第34話:うちの姉ちゃん -5-
オウルが屋根に上るのを、ロハスが梯子を出したりして手伝う。それを見届けてからハールーンが言った。
「ねえ、店でも見に行こうよ。午前中は気を遣ってばかりで疲れた」
「そうだねえ。商品も仕入れないといけないし」
ロハスはうなずいて、
「おーいオウル。オレたちちょっと、市場を見に行ってくる」
と声をかけた。
屋根の上からは口汚い罵り言葉が返って来たが、二人は気にせず出かけた。
「ロハスとお姉さんって、僕と姉さまとは全然違うね」
「そりゃまあ、うちの姉ちゃんはパルヴィーン様みたいな絶世の美女じゃないし」
「それは当たり前なんだけど。そういうことじゃなくてさ」
説明しようとして、ハールーンは自分の感じていることをうまく言えないことに気付く。
ずっと一人で秘密を抱えて、心の内を誰かに話すこともなく生きてきた。
そのためだろうか。思っていることを口にする、ただそれだけのことがとても難しい。
「……うちは他にもきょうだいが多いし。子供の頃はばあちゃんもいたし、母ちゃんが死ぬのは少し早かったけど、破産するまでは親父も含めてみんなでいつもがちゃがちゃやってたし。ハルちゃんの家とはそういうところが違うんじゃないかな」
ある程度察してくれたのか、ロハスが何でもなさそうな調子でそう言った。
「そう。そういうものかな」
「うん。そうじゃないかと思うよ」
ロハスが話しやすいのはにぎやかな家族の中で育ったからなのかな、とハールーンは思った。
「ね、この街では何が有名なの?」
「オレの生まれた街と同じようなものだよ。昔は内海でとれる魚介類だったね。今はそうはいかないだろうなあ。何年か前に来た時は、酒とか金物がよく売れたな。それと、ここで買っておくべきなのは調味料。魚介のダシを使ったやつが美味いんだ。昔ほど取れなくなったとはいえ、タイザのカニと同じで全く取れないわけじゃないし」
「ふーん」
取り引き自体は『神の秤』の本店で義兄としないと姉が怒る、とロハスは言った。
ただしそこへ向かう前に、街の市場や商店の様子を見て値段の相場や売れ線の商品を確認しておきたい。
「身内と言えど商売では油断できないからねえ。下調べはしっかりしておかないと」
「分かる。商売って厳しいよね」
そういう点では話も価値観もよく合う二人だった。
露店の並ぶ市場をぶらぶらと、端から端まで丹念に見て回る。
最近大量の商品を持った商人のパーティが街を訪れたらしく、酒などは値段が下がっていた。
「うーん。だとするとやっぱり、ソエルや砂漠の珍しい織物とか飾り物かなあ。大神殿で出すかこの街で出しちゃうか、悩みどころだなあ」
ロハスはぶつぶつ言っている。
「大神殿で商売なんて出来るの?」
「大神殿そのものではダメだけどね。門前町ではそれなりのお金を払えば出店を出せるよ。ただ、出店料がすごく高いんだよね。その分、集まって来る巡礼者がお客になってくれるから利益も出るんだけど。売り上げの中から決まった割合を神殿に寄進しなきゃいけないし、オレが持ってるくらいの商品数だとぼろ儲けってわけにはいかないんだ」
「だったらそんな面倒なところでは商売しないで、ここで全部売っちゃったら?」
「ところがさあ。ここで商売すると『神の秤』商会が相手でしょ?」
ロハスはやっぱり難しい顔をして、少し声を低くした。
「義兄さんは結構チョロいんだけど、そのお父さんが難物。下手すると買いたたかれる」
「ふーん」
ハールーンはあまり興味がなくなった。儲けにならないなら商売する必要はないと思う。
リリアの夫の父……つまり『神の秤』商会の主は、倒産したロハスの実家を買収した張本人である。その因縁もハールーンはすっかり忘れていた。
「じゃあもうやめようよ。必要な物だけ買ってさ、商売はまた今度、もっと利益を出せるところでやろう」
「うーん、そうだねえ」
ロハスが言った時、
「兄さんたち、旅の人かい」
路地の奥から囁くような声がした。ハッとそちらを見ると、暗がりにぼろをまとった人相の悪い男が立っている。
「聞きたいことがあるんだ」
「何。言っておくけど僕たちをだまそうとか脅そうとか思わない方が身のためだよ」
ハールーンの雰囲気がサッと変わる。氷のような殺気を纏う。
相手は怯んだ。二、三歩後ずさる。
「ま、待ってくれ。こんなナリだが、俺は別に盗賊じゃねえよ」
「どうだか」
いつの間にか手にした短刀をくるくる回しながら、ハールーンはすたすたと男に近付いた。薄い剃刀のような刃をすっと男の首筋に当てる。
「くだらない企みがあるなら退散した方がいいよ。今日は忙しくて、僕はあんまり機嫌が良くないんだ」
「ま、待ってくれ。待ってくれ」
それでも男は声を大きくしなかった。低い声のまま、喘ぐように言う。
「本当にちょっと聞きたいことがあるだけなんだ。答えを聞いたらすぐに退散する。……あんたたち、旅の途中でアベルという男の消息を聞かなかったか。大神殿で三等神官をしていた三十くらいの男だ。二年ほど前に大神殿を追い出されて東へ向かったはずなんだ」
ロハスとハールーンは顔を見合わせた。
「アベルって……あのアベル?」
「どうだろ。たまたま同じ名前じゃないかな」
「でも三等神官って」
男の目が昏く光った。
「し、知ってるのか。アベルを」
「いやあ、どうだろ。自称大神殿の三等神官のアベルって人なら、一緒のパーティで旅して来たけどね」
ロハスは首をかしげながら言う。
「でもうちのアベルは、何か使命があるとか言ってたよ。追い出されたわけじゃないと思うな。一年以上前から東をウロウロしてたのは確かみたいだけどねえ」
「きっとそいつだ。間違いねえ。良かった……やっと見つけた」
男は上着の懐に片手を突っ込んだ。ハールーンの青い瞳が険しくなる。
「ちょっと。おかしな真似はするなよ。僕は機嫌が悪いって言ったでしょ。それに慈悲深い方でもないよ」
「何もしねえ、何もしねえよ。これを渡したら喜んで退散させてもらう」
男は汚らしい油紙の包みを取り出した。
「ガイルンから預かったんだ。必ずアベルに返せってな。これを持ってる間、ずっと生きた心地がしなかったぜ。やっと解放される……やっとだ」
その口調には限りない安堵が感じられた。
「え、ちょっと待って。何これ。こんな汚いもの渡されても困るよ」
「知るか。アベルに渡してくれ、それで全てカタが付くんだ。ああ、これでやっと堂々とおひさまの下を歩ける……」
包みを無理やりハールーンに押し付けると、男はすごい勢いで飛びのきそのまま駆け出した。
かなり離れてから一度だけ振り返って、
「何をやっているか知らんが、あんたたちも真っ当な生き方をしたほうがいいぜ。神様はちゃんと見てるんだからな」
と言った。そしてそのまま角を曲がって姿を消してしまった。
「……何、今の。これ、どうしよう」
片手に短剣、片手に汚い包みを持ってハールーンは途方にくれた顔をする。
わけが分からないのはロハスも同じだった。
「とりあえずアベルに聞くしかないんじゃない?」
男が去った路地の暗がりを見つめて、呟くしかなかった。