第16話
鼻に違和感を覚えて大きなくしゃみをしたネデルは、自分が眠りこんでしまっていたことにその時気づいた。ベッドからあわてて跳ね起き、扉の通気孔からのぞく空が明るい水色へのグラデーションを作っていることに愕然とした。すでに夜明けが近い。
『ああーっ、俺としたことがなんてヘマを!』
髪をかきむしりながら、ベッドにいつのまにか放り出されていた鍵をひっつかむ。
主人も眠りこけているのか、主人に呼ばれた自分が気づかなかったのか。どちらにしても、夜明け前に主人を自宅へ戻さなければいけない。足早に隣室の扉前に行った彼は、押し殺した声で扉越しに主人に二度呼びかけた。少し待ったが、返事も物音もない。ネデルは急いで鍵を開けた。
扉がきしんで開き、室内に滑るように入ったネデルの前に、裸体のカレブが茶色の織物に包まれた女を胸に抱いて眠っている姿があった。ネデルは焦っており、物音をさせないようにしようという注意を払いはしなかった。彼が踏みしめた床とサンダルがこすれて鳴り、その乾いた音がカレブの意識を戻した。危険を察知した時のようにカッと目を見開き、女を両腕で守るように引き寄せると、彼は侵入者を見極めようと首をくるりと入口に向けた。
『カレブ様!』
怒ったような、泣いているようなネデルが走り寄ってきた。
『なんだ、おまえか・・・』
『なんだ、ではありませんよ!もう夜が明けます、早くここを立ち去りませんと!』
彼はカレブの胸にいる女と主人を見ながら悲痛に叫んだ。目の横に青筋がたっている。
カレブが放たれた扉の先を見ると、空の下の方が明るい水色に変化していた。ああ、朝が来てしまうのか・・・?
ネデルが、早く、早く、と彼を急かしている。ネデルの声が頭の中にぼんやりと反響して、全てが夢の中で起きていることのように思えた。昨日の一夜があまりにも忘れ難く、体のあちこちに痺れるような余韻があった。今までに感じたことのない深い感情に支配され、二人は永遠に一緒だという妙な感覚に陥っていた。時間は驚くほどに遅く過ぎ、夜はこのまま明けないのだと思えてならなかった。
『お急ぎください、カレブ様!』
けれど今、ネデルは夜明けが来ると言っている。
反応の鈍いカレブにネデルが神経質そうな声をあげた。その声で腕の中のマーシャが目覚め、カレブは彼女に視線を落とした。
「・・・どうしたの?」
『おまえはまだ寝ていろ』
彼女の髪を指ですき、カレブは彼女を見つめる。そんな主人の態度を見たネデルは半狂乱になった。
『カレブ様!』
『騒ぐな。わかっている!』
低い声でカレブが怒ったように言い返すと、ネデルがようやく口をつぐんだ。そして、振り返ったマーシャと目が合ってしまい、驚いた彼は後ろへ数歩下がった。
『マーシャ、俺は行かなきゃならない』
彼女の注意を引くため、カレブは彼女の後頭部に手を伸ばした。夜空が明るくなるのと比例して、彼女の目の色も移り変わっていた。
「ワタシ、アナタガ、スキ」
そう発音するとマーシャが喜ぶのを知っているカレブは、再び彼女の笑顔を手に入れた。ネデルが不審そうに主人の顔を見やる。それからカレブは、自分を指差し、部屋の扉を指差した。
『俺は帰る』
「行くのね」
カレブが体を起こすのを見たマーシャは、理解して頷いた。
彼は全裸で床へ飛び降り、ネデルの前にあったチュニックを拾うと頭からそれを被る。ネデルは不満そうな面持ちを隠しもせず、無言で主人の帰り支度を見守った。カレブがサンダルを履き終わって彼女に振り向くと、彼女は茶色の織物を体に巻きつけ、ベッドに起き上がっていた。頼りない姿で、カレブは胸が突き刺されたような痛みを感じた。
『行きましょう』
ネデルは無表情でカレブを扉の方へ促した。カレブは外へ足を向けかけたが、発作的に彼女のいるベッドへ駆け戻ると、彼女の唇にキスをした。マーシャは驚いたが、彼が切ない目で自分を見ているのに気づくと、彼を安心させるように微笑んだ。
『オレモ、オマエガ、スキ』
彼女の唇がカレブに囁き、彼はほんの一瞬、放心した。紫の目に吸い込まれそうになる。
『行くぞ』
彼女を振り切るように部屋を横切ったカレブは、ネデルがいる扉の前を突っ切った。ネデルは、初めて異性を意識した思春期の少年のような表情をたたえるカレブを呆然と見送り、その表情を作らせた元凶だろうマーシャを見た。彼女は寂しそうに視線を床へ向けていた。
外に出たネデルは、静かに部屋の鍵をかける。
あの異人は・・・カレブ様に災いをもたらすかもしれない。
白々としてきた夜空を見上げ、途方もない彼の不安が的中しないことをネデルは何度も空に祈った。