第25話:失われた記憶 -7-
「さて、こうなってくると気になることがあるのだが」
バルガスが意味ありげにオウルの方を見た。
「朔の晩、船長とオウル君が外に出ていた。翌朝、二人が共に寝台から出て来られないほど不調を訴えていた。オウル君に至っては今もまだそれを引きずっている。このことについてどう思うかね?」
オウルは眉根を寄せる。
「戦闘になった……? それで負傷したか、呪いでもかけられたのか?」
急に、じくじくと痛み続ける背中のことが気になった。
どうして痛むのか。そのことを一度も考えなかった。魔術師として有り得ない態度だ。
「そんなところだろうな」
バルガスはせせら笑った。
「もっとあからさまに言おう。君たちは戦闘して、おそらく敗北したのだろうよ、完膚なきまでにな。もし相手に手傷を負わせているのなら、今のような中途半端な状態にはなっていないのではないか? 君たちの負けっぷりがあまりにも見事だったから、敵も警戒する必要はないと考えた。だからとどめを刺さず、街から放り出すだけで終わらせたのだ。……どうだね船長。私はこんなところだと考えるぞ」
彼がティンラッドを傷付けようとしたのなら、それは失敗したと言わなくてはならないだろう。
バルガスの言葉にしばし考え込んだティンラッドはやがて顔を上げ、晴れ晴れとした表情で言った。
「つまり、相手は私ともう一度戦いたいということだな。うん、それは面白いぞ。それなら筋が通る。これは面白くなってきたぞ」
実に嬉しそうに顔をほころばせる。
「成程」
対するバルガスは面白くなさそうに呟いた。
「君に人並みの反応を期待した私が愚かだった。ずいぶんと楽しそうだな、船長?」
「ああ」
ティンラッドはにやりと笑う。
「たぎるな。そういうことなら腕が鳴る」
「船長。アンタ、何か思い出したのか」
オウルはたずねた。ティンラッドは上機嫌で首を横に振った。
「全く思い出せない。だが、私のカンが言っている。そいつは面白い相手だとな。再戦できるならこんなに嬉しいことはない。一度負けたというなら、次はその借りをたっぷり返すことにしよう」
うわ、とオウルは思う。こんなに機嫌のいいティンラッドは久々だ。
今日の水路の戦いの時でさえ、これほどではなかった。
つまりそれは。
記憶から消された朔の夜の戦いとやらが、彼にとってよほど楽しいものだったのか。
「難敵のようだな」
同じ結論にたどり着いたらしいバルガスが、舌打ちをした。
「もっとも君が一度負けている時点でそれを予想すべきだったが。船長、君はもう体は何ともないのだな?」
「ああ。問題ない」
「朔の翌朝、どこが調子が悪かったか覚えているか」
「そうだなあ」
ティンラッドは首をひねった。
「背中が痛かったような気がするな。それに体が重くて動きが鈍かった。何だか体が自分の言うことを聞かないような」
「それだ」
オウルは思わず口を挟む。それはまるきり自分が感じている症状と同じだ。
「君も同じ症状かね、オウル君」
バルガスがオウルの方を向く。オウルはうなずいた。
「ああ。背中が痛む。それに手足に軽い麻痺がある。少し動くと疲労感が激しくて、頭痛がする」
言いながら、なぜこんな状態を放置していたのかと自分で呆れた。アベルの回復神言の世話になりたくなかったという気持ちも確かにあるが。
それにしても、これは明らかに手当てが必要な状態だ。薬草も使わず、無理をして動き回っていたなど魔術師として恥ずべき行動だ。
「診せたまえ」
バルガスが素っ気なく言う。オウルはローブをほどき上衣を取った。背中をバルガスに向ける。
「ふむ」
「おお、これはひどいですな」
バルガスの呟きに、いつの間に参加したのかアベルの声もまじる。
「何でアンタまで勝手に診てるんだよ」
にらみつけると。
「回復は神官の専門分野ですぞ。私が診ないでどうすると言うのです」
と当然のような顔で言い返された。
普通の神官ならまあそうなのだが、アベルには言われたくない。そう思うオウルであった。
「刀傷だな」
バルガスの手が背中に触れる。激しい痛みに声を上げそうになり、オウルは無理にそれを押し殺した。
「傷口がひどく化膿している。これでは具合も悪かろう。ロハス君、薬草を。私の処方する物を出してくれ」
「分かった」
ロハスは青い顔をしている。
それほど傷口の状態が悪いのかと思って、オウルは自分でも気分が悪くなった。
「待ってください、バルガス殿。ここは私の回復神言の出番では?」
と、やはりというかアベルが口を出してきたが。
「それはまた今度にしてもらおう」
バルガスが一蹴した。オウルは初めてバルガスに感謝した。
バルガスが薬草を刻んだり、粉にしたものを混ぜ合わせたり、煮出したりするのにしばらく時間がかかった。天幕の中に薬草の鼻をつく臭いが広がる。
「くさいなあ」
ティンラッドがハッキリと言った。
「私におまかせいただけば、こんな手間はかかりませんのに」
アベルが不満そうに言う。
「我慢したまえ」
バルガスは素っ気なく言って、オウルの傷口を洗い膏薬を塗りこんだ。涙が出そうになるほど痛かった。
「傷はこの手当てを数日続ければ何とかなるだろうが。問題は麻痺の方だな」
バルガスの黒い瞳が、冷たくオウルを見る。
それだけで、オウルはなぜかとても悪い予感がした。
「呪いか毒物かというところだが、私の診たところ呪いの気配はない。君はどう思う、アベル君」
「そうですなあ」
意見を求められ、アベルがもったいぶって言う。
「特に呪いの気配はしないような気がしますな、私も。いや、全くないかと言えばそこはかとなくしないこともないこともないようでもないような気もしますが」
「結局分からないんじゃねえかよ」
オウルは毒づいた。あまりアベルにしゃしゃり出て来てほしくない。
「では君自身はどうかね、オウル君。呪いを受けている感じはするか?」
たずねられた。
オウルは顔をしかめる。
「自分のことっていうのは、自分では分かりにくいもんだが。まあ、呪いを受けた感じはしないな」
「なるほど」
バルガスはうなずいた。
「では毒物ということで全員の診立てが一致したな。それでは出番だ、アベル君」
当然のように言われた言葉にオウルは目を剥いた。
「ちょっと待て! 何でそこでクサレ神官に振るんだよ?!」
「何故とは? 彼は神官だ。当然、毒消しの神言を使うことが出来るだろう」
淡々と言うバルガス。
「出来ますぞ」
アベルが嬉しそうに腕まくりを始めた。
「イヤちょっと待て! 別にクサレ神官に頼まなくても、あんたが毒消しの薬を調合してくれればいいじゃねえか。というか自分で作る!」
「どうやって?」
バルガスは薄笑いを浮かべた。
「毒物の種類も特定できていない。君の体から毒薬の成分を抽出することは可能かもしれないが、長い時間がかかるだろう。それまで君の命が持つ保証はないな。ここは神の奇跡にすがるべき場面ではないかね」
「五分の一の確率で殺される奇跡なんかにすがりたくねえ! しかもゼロなんか出てみろ、更に殺される確率が上がるんだぞ?!」
「非常に残念だが、オウル君。今は他に方法がない」
そう言うバルガスの表情は、愉しんでいるとしか思えないものだった。
オウルは先程この闇の魔術師に内心で感謝したことを心底後悔した。
「ではいきますぞ」
アベルはもう神言を唱える体勢に入っている。
「そーれ! フラポンタ・ソルジュール!」
天幕の中に巨大な円盤が出現し、くるくると回り始める。
「イヤだあ! 助けてくれえ」
わめき立てるオウル。
「幸運を祈れ」
バルガスは冷たく言い捨てて、ティンラッドに向き直った。
「さて。オウル君の回復を待たなければならないだろうが、その後の我々の行動はもう聞くまでもないのだろうな? 船長」
「当然だ」
ティンラッドは嬉しげに言った。
「借りを返しに街へ戻るぞ。ついでに記憶も返してもらおうじゃないか」