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桜の下で

作者: 右野 前条

 山手線に揺られて、二十分弱。

 渋谷への到着を報せる車内放送を耳にして、手にしていた文庫本を閉じた。ページは、一ページも進んでいなかった。

 電車が静止した瞬間、陽光を浴びたページをずっと眺めていた所為で、少し、身体が揺らいだ。

 眼鏡を外し、目許を押さえながらホームへと降りた。渋谷の街に常に立ち込める、あの形容し難い悪臭が私を迎えた。それが止めになって、私の気分は憂鬱の海に沈み込んだ。

 ホームの階段を上がって改札を抜けると、悪臭の代わりにバターと小麦粉の芳香が鼻腔に届いた。時計を見ると、十二時を過ぎていた。昼食として適当かはさておいても、気分を晴らす必要があった。つい半時間ほど前、ある会社の面接で大失敗をやらかしたばかりだった。

 井の頭線のホームへと向かう道筋は、身体が覚えてしまっていた。渋谷など私とは縁遠い街と思っていたが、不思議なものだ。尤も、一ヶ月かそこらの間に二十回近くも通れば、覚えない方がおかしいのかもしれない。

 階段の下に広がる通路。幸い、店の前に列はなかった。これが夕刻なら、胃袋を刺激する香りの中で、暫く待つ必要があっただろう。

 アーモンドを四つと、チョコチップとプレーンを二つづつ。私は、この店ではアーモンドが一番だと思っている。シナモンは、粉っぽくてあまり好きではない。

 焼き上がりを待つ間に、辺りに目をやった。スーツ姿の男が三人、買い求めたばかりのワッフルを齧っていた。そのうち一人は、私の同類のようだった。鞄から覗く何処かの会社のパンフレットが、それを裏付けていた。


「お待たせしました」

 

 受け取った紙袋に、手を入れたいという誘惑が私を襲った。それでも、私は立ち並ぶ四人目にはならなかった。汚れたガラスと、汚れた渋谷の街。眼下のモアイ像。そんなものを眺めていても、気分転換になる筈も無かった。

 それに、どちらかといえば焼き立てよりも、少し時間が経って表面がカリッと乾いている方が好きだった。出来たての熱く柔らかな状態は、確かに食欲をそそるが、猫舌の私には少々厳しい。下北沢で電車を乗り換える頃には、程好く冷めていい塩梅になっているだろうか。小田急線の下りホームで、電車を待ちながらワッフルを齧ることを想像して、私の気分は幾らか軽くなった。そこで半分、残る半分は帰ってから食べるとしよう。アールグレイを淹れて、文庫本に向かいながら。

 工場のコンベアーのように流れる人の波に乗って、井の頭線の改札へと歩いた。頭上を見上げるまでもなく、もう料金は覚えてしまっている。五百円玉を券売機に投入して、ボタンを押した。銀色の硬貨を拾って、改札を潜った。急行が、たったいま扉を閉めようとするところだった。

 悪態を吐きながら、走った。半分以上の距離を残して、無情にも扉は閉ざされた。五年に及ぶ学生生活のなか、運動不足で萎え切った脚では間に合う筈も無かった。

 仕方なく、もう一方のホームで発進を待っている鈍行へと身体をやった。急行を目の前で逃したことで、私の気分はマイナス方向へと僅かに針を戻した。席は全て埋まっていたが、十分にも満たない短い時間を座って過ごすためだけに、何車両分かの距離を歩く気力はなかった。

 一分後に、列車は渋谷駅から滑り出した。安全確認をする車掌の声が、間近で響いた。

 渋谷から下北沢は、手荷物を網棚に上げてまで、鞄の文庫本に手を伸ばすほどの距離ではない。それで、私は車内を見渡したぎり、車掌の挙動を眺めて短い乗車時間を潰すことにした。制帽から除く髪には幾分か白いものが混じり、中年も半ばを過ぎたといったところだろうか。くたびれた中年、そんな感を受けた。

 電車は、直ぐに次の駅に着いた。扉のロックを外して、ホームを確認する為に一歩外へ。僅かな停車時間のあと、狭い車掌室へと戻って、扉を閉める。車掌の勤務時間がどの程度のものかは知らないが、彼は、その間ずっと同じ行動を繰り返しているのだろう。毎日毎日、何十年も。飽きはしないのだろうか。終わりの見えないレールの上の、延々と続く退屈な人生。決まりきった、変化のない日常。そんな職業には就きたくない、そう思った。

 ――直後だった。目を柔らかく細めて、彼は車掌室の窓を開けた。その視線を追うと、そこには七分咲きの桜並木があった。そういえば、もう四月まで数日を残すのみだった。いつの間にか、世の中は春になっていたようだ。自宅とバスと電車、そして駅と企業を往復するだけの生活が続いていた。景色を眺める心の余裕など、何処にもなかった。ましてや、それを楽しむことなど思いもつかなかった。

 ふいと、視線を車掌室へと戻した。心地良さそうに、穏やかな春の風を浴びていた。彼には、日ごとに変わってゆく景色を眺める贅沢がある。それを楽しむ意志さえあれば、どうやら、退屈というわけではないようだった。私は、深く息を吐いた。

 数十秒のあとで、電車がスピードを落とした。普段は無意識に通り過ぎるだけの、名も知らぬ駅。自然と身体が動いて、私はホームに降り立っていた。勿論、用事などはない。ただ、桜を見ようと思った。




 初めて降り立った街は、春の匂いがした。四百五十円分の切符を改札機に投げ込んだだけの価値は、十分にあった。コートが要らないほどの陽気に包まれて、当てもなく見知らぬ街を歩くうち、知らぬ間に小声で唄を口ずさんでいた。森山直太郎。どちらかといえば、卒業式で合唱されるような部類の、別れと再会の願いを唄った曲。世に桜や春を題材とした曲は数多だというのに、何故、よりによって。一度、自分の音楽センスを見詰め直すべきかもしれない。恐らく、無駄に終わるとは思うが。深夜三時に、ニコニコ組曲を聴きながらハードSFを読むような人間の趣味を、そう簡単に矯正出来る訳がないのだ。

 ポータブル・プレイヤーでもあれば具合のいい音楽を探すところなのだろうが、生憎、私はその手のものを持ち合わせていなかった。イヤフォンやヘッドフォンといった類のものが嫌いで、MDにせよMP3にせよ、手を出したことはない。耳は痛くなるし、周りの音は聞こえない。あんなものを好んで使う人間は、いつか難聴になるだろう。

 鳥の声、風に揺れる枝葉の音。行き交う人々の靴音に、通り過ぎるエンジン音。時折、井の頭線のレールが揺れる。今の私にとっては、変わることのないレコーディングされたリズムよりも、二度とは同じもののない、この天然の楽曲が好ましく思えた。

 そうやって、取り留めもなく歩くうち、いつか私は桜の下に辿り着いていた。広い公園だったが、人気はなかった。平日の真昼間に公園を散歩する人間など、そうそう居ない。この景色を独占するかと思うと、気分が良かった。

 足元の芝生と頭上の青空とが、私を誘っていた。少しだけ迷った末、私は仰向けになって芝生の上に寝転んだ。この陽気ならば、近いうちに春物のスーツを出す必要があるし、コートも要らなくなる。それが、明日からになっただけだ。それが、さしたる問題とは思えなかった。

 視界一杯に広がる桜と、雲ひとつない蒼空。花見にはこれ以上ないというほどのロケーションだった。生真面目に直立したままの鞄に、手を伸ばした。その中には、ブラック・ニッカのポケット瓶が入っている。文庫本サイズの、文庫本を読み終わるより早く空になる小瓶。履歴書や筆記用具の合間に、常に潜ませているものだった。緊張を感じた時には、便利なものだ。トイレに駆け込んで、二・三口ほど一気に呷る。それで気が静まって、腹が据わる。唯一の欠点は、ミネラル・ウォーターを持っていない場合、口を濯ぐのに手洗いの水を使わねばならないことだった。そんな欠点も、今は関係のないことだった。ここはアンモニア臭の残る古い社屋のトイレではないし、そもそもが口を濯ぐ必要もない。

 鼻腔に抜ける香りが、喉を焼く灼熱を伴って流れ込んだ。琥珀色のプラズマ塊。それが食道から胃の底へと滑り落ちて、全身へと拡散される。赤血球が全身の細胞まで酸素を運ぶのと同様、血流はアルコールの熱をも運ぶ。それも、迅速に。その熱が脳に達するには、そう時間は掛からなかった。直ぐ冷え切ってしまう指先に対しても、普段から同程度のサーヴィスを提供して貰いたいと願うほどの速度だった。よくよく考えれば、朝の六時にロールパンを齧ってから、何も口にしていなかった。空っぽの胃に流し込んだ生のウイスキーは、凄まじいコスト・パフォーマンスを発揮して、身体中に酔いを巡らせていた。財布が苦しいときには、試してみるのも一興かもしれない。傾けたポケット瓶をちびちびと舐めながら、埒もないことを思い浮かべた。我ながら、馬鹿げた考えだった。それをアルコールの所為にして、また、大きく瓶を傾けた。

 瓶の半分ほどを空けたところで、蓋を閉めた。四月の陽気とアルコールとが手に手を取り合って、手当たり次第に睡魔を喚び寄せていた。大きな欠伸が、幾つも漏れた。滲んだ視界には、矢張り、薄紅色の桜が春の陽光の中で輝いていた。これだけ肩の力を抜いたのは、何ヶ月振りだろうか。微睡みに揺らぐ意識を手放して、睡魔に全面降伏することにした。それが最善の選択肢であることは、疑いようがなかった。

 

 

 

「……ねえ。寝てるわけ? それとも、倒れてるの?」


 そんな言葉が、心地よい午睡に沈む意識を覚醒させた。スーツ姿で地面に寝転んでいる人間を見れば、確かに、急病で倒れていると勘違いするのも仕方ないだろうか。声の主が警察官や救急隊員でなかったことを、幸いに思うべきかもしれなかった。

 薄っすらと開いた瞼の合間に、膝を曲げて屈んでいる中高生くらいの少女を認めた。濃紺のジーンズと、オリーブグリーンのジャンパーを着込んでいて、まず、美少女といって通用する顔立ちをしていた。どこか物憂げで、少し吊り目がちの、冷めた瞳が印象的だった。四年ほど前に別れた恋人も、そんな目をしていた。

 可愛らしい少女と云うには華やかさに欠けたし、凛とした少女と評するには、ぴんと張り詰めた生命力のようなものが欠けていた。しかし、美少女には違いなかった。少なくとも、私のかつての恋人よりは整った外見をしていた。


「寝てるんだよ。花見をしてたのさ」


 身体を起こして、傍に転がっていたポケット瓶を掲げてみせた。ちくりとした刺激を首筋に感じて、芝生の欠片を払い落とした。その間、少女は胡散臭げな視線でポケット瓶を眺めていた。形の良い細い眉が、大きく歪んでいた。


「おじさん、失業者? こんな昼間から、お酒なんて」


 職を求めているという点では、当たらずとも遠からずといったところだろうか。採点をするとすれば、六十五点ほどは与えてもいい解答かもしれない。

 とはいえ、見ず知らずの少女が相手だとしても、失業者という誤解を受けるのは心外だった。いや、見ず知らずの相手だからこそ、余計に正しておきたかった。誤解を解かないままに別れたら、この少女のなかで永遠に私は失業者のままとなってしまう。別に二度と会うこともないだろうが、それではあまり気分が良くないというものだ。


「失業者じゃないよ、就職活動中の学生だ」

「ふうん」

「それと。おじさんじゃなくて、お兄さんだ。多分、君と五歳か六歳くらいしか違わないよ。まだ、一応、二十代の前半だ」


 無感動な相槌を打つ少女に、私は力説した。流石に、二十代の前半でおじさんと呼ばれたくはない。三歳や四歳の子供なら兎も角、十代の少女の目におじさんと映っているのであれば、由々しき事態だった。

 そんな私の胸中を知ってか知らずか、少女は残酷な言葉を吐いた。羊羹に刺さる爪楊枝のように、その言葉は私の心を貫いた。


「おじさんじゃん」


 私に出来たことは、力無く首を左右に振ることと、ポケット瓶の蓋を開けることだけだった。中高生の女子にとって、大学生とは憧れの存在ではなかったのだろうか。塾講師や家庭教師のアルバイトをしている幾人かの友人の顔が、脳裏に浮かんだ。今後、彼らの言葉は話半分に聞くことにしようと心に決めて、ウイスキーを呷った。陽光に晒されていた瓶の中身は、救いようもなく温まっていた。

 温いウイスキーを飲み下すと、唐突に空腹感を覚えた。アルコールの刺激を受けて、胃袋が自らの存在意義を思い出したようだった。紙袋の封を切って、中身も見ずにワッフルを掴み出した。生憎と、アーモンドではなくチョコチップだった。生地自体の食感に混じって、時折、チョコチップの砕ける感触が歯に伝わる。その度に、ワッフルの自然な甘さとは別種の甘味と香りが口中に広がった。

 ものの数十秒で食べ終えて、二つ目を袋から取り出した。プレーンだった。アーモンドが四つに、プレーンとチョコチップが二つづつ入った袋から二つを取り出して、アーモンドが入っていない可能性。幾度となく受けている入社試験の能力検査で慣れ親しんだ設問だった。答えは、十四分の三。大体、二十パーセント程度の確率を引き当てたことになる。嬉しくも何ともないが。

 さくさくとした歯応えを楽しむうち、濃く淹れた紅茶が欲しくなった。無論、昼下がりの公園には薬缶とガスコンロはないし、ティー・ポットもない。仕方なく、人肌ほどにまで温まったウイスキーを口にした。

 そこで、少女から向けられる怪訝な視線に気付いた。その視線は、私の口許に向けられていた。


「ああ……食べるかい?」


 差し出した紙袋に、少女は無言で白く細い手を入れた。六分の四という確率に従ってアーモンドが姿を見せた。ワッフルをまじまじと見つめながら、少女は訝しげに口を開いた。


「……酒飲みって、甘いものが苦手なんじゃないの?」


 そのステレオタイプな疑問に、私は笑った。酒といえば大半が日本酒であった時代なら兎も角、二十一世紀の現代にそのような御約束はない。少なくとも、私はよくシュー・クリームを食べるし、時には一人でケーキを食べに喫茶店にも入る。甘いものを肴に酒を飲むことは滅多にないが、それは相性や好みの問題ではなく、倍増するカロリーを恐れてのことだ。


「ウイスキーは甘いものにも合うよ。チョコレートにだって合う」


 わざわざ肴に甘味を選ぶことはなくとも、甘味を食べる際に酒を飲むことは間々ある。要は、どちらが主かということだ。買い込んだ甘味を楽しみながら、サイド・ボードの酒瓶に手が伸びるのは自然な流れなのだ。ことにチョコレートは、大抵の洋酒に合う。それは、バレンタインの時期にデパートの地下を歩けば、簡単に知る事の出来る真理だった。


「嘘だあ」


 そんな真理は、告白して二秒で拒絶の言葉を吐かれる漫画のワンシーンのように、ばっさりと切って捨てられた。どうやら、少女はバレンタインなどというイベントとは無縁であったようだった。義理から本命に至るまで、手作りのチョコレートを渡しているという可能性もあるが、そんな可能性は、二回続けて袋からアーモンド以外のワッフルを引き当てる確率よりも低い。


「嘘じゃないよ。ウイスキー・ボンボンだって、そうだろ」


 頭から嘘と決め込んでいる人間を説得するには、動かしようのない実例を示すのが最適の手段だ。私は、それでウイスキー・ボンボンを引き合いに出した。私は、ウイスキー・ボンボンを先月の頭に食べたばかりだった。デパートでやっていたチョコレートのフェアで、生チョコやトリュフと一緒に買い込んだ中の一つだった。

 一気に噛んで、口中で混じり合うウイスキーとカカオの香り。ゆっくりと溶けてゆくチョコから、染み出してくるウイスキーの味わい。食べる楽しみという点については、チョコレート菓子の中でも秀逸な部類に属すると評価していいだろう。


「何それ、知らない」


 しかし、どうやら少女の評価は別であるようだった。それどころか、評価対象にすら入っていないらしい。嘆かわしいことだった。


「丸いチョコの中にウイスキーが入ってるの。チョコでなくて、砂糖の殻に入ってるのもあるっけな」


 それ以外に、説明のしようは無かった。過不足ない説明とは言い難かったが、私の表現力ではそれが限度だった。

 案の定、ウイスキー・ボンボンは少女の認識を改めることは出来なかった。視線を宙に彷徨わせたままの少女から戻ってきたのは、気のない返事だけだった。


「ふうん。美味しいの?」

「それなりに」


 それで、ウイスキー・ボンボンの話題は途絶えた。話下手な男同士、あるいは男女の間でよくあるような沈黙が訪れた。特に話すべき事柄もなかったし、見ず知らずの少女を相手に滔々と語り続けるほどにウイスキー・ボンボンを愛しているわけでもない。仕方なく、私は三つ目のワッフルを食べ始めた。それは、チョコレートの味がした。

 少女は、膝を抱えるような格好で私の傍らに腰を下ろして、黙ってワッフルを食べ続けていた。両手で摘んだワッフルを、薄い唇を僅かに開けて少しづつ齧る。そんな小動物な仕草を目にしてすら、少女に可愛らしさというものは感じられなかった。

 その理由に、私は思い至った。少女の表情には、物を食べた際に当然生まれるべき感情の動きといったものが存在しなかった。ただ口に運んで、咀嚼して嚥下するだけ。義務として食べているような、無感動な動作だった。勧めた側としては、複雑な気分になる。不味そうな表情を浮かべられないだけ、ましと思うべきなのだろうか。

 暫くの間、私と少女は無言でワッフルを食べ続けていた。私は二つ目のプレーン・ワッフルを食べて、少女は二つ目のアーモンド・ワッフルを食べた。渋谷駅の汚れたガラスの前に並ぶ男達のように、黙々と食べた。それを食べ終えてしまうと、私は文字通りの手持ち無沙汰になった。日向のうたた寝は、例外なく喉の渇きをもたらす。水も紅茶もなしで、ワッフルをもう一つ食べる気にはならなかった。


「ねえ、おじさん?」


 漸くワッフルを食べ終えた少女が、口を開いた。あまりに自然な呼び掛けの調子に、私は訂正を諦めた。この少女の中で、私は一人で花見をしていたおじさんとして、永遠に認識されたままなのだ。あまり、有り難くはない話だった。


「自殺したことって、ある?」

「ないよ」


 あるわけがなかった。あったならば、今こうして生きて酒を飲んでなどいない。その旨を少女に答えると、少女は微かに笑った。穏やかで小さな、けれど自嘲気味の笑みだった。そんな微笑に、私は見覚えがあった。そこで、少女の手首に巻かれた時計に気が付いた。デザインを重視した繊細な女物ではなく、しっかりとした造りの男物の腕時計。少女の白く細い手首を、不釣合いに太い革のベルトが覆っていた。何年も会っていない、この先もずっと会う事のないだろう女も、そんな時計を巻いていた。


「じゃあ、死にたくなったことは?」

「うん、あるよ。つい先刻まで、山手線に飛び込もうかどうか迷ってた」

「なんで?」

「会社の面接で、ちょっと失敗した」

 

 嘘ではなかった。四人の面接官との問答で、私は緊張のあまりに特大のミスをやらかしていた。それは、選考から一発で滑り落ちる部類のミスだった。私が天涯孤独の身であったなら、山手線の外回りが何十分か遅れていたかもしれない。

 

「ふうん。死ななかったのは、なんで?」

「山手線を止めたくなかったんだ」


 少女の眉が微かに上がったが、私は大真面目だった。ラッシュ時を外れた真昼間とはいえ、山手線を止めれば数百から数千万の損害が発生する。私は木の股から生まれたわけではないので、当然、その損害は家族へと請求されることになる。だから、山手線は一時間に一周のペースを保って、平常どおりに運行を続けている。月が地球の周囲を二十七日で周るように。


「よく判らないけど……本当に死にたかったなら、そんなの関係ないんじゃない?」


 確かに、それは一理あった。本当に死にたいと思った人間が、後先のことを考えて行動するかと言われれば、疑問が残る。これから死ぬ人間には先などないのだから。

 それを踏まえて振り返ってみれば、私の感情は「穴があったら入りたい」に近いものだったのだろう。たまたま目に留まった穴が、入ったら二度と戻れない深淵であったというだけで。


「だろうね。ま、気の迷いだったんだよ」


 尤も、その気の迷いで年間どれだけの人間が死を選んでいるのか知れたものではないが。実際、鉄道自殺には衝動的な自殺が多いらしい。死者の意思を確認することなど出来る筈もないが、物の本によれば、そうあった。ふらりと一歩を踏み出すだけで良いのだから、気の滅入っているときに直ぐそこに命を絶つ手段があって……ということかもしれない。日常から、白線一本を踏み越えるだけ。人生をリタイアするのは、意外と簡単なことなのだ。それを再確認させてくれた少女には、感謝しなければならない。

 とはいえ、何の脈絡もなく感謝の言葉など口にしたところで、気味悪がられるのが関の山だ。だから、私は別の言葉を選ぶことにした。それが感謝の印になるかどうかは、判らなかったが。


「だけどね、知ってるかい?」

「……何を?」

「本当に死にたい人間は、手首なんて切らないんだってさ」


 瞬間、少女の身体がびくりと動いた。怒って立ち去られればそれまでだったが、そうはならなかった。少女は左腕を隠すように胸に抱いて、腕時計の幅広のベルトを右の手のひらで抑えていた。

 少女が衝撃から立ち直るまで、私は待った。桜と青空を見上げて、ゆっくりとポケット瓶を傾ける。麗らかな春の午後、満開の桜の下で偶然に出会った美少女とのツーショット。ここまで整ったシチュエーションのなかで、会話の内容がウイスキー・ボンボンと死についてとは。手元にアルコールがあって良かったと、心底そう思える状況だった。

 遠くの空で、一筋の飛行機雲が生まれていた。青い空に、くっきりと刻まれる白い線。越えようと思えば、いつだって越えられる線。その白線を越える人間は、この日本だけでも年間で三万人以上もいる。未遂を含めれば、その数は倍以上にハネ上がることだろう。この少女も、白線の近くに佇んでいる。


「……なんで?」


 中空の白線が青に混じって消えた頃、少女がゆっくりと口を開いた。困惑と幾許かの怯えの色が混じってはいたが、少女の声ははっきりとしていた。


「君より、幾らか長く生きてるからね」


 長くといっても、五年か六年でしかないだろう。しかし、思春期における五年間というものは、それ以降の十年以上に匹敵するほどに濃密なものと相場が決まっている。世間一般からすれば、私は半人前のモラトリアム大学院生に過ぎないが、この少女の心中を忖度する程度のことは出来る。それは幾らかのやや一般的ではない経験に拠るところも大きいのだが、それは少女に説明する必要もないことだった。


「何それ」

「年の功ってやつさ。だから、まあ……君くらいの子が悩むことなら、相談に乗れるかもよ」


 呆気にとられたような表情を浮かべて、少女は私を見遣った。単純に驚くでもなく、唖然とするでもなく。砂漠のど真ん中で雪だるまを見つけた人間なら、こんな顔をするかもしれない。私はじっと、少女の瞳を見つめた。

 そんな睨めっこは、大して長くは続かなかった。少女が堪えかねたように吹き出して、笑い始めたからだ。


「……別に、冗談を言ったつもりはないんだけどな」


 憮然として、溜息を吐いた。私は真剣そのものだったが、少女からすれば、その真剣さが滑稽に映ったのかもしれない。少なくとも、今の言葉のなかに笑いどころはなかったはずだ。


「面白いね、おじさん。普通、見ず知らずの相手の悩みなんか聞かないよ。なんで?」


 ……さて、何故だろうか。気まぐれといってしまえば、それまでだ。明確な理由は、自分でも判らなかった。少女の瞳がかつての恋人に似ていたからかもしれない。もしくは、数時間前までの私に。

 私が答えないでいると、少女は笑うのを止めた。自嘲気味の微笑を浮かべて、どこか中空を見上げていた。その横顔を眺めるうち、少女はぽつりと口を開いた。


「……人間って、どうして生きてるのかな?」


 中々に、奥の深い問いだった。古来より、多くの哲学者や宗教家の頭を悩ませてきた疑問である。恐らく、そこに唯一絶対の正しい解などは存在しない。それがもし存在するとしても、少女の問いに答えることは私には出来ないだろう。哲学者でも宗教家でもない酔っ払いは、人生の意味を問う相手としては、些か不適切に過ぎる。

 酔っ払いであるところの私は、少女の望んでいる回答を探すのを諦めた。少なくとも、後世に自身の遺伝子を残すため、ヒトという種族の存続のため、そんな散文的な答えを期待しているのでないことは、明白だったからだ。


「どうして、そんなことを?」

「こんなつまらない世界は、いつまで続くんだろう……って、そう思ったの」


 死ぬまでだ。などと、身も蓋もないことは口にしなかった。真実が常に歓迎されるとは限らない。その程度のことは、私にも判る。そも、少女とて一度はそう考えたからこそ、男物の時計を巻いているのだろう。


「高校で苛められてるとか、そういうんじゃないの。おじさん、そんな風に思ったでしょ?」


 誰だって、最初に思い浮かべるのは多数例だからね。少女の言葉に頷いてから、私はそう答えた。少女は、私の答えなど耳に入っていないかのように、後を続けた。これは少女の独白であって、私の同意を求めているのではない。その程度のことは、私にも判る。私の返答は、ただ、少女の話を聞いているということを示すサインでしかない。物憂げな瞳がこちらに向いていれば、首を縦に振るだけで済んだだろう。しかし、少女の視線は遠い中空の彼方から戻ってきてはいなかった。


「ただ……この退屈な世界で生き続けなければいけない意味がね、判らなくなったの」


 それが判れば、苦労などしない。そんなもの、私だって判りはしない。現実は、漫画やゲームのように単純ではない。世界を救うだとか、運命の人との恋愛を成就するだとか、判り易い目的が存在するわけではないのだ。

 目的、目標。そんなものが、そう簡単に見つかるわけがない。そして、生涯を捧げるべき目的を見つけたとしても、それが成就するとも限らない。才能、性向、時の運。そういったものに恵まれなければ、そこで終わってしまう。それが、この世界で生きるということだ。これまでの二十数年、さして長くもない人生で得た教訓を、しかし、そのまま少女に伝える気にはならなかった。


「……判らなくなった結果が、その腕時計かい?」

「私にとって大事なものとか、生きる意味。この世界の良いところ。向こうに近づけば、そういうのが判るんじゃないか……ってね」


 左の手首に視線を落としながら、少女は溜息を吐いた。十代の少女には不似合いな、何かを諦めたような溜息だった。


「だけど、駄目だった。こんなとこ、ちょっと切った程度じゃね……」

「ま……君の選択は悪くなかった。他の方法なら、いま、こうして君と話すこともなかったろうから」


 そうしたら、ワッフルは一人で食べれたんだけどね。私の言葉に、少女は苦笑を浮かべた。


「……それで、おじさん、どんなアドバイスをくれるの?」


 さして期待もしていない様子で、少女は視線を僅かに私へと向けた。私は、やや大袈裟に肩を竦めてみせた。


「まあ、世界を面白くするのは、ちょっと無理だね。それが出来たら、とっくに自分でやっている」


 嘘ではなかった。いまの私は、どうすればいいかを知っている。が、それは、教わって出来るような種類のものではないのだ。少女が自分で気付かなければ意味がない。


「ただ、まあ……経験からすればね、一つ言えることはある。君は、高校何年生だ?」

「三年生」

「なら、あと一年だけ耐えるといい。高校を卒業して……」


 進学するにせよ、就職するにせよ、そのいずれでもないにせよ。一般論として、生活の大きな変動は、その人間に何かしらの変化を生むものではある。人間は環境の産物だとは、よく言ったものだ。ただし、私は一般論を口にするつもりはなかった。


「大学生になれば、薔薇色の楽しいキャンパス・ライフが待ってる、なんて、私、信じてないけど」


 少女の反応は、冷笑に近いものだった。そんな言葉は、聞き飽きているとでも云わんばかりだった。しかし、その程度の反応は私の予測の内だった。少女の視線が失望に変わる前に、私は新たな言葉を紡いだ。


「そのとおり、よく判ってるじゃないか。高校を卒業したって、退屈なのは変わらない。君が変わらない限りはね」


 私の反撃に、少女は目に見えて困惑していた。未来に希望を持てないという悩みに対して、その救いのない展望を肯定されたのである。悩みの種に肥料を与え、水を注ぐようなものだ。恐らくは、少女がこれまで周囲の年長者たち――教師や親、ともすれば医者も――などから、手を変え品を変えて浴びせられた言葉とは正反対であっただろう。しかし、私は私の言葉が真実であることを知っている。無論、少女の周囲の年長者たちも知ってはいるだろう。ただ、迷える年少者に、輝かしい未来の存在を信じさせることが自らの立場に伴う義務であると、思い込んでいるのだ。私には、そのような義務はなかった。


「ただ、その先は、時間が流れるのが凄く早くなる。五年間が、子供の頃の一年くらいに思えてくる」


 適当なことを言っているつもりはなかった。例えば、五歳の子供にとっての一年は、それまでに過ごした人生の五分の一、二十パーセントにも相当する時間である。二十をとうに過ぎた私にしてみれば、五パーセント以下の時間でしかない。勿論、実際はそのように直線的に感性が変化するわけではないが、急激に変化する境が、十八歳前後、つまりは高校の卒業程度だろう。まあ、多少の個人差はあるだろうが、この際、そういった些細な点は問題ではなかった。


「だから、あと一年。それを我慢出来れば、なに、そこからは短いもんだ。残りの人生を我慢することくらい、楽に出来るはずさ」


 そう締め括ると、私は気恥ずかしさからウイスキーを呷った。偉そうに演説してはみたが、何のことはない。これまで私のなかに澱のように沈んでいた諦観を、明確な言葉の形にしただけだ。

 だから、まあ。実際のところ、私の言葉はアドバイスなどではなく、ただの時間稼ぎでしかなかった。可能性が一パーセントであっても、ゼロよりはマシの筈だった。少女が変わるか、世界が変わるか。世界を去れば、そのいずれの可能性もゼロになるのだから。


「……斬新な考え方」

「はは。ま、で……もし生きてるあいだに世界が面白くなれば儲けもの、そう思っておけばいい」


 まじまじと私を見つめる少女の瞳には、七十六パーセントの呆れと十五パーセントの驚きがあった。残る九パーセントが何かを推察する前に、少女の瞳は私の視界から消えた。少女は、先程までの私のように芝生の上へと身を投げ出していた。少女は瞳を閉じて、小さく口を開いた。


「お酒……ちょうだい」


 こちらを向くでもなく、少女は手を伸ばした。未成年がどうこうなどという指摘をするほど、私は無粋ではなかった。黙って握らせたポケット瓶の中身を、少女は、一息に呷ってみせて、次の瞬間には当然のように咳き込んだ。


「……大丈夫?」


 涙を流して苦しむ少女は、しかし、いつの間にか笑い声を挙げていた。涙と鼻水とウイスキーの雫を撒き散らしながら、笑っていた。苦笑でも冷笑でも、自嘲気味の微笑でもなかった。ただ、年相応の健康的な笑顔を浮かべていた。


「空、きれい……」


 少女は熱い息を吐いて、舞い上がった澱をアルコールの微粒子と共に吐き出した。ああ。もう、大丈夫だ。少女の見上げた青空には、もう、飛行機雲は刻まれてはいないはずだから。


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