第32話:内海を渡る -6-
東風が吹き始めると甲板に立ったアンガスは大声で、
「帆を張れ!」
と怒鳴った。いよいよ出航である。
「よし来た」
ティンラッドが帆柱にするすると登る。
「あっティンラッド、てめえ勝手に人の船の帆柱に登るんじゃねぇ。他のやつらは何やってる。よそ者にでかい顔させるんじゃねえ」
わめくアンガス。
「帆柱の上はやっぱり眺めがいいなあ」
気にしないティンラッド。
出航早々から波乱の予感しかしなかった。
帆に大きく風を受け、船は内海へと滑り出していく。
「ちょ、ちょっとこれ、すごく揺れてない?!」
ハールーンが挙動不審になった。
「ひっくり返りそう……ひっくり返るんじゃない? ちょっと危ないよ、街に戻ってよ」
舷側にがっしりとしがみついている。
「そんなところにいると、魔物が出たら船から放り出されるぞ。兄ちゃん」
船員にからかわれてハールーンは青くなった。
「僕、船室にいる。陸に着くまで船室にいるから呼ばないで」
ふらふらと船室に続く急な梯子を下りて行った。
砂漠生まれには航海の衝撃が大きかったらしい。
とはいえオウルも山育ち。船旅は未経験ではないがそれほど得意というわけでもない。
「ここではどんな魔物が出るんだ?」
航行が安定したころを見計らってオニスに聞いてみる。
「やっぱり魚の魔物か?」
「もちろん魔魚は多いがな」
オニスは浮かない顔で水面を見た。
「内海はなあ。北の方は割と浅くて魔魚の種類も数も多いが、南側のこっちは深さが分からねえほど深い。魔物が現れるもっと昔から、内海の底は地獄に続いてるなんて言われていた」
「いや、そういう伝説が聞きたいわけじゃなくて」
口を挟んだら、
「話は最後まで聞け」
と叱られてしまった。
「そういう深い場所だから大型の魔物が多いんだよ。遭遇する割合は少ないが、襲われちまったら逃げるのも難しい。巨大魔魚や大蛇が深みに潜んで獲物を待ち、突然浮上してくるんだ。対策といっても水面に気を付けて、異状を見逃さないようにすることくらいしか出来ねえ。運良く襲撃を察知できても、それで助かる保証はない。せいぜい気を付けるんだな」
オウルはゾッとした。それでは運任せもいいところだ。
「ちょっとオニスさん」
ロハスも青くなり、オニスを詰問する。
「そんな危ない航海だなんて聞いてないよ」
「アンガス船長に聞かなかったのか」
会話を耳にしたアンガスが意地悪く嗤い声を上げた。
「海で鳴らしたティンラッドの部下なんだ。そんなことで怖じ気づいたりはしねえだろ? だから話さなかったんだ」
「ただの嫌がらせじゃねえかよ」
オウルはげんなりする。これもティンラッドの人徳と言うべきだろうか。
「だ、大事な情報を告知しないで契約するのは信義にもとう行為ですぞ。契約のやり直しを要求します。港に戻りましょうぞ」
アベルもあたふたし始めた。
「どうしてだ。面白いじゃないか、巨大蛇。私は見てみたいぞ」
帆柱から下りて来たティンラッドが不思議そうに言った。
「その蛇にはどの辺に行けば会えるんだ」
「さあ……」
そんなことを聞かれたオニスも困った様子になる。
「山から下りてくるんだろうから、どっちかと言えば沿岸の方だとは思うが。行けばいるとは限らねえし、分からねえよ魔物の考えることなんて」
「よーし分かった。なるべく沿岸から離れて航路を取れ!」
アンガスが声を上げると、
「どうしてだ。ここは沿岸に寄るところだろう。おーい航海士くん、岸に船を向けるんだ!」
ティンラッドが反対のことを言う。
「てめえは黙ってろティンラッド。これは俺の船なんだよ」
「乗客の要望に従ってくれてもいいじゃないか」
「てめえと心中する義理はねえよ」
やはり船長どうしで喧嘩になっている。しかしこればかりはアンガスの判断に従いたいと思うオウルであった。
「どうして岸から離れるんだ。君は本当につまらないやつだなアンガス」
ティンラッドはぷりぷり怒っている。
「てめえみたいなバカについて行こうって阿呆が世の中にいることがこっちには驚きなんだがな。いいか、沿岸には大蛇だけじゃなく危険が多いんだよ。深みから昇ってくる激しい水流があったりして航海には細心の注意を払うんだ。だからくだらないことを言って俺の部下の気を散らすんじゃねえよこのバカ野郎!」
当然ながらアンガスの方がもっと怒っていたが。
「……面白い人だな」
ティンラッドを遠くから眺め、呆れ半分でオニスが言った。
「いやあ、面白くはないんだけどねえ」
ロハスも渋い顔をしている。当然である。ティンラッドは冗談を言っているわけでも何でもなく、本気なのだから。
「まあ大蛇は本当に冗談ごとじゃないぜ。他にもいつ何が起こるか分からないから、少しでもおかしなことがあったらすぐに知らせてくんな」
オニスはそう言って舳先の方へ歩いて行った。
オウルはため息をつく。
「なあ。対岸の街までどのくらいかかるんだ」
「途中の港町で一泊して、明日の夕方までには着くと思うよ」
ロハスも浮かない顔で答えてから、
「魔物に船が沈められなきゃね」
と付け加えた。
「こんなピリピリした航海がまる二日続くのか」
「あー、何でオレ船旅に賛成しちゃったんだろ? つい昔の感覚になっちゃってたなあ、昔はのん気な船旅だったから」
「船長の熱にも当てられたよな」
オウルも後悔していた。考えてみれば、船を選択すれば魔物に襲われた時に逃げ場がないくらい当然予想すべきだったのだ。
砂漠を出てからの旅が比較的平穏だったのでちょっと油断していたかもしれない。曲がりなりにも水路が生きているという話で、安全に航行できる気分になってしまったのだろうか。
地元民のロハスも、航海経験者のティンラッドも危険があるような素振りは見せなかったし……と思いかけてオウルは反省する。
ロハスは船が沈んだせいで実家が没落したという話を再三していた。そしてティンラッドが楽観的でない発言をすることなどめったにない、ことが船に絡まなくてもだ。
自分が気付くべきだったのだ。そして止めるべきだった。陸路を行っても安全とは限らないことは別として。
「それにしてもよ」
オウルは呟いた。
酒場でアンガスは『船に乗ってこそ船乗り』とくだを巻いていた。あれは航海したいのに、金を出してくれる客がいないのでふてくされているという態度だった。
オニスにしてもロハスの家での仕事を失った後、わざわざアンガスの下で船に乗る道を選んでいる。内海の航海に危険が付きまとうことを誰よりも知っているはずなのに。
「船乗りっていうのはあれなのか。船に乗らないでいられない呪いか何かにかかってるのか」
「さあねえ」
波立つ水面を眺めながらの愚痴に答えなどあるわけもなく、二人の意気は上がらなかった。