第10話
そのとき、彼女の瞼が震えて唇からうめき声のような音がもれた。はっとしたカレブは思わず指を離す。彼女のまぶたが大きく動いた。彼女自身の体を抱いていた片方の腕が動き、彼女が指で頬をこすった。その手は小さく、指も細い。
女が気づく前に逃げなければ、と理性の声が叫んだが、カレブは足に根がはえたように動けなかった。牢内にいる捕虜たちの緊張が一気に高まるのを感じたが、彼の勘は、彼女が安全だと囁いていた。カレブが固唾をのんで動向を見守っていると、頬をこすった彼女の指は目に伸び、目じりもこすった。まぶたが大きくしばたいたが、目は下を向いていたので形までは見えなかった。
反対側の手がもう一方の目をさわった。両目が開かれ、違和感に気づいた彼女が床に視線を落として地面につかれたカレブの足を見つけた。それを上にたどって、彼女が視線を彼の顔に向けた。
なに・・・!?
カレブは彼女の瞳の色に仰天してしりもちをつき、彼女は間近にいた男の存在に驚いて言葉を失った。二人の新たな反応に怯えた人々が部屋の隅でひしと抱きあっている。子どもまでもが注意をひきつけることを恐れて、声を殺して泣いている。
「――あなた、誰!?」
マーシャは自分と同じようにびっくりしている目の前の男を見つめた。他の人々と同人種だが黒髪が肩ほどしかなく、野性的な風貌で生き生きとした黒い大きな目をしている。額が張り出て、鼻筋がとおった精悍な顔つきだ。大きく横に広がった口の上唇は薄かった。浅黒い肌に麻製の茶色い半袖のチュニックを着込み、顎を支える首筋と肘から下の腕はけっこうな筋肉がついた、立派な体格をしていた。
彼女が姿勢を正すと、我に返った男が後ろに飛び跳ねるようにして身構えた。暗い目は彼女をじっと見据え、右手は腰にある短剣に当てられている。それを視界の端にとらえたマーシャは、不用意に体を動かさない方が賢明だと判断した。こんな図体の男に襲われたら、死んでしまう。
彼はマーシャから目をそらさず、彼女も視線をそらせない。しばらくにらみ合った状態が続いた。
『カレブ様?ご無事で?』
突然、カレブの後方からかけられた声に二人は注意をそらせた。先に視線を戻したのはカレブで、彼女は彼の背後の暗闇に視線をめぐらせていた。彼女の不安そうな、困惑した様子を見てとった彼は、自分が信じた勘が正しいことを確信した。
『・・・俺は無事だ。すぐに戻る』
彼が発した言葉はマーシャの注意を引き戻した。
こやつは、危害など加えない。
彼が腰から手をゆっくりとおろすと、彼女にほんの少しの安堵が戻った。表情で瞳の色が微妙に移り変わるのは印象的だ。彼は、彼女の目を昼間の光の中で見てみたい衝動にかられた。
『おまえ、どこから来た?』
彼の言葉は、“ヤー”という“おまえ”を意味する部分しか聞き取れなかった。マーシャは、今までにこの地で出会った人々とは異なり、恐怖を映し出さない彼の瞳を見つめた。
反応をしない彼女に彼がもう一度同じことを言ったが、理解できない彼女は目を細め、わからない旨を伝えようとした。男はすぐに悟ったらしい。今度は別の言葉を投げかけた。
「マー、サイ、カレブ」
ゆっくりと一語ずつ言葉をくぎり、彼ははっきりとした音で言った。そして、自分の胸を手でたたく。それが、彼の名前を告げているのだと理解するまで大した時間はかからなかった。彼は同じことをもう一度、ゆっくりと繰り返した。
彼女は、この男が自分とコミュニケーションをとろうとしているという思いがけない事実に直面して、肩の力が抜けた。
「マー、サイ、カレブ」
三度目に彼がそう言って胸をたたいた後、マーシャは口を開いた。
「ヤー、サイ、カレブ?」
男が驚いたように目を見開いた。だが、すぐに大きな口を横に伸ばし、笑顔のような表情になった。
「ヤー?」
彼は親指をマーシャに向けた。想像するのは簡単だ。彼女は自分の名前を告げた。
「マーシャ」
疑うように男が顔をしかめる。
「マーサ?」
「マーシャ」
彼女は首をふり、彼の間違いを訂正した。彼はまだ納得できないような、困惑した表情をしている。
そのうち、さっき男にかけられた声が再び彼を呼んだ。声に切迫感がにじんでいる。男は振り向いて何かを言い返したが、すぐに彼女に注意を戻した。好奇心にあふれた、興奮した表情が彼に戻っている。マーシャは男の動向を見守っていたが、彼はもう何かを言うのは止めることにしたらしく、彼女を神々しい何かを見るかのように眺めている。
「マーシャ?」
ひとしきり彼女を見終えた男は、今度は正しい発音で彼女の名を口にした。彼女が彼に微笑みを作ると、男の顔はまるで子どものように自慢げな表情に変わった。笑うと、彼はかわいかった。