第9話:砦の魔術師 -4-
「む? 今、何か聞こえませんでしたかな?」
不意にアベルが言った。
きょろきょろしている。
「いや、別に。何も」
ロハスが答える。オウルも正直、またか、と思った。
アベルのこの手の言説には、もうウンザリしている。
それでも、何となく違和感に気付いた。今までとは何かが違うような。
そう思って、そして。
アベルが、後ろではなく。前方を見つめていることに、気付いた。
「オウル。アベルの縄を解け」
ティンラッドが低く言った。
「船長、けどよ」
「解きなさい」
もう一度ティンラッドは言った。
「魔物の気配だ。近付いている」
オウルは舌打ちした。
ティンラッドに言われてから気付くのは、魔術師として情けないが。
研ぎ澄まされた戦士としてのカンが、敵の気配を察知するのか。確かに複数の魔力の気配が、自分たちの方に近付いてくる。
それにしても。
誰よりも早くそれに気付くのが、なぜコイツなのか。
アベルに出会ってからの、短い時間の中で。どれだけ脳内に疑問符を連ねてきたかを考えると、アホらしくなってくるのだが。
やっぱり、何か納得いかない。
「いやあ、やっぱり自由って良いものですなあ」
アベルは快活に言って、しきりに手足を動かしている。
そんなこととは無関係に。ティンラッドは皓月を構え、前方を見据え。オウルは月桂樹の杖を、ロハスはヒノキの棒を構え、戦闘に備えた。
もっとも、オウルは決心していた。
魔物が現れたら、アベルが逃げ出すより先に。魔術でこの場に足止めしてやる、と。
うなり声と、乱れる複数の足音。
次の瞬間。砦の廊下の角を曲がって、いくつかの影が躍り出た。
「草原オオカミ?」
ロハスが呟く。
「いや。違う」
ティンラッドが低くつぶやいた。
目の前に、三匹。牙をむき出し、獰猛なうなり声を上げている魔物は。
オオカミに似ているが、それよりも小柄で、より人に親しい輪郭を持つ。
「犬……?」
オウルは目を疑った。
この十年。犬や猫、牛や馬といった人間に親しい動物が魔物化したという話は聞かない。
野生のオオカミや猪は別だ。それらから変化したらしい魔物はそこらじゅうにいて、人間を襲ってくる。だが、人が飼う生き物、人の住む領域で暮らす生き物は別だ。
それが、何もかもが変わってしまったこの十年間の、わずかな救いであったのに。
今、目の前にいるモノは確かに。「魔犬」としか形容が出来ない。
そのことに、一瞬気を飲まれた。
誰もが動きを止めた。たった一人をのぞいて。
「おや。これは、何でしょう?」
その人物。
もちろん、アベルであったが。
彼は現れた魔物には気付かぬ様子で、壁に突き出た煉瓦のでっぱりをしきりに見ていた。
「気になりますな。こういう、いい加減さが私は我慢がならないのですよ、几帳面ですのでね。おや。何だか動くようですよ。押し込んでみましょう。直せるかどうか」
オウルが止める暇もなく。
アベルはそれを、ためらうこともなく奥に押し込んだ。
瞬間。目の前が真っ暗になった。
いや。アベルが触ったでっぱりが、押し込まれた瞬間。
堅牢な石壁と見えたものの一部が切り取られ、彼らの方に向けて回転した。
それは四人と魔犬たちとの間を隔てる形で。
目の前に迫ってきた。
そして迫ってくる巨大な重量に抵抗する暇もなく。彼らは切り取られた壁の、後ろにあった空間に押し込まれ。
同時に音を立てて壁の動きは止まり、四人は暗闇の中に取り残された。
壁の向こうでは。
魔犬が吠える声や、がりがりと壁をひっかく音が、いつまでも聞こえていた。