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第58話

 つい立ち止まってしまったネデルの握りしめられた手の甲に、何か冷たいものが飛んだ。彼は気にも掛けなかったのだが、今度はもっと大きな、冷たいものが鼻の頭に当たった。見ると、彼の数人先にいる背の高い男も、手を触りながら気味悪そうに周囲をきょろきょろとしている。

 ネデルがぼろ布のようになって人込みからやっと脱出すると、怒りに目を血走らせたヨーダが高台の端にまで来てネデルに怒鳴りつけた。

『のろまな! おまえは、なんと遅いのじゃ! この役立たずめ!』

 思わず反抗的な態度で言い返しそうになるのを人々の目があるために何とか抑え、ネデルは彼女に丁寧にお辞儀をし、謝罪した。彼の心は急激に冷めていった。

 ヨーダは、やっと手に入った宝石のような生け贄をじろっと見た。マーシャにじっと見つめ返されて彼女はあわてて目をそらし、ネデルにマーシャを石台にくくりつけるように言った。

『儀式の進行が遅れている! 急いでやれ!』

 中央に戻る際にヨーダは捨て台詞のようにそう吐き、ネデルをまたもやむっとさせた。


 ピラミッド前の中央にある石台の前までマーシャが連行されると、それまで事態を静観していた長老たちでさえ、小さな驚きの声をあげた。彼女の視線が彼らの一人一人に移っていくと、彼らは動揺してお互いの顔を見たり、ヨーダに困惑した顔を向けたりした。

 その近くにマーシャを女神とあがめる人たちがいないのは、彼女を束縛する役目を負ったネデルにとってせめてもの救いだった。彼女を石台に寝かせ、そこに体を固定している間中ずっと、上空の雷鳴は低くうなって鳴り止まなかった。群衆の後方部でたくさんの囁き声が飛び交っており、祈りの言葉が流れてくるのが聞こえた。

 ヨーダはひどくイライラし、祈りの声が聞こえてくる場所にいる村人たちを威圧するように睨み、ネデルの作業の邪魔になるのもかまわず、石台の側から離れようとしなかった。彼女は何度も短く息をつき、そわそわとして空を見上げていた。かがり火が随所でたかれているのに、式場だけでなく村全体が灰色の影の中に入っているように暗い。

 マーシャが数度、何かをさけるようにして顔をそむける度、ネデルは怯えて手を止めたが、彼女が暴れることはなかった。何とかして彼女を石台につなぎ止め、ネデルの役目は終わった。彼は名誉ある役目を果たして嬉しいはずだったが、体は疲れ果て、言いようもない虚無感に襲われていた。

『終わったか。さあ、そこをおどき』

 ヨーダはネデルにぶっきらぼうに言い、彼の仕事を称えることはなかった。ネデルが彼女の為に何かを行えば必ず、有り余るほどの賞賛を彼に与えてくれていたヨーダが、今回は何も言わなかった。

 ネデルは呆然として、よろめきながらヨーダの前から立ち去った。


『おまえも最後まで手こずらせてくれたこと』

 腕を体の脇につけ、全身を四箇所で台に固定されたマーシャを見下ろし、ヨーダが卑屈な笑いを見せた。彼女の体がやっと拘束されたことでヨーダも安心し、少し気が抜けたようだった。

 空に向けられていた目をヨーダに移し、マーシャは目を細めて、黒い顔に深い皺の刻まれた老婆ともいえる、昔は美しかっただろう女を見上げた。

『神は私と一緒だ』

 マーシャが声をあげると、ヨーダは脇へ飛びのいた。彼女が話すとは思わなかったらしい。

 ヨーダのそんな反応にマーシャは笑い声をあげ、あわてて戻ってきたヨーダを挑戦的に見つめ返した。

『か、神はわしと一緒にいるのじゃ! おまえは、わしの尊い手によって神に捧げられるのじゃ!』

『神は空だ。神は皆と一緒だ』

 マーシャの声が沈黙している一族の頭上にとおり、それを聞いた前列部の人々が彼女の言葉を後ろに伝えていった。意外そうな表情と驚きが村人たちに広がっていき、ヨーダは自分の聖域が侵犯される危険性を察知して、早くこの人間の命を断ってしまわなければという気持ちになった。それでなくても、雨は今すぐにでも空から落ちてきそうなのだ。

 ヨーダは空を厚く覆う暗雲をちらっと見やり、彼女の命を奪うべく、装飾台の上に用意されていた鋭い刃を持つナイフを手の中に取った。


 生暖かい風が頬をなでていき、マーシャはカレブの姿を思い出していた。ここに来る前の建物で、彼が自分の名を呼ぶ切迫した声と悲痛な悲鳴を、確かに聞いた。そして、彼女がこの石台に連れてこられた時、最前列の一席がぽっかりと空いているのが目に入った。横には立派な装飾品をつけた老人たちが並び、その空席は特等席にちがいなかった。空席は、一族の統治者であるカレブの場所としか思えなかった。

 統治者たる人間が重要な儀式に出られないとなると、それはよほどの事情だ。

 主人を裏切って族長宅に押し入ったネデルが、彼女を救出しようと動いたカレブに手を出したと考えるのが最も道理にかなっている。男たちともみ合ってケガをしたのかもしれないし、ケガ以上のことだったのかもしれない。

 いずれにせよ、カレブの気はいは、どこにもない。

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