第32話:内海を渡る -8-
「動きを止めてくれれば十分だ。私がいる!」
ティンラッドは魔物に向かって跳んだ。その際に網がばっさり切り裂かれ、
「あーーっ」
ロハスの悲鳴が甲板に響き渡る。
「魔斬……」
仲間の哀哭には一顧だにせず、ティンラッドはその身の魔力を刀を握る手に集めた。
「清明皓月!」
白い刀身が陽の光に煌めき、真一文字に奔った。
半ば首を切断された魔鳥は、血を噴き出しながら水面に向かって落ちていく。
ティンラッドの体は、残った網の上にぼすりと落ちた。
「いいな、これは。緩衝材にもなって二度お得だ」
何が面白いのか、甲板高く張られた網の上で大笑いしている。
湖が大きく波立った。深みから大きなあぶくがいくつも浮かんでくる。
そして轟音と共に鱗に覆われた『何か』が飛び出した。豪雨のような水しぶきが降りかかる。
襲いかかる波に、船はぐらぐら揺れる。
水面高く跳ね上がったのは巨大な魔魚だった。落下してくる魔鳥の体を大きな口でくわえようとする。
「面舵ぃぃ! 帆を回せえ! 全速力でここを離れろー!」
アンガスが叫ぶ。波に乗って船は巨大魔魚から離れていく。
「待ちなさいアンガス。せっかくの特等席だぞ、まだ何か出てくる!」
網の上でティンラッドが叫んだ。
その通りだった。もう一度水面が大きく揺れ、盛り上がった。
水中から現れたのは真っ白い体の巨大な蛇だった。
大蛇は鎌首をもたげて魔魚から獲物を奪おうとする。
魔魚の尾が曲がり、すさまじい勢いで蛇の横面を引っぱたく。
「これはすごい! もっと近くに寄ってくれ!」
ティンラッドは手を叩いて喜んだ。
「バカは無視しろ! 魔物たちがこっちに気が付く前に、急いで逃げろーー!」
甲板に怒号が響く。
オウルも冷や汗をかいていた。あんな化け物たちに狙われていたとは、今になって震えが止まらない。
だが、腰を抜かす前にやらなくてはならないことがある。
「先達。あの網を切り刻んじゃってくれ。船長を下ろさねえと」
揺れる船から放り出されないよう注意を払いながらバルガスに声をかけた。あのままにしておいたら、ティンラッドが波の中へ放り出されるのは時間の問題である。
「ま、待って。切り刻んだら売り物にならなくなっちゃうよ!」
ロハスが顔を青くしながら叫んだ。
「もう売れねえだろ。船長が派手に切り裂いちまったんだから」
あれをまだ売ろうとしていたのか、とオウルは呆れた。
「繕えば何とかならないかなあ」
「諦めろ」
「切り裂くのはかまわんが」
黒檀の杖を構えながらバルガスがたずねる。
「その場合、船長はまっすぐに甲板に落下することになるのではないかね。帆柱の高さからだ、通常の人間なら生きて着地できるとは思えんが。……あの船長ならそれでも死なないかもしれないとオウル君が考える気持ちも分からないでもないが」
「俺がもう一度風を起こして落ちてくる勢いを相殺する」
オウルも杖を握り直して言った。
「そうすりゃ後は船長が何とかするだろ」
「なるほど」
バルガスはうなずき、
「船長。今から君を落とす。着地に備えたまえ」
頭上のティンラッドに向かって大声で言った。
「面白そうだな。分かった!」
というのが返事だった。それだけで納得するのもどうかと思ったが、面倒くさいのでオウルもさっさと術の準備にかかる。
「バラムィ・カルナル!」
低い声の詠唱と共に鋭い風の刃が飛び、頭上にかかる網を切り刻んだ。
一応ティンラッドの周りは避けている。破れた網を体に巻き付け、長身の船長はためらいなく帆柱の高さから飛び降りた。
「スクローストベトラ・アクサ!」
その影をめがけて、今度はオウルが風を起こす。
バルガスの放つ鋭い風とは違う、いわば空気の塊が上に向かって一気に流れていく。
それは落ちてくるティンラッドの重量を受け止め、わずかだがその速度を緩めた。
「船長! 長くはもたねえ。その間に何とかしてくれ」
「分かった」
網の残骸を命綱代わりに、ティンラッドは出来るだけ低いところまで下りていく。
だが破れた網を目いっぱい使っても、甲板はまだ遠かった。
「オウル、もう少し頑張ってくれ」
ティンラッドは全身の筋肉をばねのように使った。勢いをつけて体を揺らす。風の力に押され、やがて彼の体は振り子のように大きく前後に動き始めた。
帆柱が近付いてくる。ティンラッドは片手を伸ばした。垂れ下がっている帆綱に捕まることが出来れば、それを伝って甲板まで下りることが出来る。
伸ばした指は空をつかんだ。あと少しのところで、帆柱は再び遠ざかっていく。ティンラッドは舌打ちをした。
「もう一度風を起こしてくれ、オウル」
彼は足元の仲間に頼んだ。
「帆柱に飛び移るのに勢いがほしい」
オウルは躊躇った。
「下手に勢いをつけない方がいいんじゃねえのか。ロハスに縄梯子か何か探させた方が……」
「大丈夫だ。問題ない、早くしてくれ」
急かされる。オウルは仕方なく杖を握り直した。
「どうなっても知らねえぞ。船長、うまくやれよ」
「ああ、安心して見ていなさい」
オウルは残った魔力を振り絞ってもう一度呪文を唱えた。
「スクローストベトラ!」
最初の二回ほどの力はない、それでも下から上へと強く吹き上げる風が再び巻き起こる。
ティンラッドは大きく勢いをつけ、今までで一番高い場所まで体を持っていく。
ぼろぼろの網が勢いに耐えかねて大きく裂けた。甲板で見守っているオウルは心臓が止まりそうになる。
命綱が完全にちぎれる直前にティンラッドは跳んだ。風と振り子の勢いが、彼の体を砲弾のように遠くまで運んでいく。
長い指は危なげなく帆綱を掴んだ。そのまま彼はするすると帆柱を伝い下り、何事もなかったように甲板に立った。
一気に力が抜けたオウルは、その場に座り込んでしまった。
「なかなか面白かった。でも、あの蛇はもっと近くで見たかったなあ」
獲物を取り合って激戦を繰り広げ続けている魔物たちを遠目に眺めながら、ティンラッドは名残惜しそうに言う。
返事をする気にもならなかった。言えることがあるとすれば、船の旅は二度とごめんだということくらいだった。