第40話:逃走 -3-
その頃。
足の先がやけに冷たい気がしてアベルは目を覚ました。体を起こそうとしたが眩暈が襲ってきて手をつく。
「むむ。飲み過ぎましたかな」
頭痛もひどい。師であるソラベルはよく『良い酒は後に響かない』と言っていたが、そういうわけでもなさそうだ。『どんな酒でも悪酔いする時はする』のかもしれないが、彼にとってもあまり都合の良くない結論だったので即座に忘れることにした。
「確か、寝台の脇に客用の水瓶が用意してあるはず。ちょっとどなたか取って下さいませんか。それにしても寒いですな。窓が開いているなら閉めてください」
ふわふわの毛布を引き寄せて体にかけ直そうとして、指先をさまよわせる。探り当てたのは固い岩のような感触だけだった。
おかしい。客室の寝台は最上級のはずなのだが、これでは野宿かロハスの実家である。
「どなたか。私の毛布はどこです。羽根布団も」
目の前で動いた人影に訴えたところ、
「ちゃんと目を覚まして状況を把握しろ、この間抜け」
と罵られた。
こんな汚い言葉遣いをするのはオウルか。大神殿の神官である自分と話す際には当然に心得られるべき品格というものがある。そのことについて一度ゆっくり教示してやらねばなるまい。
そう思いながら目を開けたところ、驚いたことに目の前にいたのは見たこともない男だった。垢じみて薄汚れた身なりで、腰には中剣と短剣を帯びている。
「はて」
アベルは首をかしげた。
「どちら様でしょうか。生憎、大神殿では俗人の方の内殿への立ち入りを厳しく制限させていただいているのですが」
「ここがまだ大神殿の中に見えるのか。お前の目は何のためについているんだ」
言われて辺りを見回す。ところどころに穴が開いた石積みの壁。蜘蛛の巣の張った暗い天井が、松明の火にぼんやりと照らされている。そして囚われの神官は埃だらけの床に転がされていた。
アベルは理解出来なかった。豪華な客室で眠ったはずなのに、この廃屋はどこなのか。自分にいったい何が起こったのだろうか。
しかし深く考えはしなかった。酒で記憶が飛んで気付いたら境遇が変わっているというのは、彼の人生では(比較的)よくあることだ。
「ずいぶんと過ごしにくそうな場所ですなあ」
アベルは率直に感想を述べた。
「こんなところで暮らしていると健康に悪いですぞ。せめて客用に寝具は用意した方がよろしいです」
同情的に言う。
「俺の家じゃねえよ」
廃屋を自宅認定された男は、イラっとして反射的に言い返した。
「ではどなたのお宅なのでしょう。友人であれば意見してさしあげた方がよいと思うのですが。体を壊してしまわれますぞ」
真面目に助言してからアベルはもう一度辺りを見回し、ようやく仲間の姿がないのに気が付いた。
「おや、船長たちはどこに行ってしまったのですかな。まったくあの人たちと来たら、落ち着きがなくて困ったものです。時々、大神殿の神官と共に旅をするべき資格に欠けているのではないかと思ってしまいますな」
ため息をつく。
「ところで、水を一杯いただけませんか。先程からひどく喉が渇いているのです」
その辺りで、男の忍耐は限界を迎えた。
見知らぬ人間にさらわれた場合、善良な人間なら怯えて命乞いをするのが当然だろう。
なのに、この神官の対応は何だ。
「とぼけたことを言ってるんじゃねえぞ」
男は凄んだ。
「まだ状況が分かっていねえようだなあ。俺たちはソラベル様に頼まれて動いている。そう言えばわかるか?」
「左様でしたか」
アベルは納得してうなずいた。昔から師のソラベルは彼に厳しかった。自分が飲み過ぎたと考えて、また何かお仕置きを思いついたのだろう。
「ソラベル様も相変わらずですなあ。ご自分だって隠れて好きになさっているくせに、私には妙に厳しいのです。公正ではないと思いませんか」
アベルは師の飲酒癖のことを言ったつもりだったが、相手は別の意味にとった。凶悪な顔が悪い笑みを浮かべる。
「神官っていうのはどいつもこいつも生臭ぞろいだ。てめえも同じ穴のムジナってわけだな。なるほど、度胸が据わっているわけだ。だが、こいつを見たらどうかな」
腰の短刀を抜き払う。刃が松明の炎を受け、赤く輝いた。
「お前の知っていること全てを吐かせるのが、あの方のお望みだ。何をどれだけつかんでる。得体の知れねえやつらを引き連れて、何をするつもりだった? あの方には俺らがついているんだ、おかしなことはさせやしねえぞ」
「はあ」
アベルはぼんやりと答えた。普段の彼なら、さすがに刃物を見せびらかせられたら怯えただろう。しかしこの時はまだ酔いが残っていた。それもかなりの酩酊度合いだった。ソラベルの秘蔵の名酒を、ここぞとばかり飲みまくった結果である。
「あの方々を怪しまれるのは無理もありませんな。正直、共に旅をしている私でさえ『それはどうか』と思うことも多いのです。が、ご安心ください。あれでも基本的には良い方々ですぞ。神殿の教えに忠実で信心深いとは申せませんのが残念ですが、皆そこそこには常識をわきまえていらっしゃいます。たまにとんでもなくすっとんきょうなことをなさるのでびっくりはいたしますが」
他の面々が聞いたら、『お前が一番すっとんきょうだ』と言うに違いないことをしれっと口にする。しかしそれは、短刀を構えた男の聞きたいことではなかった。
「そんなことはどうでもいいんだよ。はぐらかすんじゃねえ、真面目に答えろ」
「失礼なことをおっしゃいますな。私は真面目ですぞ」
「ふざけるんじゃねえ。さっさと吐け。まずは小箱の行方について聞かせてもらおうか。ガイルンのやつはついに吐かなかったぜ。知らない、人に預けてお前に返させたと泣き叫び続けてな。本当かどうか確かめる前に死んじまったがなあ」
「何と」
アベルは目を見開いた。
「ガイルンは死んだのですか。何と言うこと……良い人物でしたのに。にわかには信じられません」
一応、旧知を悼む心はあるのか目元を指で拭った。
「門前町でよく煮込み料理をおごってくださいました。そこは煮卵が絶品でしてな。鶏肉の方は煮込みすぎてスカスカになっていたことが多かったのが残念でしたが、安い屋台でしたので贅沢は申しますまい。私がお代わりを頼もうとすると、『胃にもたれるからそのくらいにした方が良い』と心配してくださいました。あのガイルンがもうこの世にいないとは、何と悲しいことでしょうか。ぜひまた共に煮込み料理をつついて、思い出を語り合いたいと思っておりましたのに」
神官らしく哀悼を表す印を切るが、ガイルンが死んだことが残念なのか、煮込み料理をおごってもらえないことが残念なのか今ひとつ伝わってこなかった。
「煮込み料理の屋台のことはどうでもいいんだよ。確かに門前町には、安くてうまい煮込み料理を出す屋台が多いがな」
辟易しながら男が短刀を構え直すと、
「そうでしょうそうでしょう」
アベルは勢い込んでうなずく。
「ガイルンがよく連れて行ってくれたのは、西町の坂裏の隅っこで店を出しているところでしてな。しなびたお婆さんがひとりでやっていたものでした。たまに私がひとりで行って喜捨を頼みますとすごい顔で犬をけしかけられたましたが、あの方は今もお元気でいらっしゃいますでしょうか。かなりのお年でしたので安否が心配です」
「そりゃあ西坂裏のペラ婆あじゃねえのか。あの婆あ、病気で死んだ鶏を安く買ってきて店に出すって噂だぜ。腹を下したり具合を悪くする客が後を絶たないとか」
「心ない噂ですなあ」
アベルは憤然と言う。
「あのお婆さんは会計にはうるさかったですが、料理はマトモでしたぞ。現に私は具合など悪くしたことは一度もありません。そう言えばガイルンは、あの屋台ではいつも酒しか飲んでいませんでしたが。たまたまおなかがいっぱいだったのでしょう、本人もそう言っておりましたし」
それは、『腹でも下してしまえばいい』とガイルンに思われていたのでは。男はそう思ったが、危ういところでそれが本題ではなかったと気が付いた。
「ペラ婆あのことはどうでもいいんだよ。相変わらず怪しい料理を屋台で出しているようだがな。そんなことよりさっさと吐け。小箱をどうした」
「お元気でいらっしゃるのですか。ガイルンの訃報を聞いたばかりですので何よりです、旧知の方が達者でいらっしゃるのはやはり嬉しいことですな」
「だから、婆あの話はもういいって言っているだろう。吐け」
「そうおっしゃられましても」
アベルは困った表情をする。
「このようなところでは憚られますぞ」
「場所なんてどうでもいいだろう。ここには俺たちしかいねえんだ、安心して好きなだけ吐きな」
痛い目に遭いたくなかったらと男が付け加える前に、アベルはおとなしくその場にひざまずいた。
「それでは失礼いたしまして。先程から吐け吐けとおっしゃられるので、実は少々こみあげて来たところなのです。やはり飲み過ぎたようですな。洗面器でもあれば良かったのですが、そこまでおっしゃられるなら吐きましょう」
その場でえずき声を上げ始める。男はあわてた。
「ちょっと待て。何をしている。吐くな」
「はあ? あなたが吐けとおっしゃったのですぞ」
「いや、それはそうなんだがそういう意味じゃない。待て、吐くな」
「そう言われても、もう我慢が出来なくなってきましたぞ。吐きます」
「やめろ。おい、誰か二日酔いの薬を持ってねえか。急いで持って来い」
外の仲間を大声で呼ぶ。
「はて。吐けと言ったり吐くなと言ったり、一貫性のない方ですなあ」
アベルは首をかしげた。それから、
「薬があるなら水もお願いいたしますぞ。多めにお願いいたします。でないとむせて吐きますので」
大声で要求した。