第36話:門前町のマドラ -4-
中に入ると、すぐに門前町が広がっている。巡礼目当ての店が左右に所狭しと軒を並べ、客引きの声がやかましい。街並みの向こうの小高い丘には、巨大な神殿の建物が見えた。
「おお、これこそ大神殿の賑わい。懐かしいですなあ。我が魂のふるさとです」
嬉しそうなアベルの横で、ハールーンは仏頂面をしていた。さっきまでのにこやかさは欠片もない。
「お前、いつもの短剣はどうしたんだよ」
オウルは気になっていることを尋ねた。
「短剣?」
ハールーンはつっけんどんに言い返す。
「ああ……上着の中に隠してる分? あんなの、とっくにロハスに預けたよ。身体検査があるかもしれないって分かってるのに、余分な装備をつけたままにしておくわけがないでしょう。最低限の武装はちゃんとしてるしね」
袖口から刃先が見えた気がしたのはやはり気のせいではなかったようだ。
「まあまあハルちゃん。気持ちは分からないでもないけど抑えて」
不機嫌な彼をロハスがなだめにかかる。こんなところで騒ぎを起こされたらたまらないので、かなり真剣だ。
「そんなに心配しなくてもいいよ。僕だって分別はある」
ハールーンは仕方なさそうに肩をすくめる。
「騒ぎになるようなことはしない。……ところで今日は新月だったよね」
空を見上げた目付きは、安心できるようなものでは到底なかった。
「あのな。月は関係ないだろう」
「そんなことないよ。さっきのやつの顔はちゃんと覚えたからね。夜道で会ったら思い知らせてやる。ああ、ちゃんとこちらの顔は見られないようにするから大丈夫だよ」
剣呑な薄ら笑いを浮かべる。夜道で背後から刃を突き立てるのは彼の得意技だと知ってはいるが、大神殿のお膝下でそんなことを実行されてはたまらない。
「待て。ちょっと待て。女に間違えられて面白くないのは分かるが、闇討ちはやめろ」
「はあ?」
止めようとしたオウルを、ハールーンは冷ややかな目で見た。
「何言ってるの。あの美しい姉さまに、僕はこれだけ似ているんだよ。ものを知らないそこらの男が僕のことを女だと思っても、それは仕方ないでしょう。僕だってそんなことくらいでいちいち腹を立てたりしないよ。いやむしろ、それだけ姉さまに似ているっていうことなんだから嬉しくさえある。嬉しくないわけはないでしょう。だってあの美しい姉さまに」
「分かった。やめろ。頼むからやめてくれ」
オウルはうんざりして言った。とりあえず女と間違えられたことは不愉快ではなかったらしい。だが、
「だったら何が不満なんだよ」
人を後ろから刺そうというほどの動機がどこにあったのか、それは知っておきたい。
「決まっているでしょう」
ハールーンはオウルを睨んだ。
「あの男、姉さまの話を『どうでもいい』って言ったんだよ! 僕の姉さまのことを『どうでもいい』って言ったんだ」
そりゃどうでもいいだろうよ。オウルは心からそう思った。
彼の姉、パルヴィーンは確かにしとやかな美女である。しかしハールーンがいかに姉の素晴らしさを説こうとも、会ったこともない人間のことを聞き手はどう受け止めれば良いのか。『どうでもいい』以外の感想はないだろう。後は『姉のことしか話さないこの男が鬱陶しい』ということくらいだ。
そんなことで夜道で刺されてはあの自警団員もたまるまい。オウルは彼に同情した。
「とにかく闇討ちはやめろ。騒ぎは起こすな」
諦めを含んだオウルの言葉に、
「そうですぞ。神域で刃傷沙汰など罰当たりなこと、考えるだけでも罪です」
アベルも同調する。
「そうそう。さあ、とりあえず宿でも探そうよ」
ロハスも話を変えようとしてくれた。
「商売でオレが使っていた常宿が西通りの方にあるから、とりあえずそこへ行ってみよう」
先に立って歩き出そうとすると、
「何故です。宿など必要はないでしょう」
アベルが不思議そうに首をかしげた。
「何を言ってるんだよ。街に着いたらまずは宿探しだろうが」
オウルが言うと、アベルはあきれ果てたように首を振る。
「それは見知らぬ街での話でしょう。よく考えてみてください。皆様にはこの、大神殿の三等神官たる私アベルが共に旅しているのですぞ」
胸を張って言われた。
「ああまあ……それはそうなんだけどよ」
オウルは返答に困った。
「アベルが一緒にいると、何か変わるわけ? 神殿神官の紹介があると宿代が割引きになるとか?」
代わりにロハスがツッコんで聞いてくれた。後半はロハスならではの疑問だったが。
「それもなくはないですが、そういう問題ではありません」
アベルは大真面目に言う。
「大神殿に戻ったからには、我が師である一等神官ソラベル様にご挨拶をせねばなりません。ですので私はこれから内殿に参上いたします。皆様は私の旅の友ですから、一緒においでになり今夜は内殿で過ごされてはいかがでしょう」
オウルたちは顔を見合わせた。
「けど……内殿って、大神殿の内部ってことだよね。オレたち一般人がそんなに簡単に立ち入りできるの?」
ロハスが疑わし気な表情でたずねる。
「もちろんですとも」
アベルは胸を張った。
「私は大神殿の三等神官ですぞ。その紹介があれば当然、入れるに決まっているではないですか」
こういう時はあやしいんだ、とオウルは思った。アベルが自信ありげな時ほど危険なことはない。ロハスもハールーンもそう思ったらしく、浮かない顔をしていた。
「どうしたのです皆様。内殿に泊まればタダですぞ。皆様がお好きな無料です、もっとお喜びください。ああ、ご安心ください。神殿の食事は質素が旨ですが、遠方からの客人となれば山海の珍味や美酒で饗応されることになります。我が師は謹厳と見せかけて実は結構な贅沢好きですから、酒庫には各地の珍しい酒が収蔵されておりましてな。あれを味わえると思うと楽しみでたまりませんぞ」
もてなしのおこぼれに与るつもり満々だった。師匠の酒蔵を狙うなとオウルは思い、つくづくこの生臭神官と一緒にいるのが嫌になった。
やはりこいつは一刻も早く大神殿に返納しよう。そしてもっとマトモな神官らしい神官を仲間に入れるのだ。
「じゃあそれはそれとして、宿は一応別に押さえておいた方が無難かなあ」
ロハスが浮かない顔で言った。
「何故です。内殿で泊めてもらえると言っているではないですか」
アベルは主張するが、九割がた追い返されるだろうとオウルも思う。そもそもアベルの紹介というだけで、自分だったら相手を信用できない気分になるだろう。
「安くても設備のいいところを探してよね」
考えることは同じらしく、アベルの言葉を完全に無視してハールーンが言う。
「僕は貧乏暮らしには慣れてないからね。きちんとしたところでないと眠れないし」
「黙れゴミ館の出身者。砂の上でも床の上でも最初に眠って最後まで起きて来ねえくせに、偉そうに言ってるんじゃねえ」
アベルもアベルだがハールーンもハールーンだとため息をついてから、オウルは一人足りないことにようやく気付いた。
「ちょっと待て。船長はどこに行った、さっきから姿がないぞ」
「船長ならあそこだよ」
ハールーンがだるそうに通りを指差す。
客引きをしていた娼婦らしい女たちに囲まれ、楽しそうに笑っているティンラッドの姿がそこにあった。
「いつの間にあんなところに」
「だいぶ前に離れて行ったよ。つまらさそうだったからね」
確かにハールーンの偏執的姉弟愛や、アベルの手前勝手な妄想を聞いているよりはあっちの方が楽しいだろう。しかし、だからといってパーティの主宰者が仲間を放り出して勝手に遊びに行って良いというものではない。責任感がなさすぎるのではないかとオウルは思った。
「それにしても大神殿の門前町にもああいう女がいるんだな」
師匠と共に来ていた時には見かけなかった気がする。そのせいか何となく、そういう悪徳とは無縁の場所かと思っていた。
「何がですか。あれは疲れた旅人の心と体を癒す、高級宿の従業員さんですな。珍しいものではありますまい」
アベルがサラッと言うが、
「いや、見るからに娼婦だしその説明も娼婦以外の何ものでもないだろうよ」
ついツッコんでしまった。
アベルは顔をしかめる。
「そういう物言いは良くありませんぞ。大神殿は聖なる場所です。そして神殿はすべからく悪と対決しそれを浄化すべきもの。そこに悪徳などあるわけがないではありませんか」
「だって現にいるじゃねえか。あれは娼婦だろ」
「違います。高級宿の従業員さんです」
言い返そうとしてオウルはそれが無駄な問答だと気付いた。
アベルは規格外の問題神官だから別にしておくとしても、その師であるお偉い神官殿も酒蔵に高級酒をたっぷり貯めこむような人物なのだと聞かされたばかりではないか。
神官とは飲酒や淫行には厳しい態度を取るものだと思いこんでいたが、どうやら間違っていたらしい。
大神殿は聖なる場所であるから、そこに悪徳など栄えるわけはない。
彼らにとって大切なのは、事実よりその名目なのではないだろうか。
アベルが特別におかしくて出来損ないなのだ。今までそう信じ込んできた。
だがもしかしたらこいつは、とても大神殿の神官らしい神官なのかもしれない。
オウルは何だかうすら寒いものを感じた。
魔術師とは真実の徒だ。目の前にあるものが予想と違えば、自分の常識の方を修正する。それが当たり前であり、あるべき姿だと考えている。
だがこの場所に集う人々が見るのは、自分の目に映るものと全く違う世界なのではないか。
回れ右してこの街を離れたい。そんな衝動に駆られた。