大日本帝国戦地糧食研究隊
大日本帝国軍戦地糧食研究隊と言う部隊を御存知だろうか?この部隊は第一次大戦中の1916年1月に正式に創設された部隊で、その後帝国陸海軍に空軍が加わり、その所轄官庁が陸海軍省から国防省に切り替わった現在でも、その直轄である戦時糧食研究班と言う名で残っている。
漢字の字面だけ見ると、せいぜい缶詰や乾パンの開発でも行っているように見えるが、設立当初から兵隊たちからは「帝国割烹隊」だの「戦場出前隊」だの「戦場を掛けるコックさん」、中には「兵隊を毒見役にする闇鍋屋」と言う、様々な異名で呼ばれている。
どうしてこのような部隊が出来たのか。遡ること100年前、欧州にて第一次世界大戦が勃発した。当時大英帝国の同盟国であった大日本帝国は、当初敵国独逸のアジア・太平洋方面の権益の奪取を図った。
この結果、2000年に入り中華民国に返還された青島や、現在はパラオ共和国や大日本帝国南洋自治区となっているミクロネシアなどの太平洋の諸々島を日本は占領した。
一方で、これら地域における日本陸海軍の損害は軽微であり、対して戦争1年目で甚大な兵力を喪っていた大英帝国やフランス共和国は、これら権益だけを掠め取る日本を許しはしなかった。日本側が21か条の要求を中華民国政府に出して露骨な中国における権益確保に動いたのも、英国や当時中立であったアメリカなどの心象を大いに悪くした。
このため、大日本帝国はこうした国際非難を交わす意味からも、1915年6月に欧州本土への2個師団を欧州派遣軍として送り出すことを正式に発表し、8月には約4万の陸軍兵が西部戦線に到着した。さらに海軍も新鋭戦艦の「金剛」などを含む艦隊をヨーロッパに派遣した。
最終的に、延べ人数にすると20万近い陸海軍将兵が日本より遠く離れたヨーロッパ戦線へと向かったのである。彼らの活躍は世界戦争史に残るものであったが、今回の本題はそこではない。大日本帝国軍戦地糧食研究隊に関してだ。
この部隊が作られる切欠となったのは、1915年8月に陸軍2個師団が欧州派遣軍として西部戦線へ到着した直後に始まった。
言うまでもなく、日本人の主食は米であり、料理の多くに味噌や醤油という調味料が使用される。また料理に使われる具も、当時の日本人全体の感覚でいえば肉は贅沢品で、魚がそこそこ、野菜が主流と言った具合だ。しかしながら、ヨーロッパの主食は小麦であり、じゃがいもであり、肉である。生の魚を食べる文化もない。
21世紀に入った頃には、こうした日本の食文化は広く欧米でも知られ、逆に健康的な食として人気を博しているが、この時代は人種差別観念なども合わさって、欧米の日本に対する文化理解は押しなべて低かった。そしてこれが大問題を引き起こした。
と言うのも、現地到着の陸軍部隊は補給面において英国やフランスに大きく依存せざるをえなかったからだ。これは日本製の食材をヨーロッパに持ち込むまでの手間隙が大きい上に、事前の派兵の条件として日本側が英仏に補給体制への支援を要請したからだ。
英仏軍はこの約束を守り、毎日前線の陸軍将兵に規定どおりの食糧を供給した。しかしながら、それはあくまで彼らの規定である。
陸軍の兵士たちは届いた食糧を見て困惑してしまった。米は皆無で、主食は小麦、或いは加工されてもパンとして出てきた。調味料も味噌や醤油は当然ある筈もなく、副食用の食材も食べなれた魚や日本の野菜はなく、ほとんどが肉やヨーロッパの野菜であった。
炊事を任された将兵は困ってしまった。彼らもパンくらいは知っていたが、もちろん焼き慣れているなんてこともないし、パンとして出てきても、戦場でどう配膳したものかわからない。
また副食にしても、普段作り慣れた味噌汁が出来るわけもなく、焼き物や炒め物中心にせざるを得なかった。
日本からの輸送船に乗っている間は、船が日本船籍であったことと、その間の物資は日本側が用意したので良かったが、上陸後から食生活は一変してしまった。最初は「さすが欧州」などと言って物珍しさに喜んでいた将兵たちであったが、それも一日も経てば終わった。
「米食わせろ!」「パンなんか食べたうちに入らん!」「味噌汁寄越せ!」「お新香!梅干!焼き魚!」
パンは食った気がしないから米を寄越せ。汁物はやっぱり味噌汁。おかずの肉も立続けでは飽きるので、漬物や魚を出せ。兵隊たちの怒りは炊事を担当する兵隊や、物資の管理を掌る主計担当者に向いたが、提供される食材がそもそもの問題なので、解決しようがない。
さらに言えば、使い慣れない食材なので調理も上手く行っていると言えなかった。現地のコックなどから料理を学ぶと言う方法もあったが、フランス語や英語を話せる人間が絶対的に足らない。
派遣・展開後わずか一週間にして、食を原因として将兵の士気はどん底にまで落ちてしまった。
このため、現地司令官は大本営に米や味噌・醤油などを送るよう要請するとともに、現地の状況を詳細に日本本土へと打電した。
これを受けた陸海軍省は頭を抱えてしまった。何せ食糧の現地提供は英仏軍の経費で行われていたので、これで日本が行うことになれば膨大な経費が必要となってしまう。おまけに、運ぶにも最低でも1ヶ月は掛かると来ている。
しかし現地将兵の士気低下は深刻であり、戦闘すらままならないという事態に陥っていた。
結局、1915年11月にようやく欧州派遣軍への食材の輸送が決定した。とりあえずの方針として3日に1回(つまり9回に1回)は日本食を出す方針を固め、貨物船に載せて米や味噌、漬物などをとにかく9月に欧州へと送り出した。
しかしこれらが到着するのは1ヶ月以上先。目の前の事態に対処するには別の方法が必要だった。そこで、現地司令部がとった苦肉の策が、戦地糧食研究隊の前身とも言うべき組織の創設だった。編成された時期は不明であるが、少なくとも欧州派遣軍の到着1ヵ月後には動き出したとされている。
と言っても、この時編成された組織は部隊内にいた炊事が得意な兵士、或いは入営前に何らかの料理経験者を急遽集めただけの、言わば寄せ集め組織であり、正式な名前すらなかった。彼らに与えられた任務、それはとにかく将兵の舌を満足させる上手い飯を食わせること。それだけであった。
言うは易し、実行するのは何とやらで、これには集められた者たちも傍と困ってしまった。そもそも材料がないのにどうしろ?と言うわけだ。
それでも、洋食屋で働いた経験のある一等兵を中心に、とりあえず現在ある材料で何とかするしかないとなり、彼らの帰国に至るまでの苦難の挑戦の日々が始まった。
彼らが最初に目をつけたのは、主食の改善であった。パン或いは小麦しか出ないので、どうあがいても米の代用は不可能であったが、しかし小麦を使ったうどんや粉物を作れないことはない。もちろん、それにしたって出汁やら具材やらの高いハードルがあったが。
こうして、現地で手に入る食品での代用日本食作りがスタートした。彼らは数日の間、連合軍から補給される様々な食材を吟味するところから始めた。
傍から見ると、一日中食ってばかりいる仕事だったので、大分顰蹙を買ったのであるが、食材の味や特製がわからないとどうにもならない。しかも、食べる方もずっと食べっぱなしなので、かなり苦しかった。
また「兵隊を毒見役にする闇鍋屋」と言う異名が後々まであったが、これは試作した料理を場合によっては、作ってそのまま現地部隊の将兵に味見させると言う事態も起きたために出来たものであった。だいたいは美味しい物が出ていたと言うが、時たま作った人間が悪かったのか、材料が悪かったのかトンデモナイ出来のものもあったらしい。
こうした苦労の末、代用うどんや後のお好み焼きに近い粉物などが兵隊たちに支給された。いずれも材料、特に出汁に使う具材やソースに使う具材などの制限から、本格的な味とまではいかなかったものの、多少なりと和風な料理が出されたことで、兵隊の士気を一気にあげた。
またパンについても、この頃から小豆と砂糖で餡子を作り、アンパンや小倉風のトーストにするなどして、日本人好みの食べ方を大々的に取り入れた。ちなみに、この餡子は戦場における貴重な甘味として、広範囲には普及しなかったが、日本軍と隣接する部隊ではそれなりに食されたらしい。
それに加えて、砂糖はあるので出来は悪かったが羊羹やたい焼き、今川焼きなども供せられるようになった。
こうした食の改善は劇的な効果をもたらし、どん底だった士気を上げることに成功。相乗する形で、日本軍の活動は活発化していく。もっとも、これは日本軍が日露戦争以来の激戦に身を投じると言うことでもあり、犠牲者や負傷者も増やす結果となったが。
食の改善が戦意高揚と戦力の根幹を成すと認識した欧州派遣軍司令部では、この食事研究のための寄せ集め部隊を正式に戦地糧食研究隊として再編成するとともに、本土からも要員の増派を要請した。
これはこの時期の戦況から、欧州戦線での戦いが長引くことが予想されること、さらには戦地糧食研究隊の業務量が増加していること、そして戦闘による負傷や疾病で要員の短期間での減少が見込まれたからだ。
また新たにこの部隊に求められる仕事が発生したことも大きい。それは不衛生かつ不快な塹壕に長期間詰める兵隊の士気を維持できる、新たな戦場食が求められたことである。
日本側は極力温食の支給を心がけたが、戦場で湯気が立つことは非常に危険であるし、また狭い塹壕内では調理をしようにも色々と制約される。
そのため調理いらずで、なおかつ冷めても美味しい戦場食の研究が求められたわけだ。ただし、まだレトルト食品が未発達のこの時代、これは大きな苦労が伴うことであった。そのため、この研究は「冷めても美味しい保存食」作り、それから暖かいままで運べる保温容器作りが中心となった。
ちなみに保温容器は初期段階のものが実際に戦場に投入され、複数回に渡り戦地糧食研究隊が最前線へ研究のために送り出しているが、このために今度は「戦場出前隊」と呼ばれたりもした。
戦場に日本から米や味噌がもたらされた後も、こうした面での研究は続けられた。むしろ、米や味噌がその後も不安定であったために、続けずにはおれなかった。
ちなみに米に関しては、連合軍も配慮して日本米は難しかったが、タイ米やイタリア産の米などが時々支給されるようになった。ただしこれらはインディカ種であったため、別の問題も生んだ。日本の米と同じように調理しても不味いのだ。
このため、調理法や作る料理を研究して部隊に普及させるなど、戦地糧食研究隊は大忙しであった。同部隊の異名の一つである「帝国割烹隊」は、こうした調理指導に回った際に、見事な包丁捌きや調理ぶりを将兵たちに見せることで広まった。
この異名が広がったころは、本土から軍属として雇用された料理人たちが到着し、部隊の料理のレベルが飛躍的に上がった時期でもあった。
料理人たちにとっても、この戦地糧食研究隊として働くことは大きなメリットがあった。確かに最前線の仕事もあり、危険度は半端ないものではあったが、日本では見ることも出来ない食材を扱うことが出来るとともに、ヨーロッパやインドなど各地の料理を学ぶ良い機会でもあったからだ。
ちなみに、この戦地糧食研究隊は当初陸軍の部隊であったが、後に特例によって陸海軍共同部隊に変化している。これは戦地での糧食研究に、海軍も参加したためであった。
海軍もヨーロッパ方面に戦艦を含む大部隊を派遣。Uボートなどとの戦闘で艦艇の喪失を出したが、最終的に連合軍の勝利に貢献した。そんな彼らにとっても、異国での将兵の舌を満足させる料理作りは苦労の連続であり、また海軍の主計兵の場合、より洋食に慣れている面があり、都合が良かったと言うのも大きい。
こうして戦場で日本軍将兵に美味い飯を提供し続けた戦地糧食研究隊であったが、1918年2月の休戦後も、部隊の撤退が完了するまでは活動を続けた。
これで戦地糧食研究隊もお役御免・・・・・・とはならなかった。
この大戦で帝国陸海軍は他国よりは少ないものの、8万の戦死傷者を出し、国家財政にも大きく響いた。このために革命の起こったロシア・シベリアへの干渉が充分出来なくなってしまった。
それでも、帝国陸海軍は大きな教訓を得た。とりわけ、ヨーロッパの戦場における近代兵器の洗礼を受けたことで、こうした新兵器の開発と整備が急ピッチで進められた。
そして戦術と共に大きく見直されたのが、兵站部門の整備であった。日本とは全く異なる環境で、なおかつ補給の難しい遠隔地における戦闘の継続や士気の維持に関して、大日本帝国陸海軍は大きな課題を背負っていた。
大戦終了後も戦地糧食隊は規模を縮小しつつも、帝国陸海軍共同研究期間として、海軍経理学校の一部を間借りして活動を継続した。
大戦後の主な仕事は主に保存食や、今後想定される仮想戦場における糧食確保に関してであった。
保存食は新型の缶詰や、後に米軍が開発するレーションに近い、戦場でも簡易な調理で食することの出来る各種食糧のセット(主食+副食+嗜好品)が中心であった。これに関しては、民間企業の協力も広く求められ、後に民生品でインスタントラーメンとして出回る即席麺や、固形栄養食という形で結実する。
一方仮想戦場における糧食研究は、今後想定されるシベリアや、満州、フィリピン、中部太平洋の諸諸島における糧食確保や、それら材料を使った戦場食の研究であった。
保存食の研究が安全な内地であったのに対して、この仮想戦場の糧食研究は時に極寒の地であり、時に高温多湿なジャングルへも足を踏み入れねばならず、殉職する隊員も発生するほどの苦行であった。
しかしながら、こうした平時の研究で得られたデータは、後に現地における食糧の調達(野生や民間からの買い付け含む)や、その調理方法に大いに生かされた。
満州事変、北支事変、太平洋戦争、第二次欧州大戦、アジア各地における対共勢力派兵などで、戦地糧食隊の研究結果や、保存食がいかんなくその威力を発揮した。一部からは「10個師団に相当する働き」とまで賞賛された。
実際、満州事変の直前にはそれまでの海軍経理学校の施設を間借りしていたのが、神奈川県の藤沢に専用の研究施設まで設けられている。ちなみにこれには、災害時の食糧対策にも相乗りできるので、その他の省庁からも予算や人員が割かれた。
戦地糧食隊が開発した各種保存食、調理器具、そして最前線の兵隊でも用意に準備できる調理レシピは、戦間期、或いは戦中期における彼らの努力の結晶であった。
もちろん、その過程での犠牲も多く出た。極寒の地で凍死した者もいれば、南方へ派遣されて現地の風土病や野生獣に喰われると言う悲惨な最期を迎えた隊員も、一人や二人ではない。死にはしなくても、食中毒や食あたりなどで生死の境を彷徨った者もいた。
そうした多大な犠牲の上に積み上げられた成果は、日本軍内部だけでなく、糧食やレシピを提供した各国軍からも賞賛された。
「日本人はどうしてあそこまで食に貪欲になれるのだ?」と言われるほどに、日本軍の保存食や兵隊食は高いレベルだった。
20世紀後半になり、武力紛争は徐々に減少したが、代わって各国軍の災害派遣件数が大幅に増加し、帝国陸海軍もアジア・アフリカ・中東、中南米などに部隊を派遣し、復旧作業や炊き出しなどを行った。
戦地糧食研究班は、21世紀には日本兵の舌だけでなく、世界中の人間の舌を満足させるために働く部隊になった。
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