第34話
ここ数日間、子どもたちが外で元気に遊ぶ声がしない。不吉な出来事を怖れ、母親たちが子どもを自分の目の届く範囲内にいさせることを好んで遠くにやらないからだ。当然、カレブの投げ槍指導も止まっていた。男手が必要とされる場でネデルは次々に用事を頼まれて忙しく、ここ二日間ほど族長宅に寄れなかった。族長宅にはその旨を伝言しておいたが、それがなくても彼の事情は通じている。
ネデルの訪問がない族長宅での二日間、主人がいつになく機嫌よく楽しそうに家の中で過ごしている雰囲気を、召使女たちは家事部屋や召使部屋から感じていた。彼女たちからは姿の見えない謎の女と一緒の主人は、居室でくぐもるような声でくすくすと笑い、彼の豪快な笑い声しか知らない召使たちはその変貌ぶりに驚いた。たまに用があって通路に出てくる主人は生き生きとした瞳を輝かせ、少年のように無邪気な笑顔を見せて、召使たちのご用伺いにも今までにない優しい態度で対応した。夜には通路まで転がってしのび笑いをもらし、息に似た甘く響く声がして、家中に主人の幸福感が漂った。
女たちは、族長が恋をしている、と密かに囁きあった。
マーシャが来て六日目の朝、居室に用意された朝食を寝室に運び、二人は食事をとっていた。彼女はカレブの日常にすっかり溶け込んでいた。自由に外出させてやれないのはかわいそうだったが、一族の人々が彼女の姿に怖れを抱くと彼女自身が把握していることもあって、カレブが見た限り、今のところは、彼女は屋内だけでも快適に過ごしていた。
『これ、何?』
マーシャが赤い小さな実をカレブの鼻先にぶらさげた。カレブは口の中いっぱいに含んでいた穀物の煮物を噛み砕き、やっとのことで飲み込んでから答えた。
『それは、マカ、だ』
『マカ?』
『“クダモノ”だ。それを食べると体が強くなって、元気になる』
果物、とマーシャの言葉に置き換えて言い、カレブは腕の力こぶを彼女に見せてニヤッと笑った。彼女は理解したらしく、マカ、とつぶやき、それを口の中に放り込んでそっと噛んだ。
「すっぱい!」
彼女が予想外の味に驚いてそれを手の上に出すと、カレブが吹き出した。
『まずかったか? 体にいいのに』
カレブが笑いながら残りのマカの山から一つつまみあげ、彼女を見ると、彼女は大げさに息をついた。
『すっぱい。知らなかった』
「オーケー」
彼はマカを口に放り入れて、美味しそうに種も丸ごと食べてしまった。
『おいしい?』
『うまい』
カレブは傍から見てもうまそうにマカを食べた。
いい表情だ。
彼女はマカの山に手を伸ばし、一つをつまみあげた。もう一度試すのだとカレブが思っていると、彼女はつまんだマカをカレブの口の前に出した。
「あーん」
「アーン?」
意味がわからず彼がきょとんとしていると、彼女は開けた自分の口を指差して、彼に口を開けるようにと示していた。
『開けて』
『・・・・・・なぜだ? 俺は子どもじゃないぞ、一人で食える』
『早く、開けて』
『嫌だ』
『あける、簡単』
言葉がつたないせいもあるが、彼女から指図されたのが気にくわず、彼はむっとして彼女の手を無視して自分の手からマカを食べた。
・・・・・・かわいくない。
目の前で自分を無視されたマーシャは面白くなかったが、それをしつこく続けるのはやめにした。代わりに、自分の座っている場所から足を引きずるようにして移動し、彼の向かいから少し離れた隣、顔の見えない場に席をとった。それを見たカレブは、ますますむっとなった。
二人はその後しばらくは無言で各自の食事をとった。カレブはそれでも彼女をちらちらと盗み見たのだが、彼女は彼にまるっきり関心がないように彼を無視していた。彼は腹が立った。
好物のレモンの甘煮を残しておいてやったのに!
彼女の嫌いらしいマカが半分ほど皿に残っているのを見るにつけ、彼は胃がムカムカした。
マーシャが黙って食事を進めていると、視界の左に何かが動いた。顔の前に突如現れたレモンに注意をとられて彼女が見ると、カレブが不機嫌な顔で自分を見ているのに気づいた。
「何、これ?」
「アーン?」
マーシャが彼を見ると、彼はレモンをつまんで持った手を彼女の口元にもっと近づけた。彼女がここの食べ物で気に入っている、レモンの甘煮だ。彼女は早々に自分の分は食べてしまっていた。
『カレブ?』
『口を開け』
彼の言い方は冷たかったが、マーシャと目が合うと彼は顔を赤くした。彼女は表情をゆるめ、カレブに笑いかけた。彼はうろたえたように目を閉じ、言いにくそうに言った。
「・・・・・・アーン」
レモンの果肉が手から引き抜かれ、カレブの指先は自由になった。マーシャは口を動かしながら満足そうに笑い、カレブに嬉しそうに笑いかけた。彼はほっとした。
レモンを食べ終えたマーシャは手で体を支えてずらし、カレブの隣に近寄った。
「今度はやってくれる?」
『何だって?』
マーシャは自分の皿からマカをつまみ取ると、カレブの顔の前で振って見せた。
『ああ・・・・・・。おまえの手から食えって?』
「あーん」
彼女がくすぐったそうに笑った。
半ば投げやりになって、カレブは差し出されたマカを彼女の指ごと口に入れた。マカの酸味にレモンが混じった味がする。
子どもか病人扱いのようでひどく抵抗があったのに、やってみると大事にされている感があった。彼女はカレブのためにマカを残しておいたのだ。
彼女といると、何もかもが楽しい。
カレブが感動してマーシャに笑顔を向けると、彼女はくぐもるような声で笑った。
カレブは、幸せだった。