第37話:疫病神の帰還 -2-
石塀の内側も草だらけだった。アベルがいなくなった後も、この辺りをきちんと管理しようと思う神官はいなかったらしい。
他にあの抜け道を使っている神官がいるのだろうかとも思ったが、斜面には最近誰かが上り下りしたような形跡はなかった。さすがにそんな不届き者はアベルだけなのだろう。
「それで、これからどうするんだ」
オウルは尋ねた。こんなところから忍び込んでしまって、他の神官に見つかったらどう言い訳すれば良いのか。今さら言っても仕方ないが、嫌な予感しかしない。
「もちろん我が師ソラベル様にご挨拶に参りますが」
アベルは当たり前のように言う。危機感がなさすぎる。
「そうだな。早く行こう」
ティンラッドも当然のように急かした。この二人と行動するというのは、崖路を転げ落ちる荷車にひとりで乗っているようなものだとオウルは思い知った。
「ソラベル様のお部屋はこちらですぞ」
と言ってアベルが先に立って歩き始めようとした時、早くも予期された危険は訪れた。神官服の男が角を曲がって、この草ぼうぼうの空き地に姿を現したのだ。
見慣れぬ船乗り姿の男(ティンラッド)と、同じく見慣れぬ魔術師(オウル)を見て、神官は顔色を変えた。
「な、何者だ。どこから忍び込んだ」
オウルは絶望した。この状況を、どうやって説明したらよいのだろう。アベルにもティンラッドにも期待できない、自分が何とかするしかないが一体どうしたら。
と思っている間に、
「おお、エリオス殿。エリオス殿ではないですか、お久しぶりでございます。いやあ、お懐かしいですな。相変わらずここで煙草をやってらっしゃるのですか。いけませんぞ、サボりがバレたらソラベル様に大目玉を食らいますぞ」
アベルが大声で言った。
偉そうに諭しているが、どう考えてもサボり王はこの規格外神官である。エリオスと呼ばれた神官も、この男に言われたくはないだろうなとオウルは思った。ついでにこの場所が神官たちのサボり場であるらしいという不要な情報も手に入った。
「え? お前、アベルか?」
エリオスの口がぽかんと開く。完全にマドラと出会った時の再現だった。
「もちろんアベルですぞ。お懐かしゅうございます」
「いや、何でお前……どこから。ソラベル様に追放されたんじゃなかったのか」
アベルは気を悪くした表情になった。
「どうして誰も彼も私が追放されたと思っているのですか。そんなはずはないでしょう」
あり得る話だからみんな信じ込むのではないだろうか。そうオウルは思ったが、口をはさむと面倒くさくなりそうなのでこらえた。
「ああ、極秘任務だったからですな」
合点がいったように手を叩いたアベルは、
「ここだけの話ですが、私はソラベル様の密命を受けて遠く東のソエルまで伝道の旅に出ていたのです。これ以上詳しくは申せませぬが、秘中の秘の神言を授かり魔物を封じて民草を救うという選ばれた者にしか果たせぬ使命でして」
今回もあっさりと機密を漏洩した。この男の辞書に『口止め』という言葉はあるのだろうか、いや多分ないのだろう。
「はあ? 魔物封じ? そんな神言があるなんて聞いたこともないぞ」
「それはそうでしょう。秘中の秘ですからな。私だけが伝えられた特別な神言ですから」
アベルは自信たっぷりに言い切るが、
「何でお前なんかにソラベル様がそんな特別な言葉を授けるんだよ」
エリオスは実にもっともなツッコミをした。みんな思うことは同じらしい。
「とにかくエリオス殿。そこを通していただけませんかな。ソラベル様に報告をしないといけませんので」
促されて、エリオスはようやく状況に頭が追いついたようだ。もう一度アベルを頭のてっぺんから足の先まで眺め、深くため息をついた。
「アベルだな。幽霊かと思ったが、そしていっそ幽霊であってくれたらよかったんだが、間違いなくアベルだな。お前、また塀の穴から入って来たんだろう。そんなところから出入りするなと何度言ったら分かるんだ」
塀の穴、アベルの言うところの『近道』は他の神官も知るところであったらしい。放置されているのは、彼ら下級神官の聖域であるこのサボり場の存在を上役に教えたくなかったためだろうか。
「表から回ると時間がかかるではないですか」
「時間がかかるったって、二年ぶりに戻って来たのに番人の目に触れないでいつの間にか内殿にいたんじゃおかしいだろうが。で、その俗人たちは何なんだ」
エリオスはじろじろとオウルたちを眺める。警戒した目付きなのは仕方がないだろう。自分で言うのも何だが、明らかにあやしい。塀の穴から入ってきたところが特にあやしい。
「私は船長だ。よろしく」
ティンラッドが余計なことを言ったのでエリオスの目が丸くなったが、
「この方たちは私の伝道の旅に力を貸してくださった奇特な人々ですな。安心してください、少々変わっておりますが善人です。何しろ大神殿の特使である私と共に長い旅をして来たのですから」
アベルが適当かつ自分に都合のいい説明をしたせいでそれは二度目のため息に変わった。
多分、アベルと一緒に旅をするような人間だから同じような変人だと思われたのだろう。
そう考えるエリオスの心は手に取るように分かったが、それだけにオウルは不愉快だった。およそこの世で、アベル(やハールーン)の同類だと思われることほど不名誉な話があるだろうか。
確実にない。しかし誤解を解くすべもまた、ない。
そう思うとオウルもやはり、深いため息をつかずにはいられないのだった。