第29話
『マーシャ、待て!』
後ろに近づいてきた足音はみるまに大きくなり、彼女の肩が後ろにぐいっと引かれた。
「やめてよ!」
彼女が怒って叫び、彼をにらみつけると、彼はびっくりしたように口をぽかんと開けた。
『どうした、何を怒っているんだ? 俺が何かしたか?』
マーシャが逆上して奇声をあげた。
「今、俺は悪いことをしていないって言ったでしょ!? そうね、悪くないわよ、あなたは単に私と寝ただけで! 気持ちがあると勘違いした私が勝手に誤解をしただけでね!」
『おい、何をそんなに興奮しているんだ? ちょっと待て・・・・・・おまえはきっと、何か思い違いをしている! きちんと説明・・・・・・ああ、どう言えばいいんだ、どう言ったらいい? 俺はおまえが好きだ、それは変わらない! 何を一体怒っているんだ? ・・・・・・おい? おい! ちょっと待てったら!』
彼の手を振りきり、彼女がつんとした態度で階段の方へ歩いていった。彼は髪をかきむしって口の中で唸ると、それでも彼女の後を追った。
『マーシャ!』
追ってくる彼を見たマーシャはむっとし、履いていた靴の片方を脱ぐと彼に投げつけた。彼は難なくそれをよけ、それにさらに腹が立った彼女は階段を駆けて上がっていく。
彼女の聞く耳を持とうとしない態度に彼も腹が立ち、投げられた靴を拾って、彼も階段の一段目に飛び乗った。あきらめないカレブを横目に見た彼女は、今はもう走り出していた。
『待て! 俺の命令を無視する女はいないんだぞ!?』
元の部屋に飛び込んだ彼女は、そうしてから初めて、逃げ場のないのは彼女自身の方だと気づいた。悪寒が彼女の背中を襲った。自分によくしてくれた彼の怒りを買ってしまったのは知っていたが、もう遅い。
足音が近づいてきて、自分の体を保護するように両腕で自分を抱いた彼女の前に、豪快な音をさせて扉を引いたカレブが走りこんできた。その拍子に扉の上部の蝶番が壊れ、気絶した女のように扉が外側に傾いてだらしなく揺れる。現れたカレブは怒りで目を血走らせていて、その興奮で体から湯気でも出ているかのように見えた。
『おまえ! 待てと言っただろう!』
彼の手で首をへし折られる自分が脳裏に浮かんだ。彼女は恐怖に震え、彼にとらえられた視線を動かせもせずにその場に立ち尽くした。彼は乱暴に部屋に入ってきて、彼女の肩を力まかせにつかんだ。
彼女は、とうとう殺されてしまうのだと悲しくなった。こんなところで、誰にも知られず、誰にも見つけてもらえずに。
とっさに顔をそむけたマーシャをにらみつけたカレブは、彼女が全身を震わせているのに気づいて、はっと我に返った。彼女の口からは小さな嗚咽が漏れていて、彼は自分の乱暴な行為に急にうろたえ、彼女をつかむ腕から急激に力を抜いた。
彼が手を離し、何も攻撃されないのをへんに思ったマーシャは怖々と片目をそっと開けた。
『・・・・・・怖がらせて悪かった』
彼女が自分を見るのを待ち、カレブは静かにそう言った。
彼の体からは怒りの症状は消えていて、マーシャは安堵して膝から力が抜けていくのを感じた。彼女が自分自身にまわしていた腕をようやくおろすと、カレブの遠慮がちな手が彼女のそれぞれの手を取り、顔色をうかがうように彼女を見た。
『コワイ』
彼女の呟きに、彼は苦々しげに顔をゆがめた。
『悪かった』
「・・・・・・うん」
手を伝わって響く彼女の脈が、だんだんと遅くなっていく。カレブは、彼女の内にある不安を払拭したいと思った。
『話せ。何が気に入らなかった? 俺の、何に腹が立ったんだ?』
カレブができるだけ穏やかに言うと、彼女はうつむいたまま、小さい声で呟いた。
『オレハ、オマエガ、スキ』
何が言いたいのかと、彼は下から彼女の顔を見ようと姿勢をかがめた。
『俺はおまえが好き?』
「私はあなたが好き」
カレブは鼻で息をつき、彼女の顔を上に向けた。
『おまえ・・・・・・もしかして、俺の気持ちを疑っているのか? 俺がおまえを・・・・・・もてあそんだとでも思っているのか?』
当初はそのつもりだったカレブは、何となく顔を赤くして口を手でこすった。彼女を見ると、今にも泣き出しそうな表情になっていて、びっくりする。彼がマーシャの名を呼ぶと、それにはじかれたように彼女が口を開いた。
「私はここでたった一人なのに? 私がもし、救助されずにここに残らなきゃならなくなったら、ううん、仮定じゃなくてその可能性は高いけど、そうなったら、私があなたを頼りにする気持ちもわかるでしょ? 私はここの誰も知らない、言葉だってわからない、一人で生きろと言われても、何をどうすることもできない。だけど、私はあなたに出会ったし、すごく強い繋がりを感じているし、あなたも私を愛してくれると思ったし、そんな人がいてくれたら私はきっと、この未知の世界でも生き延びていけるんじゃないかなと思えたの。もちろん、不安で・・・・・・すごく怖いけど。私はあなたが好き。私は、一緒にはいられない? あなたが私をそこまで好きかどうか、私はよくわからない」
『待った、ちょっと待て!』
はっきりとはわからないが、大事な話をされたように思った。握った彼女の手を胸の位置まで持ち上げ、カレブはもう一度言った。
『待て、マーシャ。もう一度、ゆっくりとしゃべれ』
彼女が手を引き抜こうとしたのに抵抗し、カレブは涙の溢れる彼女の目を覗き込んだ。
『泣くな。俺は、おまえが悲しんで泣くのは見たくない』
マーシャの前でカレブが人差し指をあげ、話せと命令した。もう一度しゃべれと言いたいらしい。
彼女は彼の真剣な眼差しを見つめ返した。
「もう一度?」
カレブが辛抱強く、彼女に頷いた。
『そうだ。少しずつ、話せ』