第42話 えんじ色の小箱 -7-
「どうしよう。オレ、怖くなってきた」
ロハスが怯えた視線を小箱に向ける。当然の反応であろう。
ガイルンという男の運命もあやしいものだとオウルは思った。『心配そうな顔でアベルの消息を聞いて回っていた』というガイルンは、夜逃げ同然に門前町から姿を消したのだとマドラは言っていた。
ロハスとハールーンに小箱を渡した男も『ようやく太陽の下を堂々と歩ける』と言っていたという。
関係のない人間を介してアベルに小箱を返す算段をし、自分も姿をくらますことでガイルンは身を守ろうとしたのだろう。
だが大神殿の追っ手はそれを許したのだろうか。アベル並みの幸運値の高さを発揮しなければ、それは叶わぬことだったのではないだろうか。
ガイルンが今も生きている可能性は低いのかもしれない。そう思うとオウルは腹が冷たくなる気分を味わう。
もしかしたら『大神殿から無実の罪で罪人として世界中に手配された』という現状は、ずいぶんマシなほうなのかもしれない。アベルという、周囲に悪運をまき散らす妖怪に関わったにしては。
「別に怖がることなど何もありませんよ。ほら、ただの小箱です」
アベルは雑に小箱の蓋をパカパカ開けたり閉めたりしたが、みんなそれにうかつに手を触れる気にはなれなかった。
「もっと詳しく調べたほうがいいとは思うけど……」
ハールーンが小箱に疑わしそうな目を向ける。
「もう一度、魔術できちんと精査しよう。何か呪いの類がかけられていないかどうか」
オウルは言った。
「針が飛び出すとか、布に毒がしみこませてあるとか、その手の仕掛けも疑ったほうがいいな」
「もう一度聞くけど、アベル。この箱、本当に最初から空っぽだったんだよね?」
ロハスが念を押す。
「もちろんですとも。中身が入っていたら、私とてさすがに不用品とは思いませんぞ」
秘密の隠し扉の中を『きれいに片づけた』男はそう答えた。あまり当てにはならないと全員が思った。
「無駄かもしれないが、一応調べよう。先達、術式を作るのを手伝ってくれ」
「よかろう。基本が組み終わったら声をかけたまえ。過不足がないか確認しよう」
バルガスは冷たく言う。魔術師の塔で後進を相手にする指導役気取りなのがイラつくが、今はアベルのやったことで脳の処理能力がいっぱいいっぱいである。とりあえずバルガスについては流すことにした。
オウルとバルガスが小一時間かけて魔術的に小箱を調べ、その後は手袋をつけたハールーンが細い眉をしかめながらおかしな仕掛けがないか細い棒で丹念に確認していく。
作業には午前中いっぱいかかった。途中で目を覚ましたティンラッドは退屈して外出してしまった。そして野草の新芽を抱えるほど摘んで戻ってきた。
「ヒマだから」
とロハスはかまどの修復を試み、なんとか使える状態にすることに成功した。
いつも廃棄寸前の品物を『商品』だと言い張っているだけのことはある。常人から見てもう使えそうもないものを、どうにかこうにか使いこなす才能に長けているのかもしれない。
とにかく直したかまどでロハスは新芽を生地に混ぜ込んだパンを焼いた。
旅暮らしで常に粗食に甘んじていた彼らにとって、焼き立てのパンを口にするなど久しぶりのことである。ロハスが作るものなので、味付けはいつもどおりいまいちだろうと思われるが、パンが焼ける香りが漂うだけで食欲が刺激された。
「ロハス殿は調味料をケチるのですよなあ。それがなければ、もっと料理が上達なさると思うのですが」
諸悪の元凶(神官)が論評する。オウルの意見では、ロハスがケチるのは調味料だけではなく食材全てだ。その悪癖が矯正されればもう少し美味いものが食べられるはずだという点については同意見だった。
「……全部調べたと思う。命にかかわるような仕掛けはないと思うよ」
小箱を隅から隅までつつきまわしていたハールーンが、くたびれた表情でそう言った。
「で、ね。ほら、ここがはずれるんだけど」
先のとがった道具を器用に動かすと、底の部分の化粧板がはずれた。
「でも、それだけ。何も入ってない」
外れた板の下には薄い紙が貼ってある。化粧板と底板の間には小さなものなら入れられる隙間があるが、明らかに空っぽだ。
「ねえ、アベル。僕も聞くけど、本当にこの中、何も入ってなかったの。本当は入っていたのを、書類と一緒に燃やしちゃったんじゃないの。でなかったら、箱とは別に売り払っちゃったとか」
集中して箱を調べて疲れたのか、ハールーンは不機嫌な口調でアベルに絡む。
「本当に空でしたぞ。お疑いになるとは嘆かわしい。神官の言葉を信じぬなど、罰当たりきわまりないことです」
アベルは憤慨するが、説得力のかけらもなかった。神官の権威的にも、言葉の真偽的な意味でも。
「ああ、疲れた」
ハールーンは小箱を床に投げ出す。
「こらこら、ハルちゃん」
ロハスがたしなめた。
「商人たるもの、物を乱暴に扱ってはいけないよ」
「お前、まさかこんなものまで商品にするつもりなのか」
オウルはまたしても慄然とした。このパーティの人間の思考回路は本当にどうなっているのか、理解できない。
「いや、しないよ? 売り払ったら他の人の迷惑になるかもしれないし、オレたちの居場所を探る手がかりになっちゃうかもしれないし。そのへんはオレだってわかってるよ、やだなあ」
ロハスはさわやかに笑ってそう言ったが、
「今は売らないよ。今はね」
と付け加えたのが不穏な感じだった。どうやったらこいつらときれいさっぱり縁を切り、元のまっとうで穏やかな市井の魔術師の暮らしに戻れるのだろうとオウルは心から思った。
「どんなものでも価値はある。つまり、いつか必ず商品になるのです。その日に備えて怠りなく手入れをするのが良い商人というものだよ、ハルちゃん」
なぜか先輩風をふかしながらロハスは小箱を拾い上げ、はずされた中板を元に戻そうとする。
「うーん。うまくはまらないなあ。ここをこうして……。ダメだ、斜めになっちゃった。もう一回……」
ハールーンほどの器用さはないらしく、手間取っている。そのうち、
「あっ」
大きな声を出した。
「なんだよ、うるせえ」
「うん。ゴメン」
ロハスは悄然と肩を落とす。
「布がはがれちゃった」
たった今、『ものを大事にするのが良い商人』と偉そうに語っていたというのに、自分で壊してどうするのか。つくづくこのパーティには使えない人材しかいない、とオウルは思った。