第41話 霊峰のふもと -1-
春の雨は恵みの雨である。ひと雨降るごとに暖かさが増し、峰に積もった雪は消え、道端には色とりどりの花が咲き、むき出しだった木の枝には緑の葉が芽吹く。
畑仕事に出る農夫たちにも、商いのため街道を行く商人たちにも、誰にとっても等しく春を告げる雨は喜ばしいものだ。
……大神殿から罪人として名指しで手配され、人目を避けて移動する旅人でなかったら。
荒れ果てた山道を一日かけて登りながら、オウルはそう思った。
細い道には落ち葉が降り積もり、水にぬれるとつるつる滑る。周囲から雨水が流れ込むので、場所によっては道だか川だかわからない。一歩進むごとに泥がすねまで跳ねる。
「もうヤダ」
ハールーンがうんざりした声で言った。
「なんで雨の中、こんな道を歩かなきゃいけないの。もうヤダ。進みたくない」
「じゃあひとりでそこにいろ」
オウルは無視して先を歩く。それが気に食わなかったのか、ハールーンはさらにスネた声を上げた。
「ていうか、帰る。ふもとに帰る。村があったじゃない、あそこであったかいお茶でももらう」
「登ってきた分だけ下りなきゃならねえけどな」
オウルは冷たく言う。道が悪くて足元に神経を使わなくてはいけないのに、危機感のない仲間のこういう頭の悪い発言がますます彼の機嫌を悪くする。
「オウル殿、オウル殿。腕くらいあるミミズが転がり落ちてきましたぞ」
アベルが騒ぐ。
「もっとデカいのと砂漠で戦っただろうが」
「オウル。魔物が出ないぞ」
ティンラッドが不満そうに言った。
「うるせえな。そこのミミズでも退治してろよ」
なんでこいつらは、そろいもそろってこんなに危機感がないのか。追われる身だという自覚はないのか。ひとこと言ってやろうと振り返った瞬間に、
「あ~れ~!」
情けない悲鳴と共に盛大に泥しぶきが上がった。
「オウル君。ロハス君がまた転んだぞ」
バルガスが見ればわかることを淡々と告げた。
「朝から七回目だな」
それも言わなくても知っている。面倒なのでオウルは返事をせずに水たまりに突っ伏しているロハスのそばに行き、無言で引っ張り起こした。
泥まみれのロハスは服から水をしたたらせながら、へなへなと道のわきに座り込んだ。
「どうした。足でもケガしたか、ロハス」
ティンラッドが声をかけると、商人は首を横に振った。
「もう……ムリだよ船長。これ以上は歩けない。オレのことはここに置いていって……」
絞りだすような声音で言う。
「ダメなんだよ。オレはこれ以上、こんな生活には耐えられない」
「そうか」
ティンラッドは首をかしげた。
「ハールーンも休みたいと言っていたし、それじゃあ今日はここで野営にするか」
「なんでわざわざこんな山道の途中で野営しなきゃいけねえんだよ。もうちょっと歩けば村があるって、さっきからずっと言ってるだろうが」
オウルはツッコんだ。ティンラッドの場合、実行力だけはあるのでボケを放置しておくのは非常に危険である。本気でやりかねない。
「もうちょっと、もうちょっとって、昼ごはんを食べてからずーっとそう言ってるじゃない」
ハールーンが不満そうに口をとがらせた。
「ちっとも『もうちょっと』じゃないじゃないか。いつになったら着くかもわからないのに、こんな山道を延々と歩かされているんだもの。僕たちだって疲れるし、イヤになるよ」
「時間がかかるのは、お前らがそうやって文句ばっかり言ってダラダラ歩いているからだよ」
オウルはムスッとして言った。このやり取りも何度かしている。同じ文句を何度も聞かされる身にもなってほしい、と彼は思う。
「ハールーンの気持ちもわからないでもないぞ」
意外にもティンラッドがそう言った。と思ったら、
「魔物がちっとも出ないじゃないか。つまらない。せっかくいい感じに荒れた道なのに、肩透かしもいいところだ」
いつもどおりすぎて、これにもオウルはため息が出た。ハールーンも、
「イヤ、僕はそこには不満を持ってない」
とすかさず独自の立場を主張した。
「魔物だったら出ただろ。昼飯を食う前に、大山猿の群れが」
「うん。あれはちょっと楽しかった。でも、すぐに倒せてしまったし、あれから何も出ないぞ」
すぐにとティンラッドは言うが、相手にしたのは四十匹あまりのけっこう大きな群れで、群れの長は長身の船長より頭二つ分も背の高い巨大猿だったのだ。オウルとしてはけっこう肝が冷えたのだが、ティンラッドは軽い運動みたいな口ぶりだから困る。本当に困る。
「せっかく山なのに、どうしてもっといろいろ魔物が出ないんだ」
そんな文句を言うのは、世界広しといえどティンラッドくらいのものだろう。そう思うとオウルはますますうんざりする。
「言っただろ。この辺りは霊峰クゥインセルのすそ野になるんだ。クゥインセルの峰に近づけば近づくほど魔物は少なくなる。ここまで登れば、めったなことでは魔物に遭わないはずだ」
「なんだと」
ティンラッドは怒りだした。
「そんなことは聞いていないぞ。どうしてわざわざ、そんなつまらない道筋を取ったんだ」
「俺は説明したよ! あんたが聞いてなかったんだろうが」
オウルの口調もつい荒くなる。
「そんなことはどうでもいいんだよ」
傍らで、ロハスがこれ以上なく暗い声で言った。
「魔物とかどうでもいい。でもオレはこれ以上耐えられない。……せっかく手に入った高額商品を、六頭もの元気のいい馬を、捨て値で取り引きしなくちゃいけない生活なんて!」
それこそ一昨日からうんざりするほど聞かされている言葉なので、全員が聞こえなかったふりをした。
一行は先日、盗賊団から馬を六頭手に入れた(奪った)。高額商品を思いがけずタダで手に入れることが出来てロハスはほくほくしていたのだが、山道をたどるためには馬は邪魔にしかならなかったのである。
人目を忍ぶ身の彼らは、たまたま行きあった別の盗賊団にその馬を譲るしかなかった。もちろん取り引きの際には、とんでもなく足元を見られた。
「あんないい馬、合わせて五十ゴル以下ってことはあり得ないのに。あいつら、いくら払ったと思う? たったの三ゴルだよ。ありえない」
どうせタダで手に入れたものなのだから、金になっただけマシではないかとオウルは思うのだが、ロハスとしてはそういう風には考えられないらしい。
聞き飽きた繰り言を続けるロハスを無視して、一行はまたのそのそと山道を進み始めた。
「空が明るくなってきたようだな」
雨脚の弱まり始めた空を見上げて、バルガスがぽつりとつぶやいた。