応なく動き出す。
駆け出して、腕を広げて、無抵抗……と言うよりも、半ば諦めによる享受を示す小さな身体を、私はぎゅっと抱擁した。
はしたない、と言われてしまってもおかしくない行動をしている自覚があるが、彼を前にするとどうにも自制心が仕事をしてくれないのである。しかたないね!
「その呼び方、どうにかならない?」
耳元で、呆れを多分に含んだ愛らしい声が苦言を呈しているが、私にとってはご褒美以外の何ものでもなかった。
背中に回された小さな手のひらが、ぽんぽんとあやすように私を叩いているという事実に、多幸感が止まらない。
うーん、至福! ありがとう世界! 生きとし生けるもの全てに感謝!
心の内で五体投地を決めながら、私は腕の中に収まっていた彼と間近で見つめ合った。
「ごめん無理、フロルくんをフロルくんと呼べなくなったら私はもうフロレント=レーヴラインと呼ぶしかない。そうなると信仰が今以上にマッハなのです」
「なんでフルネームで呼び捨てになるのさ? その極端で突飛な理論がどこから出てくるのかがぼくには理解出来ない。同じ言語を喋って、エル」
やわらかなダークブロンドヘアと淡い藤色の目が良く似合う、愛くるしいこの少年、名をフロレント=レーヴラインという。御歳九歳。年齢不相応な落ち着きと思考を有する、将来有望なレーヴライン公爵家次男である。
利発そうな光を湛えた高貴なる紫が、私を真っ直ぐ見つめ返しながら説明を求めてきた。
前世で言うところの日本語でおkというやつである。
再翻訳なら任せろ! と私は持ち合わせる言葉で一番端的かつ分かりやすいものを選び、フロレント=レーヴラインに提示する。
「あのね、フルネーム呼びは信仰の証なんだよ? フロルくん」
推しとは尊いものである。
好きなもの、尊敬するもの、愛しいもの――それらを誇り尊ぶ想いを込めて、私は「推し」と称している。
単なる好きという意味ではなく、一番好き、他者に対して胸を張って勧める「一押し」の存在が「推し」なのだ。
少なくとも、私の中での解釈はこうだった。
推しに対する感情は人によって様々だろう。
美味しいご飯を食べて幸せに暮らしてほしい、己の手で幸せにしてやりたい、穏やかに心安らぐ時を過ごしてほしい、己の存在に対して怯える姿が見たい、兎にも角にも陵辱したい、路傍の石のように看做されたい、都合のいい存在として扱われたい、絶望する姿を見たい……などなど、人によって推しへの解釈も願望も欲求も分かれるところではあるけれど。
私はずばり、推しに存在を認められているという事実に酔い痴れたい派である。
それはそれとして、我が最推し・フロレント=レーヴラインがこの世に存在しているという尊い事実を声に出して認識し、噛み締めることは、既に呼吸と同義だった。
フロレント=レーヴライン、尊い。
声にするだけで胸がいっぱいになって涙が出てしまいそうになるので、彼の前では自重しているのだ。流石に唐突に泣き始めて彼を困らせるのは本意ではない。
「宗教の話をしろとは一言も言ってないよ。危険思想を広めようとしないでくれるかな?」
「大丈夫、危なくないよ。YES最推しNOタッチだからね。崇高なる愛を捧げてるだけだから大丈夫、怖くない怖くない、何もしないから大丈夫だよフロルくん」
「……エル、多分、きみが言ってることとやってることは矛盾してると思うんだけど、それについては?」
「ああっごめんなさい! でもごめん無理離れたくない!」
腕の中に納めた小さな身体を離すことも出来ず、無様に謝罪する私をどうか笑ってほしい。
YES最推しNOタッチと言っておきながらこの体たらくである。いやだってつい、身体が、思わず……。触れ合った体温に安堵と喜びと充足を覚えながら、私は再度、フロレント=レーヴラインの身体をぎゅうっと抱き締めた。
「久しぶりフロルくん! 会いたかった……っ!」
「そんな噛み締めるように言わなくてもいいだろ……でも、ぼくも会いたかったよ、エル」
私こと、エクレール=ドラクロワ、十一歳。
最推し、フロレント=レーヴライン、九歳。
何を隠そう――私達は、幼少の頃より定められた婚約者同士であった。
「いやあ、お二人は相変わらず仲良しですねえ」
栄えあるレーヴライン公爵家の次男たるフロレント=レーヴラインと、地方伯爵家のドラクロワ伯爵家の長女たる私が婚約関係に至るまでの経緯は割愛するとしても、だ。
高貴なる御子息に格下の令嬢が無礼極まる言動を繰り広げるという状況は、世間一般的に見れば非常識極まるものである――が、我がドラクロワ領においては「仲良し」の一言で片が付いてしまうので何も問題はない。私の振る舞いは、他ならぬフロレント=レーヴラインの懐の広さによって許されていた。
「婚約者で幼馴染だからね」
彼はマイルズの言葉にさらりと一言で答えながら、私の腕の中に大人しく収まっている。
貴族の子女がこんな風に気安く密着していると(年齢的には幼いとはいえ)、王都周辺では顔を顰められるだろうけれど、此処は地方であり、更に言うならば、ボディランゲージやスキンシップに寛容でおおらかな人々が多い。
そして、幼馴染であり婚約者という免罪符がしっかり仕事をしている為、周りの人達からは仲良しの婚約者、領主の娘にベタ惚れされている許婚のお坊っちゃんという図が完成しているのだ。
なので皆さん、「ああ、いつもの」という扱いでなまあたたかく見守ってくれている。ありがたい限りだった。
「お貴族様の婚約っていえば、もっと堅苦しいもんだと思ってたんですけど、お嬢と坊ちゃんは……なんか違いますねぇ」
「婚約自体は早い方だと思うけれど、それを抜きにしても、ぼくらは小さい時から一緒だから。形式とか建前とか今更だよ」
「九歳の台詞とは思えないよフロルくん……イケショタ……かっこいい……好き………」
「ほら、エルもこんな感じだからさ。よく分からないことを口走るけど、全部ぼくのこと好きって言ってるだけだもの。想い合える婚約が出来るってとても幸せなことだよ、マイルズ」
「いやあ、お熱い。本当にお似合いですねえ」
元々、親同士が「学園」で意気投合して家族ぐるみの付き合いがあるため、私達は交流が盛んである。
ドラクロワ領の涼しい気候をお気に召しているレーヴラインの方々は、それなりの頻度で此方に訪れている上に、とても気さくで良い人達だ。それでいて、貴族としてのお務めも抜かりなく、領の統治もきっちりこなしている公爵家の鑑とくれば、人望が厚いのも当然である。他の領地を治める公爵家であるにも関わらず、我が領ではレーヴラインの人間は人気だった。
そして、ドラクロワ領でレーヴライン公爵家を推している筆頭が、何を隠そうこの私、エクレール=ドラクロワだ。
レーヴラインの方々は、御当主様も奥様も嫡男様も末姫様も素敵な方々であるけれど、やはり一番はこの方、フロレント=レーヴラインである。
そんな訳で、レーヴライン公爵家の方が領を訪れる際は、余程のことがない限り私が対応している。まあ、お父様とお母様は領地にいることの方が少ないし、義兄様は王都近郊のタウンハウスで過ごしていらっしゃるので、当然と言えば当然なのだけれど。
「うっ……フロルくん…すき………」
「はいはい、ぼくも好きだよ。でもいい加減離れないと、兄上達が心配して来ちゃうから……ね?」
「うん……」
名残惜しさに眉を下げながらそっと腕を解くと、フロレント=レーヴラインは数歩下がった後、私に恭しく手を差し伸べた。
彼はあまり表情を変えず、いつだって淡々としている。まだ十歳にもならない子どもがするには大人び過ぎている表情と言動を、整った顔立ちと美しい色合いが引き立てていて、まるで人形のようだと何処かの誰かが言っていたことをふと思い出す。
人形――なるほど、確かに。
それもまた彼を形容する言葉の一つだろう。
年齢不相応な振る舞いに、作り物めいた造形と揺らぐことが少ない表情。子どもの無邪気さとは程遠い、大人顔負けの在り方。
私達のようなヒトあらざる血を引く者よりも、余程ヒト離れしたものを持っているかのように見える。
けれど、フロレント=レーヴラインはヒトだった。人形ではなく、人外ではなく、人間だった。私がいっとう好きなヒトだった。
この小さな身体の内側に納まっている精神は、健気でやさしい少年のそれだ。愛らしく子どもらしいところもある、素敵な人なのだ。
だけど、それでも。
一言言いたくなることはある。
「御手をどうぞ、我が姫」
こんな九歳児いてたまるか!!
天を仰いで叫びそうになるのを寸でのところで堪えて、私はそっと両手で口元を覆った。
「むり……しゅき……」
なんでこの九歳児こんなに格好良いんだ? 訳が分からないな?
咄嗟にこんな言葉が出てくるものなのか? 王都の貴族ってそういうものなの?
地方貴族の知らない上級貴族の常識ってヤツですか?
そんな風に、ぐるぐると考えてしまうのは毎度のことなのだけれど、結局のところ、行き着く答えはいつだって同じだ。
――フロレント=レーヴラインが、今日も尊い。
心の中でしみじみと呟きながら差し出された手に応えようと手を伸ばした拍子に、つ、と眦から雫が伝い落ちていく。ああもう、オタクは感極まるとすぐ泣くからダメ。
咄嗟に拭おうとしたらやんわりと制止されて、「エルはなんでもないことで泣く癖を治そうね」とポケットから出てきた皺ひとつないハンカチで目元をやさしく拭われてしまった。
申し訳ないんだけど、多分これ治りません。オタクは発症するとほぼ不治の病なので。
許せよ、フロレント=レーヴライン。
「フロルくん、結婚しよ……」
「いずれするじゃないか」
「結婚しました」
「まだしてないよ、気が早いな」
「幸せにします」
「もうされてるね」
「はあ~~~~イケメンかよ……ありがとうアヴォンドモリア、ありがとうレーヴライン公爵家、ありがとうフロレント=レーヴライン……」
「宗教の話はやめようか。ほら行くよ、エル」
「はい……」
こんな九歳児いてたまるか。これが未来の旦那様とか最高かよ。最推しが婚約者でイケメンが過ぎる。頼む、もっとやって。
そろそろ鼻の粘膜を心配する必要があるかな、と己の身体のポンコツ具合を案じながら、改めてフロレント=レーヴラインの手を取り、歩き始める。
ようやく動き始めた私達をマイルズは微笑ましげに見つめた後、「此方ですよ」と踵を返して、当初の予定通り案内役の仕事に戻った。
私達の行く先に聳えるのは、湖畔を望む高台に位置する、ドラクロワ伯爵家の居城。
私の実家であり、本日のメイン会場がこちらになります。