第32話:内海を渡る -4-
運賃交渉には時間がかかった。ロハスが値切ろうとしたせいである。
「これ以上は譲れねえ。こっちも危険を冒すんだ」
「危険は乗客のオレたちだって同じでしょ。ごく真っ当で常識のある価格提示ですよ」
「ふざけんな。どこまで値切るつもりなんだよ」
話は平行線のままだ。
「脅すわけじゃないですけど」
ロハスは声を低くした。
「そろそろ決めておかないと、オレと手を打っておけば良かったって後悔することになりますよ」
「あーん?」
アンガスは馬鹿にしたような声を出す。
「戦闘員でもない商人風情が、このアンガス様を脅すってか? 酔いどれてはいても、南海域ではちっとは名の知れた男だぜ」
「あー、だから脅してるわけでは別になくって」
と言ったところで、バーンと大きな音を立てて酒場の扉が開かれた。
「船長、ロハス、オウル! 何やってるの遅いよ、僕おなかすいた。シルベさんが夕食は何にしましょうって言ってるよ」
ハールーンが(よりによってアベルを連れて)店の中に入ってきた。
「……来たのかお前ら」
その顔触れを見ただけでこの後の展開が予想できてしまい、オウルはため息をついた。
「遅いんだもん。困ったことになってるといけないから心配して来たんだよ。わー悪そうな顔。悪い人? 殺す? 殺そうか?」
アンガスを見て上着の中に手を入れるハールーン。その裏側には短剣がぎっしり吊るされていることを仲間たちは知っている。
「悪いやつだが別段殺さなくてもいいぞ」
ティンラッドが平然と流す。
「へーそうなの。残念」
ハールーンは心から残念そうに言った。
「何だコイツは! 何なんだ!」
アンガスがやっと口をきく暇を与えられ、驚愕の表情で叫んだ。怒涛のような登場だったので無理もない。
「うちの変態です」
「コイツか。コイツが変態か。本当にロクなヤツがいないなお前のところの船員は!」
「何、この人。初対面で挨拶もせずに失礼だね」
と、初対面で挨拶もせずに相手を『殺す?』と言った変態は不機嫌な顔になって言った。その顔に『やっぱり殺そうかなあ』と書いてある。
「なかなかいい酒場ですな」
その後ろではアベルが、酒の棚をじろじろと見ている。
「ご亭主。その酒を味見させていただけますかな。ああ、お代はあちらのもじゃもじゃ髪の方につけておいてください」
「ちょっと待て!」
再びアンガスが叫ぶ。忙しいことだ、とオウルは密かに同情した。
「何だお前は、何で平然と俺にたかろうとしてるんだ?」
「はて?」
アベルは首をかしげる。
「これは商談の席ではないのですかな。であれば、売り手がこちらを接待するのは当然でしょう」
「どこの世界の常識だそれは。大神殿じゃあるまいし」
「私は大神殿の三等神官ですが」
「コイツか。コイツが神官なのか。どこからこんなの見付けてくるんだ!」
森で妖怪をやっているところを拾った。
……とはとても言えないなとオウルは思った。率直に言って、こういう仲間たちの存在がとても恥ずかしい。
「ひどいよロハス、お金の話なのに僕を呼ばないなんて」
ハールーンは椅子を持ってきて、ロハスの横に腰を下ろす。
「今、どんな話になってるの」
「船長のアンガスさんが提示してる額がこっち。で、オレが交渉してる額がこう」
ロハスは算盤をはじいてハールーンに見せる。ハールーンの眉間のしわがいっそう深くなった。
「何、この値段。こんなお金を取るんなら当然船室は最高級、食事もお酒もいいものが用意されているんだろうね。言っておくけど僕はそういうのにはちょっとうるさいよ」
……結果的にロハスの予言通りになった。
ハールーンは『ちょっと』ではなく『非常に』うるさい。そして要求は理不尽極まりない。更にアベルが隙を見ればたかろうとする。
二人に攪乱されたアンガスは結局、ロハスの提示した価格で妥協した。人間の言葉が通じるという意味で、まだしも常識的だったからだ。
「その代わりにティンラッドには航海の間、船員として働いてもらうぞ。こっちも人手不足なんだ、それくらいは妥協してもらおう」
「いいぞ」
ティンラッドはむしろ嬉しそうである。
「言っておくが、船員として働くということは航海の間は俺の命令に従えということだからな?」
「分かっている」
ティンラッドはうなずいたが、アンガスは疑わしげだった。
「じゃあ明日は準備をするから、出航は明後日の朝だ。それでいいな?」
こちらに異存はなかった。
「全くひどい客だぜ」
アンガスは毒づいた。
「慣れた航路だが、ティンラッドが関わってるってことは厄ネタ確実だ。それなのに運賃は値切られるわ、乗客はコレだわ。こっちは丸損だ」
乗客がコレというところは聞かなかったことにして、オウルは気になったところだけ聞き返した。
「あの。厄ネタってのはどういうことです」
「ティンラッドの下にいて知らねえとは言わさねえぞ。こいつは昔から、他のヤツが避けて通るろくでもないネタに向かって笑顔で突っ込んでいくヤツだ。この男は厄ネタを拾うことにかけては鼻が利くんだよ。俺は今度の航海では生きて対岸に着けることだけを願うぜ。ティンラッドを乗せての船旅なんて、それだけでやべえや」
そう言い捨てて、アンガスは金を払って酒場を出て行ってしまった。
オウルは横目でティンラッドを眺める。
言われてみれば納得である。『魔王を倒す』なんて雲を掴むような話に飛びついたのもそうだし、アベル、バルガス、ハールーンと普通なら遠ざけて当たり前の相手ばかりを次々に仲間に引き込んでいるのもそうだ。
その名はきっと海に轟いていたに違いない。『厄ネタ拾いのティンラッド』。なんとしっくりくる二つ名なのだろう。
「どうした? オウル」
オウルの視線に気付いた当人は、何も考えていない表情で明るく問いかけてくる。
「……別に」
何を言っても無駄だと判断して、オウルは首を横に振った。
ただ改めて、自分の不運を認識しただけだ。『厄ネタ拾い』に拾われてしまったあの日に呪いあれ。しみじみそう思い返す彼だった。