第29話:再び砂漠の旅 -7-
酒と香料と生乾きの毛皮の臭いに満ちたろくでもない一夜が明ける頃には嵐も去っていった。
明るい陽光の下、灰色の砂漠が広がっている。吹く風は相変わらず凍るようだが、その冷気すら清浄に感じられた。というか天幕の中の空気が悪すぎた、即物的な意味で。
「ねえちょっと。ダメな方の魔術師さん」
せっかくの爽やかな朝だというのに、うっとうしいヤツが絡んでくる。
「僕は別に、酔っぱらっている時に後ろからどつかれたことをどうこう言っているわけじゃないんだよ」
明らかに底意のありそうな口調だ。
「僕は僕が傷付くことなんか何とも思ってない。僕なんかどれだけ傷付いてもかまわないと思っているくらいなんだ」
だったら黙っていてほしい。オウルはそう思ったが、ハールーンはしゃべり続ける。
「でも問題があるんだ。それは、僕と姉さまがよく似てるってこと。ねえ見てよ。僕の顔、姉さまにそっくりでしょう。僕は毎朝顔を洗う時、水面に映る顔を見ては姉さまのことを思い出し、心の中でそっと挨拶するんだ。そうすると姉さまが傍にいるような気持ちになれるんだよ」
うっとりした表情になる。端的に言って気持ち悪い。
「けど」
ハールーンの声が一転して険しさを増した。
「そこへこれだよ。見えるでしょ? 目の周りにあざだよ」
右目の周りに見事なあざが出来ていた。タヌキみたいだとオウルは思った。
「これじゃあ姉さまの顔にあざが出来たみたいじゃないか。ということは姉さまがこんな目に遭わされたと言ってもいいよね。そういうことだよね」
「いや違うだろ。全然違うだろ」
「違わないよ。僕はね、姉さまを傷付ける奴なんて絶対に許しておけないん……」
「うるせえ」
オウルは振り返りもせずぶっきらぼうに言った。
「誰かその変態を黙らせろ」
自分で言い合う気にもならない。
言葉が通じない相手に何を言っても無駄だ。
「それでは僭越ながら私が引き受けましょう」
アベルが嬉しそうな顔つきでラクダをハールーンの方に寄せた。
「ハールーン殿。酒の席でのお茶目はお互い水に流すのが一番ですぞ。気持ちよく酔っ払い、気持ちよく眠る。それで十分ではありませんか。起きたら何故か無一文で酒場の外に放り出されていることも世の中にはありますが、それも人生の醍醐味です」
相変わらず説教のようでいて全然説教になっていない。ただの飲んだくれの体験談である。
「人は神と世界によって生かされているのです。あなたはもっと世界の素晴らしさを広い心で受け止めるべきですぞ。さすれば神への愛と感謝が自然に心を満たしてくれることでしょう」
最後だけは神官らしい感じに無理やりまとめているが、前半のいい加減さを全く打ち消せていない。
アベルはいったい自分の奉ずる神を何だと思っているのか。だがツッコんだら確実にロクなことにはならないだろう。アベルもまた、言葉の通じない生物だからだ。
言葉が通じない生物は、言葉が通じないどうしでつるませておけばいい。
自分が関わる必要はない。これですべて問題解決……のはずなのだが。
「意味わからないんだけど。そんなお説教初めて聞いたんだけど」
ハールーンがアベルにツッコんでいる。いや気にしてはいけない。無視するのだ。
「それはあなたの信心が足りないからですな。信仰を強く持てば、全てが神の慈悲の中にあることが分かるはずです」
アベルは動揺しない。さすがだなとオウルは思った。
「これから毎晩寝る前に、私と一緒に聖句をひとつずつ唱えましょう。あなたの魂の救済のため、大神殿の三等神官が旅の仲間として一肌脱ぎますぞ」
その言葉にオウルはヒヤッとした。
ハールーンが神の救済などを信じているとは思えない。少なくとも廃墟になった故郷を見る彼の青い瞳には、そんなものは感じられなかった。
オウルは他人の心に興味はない。楽観的すぎるバカには腹が立つが、他人の絶望や苦しみを自分が理解できるとは思っていない。だから最初から興味も持たないし、理解する気もない。
それでも妖怪神官ごときがそんなことを言うのは剣呑な気しかしなかった。『聖句を唱える前にまずは一杯』と言ったり、唱えている途中で聖句をちゃんと思い出せなくなったりするのではないか。
それ以前に、天幕を張る頃になったらすっかり忘れているのではないか。
そんないい加減な人間が軽率にハールーンの傷に触れたらどんなことになるのか……。
危険を感じてオウルは咄嗟に振り返ってしまった。
ロハスが苦労してラクダに言うことを聞かせながら、二人に並ぼうとしていた。
「ごめんアベル、お祈りの話は後にして。ねえハルちゃん。他にとりえないんだから、顔だけはキレイにしておいてくれないと。あれだけ話し合った次のオアシスでの商売の計画がおじゃんになるでしょー」
言っていることは結構辛辣な気もするが、口調がのんびりしているせいかハールーンも調子が狂うようだ。
「僕のせいじゃないよ。ダメな方の魔術師さんが僕を後ろから……」
「理由もどうでもいいから。ね、次のオアシスまで何日かかる予定だっけ?」
「えっと……」
ハールーンは懐から(百五十年前の)地図を出して確認する。
「何事もなければ五日くらいかな」
「じゃあ五日以内に絶対にその顔を治すように。もちろん砂漠の旅だから、そんなに都合よくいかないことは経験豊富な商人であるオレにはちゃんと分かってます。十日くらい見ておいた方がいいことも分かった上で、前のオアシスで水とか食糧とか買いこんであります。しかし、しかしですよ。万が一、運悪く五日で次の街にたどり着いてしまった時に、ハルちゃんがそんな顔のままじゃ商売的に大変困るんですよ。分かるよね」
言い聞かせるロハスに、
「何事もなく予定通り五日で次の街に着くのが何で『運悪く』なんだよ」
あんなに黙っていようと思っていたのに、オウルはやっぱりツッコんでしまった。
「商売上の都合だって言ってるでしょ。あのさ、オレたちいろいろ話したわけ。オレは元々貧しい町や村を回って日用品なんかを商う、いわば地に足がしっかりついた地道な小売系商人なのね。でもハルちゃんはオアシスの太守の血統にあぐらをかいた、アコギな殿様商売が身上。けど一緒のパーティに所属する以上、互いの商売の方針もすり合わせなきゃダメじゃん?」
「いや……そんなこと言われても」
ロハスの熱弁にオウルはつい押される。
それはそんなに熱を入れてすり合わせなくてはならないことなのか。そうツッコみたいが、ロハスのなんだかよく分からない迫力に押されて言い返せない。
「ふむ。新参が入ったことでパーティの戦闘方針を練り直すようなものかね」
最後方からバルガスの声が聞こえる。あのオッサン、案外面白がってやがるとオウルは苦々しく思った。
「そうそう。さすがバルガスさん、話が分かるね。それでさ、ハルちゃんの血筋のお墨付きも旅が進んで故郷が遠くなるごとに価値がなくなって来てるでしょ。だからハルちゃんはそろそろ、旅の一商人として生きていく覚悟を決める時だと思うんだよ。ね?」
「え……うん、まあ……」
ハールーンはばつが悪そうに少し目を伏せる。
確かに、この前のオアシスでは誰もハールーンの故郷を知らなかった。
『そう言えば遠い昔、砂漠の果てにそんな街があると聞いたような聞かなかったような……』
そんな伝説の街扱いである。次の街では伝説すら忘れ去られているかもしれない。
魔物のせいで交易が出来なくなったオアシス都市はどこも孤立し、自分たちがやっていくだけで精いっぱいの様子だ。十年も前に消息の途絶えた街のことなど覚えている余裕もないのだろう。
「だからお互いの得意な分野を活かしていこうと決めたわけですよ」
ロハスは得意げに言う。
「オアシスでの商売場所を確保するため、偉い人に挨拶したりするのはハルちゃんがやる。見かけは人当りがいいし、上品っぽく金持ちっぽく見えるもんね。細かい取り決めとか実際のあいさつ回りはオレがやる。常識と経験があるからね」
確かにロハスはその方面ではそつがない。
「店の主力はオレが仕入れた商品でいく。トーレグの酒とかヒカリゴケのお守りとか、ソエルの特産品とかサラワンの果物とかさ。で、ハルちゃんにはその顔を活かして客引きをしてもらおうと思うんだ。お金を持っていそうなご婦人が狙い目だね。上手いこと店の奥に引き込んだら、特別な商品ですと昨日の毛皮を」
「何だ、その悪徳商法の見本みたいな計画は。あのくっせえ毛皮を高額で売りつけるつもりかよ」
オウルはうんざりして二人を見た。
「それだけならまだしも、まさかいかがわしい商売をするつもりじゃないだろうな」
「いかがわしい? いかがわしい商売ってどんな商売?」
ハールーンが口許を吊り上げ、急にニヤニヤし始める。
「僕、世間知らずだから分からないなあ。いいところの奥様やお嬢さまとお店の奥で高級品の取引をすることを、ダメな方の魔術師さんはいかがわしいって言うの? ……それとも」
ああ。コイツ絶対、最大級に性格悪い。
その顔を見ただけでオウルは確信した。
「もしかして僕がもっといけないことをすると思っているのかなあ。女の人からお金を取って、口に出せないようないろんなことをしてあげたりとか? ふーん、昨夜は興味なさそうな顔してたくせに。ダメな方の魔術師さんって結構……」
「うるっせえな!」
オウルはまたハールーンを怒鳴りつけてしまった。
「そういう人を売り買いするみたいな商売には関わりたくないんだよ。そういうパーティだと分かったら、俺はいつも抜けさせてもらってきた。てめえらがそういう真似をするのは勝手だ、だがその時は俺もいつも通りにするだけだ」
話しているのがバカバカしくなり、また前を向いてラクダの足を速めさせる。
「待ってオウル! そういうことだから、腹が立ってもハルちゃんの顔だけは死守して。他に取り柄が一つもないんだから、そこだけはこらえて!」
後ろからロハスの大声が追いかけてくる。ハールーンを擁護しているのか貶しているのか全然分からない。
ここは最悪なパーティだと、改めてオウルは思った。