王様とダンスを
レティシアは幼い頃からダンスが好きだった。
仲睦まじい両親が毎夕食後に鼻歌を歌いながら戯れのようなダンスを繰り広げるのを見つめて育ってきたレティシアは、いつか自分も母上のように踊れるようになるのだ、と幼心に固く誓っていた。
しかし一人娘だったレティシアはダンスの練習相手に恵まれることなく、いつしかその決心を忘れてしまった。
レティシアの育った家は爵位を持ってはいたが暮らしは庶民のそれと変わりはなく、レティシア自身も貴族の姫と言うよりは町娘に近い感覚でいた。
つまり、貴族の姫らしからぬ育ち方をしてきた。
国全体の女性の割合が少ない為、レティシアの周りに年の近い女の子はいない。遊び相手は当然、父の領地に暮らす平民の男の子達だ。
レティシアはいつもしかつめらしい表情で話す家庭教師の退屈な淑女教育から抜け出しては幼馴染みの少年達と泥だらけになって走り回り、昆虫や小動物を追いかけ、体中に擦り傷切り傷を作って婆やを嘆かせた。
「レティお嬢様、少しは淑やかになさって下さい。傷痕だらけの姫君など、聞いた事がございません」
嘆きながら擦り傷に良く効く軟膏を塗っていた婆やは、ふと傷が不自然な箇所にもあることに気付く。
柔らかな二の腕や華奢な肩にまで擦り傷があるのはどうしてなのかとやんわりと尋ねると、レティシアは小さな唇を尖らせた。
「ドレスを破くわけにはいかないから、仕方ないでしょう」
「下着姿で遊んでいらっしゃるのですか?」
さすがにこれは酷過ぎる、という婆やの報告に驚愕して言葉を失った伯爵は、そのエネルギーの新たな発散場所をレティシアに提供することにした。
「レティ。ダンスを習ってみないかい?」
伯爵のこの一言はレティシアの人生を変えた。
レティシアはすっかりダンスに夢中になった。
講師に習う時だけでなく、夕食後に居間で寛ぐ父親に練習相手を乞い、部屋に一人でいる時も人知れず練習した。
本当は屋敷の中ではなく本格的な場できちんと踊りたかったのだが、舞踏会に参加するには年嵩が全く足りず、かと言って村祭りのような踊りに参加するにはレティシアが習っているダンスは正式すぎる。
第一、年齢が足りしていたとしても舞踏会がそう頻繁に開かれているわけではない。
そもそも舞踏会は男女の出会いの為にあるものであって、ダンス自体が目的というわけではない。
そういった事実を理解しているつもりでいながら、しかしレティシアは実際のところ理解などしていなかった。
遠い従兄であり婚約者でもあるヒューに強請って一緒に舞踏会に参加することが出来たのは、レティシアがやっと12歳の誕生日を迎えた時だった。
ここリブシャ王国には、女性は16歳の成人式までに結婚を誓う相手を見つけなければならないという掟がある。
些か面倒なこの掟の為に、生まれた時からの許婚がいることは貴族の間では珍しい事でも何でもなかった。それに、親が決めた婚約相手と結婚しなければならないという決まりはないから、婚約者相手に恋愛事の相談をする強者も少なくない。
実はヒューも、レティシアではなく他の令嬢に恋をしている。
既に成人しているヒューがそのことをまだレティシアに打ち明けていないのは、想い人がまだ成人に達しておらず、なおかつレティシアにそれを伝えるのは時期尚早だと考えているからだろう。
本人から直接言われたわけではないが、幼いながらも女の勘でレティシアは婚約者の心の裡を看破していた。
「今夜、城ではレナード皇太子のお妃候補を集めた盛大な舞踏会があるらしい。殆どの独身女性はあっちへ行ってしまうだろうから、こっちの舞踏会の相手は選び放題だ。思う存分踊れるよ、レティ」
お目当ての女性が不参加な上に、どちらかと言うとダンスが苦手なヒューは、すっかり他人事のような口調だ。
「でも、他に誰も申し込んでくれなかったら、ずっと一緒に踊ってね?」
初めて不安そうな表情を見せたレティシアに、ヒューは思わず微笑んだ。
「心配しなくても大丈夫。きっと休む間もなく誘ってもらえるよ」
馬車から先に降りて手を差し出したヒューの手に一瞬だけ体重を預け、両足でぴょん、と地面に着地する仕草に、ヒューも従者も苦笑いした。
ヒューの可愛い婚約者は父である伯爵の人徳も手伝って、社交界で愛されていた。
まだ子供という表現がぴったりな少女を今夜の舞踏会へ送り出せたのも、参加者の殆どは伯爵の知り合いで、なおかつ既婚者夫婦が多かったからだ。
おそらく今夜は既婚者の紳士達の間でレティは引っ張りだこになるだろう、とヒューは予想していた。
二人がホールに入ると、既にそこではダンスが始まっていた。
「うわぁ…」
素直に感嘆の声をあげたレティシアは、ぽかんと口を開けたまま、きらびやかな会場を見回す。
華やかな照明の下で色とりどりのドレスがくるくると舞う様子は、まさにレティシアが夢に見たそれだった。
香水にちょっぴりのアルコールの香り。大人の社交場と呼ばれる場で、ダンスを踊ることができるなんて…!
感激で胸がいっぱいのレティシアに、ヒューは馬車から降りる時のように手を差し出す。
「?」
「最初のダンスは僕と踊ってもらえるんだろう?」
「…もちろん!」
二人で手を取り合ってダンスの輪の中に入っていくと、場内は若い参加者に温かい視線を向けて場を空ける。
「緊張するわ」
「とりあえず僕のリードに集中していれば大丈夫。堂々とした笑顔で踊れば、この曲が終わった後に次々とお誘いが来ると思うよ」
「…分かった」
気持ちを落ち着かせて、レティシアはヒューを見つめる。ヒューは軽く頷くと、曲の転調に合わせてリードを始めた。
身体が動き始めると、レティシアの頭の中から少しずつ雑念が消えていく。リズムと足元の動きばかり気にしていたはずなのに、いつしか旋律の美しさに心から酔いしれるようになり、そこからレティシアは無心になった。
身体がふわふわする。気持ちいい。
ヒューのリードにすっかり安心してステップを踏み、促されればくるくると回る。
音と光の洪水の中、楽しそうに踊る二人を周囲は驚嘆の眼差しで見つめた。
やがて曲が終わると二人は歓声とともに大勢の観客に取り囲まれた。
「レティ、なんて上手なの!」
「ヒューの方がリードされていたじゃないか」
「お嬢さん、今度は僕と踊って下さい」
それからレティシアはヒューの予言通りに引っ張りだことなり、目論見通りになったことに満足したヒューは上等の酒を物色しつつ保護者として見学に徹することにした。
次々と申し込まれて疲れ知らずで踊っていたレティシアも、少し休憩がしたくなった。
飲み物とヒューを探してうろうろ歩いていると、目の前にすっとグラスが差し出された。
「どうぞ。今日の主役のお嬢さん」
自分の知り合いでもなく父親の知り合いでもない人物を、レティシアはまじまじと見つめる。
年齢は多分ヒューと同じくらい。ヒューより少し背が高く、細身ながらもしっかりとした体つきをしている。貴族と言うより護衛騎士のような雰囲気だとレティシアは思った。
「…ヒューの友達?」
「いや。ヒューは君の婚約者かい?」
「ええ」
「最初に君と踊っていた相手?」
「ええ」
「運の良い男だね。こんなに可愛い婚約者がいるなんて」
「でも私達、たぶん結婚しないわ」
「どうして?」
「ヒューには好きな人がいるからよ」
その言葉を聞いて飲みかけのグラスを口許から離し、彼は不思議そうにレティシアを見る。
しかしそれはほんの一瞬で、次の瞬間には彼は何故か急に慌てて、レティシアをバルコニーへと引っ張った。
「? どうしたの?」
「会場に会いたくない奴がいてね。後でヒューの所に案内するから、そいつの姿が見えなくなるまで少し付き合ってくれないかな」
「いいけど…。あなた、やっぱりヒューの知り合いなのね」
なんだ、とレティシアは心の中で安堵する。
知らない男性と気軽に話すのは淑女らしからぬ作法だと婆やに厳しく言われていたけれど、ヒューの知り合いだったら知らない人じゃない。
「わたし、レティシア。レティって呼んで。よろしく」
普段は恭し過ぎて好きになれない淑女の挨拶も、ダンスの後なら作法の流れとして抵抗なく出来た。
彼もレティシアに合わせるように、深く片膝を折る紳士の挨拶で応える。
「よろしく、レティ。僕の名はアーデルベルト」
アーデルベルトと名乗ったその青年は、光の下では金髪にも見える茶色い髪に、綺麗な青い瞳をしていた。
「で、君はどうして結婚しないつもりの婚約者と舞踏会に来たんだい?」
興味津々で尋ねる彼に、レティシアは事も無げに答える。
「どうしても踊りたかったからよ。今を逃すと、次はいつになるか分からないもの。それに、わたしが成人する頃にヒューが他の女の人と結婚していたら、わたしを舞踏会に連れてきてくれる人がいなくなっちゃうでしょう?」
「僕はてっきり、彼が君を見せびらかしにここへ連れてきているのかと…いや、どうして君は彼が他の女の人と結婚するなんて言うんだい?」
「ヒューはずっと前から、幼馴染みの侯爵令嬢に想いを寄せているのよ」
「君という婚約者がいるのに?」
「別に珍しい事じゃないわ。ヒューのことは好きだけれど、結婚したいとまでは思わないし。だって、普段は会うこともないのよ」
「だけど彼は君とここに来た」
何となく含みのある言い方に、レティシアはヒューの名誉を傷付けまいと必死になる。
「わたしの我侭なの。ヒューは普段から彼女の出ない舞踏会に行こうとはしないもの。でも、今夜は殆どの若い女性は皇太子の舞踏会のほうに行ってしまっているから…」
レティシアの必死の説明に、ああ、とアーデルベルトは思い出したように頷いた。
「君はそっちの舞踏会には行かなかったんだね。独身女性はもれなく招待されていたらしいけど」
「だって、わたしはまだ子供だもの」
「子供って…。舞踏会に出ているんだから、君は成人間近なんだろう?」
「いいえ。12歳になったばかりよ」
「12歳?」
年齢の割に上背があるほうだから着飾ればそれなりの年頃に見られなくもないのだが、レティシア自身も自分が淑女扱いされるには早過ぎる事を自覚していた。
「舞踏会に出るのは早過ぎるって分かっているわ。でも、どうしても舞踏会で踊りたかったんだもの。父上も今夜なら大丈夫だろうって仰っていたし。今夜の舞踏会の出席者は父上の知り合いばかりだから…」
言葉を失ったアーデルベルトを見て、レティシアは焦って弁解する。
アーデルベルトはヒューが呆れた時にいつもそうするように、大きな溜息を吐き、そして腕組みをしてレティシアを軽く睨んだ。
「レティ。いくら父君の知り合いばかりの場でも、社交界に正式に出る前に舞踏会に顔を出すのはあまり感心しないな」
「…今夜だけだもの」
しゅんとしたレティシアを見て、アーデルベルトはやや態度を軟化させた。
「そう願うね。14歳になれば城の舞踏会にも正式に参加出来るようになるんだから、もう少し待った方がいい。その時は皇太子と踊れるかもしれないよ」
「別に皇太子と踊りたいとは思わないわ」
「どうして?」
この言葉を聞くのはこれで何度目だろう。なんだか質問ばかり…と思いつつも、レティシアは素直に答える。
「だって、皇太子っていずれ王様になる方でしょう? 王様は何人もお妃様を娶るって聞いたわ。わたし、そういうの嫌なの。父上と母上みたいに二人でずっと仲良くしていたいから」
そう答えると彼は今度は感慨深げにレティシアを見た。
「…君の両親はとても仲が良いんだね」
「ええ。二人は夕食後にいつもダンスをしているの。音楽がなくてもよ。お妃様になって舞踏会で踊るよりも、父上と母上みたいに毎日踊っていたいって思うのは変?」
「変じゃないよ。僕だって憧れる。特に君みたいに溌剌とした可愛い妻の為なら、大抵の夫は喜んでダンスに付き合うさ」
「本当にそう思う?」
「ああ。きっと皇太子だってね」
「レティ? やっと見つけた。こんなところで誰と…あ、あなたは!」
「さてと。君の婚約者も迎えに来たことだし、僕もそろそろ退散するよ。付き合ってくれてありがとう、レティ」
バルコニーに現れたヒューを見つけるや否や、アーデルベルトはヒューと入れ替わるようにレティシアの脇を擦り抜けた。
「いつかまた」
レティシアにだけ分かるようにこっそりウインクを残して、アーデルベルトは会場の人混みの中に消えてしまった。
「レティ、今の人…」
様子がおかしいヒューに、レティシアは首を傾げる。
「ヒューの知り合いよね?」
「どちらかと言うと君の知り合いみたいだったけど?」
「え? でも、ヒューはあの人のことを知っているんでしょう?」
「そりゃあ知っているさ。だって、この国の皇太子だもの」
「え」
そう言ったきり、レティシアは言葉を失った。
「レティ。僕にはよく事情が分からないんだけど、どうして別の舞踏会に出ているはずの皇太子がここにいたんだい? …レティ?」
翌日からレティシアが熱を出して寝込んだのは、単なる疲れから来たものではないことはヒューしか知らない。
レティシアが寝込んでいた三日間、レティシアの与り知らない所で色々な事が進んでいた。
舞踏会の翌日、ヒューがとうとう侯爵令嬢に想いを打ち明け、目出度く彼女との婚約が成立した。
そして、それによって自動的にレティシアとヒューの婚約は解消されてしまったけれども、レティシアには直ぐに新しい婚約者が現れた。
レティシアの婚約が解消されたその翌日、舌を噛みそうなほど長い名前を持つ若者からの来訪と婚約の申し出に面食らった伯爵は、レティシアが寝込んでいて当の本人の意向が確認出来ないことを理由に、その申し出を一度断った。
しかし若者は怯むことなく伯爵を説得し続け、とうとうその日のうちに結婚の許可まで得てしまった。
目覚めてから事の成り行きを聞かされたレティシアは、驚きはしたが不思議と不快に感じる事はなかった。
「…初めて君を見た時、君とだったら、ずっとこうして踊っていられると思ったんだ」
レティシアが16歳の成人式を迎えると、リブシャ王国で一番盛大な結婚式が執り行われた。
レナード・ウォルフガング・アーデルベルト皇太子妃の座に納まる事になったレティシアは、挙式後のお披露目のダンスでそう囁いた夫を、菫色の瞳で悪戯っぽく見つめる。
「あの時のわたしは本当に子供だったのよ。それに、あの日は一緒に踊りすらしなかったでしょう?」
「観衆の中で堂々と踊る君は、とても子供には見えなかったよ。城からの監視の目さえなければ、一緒に踊れたのに…」
あの日、自分の名前で主催された舞踏会から逃亡していた皇太子は、目立つ盛装を誤魔化す為に別の舞踏会に潜り込み、追っ手を撒いていたところだったという。
「どうして自分の舞踏会を抜け出したりしたの?」
「煩い大臣達と護衛騎士達に付き纏われながら、練習不足の貴族の姫君に足を踏まれるのがどうにも堪え難くてね。だから君のダンスを見た時、あまりの上手さに感心した。君だったら僕の足を踏む事はないだろうと確信したよ」
「それが婚約を申し出た理由? ダンスの上手い女性は他にもたくさんいたでしょう?」
ワルツの優雅な旋律に似つかわしくない花嫁の顰め顔にも、アーデルベルトは蕩けそうな笑顔を向ける。
「勿論、それだけじゃない。僕はどちらかと言うと君の結婚観に感銘を受けたんだ。どうかレティシア、約束して欲しい。僕が王位を継いでもずっと夕食後は一緒に踊ってくれると」
吸い込まれそうな青い瞳に見つめられて、レティシアはほんのりと頬を染めた。
「…約束するわ。あなたが王様になっても、ずっと…」
音楽が途切れると同時に沸き上がった歓声にレティシアの言葉は掻き消される。
結婚してから初めてのダンスを終えた二人は暫く幸せそうに見つめ合うと、お互いの手をしっかりと握ったまま、民衆の歓声に手を振って応えた。
エリーの両親の馴れ初めです。深刻な試練が訪れる前の二人の幸せな時代をどうしても書いておかねば…という思いに駆られ、書き始めました。
この作品でエリーがお転婆なのはサラの影響ではなく、両親からの血筋であることがハッキリしましたね〜。