第59話
式場全体が儀式のクライマックスに直面して静まり返り、マーシャは静かに目をそっと閉じた。
ヨーダが死者へと送る言葉をおざなりに口にした後、波打った形状の短剣を彼女自身の胸に押し当て、口元に怪しい笑みを浮かべていた。
苦しみは一瞬で終わる。
どこかの書籍で目にした文句を自分に引用し、マーシャは最後の瞬間への覚悟をひっそりと決めていた。
マーシャは、死への恐怖は感じていなかった。その代わりに、乾燥した虚しさだけが彼女の心の内側を隙間なく埋めていっている。
彼女は、カレブがもうこの世にいないと感じていた。
『女、覚悟はよいか?』
ヨーダの余計な一言に気をそがれ、マーシャは目を開けた。ヨーダが両手で短剣を操り、彼女の頭の上に高く掲げていた。
『生け贄は不要。雨は降る』
激昂したヨーダがマーシャの顔をたたこうとして、彼女の肌に触れ、逆に静電気に手をはたかれた。
『うっ!?』
前方にいた人々が白い光の存在を次々に口にのぼらせ、式場の後方から押し寄せてきた女神崇拝の波と途中でぶつかり、群衆の声が大きく高くなってヨーダのいる前方へと押し戻されてくる。
最前列の長老たちが大きく動揺し、ヨーダは焦燥感で顔を引きつらせ、一族に生け贄の儀式開始を示すために、高く掲げた短剣の刃を広い空に向けた。
彼女がさらに短剣をふりあげるのが目に入ると、マーシャの胸の中にカレブの面影がいっぱいに広がった。
『我が一族に神のお恵みを!』
ヨーダが甲高い声で叫び、憎しみのような感情で顔をひきつらせた。
ああ、イヤだ、死にたくない・・・・・・!
歪んだ刃が自分の体に迫ってきて、マーシャは上空に向かって目を広く見開いた。
空気を長く貫く、悲痛な悲鳴が響き渡った。
ガリッと耳障りな金属音がし、両手首への予期せぬ強い衝撃に耐えられず、ヨーダは思わず握っていた短剣を手放した。放り出された短剣の柄は石台にぶつかって跳ね、そのまま石台の下へと音を立てて落下していく。
彼女は手首をかばいつつも、そこにあるべき人間の体が見えなくなったという事実に呆然とした。あまりにも信じられない光景に、彼女の口からは言葉とならないあえぎ声しか出てこない。
マーシャは、ヨーダの振り下ろした刃先が自分の首に突き刺さっていくのを、自分の体よりも下方から自分自身の目で目撃して驚いていた。首筋に飲み込まれるように刃が入っていったのに、痛みは全くなく、刃が皮膚に触れた感触もない。彼女は突然、地下の暗闇に落ちていっている自分に気づいた。
ヨーダの短剣が遠のき、石台が上方に離れていき、やがて、彼女のいた世界が小さな丸い光になって遠のいていった。視界から光が消え、彼女が吸い込まれたその真っ暗闇の世界で、ヨーダの短剣が彼女の横たえられていた石台に激しくぶつかる音も聞いた。音まで耳に聞こえるのに彼女は痛みも感じず、生きている。
次の瞬間、彼女の視界が眼もくらむほどにまぶしい光に包まれた。
『生け贄が消えたぞ!』
群集の前方で誰かが叫んだ瞬間、村の西方から真っ黒な雲が嵐のような雨を降らせながら急接近してきた。その雲は黄色い光を内側にいくつもたくわえており、大量の水瓶を一度にひっくり返したような激しい雨が、西から、文字通りに襲ってきた。
恐怖に震え上がった村人たちは悲鳴をあげ、儀式もそっちのけであちこちの方向に向かって走り出した。そんな逃げまどう人間たちのスピードより何倍も早く、雷雨は瞬時に式場の上空を覆いつくした。かがり火は全て消え、人々は服の中までびしょ濡れになり、大粒の激しい雨に視界がきかなくなって、一瞬にして泥と化した地面の上で転ぶものが続出した。こんなひどい雷雨は初めてだった。
我を失った民に取り残され、呆然としていたヨーダが生け贄を失くした石台の上を何度も手で確かめているところを、凄まじい爆音と視界が真っ白になるほどの光を放つ大きな雷が襲った。その地響きに人々は恐怖で地面に突っ伏し、子どもたちは大声で泣きわめいた。
『ヨーダ様!』
体を低くして雷を避けていた弟子たちが、稲光の中に浮かびあがる彼女の影を見つけて絶叫した。
体に刺さるほどの激しい大雨と強風から自分の身を守るのが精一杯で、彼らが次に石台を目にしたのは、怒り狂った雷雨が、来た時と同様にものすごい速さで人々の上から去っていってしまった後だった。弟子たちの前に石台はあったが、その後ろにあったピラミッドの上半分が吹っ飛んで無くなっていた。さっきの雷が直撃したのだ。
顔面蒼白となった彼らがあわてて祭壇の後ろに廻ると、石台の裏に腰を抜かしてへたりこんでいるヨーダを見つけた。
『ヨーダ様、ご無事で!?』
第一弟子が泣きながら声をかけると、彼女は呆けた顔で彼を見上げた。外見上はどこにもケガが見られないようだが、白髪だけでなく彼女の顔のうぶ毛までもが逆立ち、涙に鼻水、涎を垂れ流し、失禁までしていた。
彼は、彼女の変わり果てた様子に絶句した。彼はそれ以上彼女に近づけなかった、いや、近づきたいとは思わなかった。