第42話 えんじ色の小箱 -4-
「アベル君がこの調子では、彼の記憶に頼ることは難しそうだが」
バルガスが冷ややかに言う。
「何か妙案でもあるのかね、ロハス君」
暗い瞳に見据えられ、ロハスは居心地悪そうに縮こまる。
「いや、あの、妙案ってほどじゃないんだけど。開けてみたらいいんじゃないかな、って。見たところ、箱そのものはただ値打ちものってだけで、特別なところはなさそうだからさ。中に何か入ってるんじゃないかなって思うんだけど」
「それはそうだね。じゃ、開けよう」
ハールーンが無造作に箱を手に取って、蓋に手をかける。
「待て待て待て」
オウルはあわてて止めた。
「おかしな仕掛けがないかもう一度きちんと確認するべきだ。魔術の気配はないが、開けようとしたときに発動する隠し術式が仕掛けられているかもしれないし、魔術を使わなくたって箱に仕掛けをすることはできるぞ」
「でも壊すのももったいないし。これ、ふっかければかなりのお金になるよ」
ハールーンは不満そうに口もとを歪める。
「いや、壊せって言ってるわけじゃなくてよ。思っていた以上にあやしい品のようだから、慎重に扱ったほうがいいって話を……」
オウルが説得しようとしたとき、
「そんな心配は必要ないと思いますぞ」
アベルが手を伸ばして、ハールーンの手から小箱をひょいと取り上げた。
「これはオウル殿のおっしゃるようなあやしいものではありません。普通の箱です。ほら、こうすれば開きます」
止める間もなく、ひょいとふたを開ける。内側にも、外側と同じえんじ色の布が張られていた。そして中には何も入っていなかった。
「ちょ、お前……不用心な」
オウルは驚いたのを通り越して呆れた。
最悪、凶悪な呪いをかけられたり、毒のついた針が飛び出してきて開けたものの命を奪う。そんな可能性も考えていたのだ。いくらアベルがアベルとはいえ、軽率すぎる。
「この箱が高値で売れるかもしれないと言われて、いや、我が親友ガイルンの行方とこの箱が関係しているかもしれないと言われてじっくりと観察していたら、気が付いたのです」
アベルは重々しく言った。
「天啓がひらめいたと申すべきでしょうか。偉大なる神の意志が私の魂を雷の如く打ち抜いたのです」
「いや、神の意志とかどうでもいいから話を進めてくれ」
オウルが促す。アベルは『ここからがいいところなのに』と言いたげな恨めしそうな表情をしたが、すぐに気持ちを切り替えてあっさりと言った。
「かいつまんで申しますとこういうわけです。私はこの箱を前にも見たことがありました。というか、ガイルンのところにこれを持って行ったのは私でしたな、そういえば」
一瞬、座が静まり返る。それから、
「ええ? 前は知らないって言ったじゃん!」
「今さらどういうこと?」
「きちんと筋道立てて説明してみやがれ、この妖怪クサレ神官!」
大騒ぎになった。
「落ち着いてください、落ち着いてください、みなさん」
ものすごい速さでティンラッドの後ろに移動したアベルは、そこから声を上げる。
「私もすっかり忘れていたのを、たった今ようやく思い出したのです」
そう言われても、
「だってあんなにはっきり、『知らない』って言っていたのに」
「親友のことを忘れるかよ、普通。お前の記憶はどうなってるんだ」
ロハスもオウルもおさまらない。しかしそんなことでアベルが動揺するはずもなかった。
「それはつまり、大神殿を出てからの旅がそれほど過酷だったということでしょう。苦難の道のりが、ガイルンと過ごした平穏な日々の思い出を遠いものにしてしまっていたのです。しかしわずかな間とはいえ大神殿に戻ったことで、忘れていた記憶がゆすぶり起こされたのでしょう」
「最初からお金の話をすればよかったね」
ハールーンがムスッとした顔でほおづえをつく。
「そうしていたらもっと早く、アベルがこの箱をしっかり見て『記憶を取り戻して』くれていたかもね。ああ、無駄な時間を使った」
それはまったく、全員の気持ちを代弁した言葉だった。
「それで」
果てしない徒労感にさいなまれながらオウルは聞いた。
「この箱は、いったい何なんだ」
「いったいと言われましても。ただの不用品です、ソラベルさまの」
アベルはまだ警戒した様子で、ティンラッドの後ろから答える。
「掃除係として、そうした不用品を処分するのも私の仕事でしたので。この箱はとても美しく、捨ててしまうにはもったいないと思われましたので。古物商いをしていたガイルンのところに持ち込んだのですよ。ソラベルさまにとっては不用品でも、誰かこの箱を必要としている人のもとに届くことがあるようにと思いまして」
「売れると思ったんでしょ」
ロハスがうんざりした顔で言う。
「いくらで売ったのさ、いったい」
「いやいや、私は神に仕える身。利益を目的としてやった行いではありません。もちろん、ガイルンがお礼をしたいというのを拒むような心無い真似はいたしませんでしたが。ほんの一シル……」
「なってないね。オレなら三シル以下じゃ渡さないよ。いや、大神殿の一等神官の持ち物だったって来歴がはっきりしてるなら、その倍はもらわなきゃ」
「僕なら五ゴル。それ以下じゃ話にならないね」
商人たちが勝手なことを言い出す。
「なんと。この箱はそんな値打ちものだったのですか。まさか私はガイルンにいっぱい食わされたのですか」
「それはどうでもいいんだよ」
オウルは話を軌道修正しなくてはならなかった。そしてアベルが物の価値を知らなかっただけで、ガイルンという男には罪はないだろうと心の中で思った。
「それにしても、これはあの一等神官の持ち物だったのか」
オウルは改めて小箱を見る。そう思って見直すと、えんじ色の布も真鍮の金具も急にいわくありげに思えてくるから不思議だった。