第37話:疫病神の帰還 -1-
「やれやれ。短気な方ですな」
マドラを見送ったアベルはため息をついたが、こいつを相手に癇癪を起さないのは言葉が分からない人間だけだろうとオウルは思った。
「おや、話し込んでいるうちに日が少し傾きましたな」
神官は気付いたように空を見上げる。
「お茶の時間に間に合わなくなってしまいます。急ぎましょう」
そう言ってせかせかと歩き出した。夕食だけでなく、お茶の時間まで相伴するつもりらしい。どれだけ強欲なのだろう。
護符や祈祷道具の店、旅に役立つ持ち歩きやすい日用品を集めた店、旅装や鞄を売る店。
大神殿に続く表通りの坂道にはそんな店が軒を並べ、どこもたくさんの客が群がっていた。
ところどころには遠方の珍しい商品を扱っている店もある。
ロハスやハールーンの姿が見えるかと思ったが、姿がなかった。裏通りのもっと安くてあやしげな店を回っているのかもしれない。
坂を上っていくと、前方に参拝客が並んでいるのが見えてきた。
「またか。どこに行っても行列だな」
ティンラッドが顔をしかめる。じっとしているのが嫌いな上に団体行動も苦手なので、行列を見るだけでうんざりするらしい。
「安心してください。我々は聖堂での参拝を望む観光客ではありませんからな。列に並ぶ必要はありませんぞ」
アベルは余裕たっぷりにそう言って、
「近道をお教えしましょう。こちらです」
店と店の間の狭い通りに足を向けた。
「おいちょっと」
オウルはあわてて呼び止める。
そこは小道とも呼べない、ひとりが体を横にしてようやく通れるほどの壁の隙間のような場所だった。
しかしアベルは、人間というよりタコかイカのような動きでするすると入り込んでいく。
「どうしたのですか。早くおいでなさい」
手招きしているが、つくづく妖怪だとオウルは嫌になった。このまま他人の振りをして別れてしまうのが一番良いのかもしれないと真剣に検討したが、
「面白そうじゃないか。行こうオウル」
がぜん元気を取り戻したティンラッドに、断る暇もなく路地に押し込まれてしまった。
「狭っ。歩きにくい。押すなよ船長、足元が暗くてよく見えねえんだ」
「早く進みなさい、オウル。アベルはもうずっと先まで行ってしまったぞ」
「あんな得体の知れねえ妖怪みたいな動きでするする進めるかよ。やたらにゴミが落ちてるし……うわっ、何か踏んだ」
表通りは門前町らしく清潔だったが、裏に回れば他の街と大して変わらないらしい。何だか分からない饐えたにおいが漂っているのも、いかにも裏通りだ。
日も差さないだろう狭い場所なのに、なぜかこちらに面した窓があったりして落ち着かない。しっかりと鎧戸が下ろされているが、もし中からそれを開けられたりしたら住人と至近距離で顔を合わせることになるだろう。そうなったら互いにあまり面白くはない。
「船長殿、オウル殿、何をやっているのです。こちらですぞ」
この細い隙間にも分かれ道があるらしい。アベルが先の方からひょこっと顔を出し、場違いな大声で二人を呼んだ。
「オウルが遅いんだ」
ティンラッドは不平を言って、またオウルを押した。アベルはやれやれという顔をする。
「泥棒ではあるまいし。そんな風にこそこそと忍び歩きをしていたら疑われますぞ、オウル殿。もっと堂々と進まないと」
「進みたくても狭くて暗くて進めねえんだよ!」
つられて大声でツッコんでしまった。こんな隙間に挟まって大声で怒鳴り合っている方がよほどあやしいし、裾の長い神官服でするする進める神官は本当にどうかしていると思う。
この神官、盗賊の方が向いているんじゃないだろうか。つくづくそう感じた。
「ああ、もう邪魔だオウル」
そんなことを考えているうちに、しびれを切らしたらしいティンラッドにひょいと持ち上げられた。
「うわっ、何すんだ船長」
「邪魔だと言っただろう。私はさっさと進みたい」
わめくオウルを担ぎ上げ、ティンラッドは大股に歩きだした。
「下ろせ船長。痛ぇっ、頭をぶつけた。無理やり進むな、ひじが壁をこすってるんだよ、下ろせぇ自分で歩く!」
入り組んだ壁の隙間を出た先は、草ぼうぼうの斜面になっていた。枯れ草の間から春の新芽が伸び始め、小さな花もあちこちに咲いてのどかと言えばのどかな眺めである。
斜面の上には石造りの塀が左右に伸びていた。
「大神殿に行くんじゃなかったのかよ。何なんだよいったい」
すりむいたひじをさすりながら、オウルは不機嫌に言った。抗議が最後まで聞き入れられなかったのだ。
「ですから近道ですよ」
そう言ってアベルは坂を見上げる。
「皆さん、私の後に続いて下さい。少し滑りますから足元にはお気を付けて」
慣れた足取りでひょこひょこと坂を登っていく。あっという間に石塀までたどり着き、下の方をごそごそと探った。
「おお、大丈夫ですな。草刈りをサボった甲斐がありました。オウル殿、早くおいでなさい。ここから入れますぞ」
ひときわ枯れ草が生い茂っている辺りでかがみこむと、やがて塀に大きな穴が開いた。いや、もともと穴が開いていたところを板か何かで塞いでいたらしい。遠目だったのと草むらがあったのとで目立たなくなっていただけだ。
「なるほど。面白いな」
いつの間にか斜面を登り切っていたティンラッドが、興味深げに穴をのぞく。アベルは得意げに胸をそらした。
「そうでしょう。これは私が少年時代に発見したものです。大神殿に何かあった時に必ずや役に立つであろうと思い、それからずっと他の神官に見つからぬようにこっそり管理していたのです」
「いや、あんた絶対サボって抜け出すのに使ってたよな?」
坂の下からオウルはツッコんでしまった。大神殿の規模の存在であれば、いざという時の脱出路くらい用意されているであろう。普通に考えて、せこい抜け穴など必要とするわけがない。
これは、明らかに個人用である。
その点を不問に付すとしても、初めて大神殿を訪問するのにこんな正規でない入り口から侵入するのはどうなのか。不審者以外の何者でもないだろう。
そう指摘するとアベルは、
「そんなことを言われても困りますなあ。表に戻ると、何時間も並ぶことになりますぞ」
幼子を諭すような口調で言った。
世の中には礼儀作法とか踏むべき手続きとかいうものがあるということを、この馬鹿にどうやったら教えられるのだろうかとオウルはいらいらした。
そして、『何時間も並ぶ』という言葉がティンラッドの心を決めてしまった。
「私は待つのは嫌だぞ。並ぶのはもう飽き飽きだ。ここから入れるんだから、すぐに入ろう」
「せーんーちょーうーー!」
叫んだが無駄だった。他人の忠告で船長が決定を翻してくれるようなら苦労はない。
ティンラッドはさっさと抜け穴をくぐってしまった。アベルは穴の横で、
「ほら、オウル殿、早く登っていらっしゃい。ぐずぐずしているとお茶がいただけなくなってしまいますぞ」
などと言っている。
よっぽどこの二人を見捨てようかとオウルは思った。
だが暗くて狭い壁の隙間を迷わずに通り抜け、参道に戻れる自信がなかった。
どうしてこんな目に遭わなくてはならないのかと自問しながら、オウルは暗い気持ちで草だらけの坂道を登った。