第31話:岸辺の街 -4-
「もうちょっとで、姉様にそっくりな僕のこの美しい顔が台無しになるところだったんだよ」
ハールーンは非常に不機嫌だった。
「何事もなかったからいいではないですか。全て神のお導きです」
「良くないよ! 何かあったらどうするんだよ!」
「全て神の思し召しですぞ」
時折ガチャガチャと脚を動かす魔ガニ三匹を載せた荷車を引きずりながら、オウルの足取りは重かった。
「食うって凄まじいことだったんだな。俺は認識を改めたよ。もっと食い物を大事にすることにしよう」
「何がだ。大漁じゃないか。今夜はカニ食べ放題だぞ」
ティンラッドは上機嫌である。会話にならない、とオウルはひとりため息をついた。
「……ねえ船長」
何か考え込んでいたロハスが口を開いた。
「やっぱりこの量、多いと思うんだ。シルベさん……うちの番頭だけど、あの人とか残っている従業員に食べてもらってもまだ余る。だからさあ、残った分を街の人に分けてもいいかな?」
「別に構わないが。もともと宿賃代わりに店の人に食べてもらうつもりだったしな」
ティンラッドが答える。オウルは意外だった。船長がそこまで考えているとは思わなかった。いや、仮にも船長として商売なりなんなりをやっていたのならそのくらいの気遣いは出来て当たり前か。しかし今までのティンラッドの振舞から、そんな常識を心得ているとは到底思えなかったのである。
「それが君の家のやり方なら好きにしなさい」
「ありがとう船長。じゃあシルベさんに昔の値段で売りに出すよう相談してみるよ。魔物が来る前の、みんなが河で普通にカニを獲って来れた時代の値段でね。あ、ちょっとは危険手当をもらうけど。『跳ねるニシン』はぼったくりの店とは違うってところを見せないとね」
「待った待った待った」
ツッコんだら負けだと思いつつ、オウルはどうしてもツッコまずにいられない。
「結局商売するのかよ?」
「当たり前でしょ。うちは商家だよ。商人がモノをタダで配るわけないでしょ」
ロハスは不思議そうにオウルを見る。
「いくらいっぱいあるって言っても街中の人に配る量があるわけじゃないし、買いたい人が買えばいいの。それにこの魔物時代に、あれだけの危険を冒して獲って来た魔ガニを昔の値段で売るんだよ? これはもう慈善事業と言っていいんじゃないかなあ」
やはりコイツとも話は出来ない。オウルはつくづくそう思った。
「まさか本当に獲っていらっしゃるとは。しかも一度に三匹も……魔ガニ料理屋の戦士達でもそんなことをしたとは聞いたことがありません」
ロハスの生家にたどり着くと、シルベが荷車を見て目を白黒させた。
「そう? あれ、うちのパーティってもしかしたら強い?」
「強くねえ。勘違いするな。船長と先達が規格外に強いだけで俺たちは別に強くない」
「待って。僕のこと忘れてるよ。僕だって戦えるよ!」
「お前は使いどころが限られている上に運が悪すぎるから微妙枠だ」
「まあまあ。とにかく部屋とお湯の準備をさせましたから、どうぞ奥でおくつろぎください。ロハス坊ちゃま、このカニはどう料理いたしましょうかね」
「そうだなあ。あ、オレはシルベさんたちと相談するから、みんな先に部屋に行っていて」
ロハスはそう言って行ってしまった。残された仲間たちは女中に案内され、奥の広間に通される。
窓からは夕暮れの内海が見渡せた。水平線の向こうに日が落ちようとしており、湖面は橙色に輝いていた。打ち寄せる波の音が絶え間なく響いている。
「絶景ですなあ」
「うん、すごく綺麗だね。姉様に見せたかったな」
「ああ。本当に海みたいだな」
ティンラッドが懐かしそうに言った。
「ところで船長。この先はどうする?」
オウルはたずねた。
「大神殿を目指すんだろう」
「大神殿は内海の向こうだよ。そうじゃなくて、どうやってそこに行くかだ。船を見付けて内海を渡るのか、南岸を陸伝いに進むのか」
「船で行こう」
分かってはいたが即決だった。
「……分かった。船を出してくれるやつがいればそうしよう」
「船さえあれば、私が操船しても構わないぞ」
「アンタだけ船に詳しくても仕方ないんだよ。こっちは素人なんだから。どうせアベルもハールーンも船のことなんか分からねえだろ。先達は……」
バルガスに目をやると、
「残念ながら知識はないな」
フードの下から素っ気ない返事があった。
「ほら。あんたも前に言ってただろ、船長。ひとりじゃ操船は出来ないって。俺たちは人数はいても船を操る役には立たねえ。渡してくれる船乗りを見付けないとダメなんだよ」
「そうか」
ティンラッドは心底残念そうだった。
「訓練したらどうだろう。出来るようになるんじゃないかな」
「何ヶ月ここに留まるつもりだよ。出航できるようになるまでどれだけかかると思ってるんだよ」
「十日くらいかなあ」
「ふざけんな。内海の真ん中で難破する未来しか見えねえよ」
ティンラッドを説得しているうちに日が落ちて、外はどんどん暗くなっていく。そのうち店のどこかから美味しそうなにおいが漂ってきた。
「そろそろ夕飯ですかな」
アベルが立ち上がって扉を開け、廊下に顔を突き出す。
「良い香りです。焼きガニでしょうか、それとも鍋でしょうか」
「複雑な香りがするよ。焼いただけの単純な料理じゃないんじゃないかな」
ハールーンもアベルに並んで廊下の香りを嗅ぐ。
「ご馳走が期待できそうですな」
「だね」
「お前らみっともないから、子供みたいに廊下に顔を突き出すのはやめろ」
オウルはたしなめなくてはならなかった。
「お食事の準備にもう少しかかりますので、どうぞお湯をお使いください」
騒いでいる声が聞こえたのか、女中に声をかけられた。
「僕、行ってくる。さっき土手で転んじゃって汚れちゃったんだ。ねえ、洗濯も頼めるのかな」
「お預かりいたしますよ」
「じゃあお願い」
他人の家の従業員を当たり前のように使うハールーン。その図々しさにオウルの方が焦ってしまった。
「至れり尽くせりですな。まるで王侯の館にお邪魔しているようですぞ」
アベルもご満悦の様子である。
「あのな。ロハスの仲間だから優遇してもらえてるんだぞ。そこのところを忘れるなよ」
念を押してしまう。相手は妖怪だから人間の言葉は通じないと分かっているはずなのだが、ハラハラしてしまって言わずにいられないのだった。ロハスの評判が落ちようと自分には関係ない……そう割り切れればどんなに楽だろう。
棚に飾ってあった古い金属製の看板を眺めながらオウルはもう一度ため息をついた。
看板には跳ね上がったニシンが彫刻されていた。