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魔女は午後の紅茶を朝に飲む

作者: 右野 前条

ラノベ風に挑戦してみた結果。

 神田駅から歩いて十数分。学生と古本に溢れる町の片隅に、年代を感じさせる西洋風の小さな店がある。長い年月で色褪せた煉瓦の外壁と、その半ばを覆う冬枯れのアイビー。大正モダン、とでもいうのだろうか。どこか、時が止まったかのような雰囲気を感じさせる、そんな店だった。

 大人の掌ほどもある黒金の金具で留められた木戸の前に立って、ふと、気がついたことがあった。その店の看板は、記憶にあるものとは異なっていた。

 魔女という人種は、気紛れで好き勝手に行動する。唐突に居を変えたとしても、不思議ではない。なにしろ、これから訪問する相手は、住居どころか時間の流れにも縛られぬ極めつけの自由人なのだ。

 もっとも、その心配は無用のようだった。見慣れぬ文字で記された看板は、こう読める。アーネンエルベ。ドイツ語で遺産を意味する言葉。そんな看板を掲げる物好きな人種など、魔女以外にいるものか。確信を抱いて、柊の葉が飾られた重厚な樫の扉を押し開けた。

「やほ、ユイ」

 狭い戸口を潜ると、鼻孔に満ちる古い木と埃の匂いと、物憂げな声が私を出迎えた。年月を経て変色した重厚感のあるカウンターの向かいに佇む小柄な姿は、黒いカーディガンこそ羽織っているものの、一般に魔女という単語から連想されるような老婆ではなかった。むしろ、その真逆だった。

 北国の陽光で染め上げたような、淡いセミロングの金髪。冬の女神が雪と氷とを練り上げて造形したのではないかとすら思わせる、薄い氷青色の瞳と透けるように白い肌。百人中、八十三人ほどは、少女の前に美の一文字を加えることに賛同するだろう。薄い化粧を施して、眠たげに細められた眼を確りと開けば、九十人のラインを上回るかもしれなかった。

 そんな少女が、長い年月を経て変色したカウンターに腰を下ろし、ペットボトルの紅茶飲料に差したストローを咥えながら、小さく片手を挙げている。

 時を越える魔女、リア・クローデル。私が三年前に化け物退治の稼業を始めたときから、世話になっている道具屋の店主である。

「御機嫌いかが、リア。また屋号を変えたのね」

「ふふ、ドイツの品が沢山入ったからね。チュートン騎士の長剣から八十八ミリ砲まで、何でもあるよ。どう?」

 リアの指した先には、実にドイツ的な無骨極まる巨砲が鎮座していた。たっぷり五秒ほど見遣ったあとで、私は視線を逸らした。どうやって店内に搬入したのかは、考えないことにした。それが賢明だからだ。軽く頭を振ると、美容院で切り揃えたばかりの髪先が揺れ、頬と首筋を撫ぜた。

「そんなもの、どこから仕入れて来たのよ」

「んー? 一九四二年の北アフリカだけど」

 一先ず、私は耳を疑ってみた。勿論、今年は一九四二年ではない。日本の軍隊が東南アジアに展開しているというニュースは聞かないし、いまこの瞬間にロシアのスターリングラードで市街戦が繰り広げられているわけでもない。そんなものは、半世紀以上も前の歴史上の出来事だった。

 もっとも、リアの述べているのは、全くの真実であるに違いなかった。何しろ、この小さな魔女は、冗談や比喩でなく、時間を越えるのだ。

「それって、大丈夫なの?」

「問題はないよ。いま、ユイと私が話している世界は、トブルクとエル・アラメインのあいだで、一門の八十八ミリ砲が行方不明になった時間軸にある」

 つまらなさそうに答えたリアは、傍らの小皿に盛られたヘイゼルナッツを幾つか摘んで、その小さな口へと放り込んだ。

 横目で見遣ってみれば、窓から射す朝陽を浴びて鈍く輝く砲身が、レトロな雰囲気漂う店内で強烈な存在感を撒き散らしている。こんな巨大なものが消えれば、少なからず騒ぎになるのではないか。首を傾げる私を傍目に、リアは言葉を続けた。

「ま、たった一門の砲が歴史を変えることもあるけどね。この砲があれば、もしかしたら砂漠の狐(ロンメル)はエジプトを征服し、中東へ雪崩れ込んでいたかもしれない。そうなったら、産油地帯を失った大英帝国は戦争を継続出来ないわけだし、二十一世紀まで第三帝国が命脈を保っている可能性もゼロじゃあない」

 全く大丈夫ではないように、私には思われた。世界地図か地球儀が近くにあれば、自らの識る世界と一致しているかどうか、慌てて確認していたかもしれない。

「大丈夫だよ。私が時を越えても、それで、ユイが知っているヨーロッパの地図が変わるようなことにはならないから」

 そんな私の狼狽を見越したように、リアが淡々と事実を述べた。疑問の表明に先回りする形で解答を与えられた私は、憮然とするほかなかった。

「……でも、過去に戻れば、歴史を変えることも出来るんじゃないの?」

「正確にいえば、可能だよ。でも、歴史が変わったことを認識することは出来ないから、不可能と同じことなんだ。例のパラドックスでいえばさ。時を遡って、仮に自分の親を殺せたとしてもだよ。それを観測する自分自身の存在が消失するわけだから、変化を認識できないでしょ」

 その理屈は、まあ、理解は出来る。たとえ世界が変わっても、それを認識するべき現在の自分が変わるのでは――ということか。しかし、疑問はある。

「でも、世界って、絶えず分岐していくのじゃあなかった?」

「うん、その認識は正しいよ。だけど、その分岐する世界を認識することは出来ないんだ。分岐というより、だから、再構成かな。厳密には、同じ世界に戻ってくるわけじゃないんだ、私たち時間旅行者は。私が過去に戻って、何もせず戻ってきたとしても、そうなるんだ」

 段々と、分からなくなってきた。首を傾げ、続く説明を待つ。

「本来そこに存在しなかった人間ひとり分の体積が、そこにあった大気の分子を押し退けてるからね。そのあたりの影響は、バタフライ効果のとおりだよ。ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで嵐が起きる。時間軸を移動したというそれ時点で、未来は再構成されるんだ」

 よろしい、そろそろお手上げだ。だが、そんな私の表情に気づかず、滔々とリアは言葉を紡ぎ続ける。ある意味では、これもそういうことだろうか。理解できない言葉を幾ら注がれても、私の認識は変わらない。

「とはいっても、多くの場合、その程度の僅かな差異は同じ結果に収束されるから、差異を認識できない程度に近しい世界に戻れるわけだね。第三帝国の敗北は、大砲一門の有無では覆しようもないほどのものだから、私がこの砲をちょろまかしてきても、私はほとんど同じ世界に戻ってこれる。歴史を変えるというのは、本当に難しいんだよ。大河の流れを、人の手で変えることは出来ない。

 そうだね、もっと判りやすい例でいこうか。私が第一次大戦の西部戦線にまで遡って、バヴァリアの伍長(ヒトラー)を殺したとする。それでもね、第二次大戦は阻止できないんだ。どうしたって、別の誰かが、同じことをやる。大戦に負けたドイツの鬱屈したエネルギーがいずれ爆発するのは、歴史の必然というやつなんだ。そして、あの戦争が発生した時点で、第三帝国が何をしようとも最終的な結末は動かない。伍長閣下でなく、別の誰か――軍事的常識というものを多少なりとも持ち合わせた誰かが代わりに起っていれば、大英帝国はもう少し苦労しただろうね。でも、それだけソヴィエトが楽になるから、同じことだね。精々がとこ、ジュニアハイの学生が歴史の時間に覚える人名や事件名が幾つか変わるくらいのものなんだよ」

「いや、でも……それで運命が変わる人もいるのじゃないの?」

 辛うじて、私はそう尋ねた。例えば、そう。その、中学生に覚えられる名前の人物やその子孫の運命は、明らかに変わるのではないだろうか。そして、その疑問は正しかった。リアは軽く肯いて、説明を続ける。

「もちろん、個人レベルでの運命は変わり得るよ。大河に小石を投げ入れても流れは変わらないけど、波紋が届く範囲の水面には波が立つでしょ?

 ただ、意図的に誰かの運命を変えるというのは難しい――というより、無意味といったほうがいいかな。それが変わったことを認識出来ないんだから。さっきも言ったでしょ、例のパラドックス。いま私が今朝に戻って今日の開店を止めたら、ユイとこんな話をしていた私は消えてなくなって、のんびりと紅茶でも飲んでいる私に再構成されるわけだ。その私に、この会話の記憶は残らない。オーケー?」

 確認を求められても、さっぱりだった。SF小説を流し読みした程度の乏しい知識では、どうやらリアの説明を咀嚼することは叶わないようだった。私に出来たことは、精々、笑顔を浮かべるだけだった。

「……えっ、と?」

 リアの視線が、出来の悪い生徒の相手をする教師のそれに変わった。どう噛み砕いて教えれば、この哀れな生き物に理解させてやることが出来るのかと悩む、あの表情。

「ああ、うん……ごめん、もういいわ」

「事象の本質を識ることは大事だよ、ユイ。識らない力は操りようがないんだ。ユイは魔女にはなれないけど、こちら側に足を踏み入れているんだからね」

 呆れたのか諦めたのか、リアが小さく首を振った。そんなもの、知らなくたって生きてはいける。私も、首を振った。

「悪いけど、頭の出来がそんなに良くないの」

「糖分を摂るんだね、ホラ」

 リアが人差し指をくるりと回すと、私の眼前に赤い紅茶飲料の缶が魔法のように現れた。いや、実際、魔法ではあるのだが。普通に投げて寄越せば済むところを、わざわざ魔法を使うのが、魔女という人種なのだ。

 冷蔵庫から直接、転移させたのだろう。手に取った缶は、よく冷えていた。プルタブを開けて、一息で喉に流し込む。喉が渇いていたわけでも、リアのいうように糖分を摂取する必要を感じたわけでもない。単に、この銘柄が嫌いだったのだ。ストレート・ティーと銘打っている癖に、強烈な甘みを感じるのは、正直、どうかと思う。

「……私、こういう紅茶飲料って、紅茶と認めてないんだけど」

 ちなみに、缶コーヒーもそれに準ずる。飲み終えた缶を空中に戻すと、リアが肩を竦めて、空き缶を何処かへと消し去った。恐らく、近所のコンビニエンス・ストアのゴミ箱あたりだろう。

「贅沢だなあ。それなら、今度は午後に来るんだね。ウバでもダージリンでも、好きなのを淹れたげるよ?」

「どうせなら、今淹れてよ」

 私は、素直に不満を口に出した。遠慮はこの際、美徳ではない。

 まあ、もっとも、訪れた客に無料で飲物を振舞うような店など、昨今の不況ではそうそう見当たらない。伝統的に、顧客を手厚く持て成すことで知られる自動車のディーラーですら、過剰なサービスを廃止しているくらい。その意味では、感謝するべきかもしれなかった。

「いやいや。んーと、あのねえ。私がどう呼ばれてるかは知ってるよね?」

 無論、知らないはずはなかった。リア・クローデル。時空を越え、時を操る魔女――"クロック・マスター"の二つ名で通っている。かの"時間旅行者"サン・ジェルマン伯爵ほどではないにせよ、この界隈では名を知られた有名人である。

 出会って暫くして、それを知ったときは大いに驚いたものだ。もっとも、その頃にはウマがあっていたので、互いの接し方が変わるわけでもなかったのだが。

「うん。私は、漫画みたいに時間を止めることなんて出来ないし、そうそう自由に時を越えられるわけでもないけど、そう呼ばれてるね」

「……あ、そうなの?」

「……そうなの。単に、時間を越えられる人間の絶対数が極めて少ないだけ」

 曰く、それは努力では埋められない、適性の問題なのだという。時間旅行を可能とするだけの才能は、極めて希有なものだとも。

「でさ、名前というものには、どんなものにも意味があるんだ。むしろ、意味を与えるために名を付けるといってもいい。我が子に与える名なんかは、その最たるものだね」

 それはまあ、納得出来る。願望と期待をと込めて、親は子に佳い名を付けようと知恵を絞る。昨今、それが行き過ぎて、奇妙な当て字や斬新に過ぎる名を与えられた子供が少なからず存在するのは、不幸な現実と称するべきだろう。私はその点、比較的、マシな方ではあると思う。一昔前なら兎も角、現代の日本では珍しくもない。どんな意味が込められているのかは知らないが、まあ、それはそれだ。親の無責任な願望を叶える義務は、子にはない。何しろ、子供は親を選べない。

「で……それがどう関係するの?」

「判らないかな。名前には呪が宿るんだよ。コレはつまり、英国のアフタヌーン・ティー文化を由来とする商品名だよね。十九世紀以来、三百年近くに渡って、アフタヌーン・ティーは英国上流階級の嗜みであり続けた。それだけの歴史と、宣伝戦略によって数千万の日本人の意識に刷り込まれたイメージ、それは十分に概念としての力を持つんだよ」

 古いものが力を持つ、それ自体は判る。同業者のなかには、戦国時代の古刀だとかルネサンス期のハルバードだとか、文化財クラスの武器を振り回す者も少なくない。ちなみに、リアは樹齢千年に達するオークの枝から削り出したという杖を愛用している。リア曰く、伝統と形式(トラディショナル)は重要だということだ。

「つまり、午後の優雅なティータイムをお手軽にってことよね」

「うん。でもまあ、コレをいつ飲もうが、それは買った人の勝手だよね。別に、コレを午前中に飲んだって誰も咎めやしない」

「いや……当たり前じゃない」

「ま、そうだよ。けれども、それはコレに宿った呪を覆し、世界に刻まれた概念に逆らうことに他ならない」

「……え? なに、どういうこと?」

 紅茶飲料の蘊蓄を聞いていたつもりが、何やら世界規模の壮大なスケールになってしまった。近所の街を散歩していたら、唐突にアフリカの大平原に放り出されたようなものだ。理解できる道理がない。私は、混乱して問い返すのみだった。そんな私に、リアはとんでもないことをのたまった。

「つまり、コレは概念としての時間を崩し、時の流れを歪ませることが出来る飲料なんだ。私はその歪みを蒐集し、時を越えてるんだよ」

「……いや、嘘でしょ?」

 辛うじて、そのように私は答えた。こんなもので時間が越えられるなら、世界は時間旅行者で溢れている。半信半疑どころか、信と偽の割合は三対七といったところだった。

「嘘じゃないよ。どうして四年に一度、閏年が必要になるかユイは知っている?」

「それは……暦の調整でしょ?」

「その暦のズレが何処で生まれるか、ってことだよ。年間何百万本も出荷されるこの商品のうち、午前中に飲まれている本数はどれだけあると思う? たとえ、コレを飲む人間が意識していなくたって、それだけの歪みが重なれば、世界に影響が出る。四年間で一日くらいの時間のズレは、簡単に生じてしまうんだよ」

「……いや、いやいやいや」

 そんな馬鹿な。そう一蹴するのは簡単だったが、問題は、リアの眼差しが真剣そのものであることだった。滔々と語る口調に、笑いの微粒子すら存在しない。まさかとは思うが、いや、しかし。

「……ほんと?」

「いや、冗談だけど」

「……殴るわよ?」

 暴力反対と、リアがわざとらしく頭を庇って縮こまる。曰く、悪意ある嘘とウィットに富んだ冗談は違うのだという。どうでもいいことだ。一瞬でも信じた私が馬鹿だった。私が憮然として吐き捨てると、リアは無邪気に笑った。いま言ったことの一部は本当なんだよ、と。

「ああ、まあ、閏年がどうこうっていうのは嘘だよ。西暦以前の古代ローマから、閏年はあったんだしね」

 へえ、と。気のない音を漏らして、店内を眺めやる。

「……大人げないなあ、ちゃんと聞いてよ」

「ちゃんと聞いたら、ジョークだったしねえ」

「だから、ごめんってば」

 しゅんとして頭を垂れるリアの様子に、つい、笑みが零れた。不注意で花瓶を割って項垂れる童女のような雰囲気を、リアは纏っていた。中身がどうあれ、外見上の年齢に相応する反応だった。まあ、或いは演技に騙されているのかもしれないが。

「まあ、いいけど――でも、そんなの本当に役に立つの?」

「足しにはなるよ。実際、ごくごく僅かだけども時間の歪みは生じるしさ」

 そこの部分が本当だったのか。ストローの差されたペットボトルを、まじまじと見つめる。知らず知らずのうち、リアの時間旅行に貢献している日本人が沢山いるというわけだ。

「それで、午後に来いってことね」

「そうそう。私、午前中はコレしか飲まないからさ」

「……多分それ、肥るわよ」

「肥ったら、ちょっと若返ればいいだけだもん」

 取り敢えず、私はリアの頭に拳骨を落としてやった。十代後半から三十代までの範囲に属する女性としては、これが唯一の正しい反応であろうと、私は確信している。ビニールのスリッパが手元になかったのが、極めて残念だ。

「痛っ、暴力はんたい!」

「やかましい。ダイエットに勤しむ全国の女性に土下座しなさい、今直ぐに。主に私に」

「えー。別に、ユイはスタイル悪くないじゃない」

「そこには、相応の努力が隠されてるんだけど?」

 思い切り白い視線を浴びせてやっても、手を打って笑い転げるばかりだった。世の女性が、美しくあるためにどれだけの労力と金銭を費やしていると思っているのだろう。気楽なものだ、全く。

「あはは……で、アレ買わない? シャーマン戦車もイチコロの徹甲榴弾、おまけするよ」

 一頻り笑ったあとで、目の端に浮かんだ涙を拭いながら、リアが杖の先で巨砲を差した。漸く、自分がカウンターに座っている理由を思い出したらしい。口にした内容は、控え目な表現を用いても、アタマが悪いとしか評しようのないものではあったけれど。

「あのね……私、戦争してるわけじゃないんだけど」

「似たようなものでしょ、"シルバー・スプリンクラー"」

 私が顔を顰めると、リアは小さく笑みを零した。私がその綽名を嫌うことをよく知っているのだ、この小さな魔女は。


* * * * * * * * * *


「――それで、いつもの十二ゲージでいいのかな。ダブルオーバック? それか、スラッグ?」

「弾はまだあるわ。今回、憑かれた人間を祓わなきゃいけないの。なにか、適当に見繕ってくれない?」

 弾が銀製だろうと鉄製だろうと、生きた人間は銃で撃てば死ぬ。これまで相手にしてきたようなゾンビだの悪霊だのといった判り易い連中と違って、銀の弾丸で薙ぎ払うというわけにはいかないのだ。

「珍しい、というか、初めてだっけか。まあ、そろそろ、いいんじゃない。あれかな、狐憑きとかいうやつ?」

「いまどき狐憑きもないでしょ。アンティークの収集家だとか言ってたから、大方、興味本位で変なものに手を出したんじゃないかな」

「へえ、それはまた。初体験にしてはちょっとハードルが高いかもね――んん、これはどうかな」

 僅かに考えた後で、リアが杖を振った。店のどこからか、一本の剣が私の元に漂ってくる。

 柄と併せても三十センチ程度の小柄な短剣――というより、ナイフに近い代物ではあるが、意外な重みがある。鞘を払うと、黄金の穏やかな輝きが目を奪った。僅かな驚きを感じながら、小さく振ってみる。握りは悪くないが、やはり、サイズに比べて重量がある。常識的に考えるならば、これは装飾品の類だろう。重く柔らかな金製の武器など、全く実用的ではない。

「えっと、"ゴルト・シュトゥース"っていう銘なんだけど」

「銀でなく、金ね……まさかコレ、純金?」

「ふふっ、そのまさか。しかも、只の金じゃないんだ、コレ。さて、なんでしょう?」

「あのね……私、そんなに暇じゃあないんだけど」

 事実ではある。退魔師、悪魔祓い、除霊屋、道士、魔術師、聖騎士、陰陽師、密教僧、吸血鬼狩り――呼び名は兎も角として、日本を本拠とする同業者は、多少の前後はあるものの、概ね百二十人前後だとされている。僅かそれだけで、一億三千万人の面倒を片付けるのだ。私のような三流でも、仕事に困ることはなかったし、それなりに予定も詰まっていた。

 もっとも、既にリアの長広舌に付き合ってしまっていたので、説得力などゼロに等しかったが。

「焦ったって、良い結果にはならないよ。急いては事をし損じる、この国の諺にもあるでしょ?」

「はいはい……まあ、元はどこかの教会の十字架とかでしょ?」

「残念、むしろ逆。コレはね、ホロコーストの産物なの」

 ホロコースト。ユダヤの儀式としての全燔祭のことでは、まあ、あるまい。第二次大戦中のドイツ支配地域で行われた、ユダヤ人の虐殺を指しているのだろう。しかし、その産物とは一体どういうことか。私の表情に浮かんだ疑問符を察したか、リアが先を続けた。

「金歯だよ、金歯。コレね、ガス室のユダヤ人から引き抜いた金歯を熔かして作ったんだってさ」

「うぇ……」

 思わず仰け反った私に、リアは楽しげに笑う。

「まさに、"ゴルト・シュトゥース"ってワケ。ふふっ、良いセンスをしてる。洒落のつもりなのか、そのまま名付けたのか、どっちだろうね?」

「……不謹慎よ、それ」

「いいじゃない。大体、本当のところはどうだか知らないしね」

「なに、贋物なの?」

「あの"ナチ・ハンター"ヴィーゼンタールでさえ、ガス室なんてなかったと認めてるんだから、少なくとも事実ではないだろうね。だけど、真物ではあるよ」

 小さく肩を竦めて、リアはよく判らないことを口にした。まあ、リアの吐く言葉は基本的によく判らないのだけれど。その原因は、私の知識不足によるものが七割程度。残りの三割は、恐らくきっと、リアの変人度合いによるところが大きいはずだ。

「……矛盾してるじゃない」

「してないよ。事実と真実は違うんだよ、ユイ。事実を違えることは出来ないけれど、真実は幾らだって捻じ曲げられる。所詮、真実なんてのは主観的な代物だからね」

「はい?」

「事実っていうのは、現実に起こったこと。真実っていうのは、嘘偽りのないことを指すんだ。まあ――つまりね、誰もが実際にあったと信じていれば、それが真実になるんだ。極端な話、信じているのがたった一人だって、当人にとっては疑う余地のない真実だってこと」

 首を捻って、リアの言葉を反芻する。つまりは、カラスは白いと皆が信じれば……と、いうことだろうか。いや、しかし。

「だけど、要は贋物なんでしょ?」

「違うって。事実がどうあれ、コレが"ガス室で殺されたユダヤ人の金歯から作られた"っていうのは真実なんだ。実際、コレは強い怨念を纏ってもいる。大勢の人々が信じるならば、事実に関係なく、真物としての力を宿すんだよ。かくあれかし……ってやつだね」

「……そんなのでいいの?」

「曰くつきの品なんて、大抵そんなものなの。あっちに並んでる鬘だって、武装親衛隊(SS)謹製だっていうけどね。実際は、中国人あたりの髪の毛だと思うよ。そんなんでもね、アレ、夜になると髪が伸びるんだ」

 暫く売れなかったら、カットしてあげないといけないんだよね。やれやれといった様子で、リアがぼやいた。愚痴をこぼすくらいなら、仕入れなければ良いと思うのは、私だけだろうか。

「呪いの日本人形みたいね」

「だね。ま、鬘にせよ人形にせよ、人毛を使っているものって、かなり多いよ。髪が伸びる人形の話なんて、割とポピュラーでしょ?」

「確かに、結構そういう話はよくあるけど――って、そうじゃなくて」

 また、話が逸れてしまった。どうしてこう、魔女という人種は無駄な蘊蓄が好きなのだろう。まあ、耳を傾ける私の側にも割と問題があるのだろうけど。

「そんなことはどうでもよくて。結局のところ、コレ、使えるの?」

「ま、由来は怪しいけどね。これだけ濃い怨念を纏ってれば、思念体だろうが幽体だろうが、なんだって斬れるよ。素材は純金だから、実体あるものは斬らない方がいいけど。骨とかに当たると歪むから」

 その辺りを心配する必要はなかった。実体を斬る必要があるのなら、取り敢えずは撃つ。銃を撃つ手真似をしてやると、リアは嘆息した。

「身も蓋もないなあ……まあ、それで済むんなら、その方が安全なんだろうけどね」

 それでは済まない相手もいる。そのことは、一番最初にリアに教えられたことだった。武器としての歴史が浅い銃器は、どうしたって、霊的な存在に対する威力は低くなる。狼男のように特殊な例外に対してを除けば、銀の弾丸は決して必殺の切り札とは成り得ない。その事実は、ある種の幻想を抱いていた私を少なからず落胆させたものだった。

「あとは……ユイでも多分、呪弾は撃てるかな。怨念に指向性を与えて、剣先から放つの。霊だの妖怪だのにも効く。殺意たっぷりで振れば、ま、多分ね」

 多分というのが、非常に気になるところだった。生きるか死ぬかの瀬戸際で頼るのは危険極まりない。第一、呪いとはまるで悪役だ。微苦笑が零れる。

「それとコレね、切っ先を向けるだけでドイツ人を呪い殺せるよ!」

 何故か、リアは自慢げに小さな胸を張った。私は、軽い痛みを感じて頭を抱えた。

「くたばれ、ドイツ野郎! ってね――……あれ、どしたの?」

 杖を構えて楽しげにポーズを取っていたリアが、訝しげな声を上げる。私が拍手喝采するとでも思っていたのだろうか。生憎、私はフランス人でもイギリス人でもロシア人でもなかった。勿論、ユダヤ人でもない。

 大体、私の人生にドイツ人を呪殺する機会が何回あると思っているのだろう。もし万が一にもセールス・トークのつもりならば、訴求力はゼロに等しかった。こめかみを抑えながら、小さく首を振る。

「うん、いやね。それが何の役に立つのかなと」

「呪殺は傷が付かないから、処女とか童貞の死体なら、結構な値になるよ?」

 溜息を吐くしかなかった。死体を売り払う退魔屋が、一体全体、何処の世界にいるというのだ。まあ、確かに仕事の過程で拾得した金品を懐に入れる同業者もいるにはいるが。これでも一応、それなりの職業倫理と一般的な道徳は持ち合わせているつもりだ。全く、リアは私をなんだと思っているのだろう。仕事の度に貴金属を盛大にバラ撒いているとはいえ、そこまで金銭に困っているわけではないのだが。

「……どうも、私には向かなそうね、それは」

「それは残念。ま、"シルバー・スプリンクラー"が黄金の剣を遣っちゃ、名が廃るか」

 名誉ある二つ名ならば兎も角、自分のそれは、揶揄に近い意味合いを帯びている。廃れてもらって一向に構わないのだが、ようやく名が売れ出したところなので、そうもいかない。この業界で仕事を請けるには、実力以上に、知名度とコネが重要なのだ。

「で、誰でも遣えて、ある程度の効果があるものはない?」

 云うと、リアは露骨に眉を顰めた。曰く、向上心は大事なんだそうだ。それには全然同意はするが、しかし、目下の問題は直近の仕事に間に合うかどうかなのだ。正月には神社に初詣に行き、聖人の処刑日にチョコレートを授受し、盆と彼岸には祖先の墓参りに寺へ行き、ハロウィンには仮装して練り歩き、クリスマスにはケーキを食べる。そんな典型的日本人そのものの宗教観しか持たない自分が、一日二日で、怪異を祓えるほどの信心を抱けるはずがないのだから、仕方がない。

「長い歴史がある割に、どうしてこう、日本人ってば……」

 溜息を吐かれても、肩をすくめるしかなかった。日本人でももちろん、優秀な同業者はいる。でも、そういうのは大体が寺社の関係者や古武道の継承者などであって、私はそうじゃない。もちろん、リアはそのあたりを知っているから、ただの嫌味じみた戯れ合いに過ぎないことは判っている。

「古今東西、仕入れられないものはないとか、前に豪語してなかった?」

「注文が無茶なんだって。欠片も信仰心のない人間が、何の修行もせずに遣える程度の品で、それなりの効力だなんて」

 そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。そんなものでどうにかなるのなら、そもそも、こんな稼業が成り立つはずもないのだから。

「それもそうね。いっそ、清めの塩でも用意していこうかしら」

「塩が祓い清めるのは穢れだよ、ユイ。そして、神道では、死者でなく死という事象自体を穢れとする。だから、霊には効かないよ」

 どうして私が生粋の日本人のユイに神道の説明をしてるんだろうね。そんなことを呟いて、リアが盛大に溜息を吐く。耳が痛いが、世間一般の日本人の認識なんてそんなものではないかと思うのだ。もちろん、それを口にすると、一般人じゃないでしょうと返ってくることは明らかだったので、口を噤んでいたけれど。

「あ」

 はたと、何かを思いついたように、リアが声を漏らす。そうだ、その手があった。そんなことを呟きながら、杖を小さく振るう。虚空から取り出されたのは、幾つかの小瓶だった。澄んだものから、泥水のように濁ったものまで、何種類かある。これは何かと、視線で訊ねる。

「ヨルダン川の聖水だよ。カトリックでもプロテスタントでも正教会でも、キリスト教徒なら効くでしょ。ムスリムにもユダヤにも、それなりにね」

「……聖水? こっちの、どぶ水みたいなのも?」

「聖地っていっても、最近は水質汚染が激しくてね。その上、イスラエルやヨルダンがじゃんじゃん汲み上げてるから、そのうち川自体がなくなっちゃうかもね」

 なんでも、川の流量はどんどん減っていて、注いでいる先の死海と共に、将来的には消滅の危機にあるのだとか。

「じゃあ、そっちの綺麗なのは、昔のってこと?」

「ご名答。これは一九四二年のもの。北アフリカのついでに、少し足を伸ばしてきたんだ。そっちのは、ヴェネツィア発の聖地巡礼ツアーでね。一四九八……いや、九九年かな、新航路発見だとかで騒がしかったから」

 重要なのか、重要でないのか判らないが、まったく興味の持てない説明が続く。こちらが気にするのは、効果があるのかないのか、それと値段だけだ。

「これは凄いよ。西暦でいうと、二八年――とある有名人が川で洗礼を受けてるとき、そのちょっと下流で汲んできたんだ」

「……よくわからないけど、凄いの?」

 そう応じると、リアの表情が未開の蛮族を見やる文明人のそれに変わった。

「有名人って、キリスト教とかいう世界最大の宗教の教祖のことだよ」

 そこまで言われると、流石の私でも、どこの誰のことかは分かる。その洗礼ということなら、たぶん、凄いのだろう。

 ならばそれでと、深く考えずに頷いた。頷いてから、リアの視線に気がついた。

「なに?」

「いや……この国のキリスト教徒なんて、人口の一%もいないでしょ。ムスリムやユダヤなんて、それ以下だし。効くとは限らないよ?」

 何秒か、その言葉を咀嚼して。確かにそうではあるけれど、でも、と。

「でも、リアの助言が間違ってたことはないからさ」

 リアが微妙な表情をしたのは、気のせいだったろうか。いずれにせよ、やることは決まっている。

「ん、まあ……まいど、ありがと」

 品物を受け取り、白紙の小切手を宙に投げて、踵を返す。空中で静止した紙片に浮き上がるインクを、目の端に捉える。四百万。まあ、二千年前の聖水というんだから、妥当な価格なのだろう。納得して、店を出た。

 

* * * * * * * * * * 


 季節外れの天城高原に広がる、別荘地の一角。編上靴の底が床を叩く硬質の音だけが、耳に届く全てだった。人気の失せた豪奢な屋敷には、濃厚な血の臭いが立ち込めている。鼻の奥が痺れたようになって、気を抜くと、意識が揺らぎそうになる。腰溜めに構えたベネリM4の重みを感じていなければ、怖ろしくて一歩たりとも踏み出せはしない。屋内でわざわざコートを羽織っているのは、高原の冷涼な大気ばかりが原因ではなかった。

 一つ一つの部屋を慎重に確かめて歩きながら、エントランス・ホールで目にした光景を、改めて思い返す。何人分であったかも判らぬ肉片と臓物が床と壁とを問わずに撒き散らされ、力任せに捻じ切られたと思しき四肢が散乱していた。屋敷から逃げようとした者たちが殺到し、そこで皆殺しの憂き目に遭ったことは明白だった。どう控え目に見積もっても、生身の人間に成せる業ではない。

 久し振りに、安全で実入りのいい仕事だと思っていたものが、どうにも、普段とさして変わらぬことになりそうだった。たまには銃を撃たない仕事がしたい。

 狼狽を隠せぬ依頼人から、追加報酬の約束を取り付けたのがせめてもの救いだったが、あれだけの惨事を成すだけの力を持つ怪異を、現在の装備で滅ぼし切れるかどうか。フル装備ですらどうだか怪しいというのに、愛用のベネリを除けば、護身用程度の火器しか携行していない。

 全く。状況がこうまで酷くなったと連絡を受けていれば、それなりの装備を用意してきたものを――あの依頼人め、どうしてくれよう。内心で吐き捨てて、一つ決意した。

 東京に帰る前に箱根に寄って、箱根で最高の旅館に泊まっていこう。霊山の湯で怪異の穢れを清めるのだとかなんだとか、適当に理由をつけて必要経費として請求してやる。そうでもしないと、気が済まない。

 大体、私は荒事専門といったところで、所詮は銃器に頼らねば戦えない三流の退魔屋でしかないのだ。銀の銃弾を撒き散らし、小火の始末に奔走する"シルバー・スプリンクラー"。この火事が、私の手に余るものでなければ良いのだが。

「……気をつけて、か。そんなこと言ったって、ねぇ……」

 自嘲気味に呟いて、溜息を吐く。リアは何かと気にかけてくれるが、どうにも、買い被られている感がないでもない。束の間、窓の外に広がる景色に目をやった。薄っすらと霧が出て、いかにもといった雰囲気だ。

 箱根と富士という、日本有数の霊地の影響を受けてのことだろうが、天城峠を中心とするこの一帯には心霊スポットが多い。瘴気に誘われて、新たな面倒の種が生じたとしても驚くに値しない。実際のところ、被害者の容体が急変したのも、その辺が影響している可能性が高そうだった。人目を憚る必要があったのは判るが、全く、不用意なことこの上ない。

 風が吹き、雲間から差し込む月明かりが、中庭に蹲る闇を照らし出したのはそのときだった。

「……うえ」

 最早、あれの命は諦める。依頼人――被害者の父親は、そう云っていた。成る程、それも然りと思わせるだけの光景が、そこには広がっていた。

 不自然に膨らんだ被害者の頭部を覆っている漆黒は、一見すれば髪のようにも思える。しかし、どれだけ楽観的な予測をしてみても、ただの髪だとは思えなかった。眼を凝らしてみれば、案の定だった。

 半ば実体化した怨念が、蠢く濡れ羽色の混沌と化して被害者の頭部を覆っている。幾多の歪んだ貌が現れては融け、呪詛を吐いて消えてゆく。あまりに醜悪な光景に、無意識に銃口を動かした。その途端だった。

 私の敵意に反応したのだろう――爆発するように膨れ上がった怪異が、巨大な触腕と化した髪を唸らせた。咄嗟に直近の部屋へと飛び込み、床へと身を投げ出した選択が、私の命を救った。

 大型トラックが衝突したかのような、衝撃と轟音。丸めた背中を立て続けに襲う、瓦礫の破片。それらが収まったあと、最初に感じたのは冷やかな外気だった。恐る恐る目を開いてみれば、先程まで立っていた廊下は跡形もなく破壊され、部屋の入口と外界が直結していた。唖然とするほかなかった。スチールボールに一撃された山荘に立て篭もる日本赤軍の気分が味わえたというわけだ。

 値の張りそうな毛氈の敷物に埃混じりの唾を吐き捨て、衝撃で朦朧とした意識をどうにか現実へと向ける。地面までは、約三メートル。飛び降りられない高さではないが、問題は、そのあとだ。

 あの化け物までの距離は、少なく見積もっても四十メートルはある。なんともおぞましいことに、手持ちの装備では、どうあろうとも距離を詰めねばならなかった。

 ショットガンは十メートル以内での命中率と威力こそ他の銃器の追随を許さないが、これだけ距離があると、精々がパーティーのクラッカー代わりにしかならない。スラッグ弾を用いれば話は別なのだが、生憎、手元にはない。

 軽量小型だけが取り柄のイングラムM11は瞬間的な弾幕を張る以外に使い道はないし、小口径のVz.61"スコーピオン"では明らかに威力不足。コートの内側に吊った奥の手は、完全に射程が不足。聖水に至っては、言わずもがなだ。いや、全く。覚悟を決めるしかないようだった。

「……グレネードかライフルがあれば、少しは楽が出来るんだけどねえ」

 そういえば、昔のゾンビ・ゲームに、硫酸をグレネード・ランチャーで投射しているものがあった。代わりに、聖水を充填したグレネード弾というのはどうだろう。意外と効果的かもしれない。実際問題として、あの化け物相手に聖水を振り掛けるまでの距離に近づくなんて、ぞっとしない。どうやら、無駄な出費になりそうだった。未開封なんだから、返品を受け付けてくれないものだろうか。

 益体もないことを思い浮かべながら、乾いた唇を舐める。エントランスでの光景を思えば、素直に帰らせてくれるとは思えない。仕方ない、やるしかないか。

 瓦礫の少ないあたりに目星をつけて、五・六歩ほど後退する。さて、ちょっとした空中散歩と洒落込もう。ホップ、ステップ――と、いうやつだ。

「ほっ」

 思い切って跳んだ先には、湿り気を帯びた夜の冷気が広がっていた。こんな状況でなければ、さぞかし爽快だっただろう。自由落下の浮遊感を味わいながら、身動きの取れぬ空中で襲われなかったことに、内心で胸を撫で下ろした。

 着地の衝撃は、霧の湿気で軟らかくなっていた土のお陰で、大したものではなかった。装備が軽い所為もあっただろう。みっともなく転がって土まみれになる必要もなく、膝のバネで衝撃を殺すだけで事が足りた。

「さて、どうしたものかな……」

 屋敷の壁を抉ったときは屋久島あたりの古木ほどもあった闇色の触手は、いまでは十数本に枝分かれして蠢いている。それでも、一本一本が電柱ほどの太さがある。これを掻い潜って距離を詰めるのは、正直、骨が折れる。一撃でも受ければ、物理的に骨が折れる。いや、折れるどころか、砕けるに違いない。依頼人には申し訳ないが、やはり、被害者の命に気を遣っていられる状況ではないようだった。

「……さて」

 一歩を踏み出すと、それが合図になった。ゆらゆらと蠢いていた黒い影が、私へと殺到する。まるで、獲物を前にした水棲の軟体動物のような反応だった――まあ、事実、そうなのだろう。ああいった存在は、恐怖や絶望といった人間の負の感情を好む。ときには、人間を捕らえ、殺さない程度の苦痛を与え続けることもあるらしい。その地獄から逃れるには、自殺に成功するか、発狂するほかはない。ぞっとしない話だった。同じ死ぬのなら、頭を吹き飛ばされるかなにかで、楽に死にたいものだ。まあ、出来ればまだ、死にたくはないのだが。

「安全装置、解除」

 目を閉じて、戦いの開始を告げる自らへの暗示を、静かに呟く。

 意識の奥底にあるスイッチを切り替え、普段は無意識のうちにセーブされている人体の潜在能力を解放するための――リア曰くの、『火事場の馬鹿力モードに突入するための』ものだ。

 無論、相応の反動はあるし、度が過ぎれば自らの肉体が耐え切れずに壊れることにもなりかねない諸刃の剣だ。であっても、私のような、本来こちら側にいるべきでない普通の人間が化け物共と戦うためには、ちょっとしたドーピングが必要なのだ。

 感覚が冷たく研ぎ澄まされ、世界がスローになっていく。心臓の鼓動が増し、全身の筋肉に酸素を満たしていく。その瞬間に備えて、肉体の全てが回転数を上げていく。

 小さな金属音が、鼓膜の内側から響くのと同時。強化された動体視力と思考能力は、襲い来る十数個の脅威に対する優先度をコンマ数秒で判断し、半ば反射的に必要な行動へと移っていた。

「その程度なら!」

 愛銃のセミ・オート機構が許容する限界の速度で以って、トリガーを引く。弾幕射撃ではない。銃床を当てた肩に連続した衝撃が、四度。銃口を発した銀の散弾は、直撃コースにあった黒い魔腕を正確に捉え、弾き飛ばす。

 千切れ飛んだ髪の塊が青白い炎に包まれて燃え落ちるなか、フル回転する脳髄が導き出した最善のコースを描いて、自ら拓いた道を駆け抜ける。頭上数十センチの空間が薙がれ、唸る風切り音が背筋を震わせる。生きた心地がしない。

 それでも、最低限、十メートル――いや、更にもう一歩。五メートルの距離まで、踏み込みたかった。確実に一発で仕留めるには、その必要があった。

 手負いの獣という言葉があるとおり、中途半端に傷付けた場合、厄介なことになりかねない。私への怨念で力を増すくらいならばまだしも、もし逃げられでもすれば致命的だ。下手をすれば、関東中の同業者を動員しての山狩りになる。まあ、ここで私が死んでもそれは同じことだが。

「……そんなもの!」

 数本の触手が撚り合わさった壮大なスケールの三つ編みが、大上段から振り下ろされる。反射的に動かした銃口を、私は、トリガーを引くことなく戻した。どれだけ威力があろうとも、フェイントもなにもない大振りなど、回避は容易い。避ければ済むものならば、わざわざ迎撃する必要はない。弾薬は節約するべきだった。好んで弾倉交換の隙を作る趣味は、私にはなかった。

 余裕を持って、難なく避けられる。私がそう確信した、その直後だった。爆発のような衝撃とともに、左半身に激痛が走った。

「あづっ……!」

 弾け飛んだ土くれが腕と云わず脇腹と云わずに叩き付けられ、石の破片が頬を割く。左腕に拳大の石が直撃して、取り落としたベネリが弾かれて転がっていく。半ば吹き飛ばされる形で、私は地面へと身を投げ出した。防刃繊維のコートは、この程度で貫かれることはないにせよ、破片の運動エネルギーを和らげてくれるわけではない。骨は大丈夫のようだが、明日には、痣だらけになっているだろうことは確実だった。明日の朝陽を拝めるならば、だが。

「っ、痛いのよ!」

 いずれにせよ、一方的に痛め付けられるのは性に合わなかった。身を起こすのももどかしく、太股のホルスターから"スコーピオン"を抜き様、セレクターを親指で弾いてフルオートに叩き込み、そのまま右腕一本で撃ち放つ。

 全長わずか二十七センチ・重量も千二百八十グラムと小柄の銃だが、反動の小さい小口径弾のお陰で、片手で撃っても、それなりの精度は期待出来る。

 事実、一秒と経たずに撃ち尽くした三十発の銀弾は、少なくとも半数は哀れな被害者の身体を抉る筈だった。それを防いだのは、怨念の宿った髪で編まれた黒い壁。聖別された銀によって、蠢く髪の盾が炸裂弾を浴びたように弾けて散る。が、それだけだった。ライフル弾でも用いれば話は別だっただろうが、拳銃弾のなかでも非力な七.六五ミリ弾では、その防御を貫くには至らなかった。

 それでも、お陰で判ったことはあった。つまりは、こうだ。わざわざ防ぐということは、それが脅威だということだ。これは、この半日のあいだで唯一となる良いニュースだ。

「そうと判れば、まあ、ね」

 未だ痺れの残る左腕を叱咤し、空になった弾倉を放り投げ、新たな弾倉を叩き込む。九ミリ弾に比べれば低威力とはいえ、防弾装備を着用していない人体相手なら、十分な性能を持つ。ストックを前方に回して畳み込む様子を蠍の尾に譬えられた、冷戦時代のマシン・ピストル。チェコ製の毒針は未だ現役だということを、あの化け物に教育してやろう。

「仕切り直しといきましょうか、ね!」

 態勢を崩した状態からの、急激な加速。無理な負荷の掛かった筋繊維が、断裂寸前の悲鳴を上げる。が、だからなんだというのだ。直後に迫った死の危険から逃れることが、最優先の事項だった。それまで私が踏みしめていた地面に、黒い槍が何本も突き立ったのは、その数瞬後のことだった。

 鞭のように薙ぐ攻撃が鳴りを潜め、ほぼ正面からの直線的な刺突が立て続けに襲い掛かる。あの化け物も戦いに慣れてきたのか、攻撃の質が変わっていた。

 点を貫く攻撃は鋭く早く、予想以上に避けにくかった。既にして、右の脇腹と左腕の肉が削られ、傷の周辺を覆う衣服が不快な湿り気を帯びている。

 まして、迎撃は不可能に近かった。オリンピック選手の投げ槍を、正面から撃ち落とすようなものだ。よしんば槍の穂先を砕いたところで、柄の部分でそのまま刺し貫かれる。試みるだけ、弾の無駄だった。

 それでも、日頃の行いよろしくか、着実に距離を詰めることに成功していた。残るは約十メートル。もう数歩を踏み込めば、懐に収めた取っておきを叩き込んで、全てにけりを付けることが出来る筈だった。私の足が止まったのは、そんな瞬間だった。

「っ!?」

 唐突に、左脚に激痛が走った。血液と共に力が抜けていき、しかも、意志の力によって動かすことが叶わなかった。見れば、蛇のように地面を這ってきた一束の髪が、鎌首をもたげて太股を貫いていた。致命傷ではなかった。が、足が止まったことは、致命的に過ぎた。足元の伏兵に掃射を浴びせて大地に縫い付け、行動の自由を回復したときには、眼前に有形の死が迫っていた。

「――……っ!」

 正面から迫るのは、髪で編まれた巨大な拳だった。右手に握った"スコーピオン"の弾倉に残った十数発の弾丸を浴びせ、脇腹のホルスターからイングラムM11を抜くと同時に全弾を叩き込むが、揺らぎもしない。

 拳銃弾では、ストッピング・パワーが足りないことは明白だった。まして、弾倉を交換する余裕などは最早ない。ならば、是非もなかった。無害な金属の箱と化した二丁のマシン・ピストルを投げ捨てて、羽織ったコートの内側に吊った奥の手――銃身と木の銃床を短く切り詰めたポンプ式ショットガン、イサカM37"フェザーライト"――を、引き抜いた。

「これでっ!」

 保持部を兼ねた次弾装填用の先台に添えた左手で銃口をハネ上げ、引き金を絞る。爆風のような銀の驟雨を浴びた黒い拳骨は、しかし、それでも止まらなかった。

 舌打ちの音が、銃声に痺れた聴覚に遠く響いた。引き金を握る指の力はそのままに、左手を立て続けに前後へと動かす。その度に空の薬莢が銃身の下方に吐き出され、新たな銀の暴風が生み出される。都合、五回の銃声が響いたあと、眼前に迫っていた脅威は跡形もなく、ただ美容院の床もかくやという量の千切れた髪が、濡れた草と土とを覆っていた。

 それは、小さな勝利といえたかもしれない。もっとも、ただ、死を幾らか先延ばしにするだけのことでしかなかったのだろう。

 視界を遮ったのは、空間を覆うほどの髪の針――駄目だ、避けようがない。回転数の上がった頭脳でなくても、それは直感的に理解出来た。そして、こちらは既に手詰まりだった。全ての銃器は、弾倉が空になっているか、私の手の届かないところにある。どのみち、火炎放射器でも持ち出さねば、あれを迎撃することは不可能だった。羽虫の群れを撃ち殺すようには、銃器は作られていないのだった。

「……ああ、うん。これは、ちょっとね」

 ひとつ、呟いて。死ぬ瞬間を僅かに先送りしてくれた恩人(イサカ)を、地面へと投げ捨てた。手に持っていたところで、悠長に一発づつ装弾する時間があるはずもなかった。全弾を撃ち尽くした時点で、それは単なる棍棒でしかなかった。人間相手ならそれでも多少の役には立つが、化け物相手には何の意味もない。

 微細な針の群れが、成す術もなくなった私を嘲弄するように、宙空で揺らめいている。痛いのだろうか。まあ、全身を穴だらけにされて痛くない道理はない。痛みを感じる間もない即死を望むには、どうにも、相手が悪かった。

「一応、気を付けたんだけどね」

 私を貫くべく動き始めた数千数万の髪針を眺めて、瞳を閉じた。


* * * * * * * * * *


「――それで、いつもの十二ゲージでいいのかな。ダブルオーバック? それか、スラッグ?」

「弾はまだあるわ。今回、憑かれた人間を祓わなきゃいけないの。なにか、適当に見繕ってくれない?」

 弾が銀製だろうと鉄製だろうと、生きた人間は銃で撃てば死ぬ。これまで相手にしてきたようなゾンビだの悪霊だのといった判り易い連中と違って、銀の弾丸で薙ぎ払うというわけにはいかないのだ。

「一応、聖水があるけど。珍しい、というか、初めてだよね。ユイには、まだ早いような気もするけど……」

「まあ、何事にも初めてはあるものでしょ」

「問題は二度目があるかだよ、ユイ」

 ばっさりと切り捨てられては、流石に憮然とする。とはいったって、襲ってくる化け物どもから逃げ回り、銀をバラ撒き吹き飛ばすよりは、安全だし経済的だ。第一、まだ早いにしてもなんにしても、既に仕事を請けてしまったのだから、仕方がない。

 そう応じると、リアは少しばかり呆れたような色を浮かべて、大きく溜息を吐いた。

「――判りやすい化け物じゃないからって、甘く考えてると怪我をするよ。人間の意思を奪うほどになったモノは、相応の力を持つんだから」

 いつになく真剣なリアの声に、思わず視線を据え直す。杖で中空にくるくると円を描きながら、珍しく、ひどく難しい顔を浮かべていた。

「力を持った品物というのは、大概、厄介事を引き起こすんだ。天然物と違って、人の手が加わっている分、人間への干渉力は高くなるからね」

「ええと……付喪神みたいな?」

「あれはまた、ちょっと違うんだけど。ほら、持ち主を支配する妖刀魔剣なんかが、いい例かな。ロールプレイング・ゲームでいう、呪われた装備ってところ。でろりろでろりろりんりん、ってね?」

 リアの口ずさんだリズムは、ある年代以下の日本人ならば、誰もが一度は耳にしたことのあるものだった。それは、私も例外ではなかった。狂気に囚われて仲間を傷付けたり、幸運から完全に見放されたり、休む間もないほど頻繁に魔物を引き寄せたり――いや、全く。

「……もしかしたら、教会に連れていけば解決するかしら?」

「軽い霊障なら、普通の宗教施設での祈祷だの御祓いだのも効果はあるけどね。人間の意識を支配するくらいのモノが相手となると、やっぱり、専門の悪魔祓い(エクソシスト)とかの出番になるわけでさ」

 実に判り易い、単純かつ明快な説明だった。つまりは、現実はゲームのように気楽なものではないということだった。こんな世界に憧れる少年少女達は、将来、ロクなことにならないだろう。私のように。

「ま、どのみちユイには無理だよ。どうせ、信心なんて欠片もないでしょ?」

 確信に満ちたリアの断定に、私は反論の術を持たなかった。一応、実家は真言宗だったような気がするが、私は仏壇に線香を上げたことすらないので、同じことだ。法要など、親戚が集まって飲み食いする口実でしかないと思っている。答えの代わりに、肩を竦めてやった。

「……結局、力技ってことね」

「そう。だけど、その力技にも問題がある。動物霊だの人間の霊だのと違って、非生物の憑き物はとても厄介だし、危険なんだ」

 元が生物かどうかで、何か違いがあるのだろうか。顔に疑問が出ていたようで、リアは小さく頷いた。これは、説明をしてくれるという仕草だ。

「元が生物の憑き物と非生物の憑き物のもっとも大きな違いって、なんだか判る?」

 顎先に指を当て、考える。無機物と有機物の差だろうか。いや、非生物だって布だの木材だの、有機物はたくさんある。なんだろうか。判らないというより、続きを促す意味で、軽く肩を竦めてみせる。

「いまの設問そのものが答えだよ、ユイ。元々、生きていたかどうか。それが大きな違いなんだ」

 それは、当然だろう。だって、元が生物なら元々、生きていたに決まっている。生物でなければ、生きていなかったのは当たり前だ。だから、その答えを聞いても、よく判らなかった。解説を求めて、首を傾げる。

「ぶっちゃけ、どゆこと?」

「死を経験しているかどうか、と言い換えてもいいよ。元が生物の憑き物がなにかに憑く理由ってのはさ、また生きたいっていう、ただそれだけなんだ。また温かい血肉がほしいから、憑いて支配して、乗っ取ろうとする。ほとんど例外なく、そうなんだ」

 説明を受けても、しかし、容易には頷けなかった。だって、怨霊に取り殺された例なんて、たくさんある。例えば、そう。六条御息所だとか菅原道真。動物だったら、九尾の狐が化けた玉藻御前だとか。あれらは、人間を呪い殺しているはずだ。

「それはまた別の話だよ、ユイ。ああいう手合いは、対象を呪い殺すために憑く。でも、まあ、結果的には同じことかな」

 ますます、話が判らなくなっていく。お手上げだと、両の掌を広げて示す。小さく溜息を吐いて、リアは核心に入った。

「簡単だよ。生き返りたい霊は、せっかく支配しかけてる身体が大事だから、無茶なことはしない。憑いた相手を殺したい霊は、こっちが殺してくれるならそれでいいから、そう激しい抵抗はしない。でも、根本的に生命の概念がない非生物の憑き物は違う。あの手合いにとって、人間の身体なんてのは、ただの肉の塊に過ぎないからね。あいつら、人体の構造だとか耐久性だとかお構いなしに、無茶苦茶やるんだよ」

 下手をしたら、ミンチにしたって動きかねない――そこまで言われれば、流石の私にだって理解できる。

 要は、ゾンビの反対ということなのだろう。腕を斬ろうが腹を撃とうが堪えないゾンビを倒すもっとも簡単な方法は、頭を潰すことだ。首を刎ねるとか、折るとかでもいい。本来、死んでいるのだから、頭があろうがなかろうが同じことのはず。それでも、ゾンビはそれで倒せる。何故かといえば、頭を潰されて生きている生物はいないからだ。死者を動かしている存在も、同じ概念を抱いているからこそ、頭を潰されれば滅びるしかない。

 もし、そうでなければ、どうなるか。ゾンビはたとえ一体でも、非常に厄介な存在になるだろう。四肢を潰してダルマにすればひとまず無力化は出来るかもしれないが、どう滅ぼすのか。ミンチにしても動くというなら、潰しても駄目だ。屍肉のスライムなんてグロテスクにも程がある。灰になるまで燃やすくらいしか、思いつかない。

「祓えるうちならいいけど、その段階を過ぎるとさ。元が生物じゃないから、もう概念なんてほとんど効かない。殺すの祓うのの次元じゃなくて、完全に物理の世界になるんだよ。最悪、人間大の物体を消滅させるつもりでいく必要がある」

 だから、まだ早いって言ったの。長い説明を、リアはそう締め括った。確かに、未だ卵の殻が尻についたままの三流退魔屋には、まだ早いのかもしれなかった。だけど、リアはひとつ忘れていることがある。

「物理って、私の専門なのよね」

 そう。純粋な物理的破壊力だけでいえば、この国の同業者のなかでは私はトップクラスに位置する。当然だ。刀剣や杖、己の肉体やや精神力を武器に魔を祓う一流どころと違って、私の得物は銃火器だ。一マイルの距離から十二.七ミリ弾で人間の頭をスイカにすることも出来るし、二千度を超える高熱を発する焼夷手榴弾(テルミット)で骨まで灰にしてやることも出来る。

 だから、相応の装備を整えていけば、問題はないということだ。もちろん、行ってみて祓える段階だったのなら、それに越したことはない。

「止めても無駄かな」

「忠告には、感謝してるけど」

 幾らか婉曲な言い回しで、それを肯定した。どのみち、いまから仕事のキャンセルなんて、信用問題になる。リアの忠告はいつだって正しいが、それに従えないケースもあるのだった。せめて、最悪を想定して、充分に装備を整えて赴くくらいしか、忠告を生かす術はない。

「じゃあ、その聖水とやら、包んでくれる」

「はいはい……まいど、ありがと」

 品物を受け取り、白紙の小切手を宙に投げて、踵を返す。空中で静止した紙片に浮き上がるインクを、目の端に捉える。三百五十万。まあ、リアの提示なのだから、妥当な価格なのだろう。納得して、店を出ようとした。

「ああ――核となったモノを潰せば力を失うからさ、そういう手合いって。憑いてるモノが判るなら、狙ってみるといいよ」

 足を止めて、肩越しに振り返る。その言葉を、胸に留めておく。被害者はアンティークの収集家だと言っていたから、大方、そのあたりだろう。依頼人――被害者の父親に、被害者が最近購入した品物を調べておいてもらうべきかもしれない。

「あとは、完全に支配される前なら、モノ単体じゃ動けないから。憑かれた人間を殺しちゃうっていうのが、話が早いかな」

 自分の命はひとつしかないんだからね――そう結んで、リアはペットボトルの紅茶を一気に呷った。どこか、取って付けたような感のある仕草だった。私が初仕事に赴く前にも、こんなことがあった。つまりは、まあ、心配してくれているわけだ。助言そのものよりも、そちらのほうが有り難かった。もっとも、私もリアも、そんなことを口に出すような性質ではなかったが。

「ああ、そうだ。扉の柊、持っていっていいよ。サービスにしておくから」

「そう、ありがと。じゃあ、また来るわ」

「ん、またおいで」

 魔除けとして飾られている柊の葉をとって、ポケットに納める。店を出て、そういえばと疑問に思った。被害者の話をなにもしていないのに、どうしてリアは、非生物の憑き物という前提で話していたのだろうか。まあ、最悪を想定するのが、安全への近道ということなのだろう。自分の経験に照らし合わせても、それには何の異論もなかった。


* * * * * * * * * *


 季節外れの天城高原に広がる、別荘地の一角。編上靴の底が床を叩く硬質の音だけが、耳に届く全てだった。人気の失せた豪奢な屋敷には、濃厚な血の臭いが立ち込めている。鼻の奥が痺れたようになって、気を抜くと、意識が揺らぎそうになる。腰溜めに構えたベネリM4の重みを感じていなければ、怖ろしくて一歩たりとも踏み出せはしない。屋内でわざわざコートを羽織っているのは、高原の冷涼な大気ばかりが原因ではなかった。

 一つ一つの部屋を慎重に確かめて歩きながら、エントランス・ホールで目にした光景を、改めて思い返す。何人分であったかも判らぬ肉片と臓物が床と壁とを問わずに撒き散らされ、力任せに捻じ切られたと思しき四肢が散乱していた。屋敷から逃げようとした者たちが殺到し、そこで皆殺しの憂き目に遭ったことは明白だった。どう控え目に見積もっても、生身の人間に成せる業ではない。

 結局、リアの忠告のとおりになるようだった。聖水をふりかけてお終いなんて、そんなものは甘い夢に過ぎなかった。いつもどおりの荒事。たまには銃を撃たない仕事がしたい。

 狼狽を隠せぬ依頼人から、追加報酬の約束を取り付けたので、赤字にはならないだろうけれど。危険に見合った収入になるかといえば、微妙なラインだった。リアにあれだけ脅されたこともあり、フル装備を用意してきたことがせめてもの救いだったが、だからといって気が晴れるわけでもない。

 東京に帰る前に箱根に寄って、箱根で最高の旅館に泊まっていこう。霊山の湯で怪異の穢れを清めるのだとかなんだとか、適当に理由をつけて必要経費として請求してやる。そうでもしないと、気が済まない。

 大体、私は荒事専門といったところで、所詮は銃器に頼らねば戦えない三流の退魔屋でしかないのだ。銀の銃弾を撒き散らし、小火の始末に奔走する"シルバー・スプリンクラー"。この火事が、私の手に余るものでなければ良いのだが。

「……気をつけて、か。そんなこと言ったって、ねぇ……」

 自嘲気味に呟いて、溜息を吐く。リアは何かと気にかけてくれるが、どうにも、買い被られている感がないでもない。束の間、窓の外に広がる景色に目をやった。薄っすらと霧が出て、いかにもといった雰囲気だ。

 箱根と富士という、日本有数の霊地の影響を受けてのことだろうが、天城峠を中心とするこの一帯には心霊スポットが多い。瘴気に誘われて、新たな面倒の種が生じたとしても驚くに値しない。実際のところ、被害者の容体が急変したのも、その辺が影響している可能性が高そうだった。人目を憚る必要があったのは判るが、全く、不用意なことこの上ない。

 風が吹き、雲間から差し込む月明かりが、中庭に蹲る闇を照らし出したのはそのときだった。

「……うえ」

 最早、あれの命は諦める。依頼人――被害者の父親は、そう云っていた。成る程、それも然りと思わせるだけの光景が、そこには広がっていた。

 不自然に膨らんだ被害者の頭部を覆っている漆黒は、一見すれば髪のようにも思える。しかし、どれだけ楽観的な予測をしてみても、ただの髪だとは思えなかった。眼を凝らしてみれば、案の定だった。

 半ば実体化した怨念が、蠢く濡れ羽色の混沌と化して被害者の頭部を覆っている。幾多の歪んだ貌が現れては融け、呪詛を吐いて消てゆく。そんな状態で被害者の意識が残っているとは、まるで思えなかった。気付かれないように息を潜め、ゆるゆると窓際から後退する。

 あんな化け物と、正面切って遣り合うのは危険に過ぎる。被害者の生命を考慮する必要が既にない以上、可能なかぎり、反撃を受けない距離から打撃を与え、ロング・キルに徹するべきだった。

 頭に叩き込んでおいた屋敷の図面を呼び出し、思考を巡らせる。中庭へと射線が通り、尚且つ、ある程度の距離が取れる場所――二階の一番端、客間のバルコニーから狙えるはずだ。

 音を立てずに、しかし可能な限りの速さで、その部屋に向かう。あまりのんびりとしている暇はない。森にでも入られたら探すのが骨だし、銃火器の優位が生かし難い。下手をすれば、関東中の同業者を動員しての山狩りになる。まあ、ここで私が死んでもそれは同じことだが。

「……縁起でもないわね」

 自分で思い浮かべた可能性に、首を振って。目的の部屋に入って、バルコニーに出る。湿り気を帯びた夜の冷気が、心地よい。もっとも、その新鮮な空気を楽しんでいる場合ではない。

 背負っていた狙撃銃をそっと下ろして、二脚を立てる。十キロ以上の重量から解放されて、一気に肩が軽くなる。バーレットM95。十二.七ミリ弾を用いるアンチ・マテリアルライフルのなかでは、もっとも携行性の高い部類の銃だ。同シリーズのM99ならばより軽量小型化されているのだが、単発では心許ない。その点、こちらは装弾数が五発ある。一発当てれば終わる人間相手の狙撃ならともかく、化け物相手ではそうとは限らない。多少の携行性の差よりは、装弾数が重要になってくる。

「さて……と」

 バルコニーに伏せて、スコープを覗く。あれの本体、つまり、リアのいうところの核は、あの分ならばほぼ間違いなく頭部付近にある。大方、なにかの装身具が呪われていたに違いない。

 確か、『装身具は概して魔力や思念の類を受け易いものだし、それを飾る宝石の類は余計にそう。呪いのダイヤ、"ホープ・ブルー"の話くらいはユイでも知ってるでしょ?』だったか。以前に、そんなことをリアが云っていた。

 問題は、具体的になにを狙えば良いのかが、てんで判らないことだった。そもそも、女性ならばイヤリングや髪飾りなど色々とあるだろうが、男性が頭部に飾る装身具とはなんだろうか。

 依頼人の話では、被害者は顕示欲が強く、そういった曰く付きの品だの豪奢の装飾品だのを手に入れれば、それをひけらかさずにはいられない性分だという。買い集めたアンティークが原因だとすると、依頼人にその心当たりがないというのは、些か不自然だった。ともすると、原因は別のところにあるのかもしれない。だとすれば、私にはそれを特定する術がない。自然、選べる手段は唯一つに限られてしまう。

「やっぱり、頭ごとフッ飛ばすしかないか」

 そうしてしまっても、契約違反にはならない。むしろ、その方が安全なことは間違いないだろう。力が及ぶのならば助けたいが、人間の能力には限界というものがあるのだ。リア曰く、自分の命はひとつだ。全くそのとおり。必要以上の危険を冒すつもりはなかった。

 レティクルの中心に、黒い塊を捉える。流動するように蠢く混沌のせいで、頭部の中心がどこか、いまひとつ判り難い。が、大した問題にはならないはずだった。十二.七ミリ弾の絶大な威力は、人間の頭など掠っただけで柘榴のように粉砕する。人間相手なら、よく動く狙いにくい頭部などでなく、胴体に当てるだけで十二分に致命傷になるほどだ。

 それに、装填しているのは、Mk211徹甲炸裂焼夷弾――装甲を貫き、焼夷効果をもたらし、そして炸裂する。極めて殺傷力の高い――というより、本来は生物相手に使用するものではない弾丸である。仕留め損ねるはずがない。

「――……、……、……」

 もっとも、結局、狙ったのは頭部だった。一撃で仕留めることを重視したからだ。手負いの獣という言葉があるように、下手に傷付けると、怨念が増して力を増すケースがある。それに、理由はもうひとつある。百メートルもない近距離で外すほど、私の射撃の腕は悪くはない。

 すぅ――すっ。すぅ――すっ。深く長い呼吸を繰り返し、そして、止める。引き金にかけた指以外の力を抜いて、余分な空気を肺から抜く。ほとんど無意識に引き金が絞られ、マズルブレーキに抑制されて尚、大きい衝撃が走る。しっとりとした夜気を裂いて、轟音が響いたのはそのあとだ。

「……やった、かな――?」

 スコープを、再び覗き込んで。私は、自分の甘さを恥じ入った。黒く蠢く盾。その中央がごっそりと欠けてはいたが、本体が無傷なのは明白だった。そして、こちらの位置と意図が捉まれたことは確かだった。

「――……ッ!!」

 ボルトを引いて次弾を装填し、照準もそこそこに引き金を絞る。ドウ、ドウ、ドウッ――立て続けに響く発射音は、しかし、屋敷に近い木々で眠っていた小鳥たちを騒がせる効果しか生まなかった。合計して五発の、十二.七ミリ徹甲炸裂焼夷弾。上手くすれば戦闘ヘリや軽装甲車両(AFV)をも潰せるだけの火力を、あの化け物は防ぎ切ったのだ。

 となれば、することは決まっている。居場所の知れた狙撃手など、何の価値もない。伏せた状態から腕力だけで跳ね起きて、両足がバルコニーに着いた瞬間に思い切り蹴り出し、全力で夜空に向けて跳ぶ。

 その選択が正解であったことは、直ぐに知れた。後にしたバルコニーで、爆音のようなものが響いた。黒く蠢く塊が、それを粉砕したのだった。地面が迫り、軟らかい土と膝のクッションで、衝撃を殺す。

「安全装置――解除ッ!!」

 半瞬だけ目を閉じ、戦いの開始を告げる自らへの暗示を叫ぶ。長く延び切った怪腕が戻る前に、距離を詰めるしかない。本能で、そう判断していた。

 意識の奥底にあるスイッチを切り替え、普段は無意識のうちにセーブされている人体の潜在能力を解放するための――リア曰くの、『火事場の馬鹿力モードに突入するための』ものだ。

 無論、相応の反動はあるし、度が過ぎれば自らの肉体が耐え切れずに壊れることにもなりかねない諸刃の剣だ。であっても、私のような、本来こちら側にいるべきでない普通の人間が化け物共と戦うためには、ちょっとしたドーピングが必要なのだ。

 感覚が冷たく研ぎ澄まされ、世界がスローになっていく。心臓の鼓動が増し、全身の筋肉に酸素を満たしていく。その瞬間に備えて、肉体の全てが回転数を上げていく。

 小さな金属音が、鼓膜の内側から響くのと同時。蹴り足の衝撃で、軟らかい土が吹き飛んだ。背後でばらばらと、バルコニーの残骸が崩れ落ちる。

 夜気を勢いよく引き裂いて、弾丸のように駆ける。ともかく、相手に余裕を与えるべきではない。それに、焼夷効果でダメージを与えているとはいえ、私の駆け足より黒い触手が戻る速度の方が勝っている。駆けながら、愛銃のベネリM4を構えて、撃ち放つ。

「邪魔……しないでよッ!」

 銃口を上向けて放った散弾が、こちらに狙いを定めかけた黒塊を弾き飛ばす。続けて放った次弾に、姿勢を整えた混沌が四散する。二発目に込めていたのは散弾ではなく、強力なスラッグ弾だった。

 人体の安全装置を解除した肉体は、合計すれば十数キロになる装備を抱えていてなお、百メートルを九秒台で駆け抜ける。道さえ拓けるならば、接近は容易だった。

 だが、敵もさるもの。黒い混沌は既に、こちらの進路を塞ぎ射撃を防ぐように壁を築きはじめていた。ベネリを向け、引き金を絞る。が――貫通力の弱い散弾では、貫けない。ならばと、吊っていた銃器のひとつを抜き放つ。

「――防げるものなら!」

 大型の自動拳銃を、更に一回り大きくしたようなシルエット。ヘッケラー・アンド・コッホ社のHK69――軽量小型の単発グレネードランチャーだ。装填しているのは、焼夷剤に硫黄を混ぜ込んだ焼夷榴弾。退廃の都ソドムを滅ぼしたのは火と硫黄であったし、かの大英雄オデュッセウスは、誅殺した咎人どもの血で汚れた屋敷を、硫黄を燃やして清めたとされている。

 闇を裂く眩い光と硫黄の独特の臭い。黒い壁が、瞬く間に火炎に包まれる。髪の毛の焼けるあの臭いが、薄っすらと夜気に混じった。ランチャーを投げ捨て、更に身軽となって、突撃を続行する。相手の矛と盾を削っても、その本体を叩かなければなんの意味もないのだ。

「そんな大降りで……!!」

 炎に包まれる黒い触手が、何本も荒れ狂う。真正面から振り下ろされる、電信柱が倒れてくるような圧力を持つ一撃。散弾を叩き込んで軌道を逸らし、横っ飛びに避ける。弾けた泥と土と小石がコートを汚していくが、そんなものを気にしている暇はない。横薙ぎの黒い鞭が、火の粉を散らしながら屈めた頭上十センチの空間を薙ぎ払っていく。

 だが、この程度なら対処できる範囲の攻撃だ。かなりの部分を焼いたためか、手数も威力もそこまでの危険を感じるほどではない。いけると判断して、そのまま、間合いへと踏み込んでいく。

「づッ……!」

 槍のように突き出される黒髪を、捻って避ける。掠めた頬から血が迸るが、どうということはない。避けにくい点の攻撃に身体の数箇所を削られるが、足が止まるほどのダメージは受けていない。十五、いや、十メートル――よろしい、充分だ。

 お返しとばかりに抜いたのは、ファブリック・ナショナルP90。軽量だが貫通力の高い特殊な弾丸を、五十発も装填する短機関銃。この至近距離でバラ撒けば、それで終わる。そのはずだと、思っていた。

「……やった――?」

 私は同じ過ちを犯した。やったと思ったときは、やれていないと思え。つまるところ、最後まで油断するなという基本中の基本を、またも忘れていた。

 視界を遮ったのは、またも、黒い壁だった。反撃がなかったのは、すべてを防御に投じたから。薄い白煙をあげながら、その髪壁はすべての弾丸を受け止めていた。

「ッ!!」

 コートをハネ上げ、その内側に吊った奥の手を抜き放つ。銃身と木の銃床を短く切り詰めたポンプ式ショットガン、イサカM37"フェザーライト"。暴風のような銀の驟雨が、混沌の防壁を打ち崩していく。だが、焔を吐き出す銃口も、五発の弾丸を撃ち終えれば、沈黙するしかない。

 ぼろぼろになった、しかしまだ健在の防壁。それが解けて、広がり、私の周囲を覆っていくさまを、ただ荒い息を吐きながら眺めることしか出来なかった。化け物の頭部で蠢く黒を睨み付けて、口中で畜生と吐き捨てた。直ぐには殺さずに、私の絶望を楽しんでいる。そう気付いたからだ。

 もちろん、下手な動きをすれば、途端に串刺しだろう。微細な針の群れが、成す術もなくなった私を嘲弄するように、宙空で揺らめいている。奴を喜ばせるだけだと判ってはいても、痛いのだろうかと想像してしまう。まあ、全身を穴だらけにされて痛くない道理はない。痛みを感じる間もない即死を望むには、どうにも、相手が悪かった。

「……生憎だけど、玩具にされるくらいなら、自分でカタを付けるわよ」

 腰の拳銃に、手を伸ばす。それを合図に、黒い針の大群が、私に殺到した。小さく溜息を吐いて、瞳を閉じた。

 ――しかし、私は死んだことにも気づかぬほど鈍感だっただろうか。いつまで経っても訪れぬ痛みを訝しんでみて、ある事実に気付いた。首筋には未だ、高原の冷たい風を感じられた。まだ、終わりが訪れていないのだった。

「……?」

 恐る恐る目蓋を開く。そこはやはり、天上の楽園ではなかった。ステュクスだの三途だのといった、様々な名を持つ川の畔に立っているわけでもなかった。まして、温厚篤実にして品行方正の私が、閻魔大王の前に引き出されているわけがなかった。

 もっとも、信じ難い光景が広がっていたことには違いなかった。半径一メートルほどの淡い光の球体が、私の周囲を覆っていた。私を冥府に送らんとして殺到した使者たちは、そのヴェールを突破出来ないのだった。

 奇妙な温かさを感じて、コートの内ポケットへと手をやった。鋭い痛みが、指先に走った。反射的にポケットから手を引き抜くと共に、そこに収めていたものが何であったかを、私は思い出していた。魔除けの力を宿すという、硬質の葉。それが、私を護ってくれたのだろう。そうに違いなかった。

「――……やれやれ。世話になりっ放しね、全く」

 人差し指の先に生まれた紅い滴を、舌先で拭い取る。微かな塩と鉄の味が、生への執着を呼び覚ましていた。いずれにせよ、他人の厚意で拾った命を無駄にする気はなかった。

 数千数万の針として分散した髪は、光のヴェールに先端を捻じ込み、貫通しようとしている。私を包む光のヴェールには罅割れが生じていたが、不安はなかった。なにかを仕留めようとしている、その瞬間こそ、もっとも隙が生まれる瞬間だからだ。光に先端を捻じ込んでいる針は、直ぐには戻れまい。

「悪いわね。また店に行くって、約束してるのよ」

 最後に抜いたのは、スミス・アンド・ウェッソンM29。灰色熊をも一撃で仕留められる.44マグナム弾を用いる拳銃だ。もちろん、装填している弾丸は、聖別された銀の弾頭である。生きているといないとを問わず、これを浴びて平気な存在というのは、そうはいない。

 そして、これを叩き込んでやるとき口にするべき台詞は、一九七一年にハリー・キャラハン刑事が生まれてからこっち、ずっと決まっている。

「――この銃は、世界一強力な.44マグナムよ。あんたの頭なんか、綺麗さっぱり吹き飛ばせる」

 心地良い轟音が、すべてを解決した。団結すれば助かるが、分裂すれば倒れる。それは化け物にとっても同じだった。微細な髪針では、マグナム弾を防げなかった。赤と灰と黒の混合物が、弾けて飛んだ。


* * * * * * * * * *


 ――被害者の精神を支配し、肉体を操っていたモノの残骸にマッチの火を放つ。それは、装飾品などではなかった。見る間に煙が燻り始め、黒い髪束の上で炎の舌が踊り出す。鬘。それが、被害者を操っていたのだった。炎がすべての元凶を嘗めはじめるのを認めて、朝露で濡れた草の上にとへたり込んだ。精根尽き果てた、というのはこのことだ。

 何しろ、どうにかこうにか命を拾うほどの戦闘を終えたあとで、他に面倒の種がないか調べ、あちこちに投げ捨てた銃器を回収し、薬莢を拾い集め、被害者をはじめとする死者の遺体を屋敷の一室に運び集めるといった最低限の事後処理を済ませたのだ。むしろ、腰を下ろす誘惑にここまで耐え続けた自分を褒めてやるべきだった。

 焼ける人毛の独特な臭いを鼻孔に感じながら、静かに目を細める。冬の穏やかな朝陽とはいえ、極度の緊張を強いられ続けた徹夜明けの瞳には、何の屈託もない陽光は些か眩し過ぎた。

 心地の良い眠気の波が、緊張の糸が切れた肉体を包んでいった。それに抗うだけの体力と気力は、何処にもなかった。泥のような眠りの海へと精神を沈めるには、僅かの努力も必要としなかった。

 それから数時間。日向の惰眠を貪った者に宿命づけられる、あの抗えぬ渇きに堪えかねて、私は漸く眠りから覚めた。全身を覆う渇きさえなければ、日没まで眠りこけていたかもしれなかった。

「――……んー……?」

 中天に昇った太陽が、世界に穏やかな熱と明かりを注いでいた。寝ぼけ眼を擦って確かめてみれば、時計の針は午後の一時を指していた。

 ふやけ切った頭で暗算する。おおよそ五時間は眠りこけていた勘定になるだろうか。うたた寝というには、なんとも長過ぎる。いい加減、起きて帰路につく必要があった。こんな場所に長居をしても、得はなかった。

「いっ!?」

 身体を起こそうと僅かに身動ぎしただけで、全身に電流が走った。一言で表現するなら、それは筋肉痛だった。ただし、極めて重度の。自らへの暗示で、限界まで肉体を酷使した代償だった。妙な態勢のまま眠っていたことが、追い討ちになったようだった。傷の痛みもないではなかったが、比較にはならなかった。

 出来損ないのゴーレムか、それとも錆びついた自動人形(オートマタ)か。半泣きになりながら立ち上がるあいだ、奇妙な声が漏れるのを抑えることは出来なかった。周囲に人の耳などあるはずもなかったから、その必要もなかったのだが。

 軋む身体に鞭を打って、私はどうにか愛車の元へと辿り着いた。それは恐らく、アムンセンの南極点到達にも匹敵する偉業だったのではあるまいか。少なくとも、私にはそう思われた。あと十メートル距離があったなら、ロバート・スコットになっていたところだった。

 ドアを開け放って、そのまま運転席のシートへとうつ伏せに倒れ込む。なにしろ、車に乗り込むために脚を上げることすら辛い状態だったのだ。後ろから見れば、さぞ間抜けな光景だっただろう。殆ど攀じ登るような形でどうにか運転席へと身体を収めたのは、数分後のことだった。


* * * * * * * * * *


 箱根のとある旅館の一室。漸く安全な場所に腰を降ろして気が緩んだのか、余計に疲労感が増したようだった。待望の温泉に入る気力すら、直ぐには起きなかった。

 血と泥で薄汚れた私の様相に驚いた出迎えの従業員に、観光中に足を滑らせたのだと笑って誤魔化したとき、ここの湯は切り傷と打ち身に効くのだと勧めてくれはしたのだが。

 入浴というのも、あれはあれで体力を使うのだ。一息吐いてからでないと、温泉に沈んだまま浮いてこれなくなる可能性があった

「あぁ……どうしてやろう、リアのやつ」

 現地を出てからというもの、口をつくのは愚痴と恨み事ばかりだった。リアのお陰で命拾いをしたのは確かだったが、素直に感謝する気にはなれなかった。あれこれと調べたところ、残されていた被害者の日記から事の次第が判明したのだが、元凶となった鬘の販売元は、なんとリアの店だったのだ。

 髪の毛が伸びる鬘。それは、その手の人種には理想のアイテムなのかもしれなかったが、呪われてまで求めるものでもないだろう。ほかに在庫があるならすべて処分しろと、きつくリアを電話越しに絞っておいた。東京に戻ったら、全く、どうしてやろうか。

 ――まあ、いつまでも溜息を吐いていても、仕方がない。第一、小汚い格好のままでは落ち着こうにも落ち着けない。取り敢えずは温泉に浸かって、汚れと一緒に不健康な考えを洗い流してしまうべきだった。

 結論からいえば、温泉は傷によく沁みた。平日でまだ時間も早く、他の客がいなかったのが幸いだっただろう。奇声を洩らしながらお湯のなかで悶える綺麗なお姉さんの姿は、お母さんと一緒に女湯を訪れた幼い少年の心に特殊な嗜好を植え付けないとも限らない。というより、お母さんの冷たい視線に私が耐え切れない。早々に温泉から引き上げた理由は、そんなところだった。

「ま、取り敢えずコーヒー牛乳よね」

 普段の入浴後ならばビール以外の選択肢なぞ存在しないが、温泉となれば話が別である。潤いを帯びた黒髪と、僅かに着崩した浴衣の胸元から覗くほんのりと上気した肌。世の男性諸氏が喜ぶこと請け合いの絵だが、缶ビールを豪快に呷っていては色気の欠片もあったものではない。伝統と形式(トラディショナル)が大事、そういうことだ。

 だが、この旅館はそういった伝統に対する敬意に些か欠けているようだった。コーヒー牛乳は、補充直後で冷却中。普通の牛乳も右に同じ。人気のないフルーツ牛乳だけが冷え切っているが、あれは邪教徒が飲むものだ。清く正しい日本人が湯上りに飲むものではない。

 紙パックのコーヒー牛乳ならば自動販売機に並んでいるが、それでは駄目だ。コーヒー牛乳を飲むならば、瓶でなければ意味がない。紙パックのコーヒー牛乳には、コーヒー牛乳としての本質的な何かが欠けていると断じざるを得ない。

 さて、それではどうしたものか。自動販売機のラインナップに視線を動かしていくなかで、ふと、それに気がついた。壁に掛かった時計に目をやってみれば、午後の三時を回ったところだった。

 ――まあ、それもいいかもしれない。私の好みではないが、疲れた時には甘いものと相場が決まっている。がたん。人気のない脱衣所の休憩室に、金属音が響いた。

 冷たく、歯に沁みるほどに甘いミルク・ティーが喉を潤す。優雅なアフタヌーン・ティーには程遠いが、悪くはない。一気に流し込んでしまうと、自然に笑みが浮かんできた。

 さて、正しく午後に飲んでやったことで、少しは時間の歪みが戻っただろうか。細身の缶をゴミ箱に放って、小さく鼻を鳴らす。ちょっとばかりの、リアへの意趣返しだ――。

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