第7話:森の怪異 -9-
ティンラッドは走る。
同じく移動しながら襲い掛かってくる魔物の気配を読み、風の音を聞く。
長く鋭い爪の先が、服を裂き、ティンラッドの皮膚と肉をえぐる。
相手の力は、オウルの術で底上げされた今の彼のそれと同等だ。しかし、敵の速度は倍以上である。
前足を振りかぶっての一撃も、速度と体重を乗せられれば威力が倍増する。
ステイタスの数字は目安でしかない。
まともに受ければ骨まで砕くだろう牙や顎の力も、ステイタスには反映されない。
その中で、相手の攻撃を見切って戦うのが戦士の技量である。
風を切る一撃を、気配だけでのけぞって避ける。
大ぶりの隙をついて踏み込み、刀を突き入れる。
彼が「新月」「皓月」の二本の刀を差しているのは、予備という意味合いもあるが。
その微妙な形状の違いから、皓月は薙ぎ払う攻撃に。新月は突きに、より威力を発する。
魔力のとおりにも微妙に違いがあり、彼の奥義の効果もそれにより変動する。
だから彼は、相手を見て二本の刀を使い分ける。
もっともそれはただ、気分であることも多くあるのだが。
今日は新月の「気分」だった。
だから彼は、黒い刀身をかざして走る。
相手は、魔物といってもただの獣だ。
先日の、氷の巨人のようなものとは違う。
だが、獣というのは結構莫迦にできない相手だ。
大型の肉食獣であれば、そもそもの身体能力が人間よりも優れている。
それが、魔力で底上げされた上、より攻撃に適した体に変化しているのだ。
油断すれば、やられる。
だが、それだからこそ。
戦いは面白い。
飛びかかってくる爪を刃でそらし。
牙をかざす口に、刀を突きこむ。
相手もこちらの攻撃を避ける。
そうやって。舞のように。
いつまでも打ち合っていられそうな錯覚が頭をよぎる。
体中の神経が昂り、笑い出したくなる。
その視界の端に。
おかしなものが見えた。
魔物と撃ち合いざま、体の位置を入れ替え、それがハッキリ見えるような場所に移動する。
彼の仲間たちが、道の両側に生えている木に登り。その間に、何かを張り渡していた。
森の中の小道には不似合いなもの。
だが、ティンラッドには馴染んだもの。
「船長!」
オウルが叫んだ。
こっちに来い、と言うように手招きをする。
それで、ティンラッドは完全にオウルの意図を察した。
要するに。彼は魔物の足を止めようというのだ。
足さえ止めれば、ティンラッドの方に分がある。それを読んでいる。
ティンラッドは魔物を挑発するように、相手の顔に向けて攻撃を繰り出した。
目を狙われて、魔物はのけぞる。
怒りに燃えた口が大きく開く。
ティンラッドは笑った。
大きく飛び退く。
そのまま、走った。
獲物を捕らえるためではなく。
魔物に背を向けて、逃げた。
駆け比べなら。
相手に分がある。そんなことは分かっている。
だから、これは下策。
後ろに迫る相手の牙と爪を避け、刀でかわしながら。
命がけで逃げる。
正面を向いて戦うより、何倍も危険な状況に身を置いてなお、彼は笑う。
簡単に倒せそうな獲物が抵抗を続けることで、魔物の怒りは激しくなった。
逃げるティンラッドを何とか引き裂こうと、執拗に攻撃を続ける。
ティンラッドはそれを、紙一重で避け続ける。
背中が裂け、血が飛んだ。
そうして。
全力で走れば十数えるうちにたどり着くだろう距離は、果てしなく遠く思えた。
それでも。
ティンラッドは走り、そして。
再び、正面から魔物に向かい合った。
新月を構える。
全身の魔力を燃え立たせ、黒い刀身に集める。
「魔突……」
刀を突きの形に構える。
一瞬早く魔物が大きく跳ね上がり、ティンラッドめがけて飛びかかった。