第42話 えんじ色の小箱 -6-
「扉の向こう側は壁がくりぬかれており、小さなものいれのようになっておりました。私はつっかえていたこの小箱を中に押し込み、扉をきちんと閉めようと努力しました。しかし無理でした。そこに入れるには、この箱がほんの少し大きすぎたのですな」
アベルはそう言って、手に持った椀に残った汁物をずずっと音を立ててすすった。
「それで、どうしたんだ」
オウルは先を促す。アベルは答えた。
「どうもこうも。どうやっても閉まりませんので、この箱をガイルンのところに持って行って引き取ってもらったのです。ついでに中に突っ込んであった書類も裏庭で焼いて、中を雑巾できちんと拭いておきましたが」
座に沈黙が落ちた。
「失礼。もうどなたもお食べにならないのなら、この鍋の残りをいただいてしまってもいいですかな」
アベルはそう言って、鍋の残りを全て自分の椀によそった。
「ええと。この話、それでおしまい?」
ロハスがおそるおそる質問した。
「そうですが」
「ええと。小箱のことは置いておいて、何で書類まで焼いたの?」
「不要な書類は燃やすことになっておりましたので。おかげですっきりしましたよ」
「聞くけど。いや、今さら聞いてもどうしようもないことなんだけど。この小箱とか、その書類とかって、本当に不要なものだったの……?」
アベルはとても不思議そうな顔をした。
「あんな出し入れするのが面倒くさいところに入れてあるものが必要なものとは思えませぬが。非常に乱雑につっこんでありましたし。当然、不用品でしょう」
再び沈黙が落ちた。おそらく全員が、この恐るべき情報を咀嚼しているのだろうとオウルは思った。
百歩譲って、師匠の不用品を勝手に売り払うところまでは理解しよう。
しかし、『棚の裏にこっそり作られた秘密の隠し扉の中に隠された書類や小箱』が『不用品』であるというのなら、不用品の定義とはいったい何なのだろうか。
そして掃除とは。掃除係に求められる職務とは。
考えれば考えるほど頭の中がグルグルしてきた。
「いったん情報を整理しよう」
オウルは言った。そうしないと頭がおかしくなりそうである。
「ソラベル神官の執務室の棚の裏には、隠し扉があった。この小箱はそこに入れられていた。アベルはそれを偶然に発見して」
「練達した掃除係の、何ごとも見逃さない鷹の目で発見したと言ってもらいたいものですな」
アベルが口を挟む。
「妖怪クサレ神官がどうでもいいところで無駄に細かさを発揮して」
とオウルは言い直した。
「小箱をガイルンという知り合いの古物商に一シルで売り払い、一緒に入っていた書類は裏庭で燃やした。ここまではいいか?」
うつらうつらしているティンラッド以外の全員がうなずいた。
まとめ直さなくてもわかっていたことだが、ひどい話である。ソラベルは、絶対に掃除係に任命してはいけない男を掃除係にしてしまったのだ。では何の仕事だったらアベルに向いているのかということは別にして。
「お前、その後、何かなかったのか。ソラベル神官に呼び出されて叱責されたとか」
「いえ別に。残念ながら称賛されることもありませんでしたが。ガイルンのところから帰ってくるとすぐにソラベルさまに呼び出されまして。前々から秘密裏に修行を重ねておりました魔物封じの神言が十分に使いこなせるようになりましたので、すぐに世界を救うために旅立つようにと命じられましたので」
仲間たちは互いの顔を見る。
「つまり、これが原因でアベルは大神殿を追い出されたってこと?」
「いや、違うね。こんなことを知ったら、僕だったらその場で殺すよ」
ロハスの疑問に、ハールーンがきっぱりと首を横に振る。
「いや、ひと息に殺すんじゃ物足りないから、五日くらいかけてじわじわなぶり殺す。でも、どっちにしても小箱を取り返してからだよね」
「だけど小箱は今もソラベルの手に戻っていない。ここにあるもんな」
オウルはしみじみと小箱を眺めた。ハールーンはうなずいた。
「つまりアベルを旅立たせようとしたときにはソラベルはまだ知らなかったんだよ。小箱が盗まれたことも、書類が燃やされたことも」
「そうだな。あの神官は、もともとアベルを追い出す口実にするために魔物封じの神言を身に付けさせようとしていたんだ。とりあえず恰好がつくくらいにはなったところで、とっとと旅立たせようとしたんだろう」
それがたまたま、小箱を売り払った直後だった。そう考えたほうが矛盾がない。
「なるべく早く旅立てとかなんとか言われなかったか?」
と聞くとアベルは、
「それはもう。苦しむ人々を救うため、今すぐにでも旅立つように急き立てられました。しかしその晩、私はたまたま本殿での夜の礼拝の当番に当たっておりまして。大神殿の神官にとって本殿での礼拝は何より大切なものですからな。ソラベルさまも仕方なさそうに了承してくださいました」
と晴れやかに答えた。
不肖という言葉を千回重ねても足らないくらいの不肖の弟子をようやく追い出せる準備が整ったのに一晩待たされたソラベルの胸中を思うと、オウルは同情を禁じえなかった。
「とにかく、できるだけ速やかに追い出されたわけだよね。その後でやっと気付いたんじゃない? なくなったらマズいものが秘密の棚から消え失せていることに」
ハールーンが砂でも口にしたような表情で言う。
きっとそうなのだろう。念願を果たして気分よくその日は酒でも飲んで、その翌日か、あるいは数日経ってからソラベルは恐ろしい現実に気付いたのだ。
奇しくもアベル本人が言ったように、戸棚の裏に隠された壁の秘密扉などは、そんなにしょっちゅう開け閉めするものではないのだから。
そしてアベルの幸運に、またしてもオウルは慄然とした。
もし順番が逆だったら。大神殿から放逐される前に、小箱や書類の紛失にソラベルが気付いていたら。そのときはハールーンの言うとおり、陰惨な運命がアベルを襲ったはずである。
しかしそうはならなかった。そのうえソラベルが気付いたであろう時にはアベルはばくちで負けて身ぐるみはがされており、神官服や祈祷書、金鎖にいたるまで大神殿の神官としての身分を証明するものをすべて失っていた。さらに使命とやらについても忘れ去っていたと思われる。
ソラベルが『世界を救うと言って町々であやしげな神言を唱えて回る自称大神殿の神官』を探させたとしても、そんな人間を見つけるのは不可能だったのだ。