佳人薄命系令嬢の贅沢な悩み事
「やあ、スフォリア。きみ、あの悪名高き銀杭の龍に婚約を申し込まれたんだって?」
私の顔を見るなり、にこやかにそう斬り込んできた幼馴染に、はて、と内心首を傾げる。
「……銀杭の龍、とは?」
聞き慣れない単語は、恐らく名詞であり異名のようなものだろう。
そのくらいは察することが出来たけれど、婚約という事柄と物騒な異名との関係性がどうにも上手く結び付かない。銀杭の龍という文字の並びは、物々しく恐ろしい印象を受けるし、婚約と言えば先日我が家に訪れた銀髪の男性が深く関わってくる。けれど、私の脳内には両者を繋ぐ材料が揃っていなかった。
噛み合うことのないパズルを前に困惑し、首を傾げていると、「シュトロム=ドラクロワ伯爵令息の異名だよ 。オレ達の世代では有名なんだが……もしかして知らなかった?」と意外そうに瞠目されてしまった。
「ええ、知りませんでした。なにせ箱入りなものですから」
「おいおい、箱入りなのは確かだろうけど現状に甘んじちゃ駄目だろう。きみは腐ってもブランシュ侯爵家の令嬢なんだからさ。情報戦は貴婦人の嗜みだよ、スフォリア?」
「とは言われましても……私、興味がありませんもの」
女性は噂話が好きというのは、世間でも良く知られている俗説だが、私には全くもって無縁な話である。
根も葉もない話を面白おかしく騒ぎ立てることに楽しみを見い出せる気がしない。そこから更に、情報戦などという高度な展開を嗜むだなんてとんでもない。私には、そういった腹芸や謀りごとは到底無理だと思うのだ。
「ところで、その異名とやらはどういった意味なのですか?」
「なんでも、自分に歯向かった奴らを魔法で作り出した杭で串刺しにして晒して回ったらしいよ。おっかないよなぁ」
「……」
「どうしたのスフォリア、難しそうな顔をして。あ、もしかして怖かった? オレ余計なこと言っちゃったかな?」
「いえ、怖くはありませんが……それよりも、違和感があるのです」
「違和感? どんな?」
噛み合わない。
決定的かつ致命的に、どうしようもなく合致しない。
シュトロム=ドラクロワ伯爵令息という人物と銀杭の龍という異名は、私の中で相容れず馴染むことなく切り離されていた。
だってあの方は、恐ろしさなんて欠片もなく、ただ、ひたすらに――優しくて、うつくしい人なのだから。
「――初めまして、ブランシュ嬢」
脳裏に浮かぶ、つい先日の出来事。
難しい顔をしたお父様に呼び出されて応接間へと向かった私を出迎えてくれたのは、私より五、六歳ほど上であろう若い青年だった。
彼は涼しげな眼差しで私を見留めると、冷めたいろを一転させ、至福と喜悦を雄弁に語るが如くやわらかく微笑んだ。
優しいひかりを灯した金色の目が眩しそうに細められて、高揚と喜びによって頬にうっすらと差した赤みは、健康的な色合いを保ちつつも何処か色香を漂わせている。
私の名前を呼ぶ声は甘くやわく、聞き心地の良いなめらかな低音で、その端々に陶酔の気配が潜んでいた。
男性に使うには過ぎた言葉かもしれないけれど、ヒトの顔はこれ程に精緻で華やかなつくりになるものなのか、と感動を覚える程の美人だった。
故に。
私は目をぱちくりとさせ、見ず知らずの美麗なる青年が無駄も隙もない足捌きで此方に歩み寄って来るのをただ眺めるより他になく。
「どうか、私……シュトロム=ドラクロワと、婚約してはいただけませんか?」
そんなうつくしい龍の貴人が、私の前に恭しく跪き頭を垂れて懇願する光景を、呆然と見下ろすことしか出来なかった。
(これは……一体どんな状況なのかしら……)
暫しの間、何も出来ずに惚けてしまったけれど、程なくして困惑と疑問が押し寄せて理性を揺り起こしたので、私はなんとか正気を取り戻した。
どうにか、顔をお上げください、と短く声を掛ければ、ゆるりと頭が持ち上がる。金色の目が私を中央に捉えて、眩しそうに細められていくのは、どうしてなのだろう。
理由も分からないままに、彼――シュトロム様の口にした言葉を反芻する。
「婚約……ですか?」
「はい」
「貴方と?」
「はい、私と」
「私が?」
「ええ、ブランシュ嬢。貴女さえよろしければ」
「……なぜ?」
私はただ、首を傾げるより他にない。
理由が分からない。経緯が見えてこない。どうしてそのような話が上がったのだろうか。
よりによって私――貴族の間では邪竜の花嫁と呼ばれ、不吉なものであるとまことしやかに囁かれている、スフォリア=ブランシュと婚約したいだなんて。
もしかして、この方は私のことをご存知ないのだろうか? と困惑に眉を寄せていると、シュトロム様は眉根を下げて気恥しそうに微笑んだ。
よく笑う方だわ、と目を瞬いているうちに、彼はさらりと一言口にする。
「お恥ずかしい話ですが、私は貴女に一目惚れをしてしまったのです」
ひとめぼれ。
私はしぱしぱと瞬きを繰り返す。
一目惚れ。一目惚れと仰いましたか、この御方。如何にも引く手数多な美男子が、その辺のご令嬢方が放っておかないであろう麗しい竜種の貴公子が、一目惚れ。
あまりにも場違いで、どうにも似合わない、違和感だらけの取り合わせだ。
私は一瞬、そんな風にシュトロム様の言葉を疑い――そして直ぐに、己の浅はかさを恥じることとなる。
「先日、庭に出ていらっしゃった貴女様を目にした瞬間に、私の心はすっかり囚われてしまいました。いても立ってもいられず、こうして婚約の申し込みに参った次第です」
その顔は、下賎な思惑や打算の類などとは到底掛け離れた甘く恍惚としたものであり、私を見つめる黄金色には、ただ、やわらかな光が揺れているだけだ。
いくら他人との接点が少なく対人経験が不足している私と言えど、この掛け値なしの好意とひたむきな熱意を真正面から向けられれば否応なく理解した。
彼の想いとまなざしを疑えと誰かが言おうものなら、私自らの手で黙らせるより他にない――そう思わずにはいられない程の、表裏なく実直な告白。
瞬く間に顔が熱を持ち、驚愕と羞恥で眩暈がしそうになった。
「ええ、と……思い切りが、よろしいのですね…?」
思わず一歩後退ってしまった私を、シュトロム様は切なげに見つめ、困ったように笑う。
「婚約に関しても、無理強いは致しません。貴女をいたずらに困らせ、悲しませたくはないのです。けれど、胸の内に秘めるにはこの想いは苛烈で……告げることだけは、どうかお許しください」
こんな熱烈な告白をした上で、しおらしくいじらしい言葉を口にするシュトロム様に、私は目を白黒させるばかりだった。
私は黒髪持ちだ。
生まれながらに黒を有する、邪竜の化身とさえ囁かれ、忌避される存在だ。
母は私を産んだ直後に亡くなり、父は貴族社会への体裁を気にしながらも、それでも私を大切にしてくれた。周りから口さがないことを言われたり傷つけられないように、箱庭のような居住区を整え、偏見なく物事を見る使用人を厳選して私に付け、酷く心を砕いてくれていた。それくらいは私にも分かっているし、知っている。
けれど、こんな風に真正面から好意を伝え、ぶつけてくる人はこれまでいなかった。
ましてやそれが恋愛感情だなんて、本当に初めてで。
困惑と羞恥の中に、紛れもない喜びが込み上げて、綯い交ぜになっていく。
初めての感覚に襲われて碌な身動きすら取れない私を、シュトロム様は見上げている。双眸に宿るきんいろは、ただただ甘くきらめいていて、(ああ、やはりこの方は何処を取ってもうつくしいのね)と場違いな感動を覚えていると、ふいに彼が腰を上げた。
音もなく私の前に立つ姿は、そつがなくて洗練されている。貴公子とは、この方のことを言うのだろう。
「もしも、許されるのならば」
先程までのものよりほんの少しだけ上擦った声が、私のなけなしの理性的な思考を捉えて揺さぶった。
緩やかに持ち上がった男らしい指先が、喉元のクラバットを緩めて襟を寛げていく。
一体何を、と声を上げるよりも先に、シュトロム様の胸元が外気に晒された。
「これを、貴女に贈らせてほしい」
女性顔負けなきめの細かい肌に覆われた胸元の、ちょうど鎖骨の間に埋まるようにして存在する、赤く艷めく楕円のひかり。
それは、ルビーともカーネリアンともガーネットとも違った、まろやかでいて金属めいた、
「うろこ……?」
鱗。
そう呼んで然るべきものが、私の拙い呟きに呼応するかのようにやわらかく室内灯の光を照り返す。
シュトロム様は嬉しそうに目元を緩ませ頷くと、更に言葉を続けた。
「私達のような竜種の血を継ぐ者が生まれながらに持つ、逆鱗です」
「逆鱗、って……」
聞いたことがある。
竜種の血を宿す者は、総じて、逆さに生えた鱗を一つ持つのだと――彼らは己の逆さ鱗に触れた相手を尽く八つ裂きにするのだと。まさに、琴線という言葉通りのものなのだと。
以前、本の中で見掛けた情報が頭を過り、背筋を薄ら寒いものが撫で上げていくけれど、それも本当に束の間のことだった。
「私達は、心に決めた伴侶に己の逆鱗に触れることを許します。そうして触れることを許した相手に、逆鱗を贈るのです」
貴女への想いが、紛れもなく偽りのないものであると証明させてください。
そう続けられたシュトロム様の言葉は、何処までも真っ直ぐだった。その想いの厚さと重量に、心臓を刺し貫かれるかのような心地を味わい、私は堪らず口元を押さえて息を飲んだ。
本気だ。
この人は、本気で私を好いているのだ。
一目惚れの相手に此処まで想いを傾け、行動に移し、その想いを証明しようとしている。
私には出来ないことを、この方は容易く、それでいて覚悟を以て成し遂げている。
私の胸の内では、その在り方への羨望と、ひたむきな姿への尊敬と、紛れもない好意が犇めいていた。
恋であるかも分からない、愛であるかも判別しない。
けれど、それでも。
私の中には、紛れもない、シュトロム=ドラクロワという青年への好感が――確かに生じていた。
「あの、ドラクロワ様」
「シュトロムとお呼びください、ブランシュ嬢」
「では……その、シュトロム様」
「はい」
名前を呼ぶだけで、喜びをあらわに破顔する美しいしろがねの龍。
私は、彼の言葉に対して、意を決して――
「で、違和感って何さ?」
幼馴染の言葉に、ハッとした。
どうやら、シュトロム様と物々しい異名との関連性への疑問を明確化しようとするうちに、己の思考に耽ってしまっていたらしい。
きょとんとした顔で首を傾げる幼馴染に、私は言葉を選びながら、その違和感をかたちにしようと努めた。
「シュトロム様は、……絵に描いたかのような貴公子でしたわ」
本当に、理想的な男性なのだ、あの人は。
誰も彼もが夢見て恋焦がれそうな、優しくて麗しい貴公子そのもの。自分で口にしていて、少しおかしくなってくる。まるで私の為に用意された存在のようだ、なんて……それは流石に傲慢が過ぎるだろう。
「貴公子ぃ? あの冷徹で血も涙もないような男がか?」
「冷徹……確かに黙っていれば涼やかな印象の御方だけれど、あの方は最初から最後まで優しくて紳士的な振る舞いをなさっていたわ」
「……ねえ、スフォリア。それ、もしかして別人じゃない?」
「見事な白銀の髪に深い黄金の瞳を持つ、ドラクロワ伯爵令息が他にもいらっしゃるの?」
「いんや、ドラクロワ伯爵家の令息はオレの知る限り長男一人だけだなあ」
おっかしいなー。と無造作に頭を搔く幼馴染と共に首を傾げながら、私は少ない情報を掻き集めて思案する。
幼馴染は、シュトロム様を冷徹で血も涙もない悪名高い男だと言う。私は、シュトロム様を美しく麗しい素敵な方だと言う。
一体どちらが本物なのだろう、と疑問を提示しようとする俯瞰的な私を、自ら見たものを信じなさい、と感情的な私が叱責した。
私は、あのまなざしを否定したくない。
私は、あの言葉と想いを疑いたくない。
あれは紛れもなく私の為に用意されたもので、私だけに向けられたものである。
生まれて初めて触れた、表裏のない真っ直ぐな異性に対する好意は、決して嘘などではないのだと――私はあの時、確かに感じたのだ。
そうでなければ、初対面の男性からの婚約の申し込みに頷くことはなかっただろうし。
「ま、何かあったら何時でも相談に乗るからさ。スフォリアはスフォリアの思ったようにすればいいんだ。オレはきみを、何時だって応援してるよ」
長い付き合いのこの幼馴染みに、ひとつの大きな隠しごとをすることも、なかっただろうから。
「ありがとう、リュシアン」
私の狭い世界は、シュトロム様との出会いを経て僅かに揺らいでいる。本当に微々たるものであり、変調にさえも至らないものである。
けれど、それでも構わない。
何れ訪れるかもしれない世界の変化を前に、私はただ、贅沢な悩みを抱き続けるだけなのだから。
果たして、シュトロム=ドラクロワという青年は――私と同じものを、見てくれるのだろうか?