第27話:夢の終わり -9-
「僕はほとんどこの館から出たことがなかった。だから知らなかったんだ。自分が他の人とは違っているってこと」
そんな風に彼は言葉を紡いだ。
「世界に魔物が増え始めて、余計に僕たちは館の中でだけ過ごすようになった。でもある日、父さまに連れられてオアシスの周りを歩いた時にみんなからはぐれて、僕はハダルと出会った……」
青い瞳がどこか悲しげに、今は塵となった残骸に向けられる。
「初めは恐ろしかったよ。殺されると思った。でもしばらくして気が付いた。ハダルは僕に危害を加えない。まるで僕と遊びたがるように後をついてきた。僕の命令には素直に従った。日が傾いて従者たちが僕を見付けた頃には、僕たちはすっかり仲良くなっていた。そして僕は思ったんだ……ハダルを家に連れて帰りたいって」
「ふむ。魔物に魅入られてしまったのですな」
アベルが全然空気を読まない間の手を入れる。ハールーンは淋しげに哂った。
「そういうんじゃないと思うけど。僕たちはとても仲良くなったから……。小さな子が捨てられた仔犬を連れて帰りたがるみたいにさ。一緒にいたいって思ったんだ。それだけだったんだよ。ハダルが人を害さないのは分かってた。僕はどうしてだか、ハダルのことなら理解できた。ハダルは魔物を食べる魔物で、人には興味がなかった。だから、こっそりと連れて帰ったって大丈夫だって思ったんだ。ハダルは他の生物の意識を魔力で操れた。だから迎えに来た従者たちに試してみた。ハダルの姿を知覚しないように出来るかどうか。……思ったより簡単に出来たよ。ハダルもビックリしてたみたいだ。ハダルの力は、僕とつながることで増幅させることが出来るようだった。街に入っても館に戻っても、誰一人ハダルに気付かないんだ。僕は嬉しかったし、何だか得意な気分になったよ。目の前にいるハダルを誰も見ることが出来ない。それは僕とハダルだけの素敵な秘密なんだ。そんな風に思ってた……」
「子供らしい浅はかな考えですな」
アベルはアッサリと言い切る。
コイツ怖ェ。オウルは二、三歩後ろに下がった。ハールーンのあの戦いぶりを見ておいて、よくそういう対応が出来ると思う。
「だいたい食べ物だのなんだのどうするつもりだったのです。生き物を気軽に飼おうとしてはいけませんぞ。飼うからには責任を持たねばなりません」
そういう問題でもないと思うが。
そもそも、この男が拾ってきたのは仔犬や仔猫ではなくグロテスクな魔物である。
しかし、ハールーンはまた哂っただけだった。戦意がないのは本当らしい。
アベルに傷のひとつくらい付けてくれても良かったのに、とオウルは内心舌打ちした。
「食べ物か。食べ物ね。すぐにそういうところに気が付くんだ。へえ、大神殿の神官様っていうのも、あながち目が節穴ってわけでもないんだね」
「当然ですぞ。神官は神にご奉仕すべく日々自分を磨いておりますからな。特に大神殿の神官ともなれば尚更です。崇め、頭を垂れて神の道に従いなさい」
……会話がすれ違っている気もするが、まあアベルだし。ハールーンも気にしていないようなので、オウルはツッコまない方向で見守ることにした。
「そうだね。食べ物のことは、僕はもっとちゃんと考えなくちゃいけなかった。自分の食べ物を分けてあげようとしたんだけど、ハダルは食べないんだ。生きた魔物じゃないとハダルの食事にはならないんだということが分かって、初めは少し心配したんだけど。……ハダルはね、僕たちみたいにしょっちゅう食事を取らなくてもいいんだ。一月や二月、食べなくても平気でいられる。それが分かって僕は安心してしまった。ハダルの能力の意味を、よく考えもせずにね」
形の良い唇が自嘲する形に歪む。
「ハダルの力は捕食する魔物をだまして、自分の近くに引き寄せるためにあったんだ。かなり遠い距離にいる相手にも自分の存在を知らせて引き寄せることが出来たんだよ。その時の僕はまだそんなことは知らなかったんだけど」
軽く肩をすくめる。
「最初は夕食の席で父さまが『最近、街の近くで魔物の姿を見ることが多くなった』とこぼすくらいだった。それから魔物討伐のため父さまが館を空けることが多くなっていった。でもそれでもまだ僕は、そのこととハダルを結びつけては考えなかった……」
膝を抱え小さな子のように丸くなって座る彼の青い瞳は、周りを囲む誰をも見ていなかった。
ただ、何かを恐れるように。それとも待ち望むように。
白い椅子にもたれて眼を閉じたままの姉にじっと目を注いでいた。