第33話:存在意義 -3-
「船酔いじゃねえのか」
オウルが聞き返すと、バルガスは口許を歪めた。
「さてな。はたして砂ヘビは船酔いするものかね」
そんなことを言われても、とオウルは思う。
砂漠で暮らしていた魔物だし、いきなり水の上に連れ出されれば船酔いしてもおかしくない……ような気もする。しかしヘビはそもそも船酔いするのだろうか。
「見ておきたまえ」
バルガスは、寝台の横に置かれたヘビの壺をオウルに渡した。
小さくても砂ヘビは魔物。ハールーン以外の人間が壺の蓋を開けると襲いかかって来て噛みつこうとする。それを知っているのでオウルは壺自体触りたくなかった。
だがバルガスに再三促され、渋々蓋を開けてみる。
中には砂漠の砂が敷き詰められている。その上で、三匹の小ヘビがぐったりと横たわっていた。ゆっくりとだが動いているので生きてはいるようだ。しかし、とぐろを巻いたり砂にもぐったりする元気はないようである。
「結界の中に連れ込んだことが原因だ」
バルガスは冷たい口調で言った。
「船から出せばすぐに元気を取り戻す。小さい魔物だが、夕方くらいまでならもつだろう」
そう言えばこの船の中は魔物を排除する結界になったのだった。そんなところに連れ込まれたのでは砂ヘビもたまらないだろう。
気付かないハールーンもどうかしているが、自分も同じだとオウルは苦々しく思った。
壺の中に魔物が入っていること自体、ともすれば忘れそうになっている。
「ハールーン君の症状は昨日とは全く違うな。そう思わないかね」
バルガスは低く言った。言葉は問いかけるような形だが、口調は挑みかかるようだ。
恫喝的ですらあるとオウルは思った。
「……何が言いたい」
にらみ返す相手の顔には表情が感じられない。
「君が思っている通りのことだ」
バルガスは冷淡に答えた。
眠っているハールーンの顔を見た。整った顔立ちの彼だが、今は半分口を開いてぐっすり眠っている。
バカみたいな寝顔だとオウルは思った。
そして、バカみたいなのではなくバカだったと思い直した。
「ハールーンは人間だ。魔物じゃねえ」
きっぱりと言った言葉に、バルガスはまた口許を歪める。
「君はシグレル村の様子を覚えているかね」
シグレル村。それはバルガスが生まれ育ち、後に放逐された場所だ。彼が誰にも知らせることなく大切に守っていた場所でもある。
魔物が跋扈する今の世に、昔の世界が再現された土地。何かの間違いか、美しい夢のように。
「忘れねえよ」
オウルはやや荒っぽく言った。
忘れられるはずもない。十年前に失われ、もう見ることもないと思っていた穏やかな世界が目の前に再現されたのだ。
空間的にも時間的にも限定されたものだったとしても、そこにはひとつの可能性があった。
世界は昔の姿を取り戻せるのかもしれない。
その術の使い手が、よりによってアベルなのでつい忘れそうになってしまうのだが。
そして目の前の闇の魔術師も、その術を操ることが出来るのだ。アベルよりもずっと精妙に。
「君はあの村の周りにいた鳥や動物たちがどこから戻って来たと思っているのだね」
バルガスは低い声のまま言った。
「十年間、どこかに隠れ住んでいたとでも? 魔物がいなくなると同時に森から湧いて出たとでも? そもそも十年前に魔物はどこから世界に現れたのだろうな?」
「知るか、そんなこと」
オウルは目を逸らそうとする。だが闇の魔術師の眼光は、オウルに逃げることを許さない。
「君が魔術師であり学問の道を進む徒であるなら、常に世界に問い続けるべきではないかね。なぜ世界はそうなのか。どうすればその秘密を盗み見ることが出来るのかと。それをせぬなら、魔術師などやめるべきだな」
オウルは不機嫌に黙り込む。悔しいがもっともなので言い返せない。
それにしてもバルガスは何を言いたいのだろう。
十年前に魔物が世の中に現れた時は、たくさんの魔術師がその秘密を解明しようと狂奔した。
検体にするための魔物を捕らえようとして命を落とした者も数人ではない。捕らえた魔物に生体実験を繰り返していた塔もある。
それでも結局、誰も真実に近付くことは出来なかった。
魔物はこの世界を構成する新しい要素だ。そう諦めて、割り切って受け容れてしまう方が楽だった。自分は都から離れ、研究手段を失った魔術師に過ぎないのだから。
なぜ魔物が現れたのかを考えるより、目の前の魔物から自分の命を守ることの方が大切だった。
それなのにバルガスはオウルの思考停止を非難する。目の前のものを見ろと、真実への手がかりを探すのを怠るなと強要してくる。
突然世界に現れた魔物。数を減らしていく元々世界にいた生き物たち。
魔物使いの力を持ったハールーン。
結界の中に再び姿を現した昔の鳥や動物。
人と人の領域で暮らす家畜は昔のまま変わることはない。
なのにハールーンは結界の中で不調を訴える。
「分からねえ。あんたは何を言いたいんだ」
睨むオウルに、バルガスは嗤い声を浴びせた。
「自分で学ぶ気も探求する努力もしない人間に、一から十まで教えてやるようなバカげた真似を私にしろと? サルバール師の塔の弟子たちはそんなくだらぬ真似をしているのかね。知を求めない人間に何を教授しても無駄だろうに」
それからバルガスは、
「ここは空気が悪いな」
と言って船室の扉に手をかけた。
「こちらまで船酔いしそうだ。私は甲板に戻るが、君はどうする」
「……もう少しここにいる」
「好きにしたまえ」
梯子を上がっていく足音を、オウルは粗末な椅子の上で聞いていた。
彼がむやみに情報を開示しないのは、バルガスなりの筋の通し方なのだとオウルも理解はしている。
ソエルの東の砦にいた頃の彼は、間違いなく何か良からぬ企みごとをしていた。
ティンラッドに敗れたバルガスは、勧誘されるままパーティの一員となった。(ティンラッドが断る余地を与えなかったからだが)
その際に出した条件が『自分の過去や知識について穿鑿しないこと』だ。
ティンラッドは無造作にそれを受け容れた。パーティの主宰者が納得したのだから、自分たちもそれに倣うしかない。それも分かっている。
「けど。だったら思わせぶりなことを言うなよ」
ハールーンの気楽そうな寝顔を眺めながら、オウルは呟く。
先ほどのバルガスは饒舌だった。
たまにそういう時がある。彼に出来る範囲で何かを伝えようとしているのだと思う。それを口にする時の態度には腹が立つのは別として。
だが『一から十まで』は堪えた。
魔術師であろうとするなら自ら学ぶ姿勢を持ち続けなくてはならない。知への探求心を持たない人間に魔術師を名乗る資格はない。
それは教えなどというものではない。存在意義として己れに刻み込まれたはずの言葉だ。
塔を離れ都を離れても、魔術師として生きることは変わらない。そう思っていたはずなのに。
生きることだけに必死な日々の中で、いつか自分自身を見失っていたのだろうか。
パーティの仲間だという甘えもあったかもしれない。だがそんなことは言い訳にもならない。
古参の弟子から叱責された、少年の時のような気分だった。
最悪だった。