第53話
祈祷所の庭はきまり悪い沈黙に支配され、族長が拘束されるという異常事態を体験してしまった男たちには動揺の色がありありと見えていた。ひっきりなしにうごめく大きな麻袋を、囚われの身である捕虜たちまでもが不気味そうに見つめている。族長宅の寝室にいたマーシャの姿は、彼女を捕らえてきたネデルたち三人の他にはまだ目に触れられていない。ただ、牢小屋の守り番はネデルたちの会話から中身が誰かを知ったようで、誰よりもその袋から離れて立っている。
ネデルは、儀式を通常どおりに進行させるために、自分が指揮をとらねばならないとひしひしと感じていた。
最初の生け贄は手に入り、儀式進行を妨げる族長は連行され、儀式の実施者ヨーダも式場へと向かい、役者は全て出揃った。
ネデルは、事の経緯に困惑し、所在なさそうにしているオルウェンを近くへ呼びつけた。
『兄様』
彼からはいつもの明るい笑顔も陽気さも消えていて、彼は心配そうにネデルを見返している。
『オルウェン。あの袋を開けて中の者を出せ』
『兄様? 私が、ですか?』
ネデルの命令に彼は不審そうに目を細めた。ネデルは無言で彼を見返し、実行するように弟に促した。
『ああ。おまえがやれ』
『――ええ、兄様がそう言うなら。もちろんいいですよ』
兄と族長たちの会話や袋の大きさから、彼には中の人間が女であるとわかっていた。
どこから捕まえてきたのかは知らないが、女を袋に詰めて運んでくるとは乱暴なやり方だ。
兄の粗暴な性質も把握している彼は、ネデルの非情さに少し腹を立てながら、袋の中でもがく女に近づいた。牢小屋の守り番がさらに後ろへ逃げ、捕虜たちは檻の一辺へと移動して体を寄せ合う。残っていた数人の男たちが、族長を惑わした謎の女を一目見ようと体を乗り出し、その時を待っていた。
オルウェンが袋に手を触れ、口を縛っている紐を引くと、それまで暴れていた女の動きがふと止まった。彼は、自分の一族のために犠牲になる人間に誠意を見せようと、中で息をひそめる女に囁くように声をかけた。
『苦しかったろう? 今、そこから出してやるよ』
中からは、すすり泣きともあえぎ声ともいえる音がした。
紐解いた袋の口からは、折り曲げられた裸足の足と背中にまわされた腕を縄でぐるぐると縛られた女の体が見えた。捕らえられた後に座らされて縄をうたれ、頭からすっぽりと袋を被せられたのだろう。彼は兄のひどい仕打ちにショックを受けた。
彼は彼女の手にも廻された縄を素早く見ると、全身を拘束している縄の結び目をさっと弛ませた。彼の手が触れると彼女はビクッと体を震わせたが、動こうとはしなかった。
オルウェンは立ち上がり、袋の底部分を両手で持つと、それを上に向かって引っ張りあげた。そして、ようやく姿を人々の前にさらした彼女のさるぐつわを背後から静かに外した。ネデルが、弟の勝手な行為にむっとしたようだ。
ほんの一瞬の沈黙の後、捕虜や男たちからどよめきと悲鳴があがった。
近くで見ていた男の一人が驚きで腰を抜かし、皆の反応がおかしいことにようやく気づいたオルウェンが女を正面から見るために回りこみ、彼女を目のあたりにして絶句した。
ネデルに焦点を定めていた彼女が彼にゆっくりと視線を移し、眼力が弱まり、涙の跡が残る顔を少し柔らかくして微笑んだ。
『ありがとう』
オルウェンは異人種の彼女を怖いとは思えなかったが、その奇妙な目から視線が外せなかった。彼女に何の返事もできないまま、彼は他の者と同じようにゆっくりと彼女との距離を広げて行く。
ネデルや武器を持つ男たちを恐れる素振りすらせず、気丈に自分だけをにらみつける彼女にネデルは畏怖さえ感じた。声はかすれていて発音はへんだったが、充分に理解できるほどに、彼女は一族の言葉を発した。彼は、族長までも惑わす彼女こそ、儀式の最初の贈り物にふさわしいと思わずにはいられなかった。
『オルウェン?』
彼女の側からじりじりと離れていくと、ネデルが彼を呼び止めた。オルウェンはネデルを非難するように見返し、無言で首を横に振った。ネデルが赤ら顔に変わり、それを見たオルウェンは一目散に祈祷所の門の方に向かって駆け出した。
『待て! オルウェン、どこに行く!?』
彼は後ろを一度も振り向くことなく、あっという間に式場へ続く下り坂を走って行ってしまった。
『男のくせに何たる情けない様だ!』
ネデルは憤慨し、弟の代役となる男を決めるべく、後に残った牢小屋の守り番、鍛冶屋、石切屋を順番に見た。誰一人として彼と目を合わせようとはせず、彼はかっとなった。
『ネデル、カレブはどこ?』
ネデルは突然聞こえたぎこちない言葉にはっとして、マーシャに振り返った。
彼女の全身をきつく縛っておいたはずなのに、彼女は地面に手をついてゆっくりと立ち上がり、その場の人々をさらに恐怖に陥れている。彼女の体に何重にも巻かれていた縄が、音をたてて彼女の足元に落ちた。