第1章-1
まだ肌寒い2月、石原めぐは故郷の駅にて東京行き列車を待っていた。大学教授で堅物の父は彼女の上京に猛反対し、一人娘にもかかわらず見送りにも来ない。母親もまたしかりだ。本来なら父の意志を尊重し、合格した東京大学教育学科に入学すべく華々しく上京するのだが、彼女はそれを蹴ってミュージシャンの道を選び、肩には愛器と夢を背負ってホームに立っていた。大学に通いながらミュージシャンを目指すというのが一番の選択肢だったが彼女は妥協を許さなかった。両親からしてみれば、それはとんでもないことで許されるはずが無かったのだ。
彼女がミュージシャンを志すきっかけとなったのがプロミュージシャンの松原正樹氏の薦めであった。めぐは高校に入学してから好きになった男性がギターをやっていたことから、彼と同じ趣味を共有すべくギターを始めたのだが、意中の男性にギターを教えてもらうはずが異常なスピードで上達し、またたくまに誰よりもうまくなってしまった。結局のところ彼の嫉妬心を買ってフラれてしまったのだが、彼女はその後もロックからジャズフュージョンへとジャンルを広めメキメキと上達していった。そして地元にて松原正樹氏がギタークリニックを開催し、それにめぐが参加した。松原氏は彼女の驚異的なテクニックに圧倒され、彼女の可能性を見出してプロミュージシャンの道を勧めたのであった。彼女がプロミュージシャンを決意するにあたって、松原氏は2つの選択を彼女に出した。どちらも彼がバックアップすることに変わりがないのであるが、1つはギターアイドルとしてレディーズバンドかソロで人気をとること。彼女は容姿端麗だった為、これが一番彼女にとって開けていると思われた道であった。もう1つは松原氏と同じくスタジオミュージシャンとして活動していくこと。この場合は男女関係無く、出した音のみが評価されるので彼女にとっては非常に厳しい道となるのだが彼女はこの後者を選択した。松原氏は彼女が前者を選択したら知人のアイドルプロモーターに預けて放っておこうと思ったのだが、彼女がイバラの道となるであろう実力主義の方を選択したので、彼女が食べていけるくらいはフォローしてやろうと考えていた。
やがて列車が到着し、めぐは移り行く外の景色を眺めながら、ミュージシャンとしてやっていけるかといった不安は微塵も無く、田舎である故郷から一歩も出なかった自分が都会に対応出来るかどうかということを心配していた。「内向的で人見知りの激しい私が都会で暮らしていけるのだろうか?同じ年頃の若者と比べて浮いていたらどうしよう」といった他愛も無いことが不安の種だったのだから彼女には相当な自信があったのかも知れない。東京に着き、彼女は真っ先に松原氏の事務所を尋ね、彼に用意してもらった家賃4万円の安アパートに案内してもらった。まずココの家賃をギャランティーで捻出しなければならない。彼女はこれまで貯めた決して多くは無い貯金で寝具と生活用品を買い揃え、これで最低限の生活が出来ることとなった。元々彼女はテレビを観ない方だったため、電化製品は照明以外は何一つ無かった。とりあえずその夜は松原氏に中華料理をご馳走してもらい、ありがたいことに明日CM録音の仕事を用意までしてもらっていた。