ラスボス系義兄様は外面が悪い
シュトロム =ドラクロワはラスボス系伯爵令息である。
と一言で言っても、いまいちピンと来ない人もいるかもしれない。
そもそもの話、ラスボスとは何なのか?
ラスボス――正式名称、ラストボス。
最後の首領と記すと少しばかり拍子抜けしてしまうかもしれないが、指し示すものは結局のところ、同じである。
物語における諸悪の根源、討ち滅ぼすべき巨悪、悪辣なる支配者。
主人公が対峙しなければならない最大にして最後の障壁となるそれは、大抵の場合、悪しきものとして定義され、そのように描かれる。聖なるものや正義の象徴とは相容れない、邪悪なるものや悪の権化。
えてして、ラスボスとはそういうものである。
さて。
それを踏まえた上で、シュトロム=ドラクロワについて語ってみよう。
再三繰り返しているが、彼は見目麗しい青年だ。
その端麗なる容姿を例えるならば、氷雪や月を引き合いに出すのが手っ取り早いだろう。
彼の有する白銀の髪や黄金の眼の色は、やや寒色寄りのものである。薄氷の如き白銀、青みがかった柑橘色と言えば分かりやすいだろうか?
兎にも角にも、非常に涼しげな色合いが端整な容姿を彩っている所為か、彼は冷たい印象を抱かれやすい。その姿を目にして、火炎や太陽を連想する人間はまずいないだろう。
纏う空気も、快活さや朗らかさとは無縁な冷静さや落ち着きのあるものであって、容姿の印象との相乗効果による一層の冷たさを際立たせる。
クエスチョン。
そんな、見た目も雰囲気も冷気を感じさせる美しい青年が、堂々たる立ち振る舞いで泰然自若として我を貫き通せばどうなるか?
プロセス。
只者ではないと看做されて、一目置かれる――だけならば、まだ良い。
それだけに留まらず、何処からともなく信者が湧き始め、その中でもちょっと突飛な思想を持つ狂信者が声を上げ、あれよあれよという間に青年を担ぎ上げていく。
そうして出来上がる、冷徹な支配者の如き青年が擁する集団はごくごく一般的な同世代の人間から見て、どのように映るのか?
それがクエスチョンへの回答だ。
つまり。
アンサー。
どう見ても悪巧みしてそうなヤバい集団の出来上がりです、本当にありがとうございました。
――といった具合に、我が義兄たるシュトロム=ドラクロワは同世代の人間から見て相当「やべーやつ」なのである。
義妹の私が贔屓目を盛りに盛って現実逃避フィルター増し増しで見ても、義兄様が「やべーやつ」であることは変わらないのだ。贔屓目を抜いたら尚のこと「やべーやつ」でしかない。
そろそろ、間の抜けた呼称がゲシュタルト崩壊を起こしそうなので、気を取り直して話に戻すとしよう。
周りにいる人間が、見るからに悪そうな奴らばかり、という訳ではない(かと言って、いないという訳でもない)のだが、問題はもっと別のところにある。
発想の突飛なことで知られる変人も、心酔し過ぎて目がイッちゃってる盲目な輩も、品行方正でマトモとされる人間も――選り取りみどりなラインナップの立ち位置・スタンス・言動の人間達が混沌と入り乱れながら、義兄様を担ぎ上げることに関して一致団結している。
その事実こそが、最大の問題。
傍から見ていて、異常極まりない状態なのである。
時代が時代ならば、或いは、覇者や支配者と呼ばれていてもおかしくはなかっただろう。
但し、おどろおどろしい外観の城の奥で、玉座に悠々と腰を据えているタイプの方だが。
そんな訳で、シュトロム=ドラクロワという青年は、太陽の下で人々の為に尽力する正義の人には到底見えない――そう、微塵も見えないのである。大事なことなので二回言いました。
月光の下で人々を支配すべく猛威を振るう暴君だと言われた方が、まだ信ぴょう性があるのではなかろうか?
露骨な悪人面をしている訳でもないのに、どうしてここまで闇や翳りや黒幕配置が似合うのだろう、と私は定期的に疑問に思う。
ちなみに、私調べによる最も有力な仮説は、邪竜属性が無意識のうちに滲み出ているというものだ。
我が義兄様のスタンスは、秩序、中庸、自由で言うところの根っからの自由であるからして、致し方ないと言えば確かにその通りで、擁護など出来ない。実際、前世的にはラスボス系なんてふんわりテイストではなく、名実共にラスボスポジションだったのだ。間違っちゃいない。
まあ、そんな具合に、「冷徹非道な集団の筆頭」「ヤバいヤツらはだいたい友達」「そのうち新興宗教興しそう」と噂され、多くの同世代から距離を置かれている義兄様ではあるけれど、彼の冷たい印象は、「黙っていれば」という条件を前提としたものである。
その冷たい印象をとある理由から強調する必要があったため、表情を削ぎ落とし、口調を上級貴族然としたものに変え、敢えて含みを持たせて多くを語らないようにしているだけであって、性根そのものは穏やかで、懐が広くて優しい人なのだ。思考基盤は自由属性だけどね! そこは覆りようがないけれど!
あれだけ長々と語っておいて今更だ?
言い訳にしか聞こえない?
それはごもっともなのだが、サブカル大国日本の言葉の中に、こういった俗語があるのをご存知だろうか。
曰く、勘違いされ要素。
その振る舞いに大した意図などないのに、周りが勝手に誤解し勘違いを繰り広げていく、シリアス極まる筈のシーンがメタ視点で見ればシュールかつコミカルでしかないというアレ。グッピーが温度差で死んじゃう的なヤツ。
曰く、ギャップ萌え。
例えば、冷たくて残虐だと噂されている人間が、実は優しくてちょっとドジっ子……などという、意外性が思わぬときめきを齎すというアレ。これもやっぱりグッピーが温度差で以下略。
そう、義兄様は勘違いされ気質であり、ギャップ要素の持ち主なのである!
……より正確に言うならば、彼の勘違いされ気質とギャップ要素は、「如何に他者から舐められないようにするか」「如何に余計な喧嘩を吹っかけられないようにするか」というコンセプトの元、私と義兄様によって考案された、「ぼくのかんがえた さいきょうの いっぴきおおかみ」という外面によって出来上がってしまった副産物というか、ある意味自業自得というか。家族として義兄様と接していた時間が長過ぎた所為で生じてしまった、私にとっての最大の誤算でもあるのだけれど。
『いや、逆にこれは……都合がいいかもしれない。人脈が増えればその分だけ手段も増えるし……うん、現状維持だね!』
そんな誤算による周囲の勘違いを知った際、義兄様はポジティブに捉え、敢えてそのまま誤解を浸透させていった。人脈と書いて手駒と読ませる辺りが義兄様である。無意識外道ってこういうことを言うんだろうなあ、と思いながらも敢えて口を挟まなかったので、私も同罪かもしれない。すまんな。
ちなみに今世の義兄様の最優先目標は、「いのちをたいせつに」であった。
前世でうっかり討たれてしまった彼は、今世では天寿を全うするまで充実した生を謳歌したいと張り切っていたのである。
ああ、なんというささやかな、人並みな願いだろうか!
『ゆっくり気ままに過ごしたいし、取り敢えず同世代から掌握していこうと思うんだ』
そんな不穏な言葉さえなければ、本当にささやかで人並みだったんだけどなあ!
望みはささやかなのに、その為の手段が暴君の極みだった。過剰防衛も良いところである。これぞまさにラスボス様の所業というやつか。
なお、この「いのちをたいせつに」という最優先目標は、既に過去形。そう、過去形なのである。
スフォリア義姉様という推しの存在によって、彼女の幸せと笑顔を最優先目標とした義兄様は、現在、自分の持つスペック、人脈、立場……ありとあらゆるものを最大限に活用して動いている。
『スフォリア嬢がこの国で心地好く過ごす為には、せめて三回くらいは意識改革をした方がいいと思うんだ』
それって当初の予定とやること変わっていないのでは? と思いながらも、私は黙りを決め込んだ。私は空気の読める義妹なので、わざわざ薮をつついたりはしないのである。
それに、いくら義兄様がラスボス系伯爵令息であるとはいっても、片っ端から理不尽な大量虐殺を始めるような人ではない。あくまで貴族の土俵で立ち回る予定だ、と本人も明言しているので、私は余計な口を挟んだりするつもりはなかった。
こういった、比較的穏やかで相当図太く、無意識外道な義兄様の素面を知る人間は、本当にごく僅かしかいない。
更に言うなら、推しという存在ならびにその概念を、身を以て知ってしまった今の義兄様が、語彙のごの字もない言葉を繰り返し、顔を覆って呻いているのを知っているのは、恐らく私だけである。
そんなこんなで現在進行形。
義兄様は、私の前で嘆いていらっしゃる。
「推しが……しんどい……」
先日、勢いのままスフォリア=ブランシュ嬢に婚約を申し込み、翌日には正式に婚約が決まった我が義兄様は、珍しいことに、悲嘆と後悔に打ち震えながら溜息を吐いていた。
彼の手元には報告書らしき紙が広げられていて、それらには細かな文字で文章が綴られている。具体的な内容までは分からないけれど、恐らくはスフォリア義姉様に関するものだろうと目星を付けて、私はそっと義兄様に声を掛けた。
「どうなさったんですか、ロム義兄様」
「嗚呼、エル……僕はどうしたら良いんだろう? スフォリア嬢を本当に幸せに出来るのかな……?」
「早過ぎるマリッジブルーかな? ……じゃなくて、義兄様、本当にどうしたんですか? 昨日まではご機嫌で新居の構想のお話をなさっていましたよね?」
「いや、今日ようやくスフォリア嬢の身辺調査と貴族間での認識に関する報告が上がったから、目を通していたんだけどさ……」
言いかけて、ウッ……! と義兄様が喉を詰まらせる。伏せられた瞼が悲しみに震える度に長い睫毛が音を立てて揺れるさまを見守りながら、私は彼の言葉を待った。
一体何がどうしてそんなにナーバスになっているのだろう? まるで分からない。推しに狂ったオタクの情緒が不安定になるのは致し方ないとはいえ、だ。
短く息を吐いて落ち着きを取り戻した義兄様が、長い指先を手元の紙面に走らせ、口を開く。
「スフォリア嬢の生い立ちが…想像以上に辛いものでね……」
「ああ……邪竜の花嫁ですものね……」
私は思わず、眉を寄せて目を伏せた。
スフォリア=ブランシュ侯爵令嬢は邪竜の花嫁である。
この異名は黒髪を持つ女性を指すもので、黒髪を持つ男性の場合は邪竜の申し子と呼ばれる。我が国では黒髪を有する人間は滅多に現れず、数世紀に一人生まれるかどうかと言った稀有な存在だ。
その由来は、伝説の邪竜・レヴィアスの鱗の如き黒を有し、あらゆる魔術の加護を受け付けないが故に、邪竜に連なる者として看做されたからだという。
曰く、魔術を使えない。
曰く、他者からの魔術を受け付けない。
曰く、魔道具の類を破壊し尽くす。
曰く、他者の魔力を奪い取る――らしい。
そんな、全属性魔術キャンセル人間こそが、邪竜の花嫁や邪竜の申し子とされている。
一体何処のチートだよ、と思われるような性質だが、少なくともこの国では相当厄介なものであった。
この国では、誰もが多かれ少なかれ魔力を持ち、生活の中に魔術が根付いている。庶民だって簡単な魔術くらいは片手間に使えるような浸透具合だ。
得手不得手や術の規模、魔力の保有量等に個人差があるものの、魔術の行使そのものは選ばれし者の特権でも何でもない。
魔術を使えない人間というのはまずいないし、魔術を受け付けないという人間もそうそういない……というか、範囲がどうであれ、魔術を無効化する人間というのは存在そのものが脅威である。かつて邪竜を邪竜たらしめたのも、魔術の加護を受け付けないからこそだったと言われているくらいだし。
更に言うならば、スフォリア義姉様の一族は半神の血を色濃く引いていて、魔術に対する耐性や素質、ポテンシャルは他の種族より頭一つ以上抜きん出ている。
魔術にかけては国内で一、二を争う名門・ブランシュ侯爵家から輩出される魔術師の質は相当なものと専らの評判だ。
そんな魔術の名家に生まれた邪竜の花嫁――貴族社会の中で風当たりが強いのも、やむなしと言えばそうかもしれない。
歴史と共に根付いた因習や偏見というものは実に厄介だ。何の疑問も持たずにそれが当然として受け入れ、悪気も罪悪感もなく口さがのないことを言えてしまうのだから。
「うっ……」
私が複雑な心境で思案していると、義兄様が胸の辺りを押さえて短く呻いた。
何ごとだ? と様子を窺っていると、「邪竜の……花嫁……いい……! やっぱりいい響きだな……!」と、ほんのり頬を染めて悶えていらっしゃった。
あっれぇ? さっきまでのシリアス&ナイーブは何処へ行っちゃったんですか、義兄様?
(ああ~~流石義兄様、すんごいポジティブ~~!)
脱力感とヤケに襲われた私は、胸の内で頭を抱えながら絶叫するより他にないのだが、義兄様はそんなことお構いなしである。こんな麗しの冷徹貴公子フェイスでラスボスムーブかましてるのに中身が図太いからね、しょうがないね!
「スフォリア嬢の心を癒そうだなんて烏滸がましいことは言わない……言わないから……スフォリア嬢が少しでも心穏やかに過ごせるようにしたいんだ……」
切なげに目を伏せてめちゃくちゃ良いこと言ってるだろ?
これ、推しにしんどみを覚えてるだけなんだぜ……。
脳裏を颯爽と駆け抜けていく茶化し気味の台詞を誤って口にしないよう注意しながら、私はうんうんと頷き同調する。
言っていることそのものは、大変良く分かる言葉なのだ。推しが心穏やかに健やかに過ごせるのは良いことであり、それに尽力したいと我々が心から願えるというのも良いことである。
「ええ、とても良い姿勢だと思います、義兄様。無闇に干渉してスフォリア義姉様の御心を乱すのは心苦しいですもんね」
「欲を言えば……僕の存在がスフォリア嬢の心の拠り所になれたら……それはとっても幸せだなって……」
「あれ? 手のひら返し早過ぎません?」
「だって、僕はね、エル…… 推しの生活の一部になりたいんだ……」
「んああ~分かる~~分かってしまう~~! 推しにほんの少しでもいいから存在を許されたいんですよね~~! 分かる……分かるんだよなぁ……」
「推しの心の片隅に居座らせてほしい……」
「ほんそれ」
「――ところでエル、さっきのもう一回言ってくれる?」
「え?」
それなりに盛り上がっていた会話の最中、唐突にガチトーンで告げられた言葉に、私は思わず目を丸くした。
一体何を、と訊ねるまでもなく、義兄様は真剣な眼差しを私に向けたまま、
「スフォリア嬢のこと、義姉様って言って」
と端的に続ける。
私は義兄様の言葉を受けて、顎に手をやりながら逡巡し、(……ん? あれ? 今更では?)と首を傾げた。
「……前もこの呼び方でしたけれど、何故今なんですか?」
先日お茶をした際の会話を思い出しながら訊ると、間髪置かず――いや、寧ろ割と食い気味に、義兄様が答えてくれた。
「あの時はちょっと耐性出来てなかったからまともに喰らっちゃっただけなんだよ今なら大丈夫だからお願いもう一回言って」
句読点なしノンブレスのお言葉に、私は堪らず半目になった。
「……あの時の気まずそうな呻き声って、もしかして悶えてただけですか?」
「うん」
うん、じゃないんだが? 真面目にこっくり頷かれてもギャップの激しさに困惑するだけなんだが?
思わず心の中で荒い言葉遣いの突っ込みを入れてしまうが、しかしながら、義兄様は待ってなどくれない。「で、エル、もう一回言って」と形ばかりの疑問符すらない真面目な声音でお願いをされてしまえば、私が出来ることなど限られてくるのだ。
「スフォリア義姉様」
「んッグ、ぅ、うう……っ」
「義兄様、顔、顔。凄いことになってますって。悪の帝王も驚きの悪役顔ですよ」
「……っう、ぐ、……すぐ、戻るから…大丈夫、………うん、もう一回、言って」
「スフォリア義姉様」
「うっ……もう一回……」
「スフォリア義姉様」
「はぁ……はぁ……っも、もう一回……!」
「義姉様」
「ンンンン!」
直後、何とも言い難い奇声と共に、鈍い音を立てて義兄様の頭が机の上に沈んだ。名前を言わない方がダメージ大きいってどういうことだよ……と半目のまま義兄様を見詰めていると、
「エルが……スフォリア嬢を義姉様と呼び慕う……うっ…最高か……?」
と嘔吐きながら感動に打ち震えていた。
どうやら私がスフォリア義姉様を義姉様として慕っているというシチュエーションが彼の心に刺さったらしい。合掌、南無三。
ちなみに義兄様はご覧の通りというかなんというか、シスコン気味である。
そして私自身、義兄様に大切にされている自覚があり、ブラコン気味だと自負している。
だからと言って、義兄様を独り占めしたいだとか、スフォリア義姉様が気に食わないだとか、そういう気持ちは特にない。
基本的に義兄様が自ら選んだ道に悔やむことなく、現状に納得していて幸せならばそれで良いので、目の前で楽しそうに悶えている義兄様を、幸せそうで何よりだなあと生温かく見守れるならば本望なのである。
そんな風にしみじみと思っていると、ふいに背後からノック音が響いた。
「閣下、お茶をお持ち致しました」
ドア越しに聞こえてきた声は若い男性のもの。
最近聞き慣れてきたその声に、いつの間にか復活を遂げていた義兄様は表情を削ぎ落とし、ゆったりと椅子に座り直した。
入れ、と温度のない声で言い放つ姿は、さながら影なる覇者の如く。
うん、毎回思うけど、温度差で風邪引きそうだわ。さっきまでの推しに必死なオタクの顔は見る影もない。
今の義兄様の顔は、余所行き――もとい、「ぼくのかんがえた さいきょうの いっぴきおおかみ」そのものであった。
或いは、外面モードとも言う。
「失礼しますよーっと」
音もなく扉を開けたのは、ティーポットとカップ、焼き菓子の詰まったミニバスケットを乗せた銀のトレイを携える、キャラメル色の髪が特徴的な青年だ。
優美な仕草が実にさまになる柔らかそうな雰囲気のその人は、しかしながら、言動も相俟ってか、軽薄で飄々とした掴みどころのなさそうな印象を抱かせる。
「閣下におかれましてはご機嫌麗しゅう。ああ、エクレール嬢はどうぞそのままお掛けください」
「お言葉に甘えさせていただきます」
「ええ、ええ、楽になさってくださいませ。今ご用意致しますんでね」
たれ目がちなライムグリーンの目が義兄様と私を交互に向けられてから、ゆるりと細められた。
崩し気味の敬語で断りを入れてから軽やかな手付きでお茶の準備を始めた青年を、義兄様は目を眇めて一瞥する。
恐らくは、彼のフランクな態度にほんの少し呆れていらっしゃるのだろう。そう勝手に解釈しながら、義兄様も義兄様だけど、この人もこの人だなあ、なんてひっそり思った。
(数少ない御学友にお茶汲みをさせる義兄様もなかなかだけど、この方は使用人でもないのに何で嬉々として働くんだろう……? 分からん……分からんぞ……)
ちなみに此処は王都近郊、ドラクロワ伯爵家のタウンハウスの執務室であり、義兄様がお父様から管理を任されている邸だ。
放浪癖のある現ドラクロワ家当主のお父様は、義兄様に当主権限の幾つかを譲っていて、それを良いことに、お母様を連れて各地を転々と旅しているのだ。
それで良いのか、ドラクロワ家当主夫妻。
と思わなくもないが、お父様とお母様の放浪もまた、馬鹿には出来ないのである。
彼らは意外なコネクションや伝手、情報や流通を我が家に齎し、それによって我が領地や領民の方々の暮らしがより良くなっているというのも事実なのだ。
難点といえば、(自分で言うのもどうかと思うけれど)それなりに幼い私や、成人手前とはいえ十代半ば義兄様の保護者として頼りないところ、くらいだろうか。
いくら連絡手段や移動手段があるとは言え、お互いに接する機会が少ない分だけ、互いが置かれている環境や現状の把握が難しい。
愛されていないという訳ではないのだけれど、竜種の血を引く人間は、基本的につがいとなった存在が最優先になってしまいがちなのだ。そこはまあ、しょうがないかな、と私は思っている。彼らの気持ちや行動基準が良く分かるから、尚更だ。
なかなか捕まらない当主とその妻に代わり、義兄様は当主代理として動くこともある。それによって、義兄様の冷徹黒幕貴公子っぷりにますます磨きが掛かっている気がしないでもないが、実際、義兄様の采配で回っているところもあるので私は何も口出し出来ない。
それはさておき。
何故当主代理の業務を熟している義兄様が、御学友にお茶汲みをさせ、私がその御相伴に預かっているのかと言われると、それは私にも分からない。うん、本当にどうしてだろうね?
義兄様は「学園」に通っている期間は此方で寝泊まりしていて、私はガス抜き役として時折彼に呼ばれることがある――今回もそんな感じで居合わせているだけなのだが、この邸に訪れるとこうして義兄様の御学友と顔を合わせる機会にしばしば恵まれるのだ。
補足しておくと、この執務室、並びにタウンハウスを訪れることを許されているのは義兄様の認めた御学友の皆様であり、つまるところ、義兄様の周りを固めているいつもの面子、略称いつメンだ。
彼等は義兄様の傍にいることが多いため、必然的に義妹である私との接点も増えやすい。
中でも、この青年は比較的良く会う方なので、接する時に身構えなくて済むのである。
「……お前はいい加減その呼び方を止めよ。俺はまだ爵位を継いでおらん」
「成人なさった暁には正式に爵位をお継ぎになるのでしょう? つまり、あと二ヶ月もしないうちに閣下は閣下になるんですから、何も問題ありませんって」
「口の減らぬ狐め」
「それがオレの売りですからネ~」
ニコッと愛想良く笑う青年の頭部から、音もなく獣の耳が現れる。犬猫のものよりも大きく、ピンと立った三角のその耳は、妖狐の血を引く人間特有のものだった。ふんわりとした毛並みの尻尾を背中の後ろで揺らす姿は、何処か愛嬌があって憎めない。
彼は義兄様の周りを固める人間の中で、割とマトモな部類の人物である。この絶対零度の外面モードな義兄様に対して、飄々とした態度で接することが出来る恐れ知らずな大物とされている。
少なくとも私はそう思ってるし、義兄様も、「彼とは長く付き合っていきたいな」と仰っていたので、つまるところ、私達義兄妹のお墨付きを得ている方だった。
「エクレール嬢、どうぞ」
「ええ、いただきますわ」
いつの間にか準備が終わっていたらしく、カップとソーサー、ミニバスケットを差し出されたので有難く頂戴する。行儀が悪いって? 良いんです、公の場でもないのだし。胸の内で弁明しながら暖かい紅茶を早速一口いただいた。
サーブされた紅茶は、茶葉そのものの甘みが程よく引き出されていて口当たりがやわらかい。身体にじんわりと染み入る熱と水分に頬を弛めていると、義兄様は青年に温度のない目を向けて口を開いた。
「小賢しい真似を。エクレールに媚びを売るなと言った筈だが?」
うーん、なかなかに辛辣。
ちなみにこれ、
「あんまりお菓子を食べさせると夕食が食べられなくなるから加減してあげてね?」
の意味である。
超訳が過ぎると言われてもおかしくないけれど、偽りようのない義兄様のご意見翻訳がこれだった。
外面モードの義兄様は相変わらず言葉のチョイスが過激である。
それにしても、私の翻訳能力もだいぶ磨きがかかってきたようだ。まあ、付き合いが長いし、これくらいはね?
しかもこの言葉遣い、外見にしっくり馴染む、まさにイメージ通りっていうのがまた凄い。流石はラスボス系伯爵令息。
普通の人間ならば、こんな冷気の塊よりもタチの悪そうな青年に高圧的な言い方をされると、狼狽えたり身構えてしまってもおかしくない。何せ、相手は天下の義兄様だ。
しかし、青年は至って動じることもなく、
「媚びなんて売ってませんって。オレが一途なのは閣下もご存知でしょうに」
とケラケラ笑うだけだった。
実際、彼は媚びなど売ってはいない。
私に対して下心もない。
言葉通り、一途に想っている人が既にいるのである。
それに関しては貴族の子女……特に「学園」に通う者の間では、有名な話なのだそうだ。
「俺は知らぬ」
「ええ~? オレほど一途で愛情深い男なんてそうそういませんって」
「無駄口を叩いている暇があるなら仕事をしてこい」
「はいはい、かしこまりました~」
軽口を叩きながら、青年はそつのない動作で義兄様に紅茶を出し、さり気なく茶菓子を勧めている。義兄様がカップに口を付けるところまで見守った後、青年は、
「ああ、そういえば閣下。ご婚約成立おめでとうございます」
と祝福の言葉と共にやさしく微笑んだ。
その直後の義兄様の反応といったら、もう――
「オーリ=ベルトイア」
低く低く、温度を失って冷気を孕んだ義兄様の声が、青年・ベルトイア子爵令息の名前を呼ぶ。ベルトイア子爵令息は、「はい、何でしょう? 閣下」と普段通りの様子で首を傾げてみせるものの、途中でひくりと唇を引き攣らせた。
室温を適温に調整する空調用魔道具が作動している筈なのに、部屋の気温は先程よりも下がっていて、冷気と肌寒さに私も身体を震わせる。恐らく、義兄様の感情の起伏に引き摺られるかたちで漏れ出た魔力が、空気に干渉しているのだろう。
何処からどう見ても、お怒りのご様子である。
義兄様の素面や考えていることが大凡理解出来ているとは言え、やはりヒヤヒヤしてしまう。
「――時と場合を考えて口を開け、よいな?」
「…ハイ…………」
一体何が義兄様の琴線に触れたのか分からないのであろうベルトイア子爵令息は、それでも、殊勝な様子で頷いてから口を噤んだ。賢明な判断である。
(外面モードの所為でお礼が言えないのが心苦しいんですよね、分かります……)
同情をしつつも、「義兄様……」とそっと声を掛けると、義兄様は纏う空気を僅かに緩めた後、ベルトイア子爵令息を睥睨した。
息吐く間もなくつめたい黄金に射抜かれた子爵令息は、僅かに身体を震わせながらも、義兄様に応えるように視線を合わせている。
いやはや、本当に凄い。そんな場違いな程の感心と賞賛を、私はベルトイア子爵令息に送ってしまう。
その辺の貴族の子女であれば、腰を抜かしてもおかしくない圧迫感を真正面から受けても尚、目を背けず立ち続けているのだ。もしも私が義兄様の内情や素の姿を知らなければ、気を失っていたかもしれない。
「リュシアン=デュフォー」
凄い凄い、と心の中でベルトイア子爵令息に対して手放しに感心していると、義兄様は聞き慣れない名前を口にした。
誰だろう? と内心首を傾げるのと殆ど同時に、ベルトイア子爵令息の纏っていた空気が様変わりし、空気が再び張り詰める。ライムグリーンの双眸が色を濃くして、義兄様をひたりと見据えていた。
その視線は、友好的なものというには些か険がある――いや、どちらかと言うと、やる気を出し始めたとでも言えば良いのだろうか?
「なーんだ、閣下ちゃんとオレの想い人、覚えてくれてたんですね」
「知らぬと言っておるだろう」
「うっわ、ひでぇ。まあいいですけどね、競走相手が減るなら願ったり叶ったりですし」
薄く笑うベルトイア子爵令息の顔は、それまでのやわらかな雰囲気が鳴りを潜めたものだった。
ああ、やはり、義兄様の傍にいるだけのことはある。この豪胆とも言える態度と言動、頼もしいことこの上ない! 是非ともこのまま貫いてほしいところだ。
私はますます感心して胸中で拍手を送ってしまった。
「オーリ=ベルトイア。俺の周りを嗅ぎ回っている野犬を躾けてこい。手段は問わん――「好き」にせよ」
「閣下の望みのままに」
義兄様と良く似た空気を纏い、恭しく礼をしたベルトイア子爵令息は颯爽と身を翻して退室していく。入室の際と同じように音なく閉じた扉をちらりと一瞥した後、私はそっと息を吐いた。
「えっと……どなたですか?」
「魔狼の騎士、デュフォー家の長子だよ。スフォリア嬢の幼馴染なんだって。昨日、探査魔術をこっちに放ってきたからちょっと気になってね」
「それで、ベルトイア様をけしかけたんですか?」
「オーリがリュシアンにご執心なのは有名だ。宛てがわない手はないだろう?」
「それはまあ、そうかもしれないですけど……」
私は義兄様の言葉に、ほんの少し引っかかりを覚えていた。
前世でオタクとして煮詰めていた感性と、今世で得た知識や教養を照らし合わせたことによって浮き彫りになる、その引っ掛かりの部分を、そっと義兄様に投げ掛けてみる。
「……リュシアンって、男性名ですよね?」
「そうだね」
「……ベルトイア様も、男性ですよね?」
「うん、見ての通りだよ」
「もしかして……薔薇的展開ですか……?」
私の問いかけに対して義兄様はやわらかく微笑みかけ、「さあ、どうだろう?」とどっちつかずな言葉を口にするだけであった。