第26話:白い街再び -7-
ハールーンはバルガスを睨み返した。
「街を離れると記憶を失うのはよそ者だけだ。僕たち、ここで暮らしている者にはその呪いは関係ない」
「ほお。そのことも知っているのだな」
バルガスは揶揄するように言葉を重ねる。ハールーンは形のいい唇をかみしめる。
「一度この街を訪れた人がまた戻って来ても、みんな僕たちのことを覚えていないから。厭でも悟るさ。気持ちのいい話ではないけれどね」
「君は、街を通る旅人をいちいち覚えているのかね?」
「魔物が出るようになってから往来が少なくなったから。あやしいヤツが入って来ないか、必ず顔を合わせて確認しているし」
「おい。いいから早く戦わないか?」
二人の問答をティンラッドののんびりした声が遮る。既に新月を抜刀済みだ。先程は気が進まないようなことを言っていたが、やはり暴れたいらしい。
「うるせえな。船長、少し黙ってろよ」
オウルはティンラッドの脇腹を小突いた。二人の会話は、おそらく大事なところにに差しかかっている。
「なぜ、太守である彼女とその弟である君がわざわざそんなことをする。部下に任せておけば良いことだろう。彼女を守りたいと言うなら尚更だ。顔を合わせた相手が盗賊だったらどうするのかね」
「問題ない。姉さまは僕が守って見せるよ」
ハールーンはムキになったように答えた。
「大切なことだから僕たちがやっているんだ。姉さまは街の人たちを守りたいんだ。だから」
「ならば何故、街の中に入れる?」
バルガスはたずねた。
まるで獲物を巣穴に引き入れるアリジゴクのようだ。オウルは見ていてそう思った。
「何故わざわざ街の中に入れてから君たちが面接する? 私はそのことから、いくつかの意味を読み取れるぞ」
闇の魔術師は獰猛に嗤った。
「一つ目。君たちにとって、よそ者を街の外に置いておくより街の中に入れてしまった方が安全なのだ。この街には中に入った者の意識を操作する結界が張られている。入れてしまいさえすれば、その効果はすぐに働き始める」
その黒い目は意地悪く光り、薄い唇の端は相手を嬲るように吊り上る。
こんなヤツに責め立てられて相手はさぞかし気分が悪いだろうな、とオウルは思った。自分だったらそんな立場になるのは御免である。
「二つ目。君たちは必ず外来者に面談しなければならない。それは相手を完全に支配下に置くためだ。例の血で名前を書く儀式、あれが肝なのだろうな。名前を書かせることにより、君たちは入ってきた異分子を操ることが出来るようになり安全を保障される。そして三つ目……」
バルガスの声が相手を脅かすように響く。
「君たちは、必ずそれを自分自身の手で行わなくてはならなかった。代わりにその仕事をさせる人間が、文字通りの意味でこの街にはいないからだ。私はそう推測するが違うかね? 太守殿、弟君」
沈黙が落ちる。
「ち、違います」
パルヴィーンの悲鳴のような声が響いた。
「あれは、ただの古来からこの街に伝わる儀式です。他人を操るなど、そんな恐ろしいものではありません。儀式は太守の一族が行わなくてはならないのです。それだけの話です。ねえハールーン、そうでしょう」
助けを求めるように弟の背中を見る。
「ハールーン、この方に言って。それだけなのだと。そんな恐ろしい意味などないのだと。ねえ……」
その言葉が途切れた。
振り返ったハールーンが瞬時に間合いを詰め、姉に当て身を食らわせたのだ。
ぐったりとしたパルヴィーンの体を、彼は優しく椅子にもたれかけさせた。
「次から次へと姉さまに余計なことを聞かせてくれる……」
長めの前髪をかき上げ、氷のようなまなざしで旅人たちを眺めたその顔は。
もう、太守の後ろに隠れる影の薄い弟ではなかった。
「成程。君が黒幕か」
バルガスはせせら笑った。
「つまり、君は姉君も操っていたわけだな」
「好きなように言えばいい。僕と姉さまの間のことをお前たちなんかに説明してやるいわれはない」
脱ぎ捨てた上衣をパルヴィーンにそっとかける。
その下の白い衣には、所狭しといく振りもの短剣が吊るされていた。
「僕は姉さまを守りたいだけ。姉さまに笑っていてほしいだけ。それを壊そうとするあんたたちは……僕が殺すよ」
抜かれた短剣の刃先がキラリと光る。
「ハダル!」
ハールーンが叫んだ。それと同時に辺りの空気が変わる。
ぬるま湯のように人の心を弛緩させていく、精神を蝕む気配がなくなり。むき出しの寒風が全身に吹きつける。そして、その状態で感じられるのは。
そこら中に充満する魔物の気配だけだった。
「ひ、ひええ! みんな見てえ!」
ロハスがわめいた。
気付けば、彼らを取り囲んでいた衛兵たちは消えていた。
代わりにそこにいるのは蛇やトカゲ、鳥やキツネに酷似した異形の魔物たちばかり。
「よし。やっと少し面白くなってきた」
ティンラッドは上機嫌になった。
「バルガス、そのうろうろしている小物はまかせたぞ。オウルは気を付けておいてくれ。また私たちの頭の中味を勝手にいじくらせないようにな。ロハスとアベルは……まあ適当にやっていなさい」
そうして彼はにやりと嬉しそうに笑い、ハールーンの前に立つ。
「私は、彼と闘う」