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泥を踏み抜き光を求む

 栄えているには栄えているなりの理由がある。

 例え主がバカであろうと、単純に、簡単に……三州を、今では四州を束ねる程の家に発展するであろうか。

 並み居る豪族達を名家の威光で……言うなれば血を多く流さずに以って従えてきた。それは容易な事では無い。


 組織化された文官達が筆マメから血を滲ませるまで書簡に向かい、歴史から受け継がれてきたモノを昇華させ、研鑽されて来た地方政治。

 時には厳しく、時には優しく、大なり小なり波風を立たせながらもしっかりと成功させてきた外交。

 少しでも生活基盤が揺るがない場所を求めて根付き、身なりにあった生活の中で血税を収める民達。


 民は明日のごはんのおかずが少しでも多い方がいい。一日一日を確かに生きて行きたい。それが当たり前。

 言うなれば、上が汚かろうと綺麗であろうと、暮らしに問題が無ければそれでいいのだ。

 袁家大本はそこを見誤らなかった。否、変えなかった、と言った方が正しいであろう。国が成り立つ基準を見誤らず、繰り返されてきた歴史の継続をしっかりと保っている。試行錯誤を繰り返しながら。

 袁術領は元から土地柄も合わず、荒れすぎていて発展もあまりしていなかった為に、さらには首輪付きを利用しようと飼っていた為に、大本の南皮で行われているような政治をしなかっただけである。所詮は予備の拠点程度でしかなかった、という理由もあるが。


 そして元来、王とは民の側に立つ者では無い。格差社会に於いて、身分の高いモノに民が己の意見を言う事など、その者達が許さない限りまず有りえない。いや、一文官であろうとも、一武官であろうとも、通常、王に意見出来るのは許された時のみであろう。

 徳高きモノ、と誰かが言う行いは、本来なら民にとって当たり前の事を“身分が低いモノに対して”行っているに過ぎなかった……そのような事も多々あったのだ。

 こうべを垂れさせ、為政者達のおかげで日々此れ安全に生活出来ている、と感謝されるのが上位者にとっての当たり前。そんな世の中なのだ、この時代は。

 だから街中で民の目の前で行われているモノは、袁家に於いては当然の事。何も、問題は、無い。


「御神輿わっしょい! 御神輿わっしょい! おーっほっほっほ! おーっほっほっほ!」


 神輿に担がれ、屈強な男達に支えられ、煌びやかな衣服を纏った王が街を順繰りに巡回して行く光景は、袁本初の治めるこの街では普段通りの事態である。

 王が、一番最頂点に君臨するモノが、豪著な生活を行えている……それはこの国が豊かである事を示す何よりの証拠であり、揺るぎない指標にして、民の心に安心を齎すモノ。従属する豪族達にも、財力という最も分かり易い“力”を見せつける事が出来る。

 質素倹約な王。いい事であろう。それはまさしく、“いい王”で“徳高き王”であるのだろう。高名な者達がお綺麗な思考でそう願った、理想的な王の姿であろう。心血を注いで民の為に働く者達にとって、尊敬の眼差しを与えるに値するモノであろう。

 だがそうでは無い下々のモノにしてみればどうだ。

 王が質素な衣服で、倹約した生活をしていれば、部下達はそれより上の生活など出来はしない。自分達もそうであれ、と言われて従えるのは、心の底から信を置いて従えるモノ達ではないのか。民の目から見れば、どちらが上かの基準は見た目を於いて他には無い事は明白であるのに。

 部下の方が威張っている、力を持っている……なんと頼りない王か! そう思われる事も、確かにあるのだ。王は絶対者として君臨してこそ、そういった考え方は根強い。弱き人々が支配されたがる本質も持ち合わせているが故に。

 別に気にしないで好きにしていいよ、などと言われても、積み上げられてきた習慣や既成概念は毅然として目の前に立ちふさがっている、ということ。

 彼の曹孟徳――華琳でさえ、自分の身分に合った生活基準を確立し、それに見合ったギリギリのラインまで無駄を省く事に留め、威厳を示し、力を示し、絶対者たる覇王の姿を見せつける事に抜かりはない。

 贅沢は敵、されども、人から見える自分を意識しなければならない。身分とはそういったモノである。権力に基づいた立場とは、そういうモノである。

 もう一つ、こういった……ただの金の無駄遣いとも取れる行いには意味がある。昔の桂花は清潔な思考を持っていたが故に、その行いの“狡さ”に気付けなかった。

 金は世の中を回るモノであり、回すモノでもある。

 誰かが金を使えば他の誰かの手に渡るのは当然の理。金が入れば使いたくなる。強欲に溜め込むような者達はある程度生活基盤がしっかりしていて、民に影響を与える立場の人。又は腹に真黒い願望を秘めているかだ。

 麗羽が湯水のように金をばらまくのは、そういった者達“以外”。

 神輿担ぎの男も、神輿を作る職人も、煌びやかな衣服を作る服屋も、材料を提供する者達も……あげ始めればきりがないが、溜め込まない所に溜め込んだ金を回しているのだ。

 上の者達が金を多く使えば生活が豊かになるモノ達は、確かにいる。それを上手く扱っているのが夕であり、袁家である。

 行き過ぎているか……と問われれば答え難い。だが、それでもこの街が問題なく回っていて、さらには……


「また袁紹様が神輿で回っていらっしゃるぞ」

「クク、良く飽きが来ないモノだ」

「まあ、あのお方が楽しそうで何よりだ。こうして街に顔見せに来てくれる王ってのも、あんまりいねぇだろうし」


 民との絆も、ある意味で繋いでいる。

 目立つ外見に目立つ行動は記憶に残る。民にとっては雲の上の存在のような人物が笑顔で、威風堂々……とは言い難いが、豪華絢爛に街を行けば、それだけ顔を覚えられる。

 白蓮とは真逆……そう、取る事も出来る。

 コツコツと己が努力を積み上げて深い絆を繋ぐ彼女と違い、名家の威光と代をおって作られて来た問題の無い生活基準の上に財力とインパクトを以って浅く広く絆を繋ぐ。

 言うなれば、大枚を叩いて絆や信頼、風評といった無形の財産を買っている。金という力は、何時の時代も使い勝手がいい。

 麗羽に対する人気は、こうして積み上げられていく。


「おーっほっほっほ! おーっほっほっほ!」


 高笑いを耳にして、居並ぶ民達には手を振るモノもある程度いる。唯の勘違いしたバカなどでは無い為に、“しっ、見ちゃいけません”と言うモノも居ない。

 怨み憎む貧しい者達もいる。だが、そんなモノが居るのは世の常。生活がちゃんと出来ているモノが圧倒的に多いこの街の中で、その少数は淘汰されていくだけ。弱肉強食は人間社会でも適応される。

 全てを助けろ、などと真正面から口に出来るのは政治を知らない偽善に染まった愚か者か、救済を為した事があり、且つそれを出来うるだけの力を持っている者くらいではなかろうか。

 政治は感情論や綺麗事では出来ない。ただ、厄介な事に、民の側に立つ王たちは絆を繋いでそれを覆し……後に人の本質という現実に打ちのめされてゆっくりと世界を腐敗させていくモノが圧倒的多数であるから恐ろしいのだが。


 一通り街々を巡って袁本初の威光を知らしめた後に、城へと戻った麗羽は背筋を伸ばし、


「ご苦労様。それではごきげんよう」


 ふっと微笑みを残し、優雅に、優美な動作で身を翻し、頭を垂れる男達を置いて居城の中へと進んで行く。給金を手渡すのは下々の役目。わざわざ口にするまでも無い。

 廊下を歩けば、上層部の手の及ばぬ下級文官達からは、にこやかに挨拶をされる。品のある微笑みを返すだけで、彼女は進んで行く。

 奥に行けば行く程に昏い暗い闇の園。それが袁家。彼女はその中心に据えられた傀儡。微笑みを崩す事は無く、品位を下げる事も無く、“袁本初”という役割を演じ切る。幼少期から作り上げてきた仮面は厚く固く、もはや切り替えるまでも無く、どちらもが自分であると言えるかもしれない。

 そんな彼女は今日の午後、二人の友と細やかなお茶会を予定していた。

 袁家に仕える武官、顔良と文醜――――斗詩と猪々子。

 麗羽がバカを演じている事に気付かず、疑わず……秘密を明かされても、『やっぱり姫はバカだなぁ』『何も変わらないじゃないですか』と、態度も向ける想いも同じままで、慕って付き従ってきた二人であった。

 くるりと右に曲がり、中庭へと進んで行き、東屋に視線を向けた麗羽はいつもと同じ微笑みであれど生気が宿る。


「あ! ひめっ……っ……いってぇ!」

「ぶ、文ちゃん、大丈夫?」

「にしし、問題ないぜ。姫ーっ! 遅いですよーっ!」

「もう、ふふっ、あわてんぼうなんだから」


 ぶんぶんと椅子から立ち上がった途中で机で身体を打ちつつも元気よく手を振る猪々子と、心配しつつまるで母親のように笑う斗詩。

 麗羽の微笑みは張り付けられた仮面では無く、心に来る温かさから自然なモノであった。


「ちょっと猪々子さん? わたくしとのお茶会が嬉しいのは分かりますが、もう少し気品というモノを身に着けて落ち着きなさいな。そう、華麗にして高貴なわたくしのように」


 歩み寄りながら、よろしくて? というような呆れの吐息。腕を優雅に組んでたわわな胸が強調される。


「そうだよ? 文ちゃんはがさつな所とかもうちょっと直さなきゃ」

「えー、だって堅苦しいの苦手だし」


 同じく微笑みながら優しく嗜める斗詩は麗羽の椅子を引き、口を尖らせて不足を示す猪々子と共に、麗羽が腰を下ろしてからそれぞれの席に着いた。


「ふふ、まあいいですわ。斗詩さん、お茶を」

「はーい」

「あ! あたいの分も!」

「ふふっ、はいはい」


 猪々子と斗詩の二人は、言葉遣いも態度も砕く事を許されている。二人が麗羽とそのように仲良くなったからこそ、上層部にとっては麗羽に対する牽制として役に立っているのだが。

 傀儡は無能こそ望ましい。されども、麗羽は頭が良かった。私塾時代では華琳よりも優秀で、一番の成績を収めている程に。

 華琳の奇抜な発想や飛び抜けた才能を教育者達が評価出来なかったのが理由であれ、頭のレベルがある程度上の者達が集められるはずの私塾で一番になるというのは、並大抵ではありえない。つまり、麗羽は秀才タイプなのだ。

 だから上層部は縛った。万が一、改革などとのたまわないように。家のやり方の継続を望み、裏で牛耳っている。

 上層部は恐れている。変革を恐れ、自身の立場の崩壊を恐れ、ぬるま湯の居場所が壊れる事を恐れ……新しい風に吹き飛ばされる事を恐れている。

 時代は巡るモノであるのに。新たな世代が未来を切り開いていくのは世の常であるというのに。


 愚かしい……と麗羽は感じていた。己が真なる王佐と、両腕と言える二人の親友、人の昏きを隅々まで知るモノを味方に得てから、まざまざとそう感じていた。

 臆病な己に対して愚かしさを感じている。自分の命が、彼女は大事であった。名誉も栄光も誇りも何も、生きていてこそ。

 命を投げ捨てるは容易では無い。誇りの為にと命を賭けられる白蓮や華琳が、麗羽には眩しくて仕方ない。

 怖いのだ。彼女は。死ぬのが心底怖い。仮面を被ってでも居場所に縋りつこうとするほど、彼女は死への恐怖が刷り込まれている。

 人として、否、生物として当然の欲求。生への渇望からは逃れられなかった。

 誇り無い、と彼女の本質を知った人は言うだろう。それでも彼女は生きていたい。生に縋りつきたいのだ。

 上層部の愚かしさを知っていながら悲しむだけで動かないのはその為。強引な改革を始めようとすれば、毒を盛られてじわりじわりと弱らせられながら、分家の跡取りでも立てられる。

 何がしかの責を押し付けられて家から放り出されても、他での生き方を知らない彼女はのたれ死ぬしかない。外は怖い。野盗もいる、暴漢もいる、袁家に恨みを持っているモノも多々いる。見た目がいいだけに、どれだけ蹂躙されるかも理解していた。

 前の戦二つで首の挿げ替えには十分な理由となっている。もはや袁本初は、“曹孟徳に勝利出来る可能性”という首の皮一枚で繋がっているだけであった。


 死への恐怖から、切り捨てられる事への恐れから、彼女はこの街に居る間は何も出来ない。

 麗羽には上層部への発言権もほぼ無い。首を縦に振るだけの簡単なお仕事をしているに過ぎない。事務仕事、豪族達との謁見、地方へ出向いての外交もままあるが、それも言われたままをこなすだけ。こなせるだけの才と社交能力を備えている事を、外部の人間たちは家の金とバカの仮面に惑わされて気付けない。ただ一人以外は。

 高貴な生まれの彼女は、他勢力との付き合い、上の人間との付き合いなどで外交能力等々が磨かれてきたのだが、それが当たり前の事と思っているから、本人でさえその凄さに全く気付いていないのも、誰しもに見抜かせない理由かもしれないが。


 王佐達を得た事で麗羽は自信を持ち始めたが、まだ勇気が足りなかった。

 猪々子や斗詩に守ってやると言われても、彼女達に何か危害が加わるのも怖かった。袁家というこの場所は、麗羽にとっては黄金で作られた牢獄に等しい。


 二人と緩やかな会話を繰り返して和みながらも、麗羽の心には悲哀が来る。


――もし、次の戦で勝てなかったら……わたくしもこの二人も、夕さんと儁乂さんも……用済みと断じられる。政治的に見れば、戦の責を持って首が飛ぶのはわたくし。勝つためには猪々子さんも斗詩さん儁乂さんも決死で戦わなければならず、疑われている夕さんは戻っても処断が必定。なんて……なんて私達に苦しい状況ですの……。白蓮さんの作った家とは、どうしてこうまで……


 違うのか……と考えて二人に気付かれないように眉を少しだけ寄せた。

 二人との会話に微笑みながら、心で涙を零した。

 白蓮の作った家が羨ましい。自分の家は、いつでも安息の場所では無い。彼女が作っていたと聞く平穏な日常が欲しい。そう、心から願った。

 出来るなら、彼女と共に作りたかった。河北動乱で彼女を従えられなかった今となっては、叶わない願い。


――こんな弱気ではダメですわ! 勝てばいいのです、勝てば! 華琳さんに勝てば袁家改革派を立ち上げる事も容易。わたくしの、“袁本初”の名声が過去を上回り、内部対立もこちら側に傾くでしょう。欲を持った人間というのは、甘い蜜をある程度約束すれば従いますし、儁乂さんを敵に回す事の恐ろしさはあの方々が一番知っているはず。そうすれば漸く……わたくしの……“麗羽”としての一歩が踏み出せる。


 そう考えると、グッと心に火が灯った。

 希望的な思考は、夕が忠誠を誓ってくれたからこそ出来るようになった。

 死への怯えは、振り払う事は出来ない。されども、己が望む生への活路を見出す事は出来る。

 なんと心強い仲間か。目の前の二人は心の柱。そして夕と明は、麗羽にとって希望の光だった。さながら夜明けを知らせる日輪の如く。

 思考と会話の二つを成り立たせていた麗羽は、ふと、聞いてみたい事が出来た。


「お二人は夕さんの悲劇はご存じ?」

「田豊の、ですか?」

「……わたし……ちょこちゃんから聞いてます」

「ええっ!? いつの間に聞いたんだよ斗詩!?」

「幽州の戦の時に。文ちゃんに話したら怒って何かするかもしれないからって内緒で」

「うっわー……明の奴ひっでえなぁ」

「ふふ、猪々子さんの性格を把握してこそ、ですわね」


 麗羽の言う通り、猪々子が聞けば、郭図に対して悪感情を向け兼ねない、と斗詩はうんうんと肯定を示す。自分でさえも、聞いたその時は顔を見るのも嫌になったのだから、と。


「どうしてまた?」

「いえ、さすがに夕さんには直接聞けるわけもないですし、その……少しでも彼女の詳細を知っておこう、と」


 不思議そうに首を傾げた斗詩に、麗羽は次第に消え行く声音で答えた。もじもじ指を絡め、顔を赤らめて、麗羽は願う。

 己が王佐の悲劇は耳に挟んだ程度。母を人質に取られている、とは聞いているが、どういった状況で、どのようになされているのかは聞いていない。

 沮授の事は麗羽も知っている。古くからの忠臣であり、上層部でも数少ない常識人にして今は勢いが衰えた中庸派閥代表。そして嘗ての筆頭軍師。病床に伏したのも心労がたたってだけだと思っていた。

 麗羽が今まで見せる事のなかった仕草に、猪々子と斗詩は一寸呆気にとられるも、二人共がふっと優しく微笑んだ。


「文ちゃん。ちょっとだけちょこちゃんの所行っててくれる?」

「はぁ? なんでだよ。あたいが聞いちゃいけないってのか?」


 斗詩の哀しげな目を見ても、自分だって聞くぞと言い張る猪々子。


「ダメ……なんだ、ホントに。お願い」


 ぎゅうと眉を寄せて必死の懇願。猪々子はやれやれと頭を掻いて、ため息を一つ。


「むー……斗詩がそこまで言うんなら……我慢するけどさ。けどいつか絶対話してくれよな! あたいだってあいつの友達なんだから!」


 一言残して立ち上がり、斗詩が頷いたのを見て、猪々子は寂しげながらものしのしとその場から離れて行った。

 ほっと息を一つ。真剣な表情で麗羽の方を向いた斗詩は、麗羽の湯飲みに穏やかな香り漂うお茶を注いでいった。


「では、話しますね。田ちゃんの事。そして、ちょこちゃんと郭図さんのお話を」


 緩い日差しが差し込む中庭の東屋。

 斗詩の口から、麗羽の王佐たる少女の絶望が紡がれていった。





 †





 それは黄巾よりも前に起こった。

 少しばかりの不調を訴えながらも机に向かっていた沮授が、血を吐いて倒れたのだ。

 号泣している夕の声が聴こえて飛んできたのは警備の兵達。担がれて直ぐに寝台へと連れて行かれた。

 この時代の医者というのは、病について現代のようにはっきりとは分からない。

 今まで伝えられてきた症例と重ね、その時に効いた薬を調合して飲ませるくらいが治療である。この時代の医者の扱いはあまり良くない。直せなければ詐欺師扱いされる程に。

 沮授の病は、症例が少なかった。

 故に、薬がどう作られるかを知る医者は少なく、探している間に悪化の一途を辿り、歩けぬほどになった。

 薬が見つかっても延命程度と知らされた時、絶望の淵に堕ちたのは夕。

 ちなみにその頃には桂花はもう居ない。居れば必ず、夕は桂花の事を利用していた。

 筆頭軍師に沮授から推薦された彼女は、どうにか母を救おうとあらゆる手立てを調べに調べた。上層部もさすがに沮授の才を失うのは痛かった為に、それに協力した。

 そんな中、袁家のお抱えとなった沮授専属の医者は調合材料に特殊なモノを要求していたのだが……その内の一つが、必要のないモノだとやっと見つかった別の医者から分かった。

 当然、偽りの材料を求めた医者には制裁が待っていた。

 夕を絶望に落としたモノを許さない女が、一人。

 医者の知識は素晴らしい。明はそれを知っていた。どうすれば人を生かす事が出来るか……それを裏返せば、どうすれば人を殺せるか、だ。

 明はその医者から知識を吸い取った。長い長い日数を掛けて。そうすれば命を助けてやる、と嘘を付いて。もし、夕が病気に掛かった時にどうすればいいかも知る為、そんな理由もあった。

 その日数が拙かった。一人の男がその間に、上層部を懐柔した。


 曰く、田豊は叛意の疑いあり。沮授のように忠誠を誓わず、袁本初を傀儡とせずに、いずれは袁家の体制を内側から劇的に改革するやもしれぬ。


 嫉妬は根深い。

 沮授を陥れる時機を今か今かと待ち焦がれていた郭図が、その後継者たる夕に網を張らないわけがあろうか。

 桂花との交流がバレていたのだ。だから郭図は、自分の身が危うくなった時に使う切り札として、その証拠を残しておいた。

 かくして郭図の思惑は成功。上層部は夕を縛る事に決めた。

 処断しないのは沮授という有能なモノを失って、さらに補佐をしていた夕まで失う事は多大な損害を生むからである。

 病気になったのは郭図のせいでは無い。助からないのを知った後に、悪化を早めたのが彼なだけ。後継者の不信の証拠も十分、よって郭図は責められる事は無かった。

 ただ……化け物が一人従者としてついているのが、上層部にとっても、郭図にとっても最大の誤算であった。

 ソレを育てたのは袁家だ。人の命の輝きを己を満たす快楽として喰らう化け物を作ったのは、他ならぬ上層部である。

 心の壊れた人形として使える駒が、夕に興味を持ってしまったのが歯車の軋み。沮授だけは、それを見越して明と夕を引き合わせていたのだ。

 沮授は決して自刃しない。生きている限り、沮授は袁家の改善を望み続ける。それが彼女なりの忠義というモノであった。寝台の上で、沮授はその生が尽きるまで筆を取ると決めていた。

 夕に明を付けたのは親心、袁家で過ごすならば改善に尽力出来るように、離れるならば他でも生き抜けるように。


 そうこうしている内、一日二日で上層部と郭図はあらゆる対策を練った。一人の化け物が“食事部屋”に籠っている内に手を打った。如何にして最大限の利を得つつ、全てを操れるかの一手を。

 失態は己で注がなければならない。郭図は……これを好機と見た。自分が上り詰める為の好機、と。

 残虐な拷問の末に、医者から当然の如く出るのは郭図の名。


「その時……ちょこちゃんは……」

「ど、どうしたんですの?」


 ゴクリと生唾を呑んで問いかけた麗羽に、斗詩は真っ青な顔をして恐怖の色が濃い目を向けた。


「郭図さんの屋敷の人を……皆殺しにしたそうです。誰も逃がす事無く、一人一人、絶叫を上げる間も無く首を刈って」

「な……」

「その数総勢五十人。私も麗羽様も、知らなかったですよね? そんな事があったなんて」


 絶句。

 まさか、と思った。それほどの規模ならば耳に入っていてもおかしくないはずであった。

 それを読み取った斗詩は、慄く唇から続きを紡いだ。


「生贄、だったんですって。時間を稼ぐための。ちょこちゃんがどう動くか予想していた郭図さんは、ちょこちゃんの到着報告を受けて秘密経路で一人の伝令を城に送り、田ちゃんを確保させてたらしいです」

「そこまで……するんですの……あの方々は……」


 憎らしげにギリと歯を噛みしめた麗羽の前で、斗詩はぶるぶると震えだした。


「わざと屋敷に残っていた郭図さんは、そうして怒りに燃えるちょこちゃんと相対したそうです。ちょこちゃんにとって田ちゃんは命より大切なモノ。だから、人質にすれば傷つけられるはずが無い、きっとそう考えて……でも……」


 もう我慢できない、というように斗詩は自分の身体を抱きしめた。


「ちょこちゃんは……人質が居なくなれば郭図さんをありとあらゆる手段を使って殺すだけって言ったらしいです。周りに人が居ないのを確認してたから郭図さんさえ生きていれば田ちゃんは助かるって分かって、とりあえずは死なない程度に苦痛を与えて城に運んでやるって……それから……」


 斗詩は俯いてぶるぶると震えていた。涙さえ流れていた。明から、何をしたか全て聞いた為に。

 そこから何をしたのか、麗羽には聞けなかった。その時に明がどれだけの殺意を抑えたのかも、分からなかった。殺したいほど憎い相手を生かさなければならない、抜け出す事の出来ない雁字搦めの糸の中で溢れそうな狂気が、どれだけ明の中に渦巻いているのか、麗羽には分からなかった。


「……田ちゃんは沮授様を助けたい、袁家の上層部と郭図さんに対する楔も含めて……牽制のし合い、口を封じて首輪を付けあった、というのが正しいと思います。ちょこちゃんは多分、やる時は躊躇いなくやります。最後の最後には田ちゃんの望みさえ無視して。ちょこちゃんの有能さも、恐ろしさも、どちらも分かっているからこそ。利用し合いながらも足を引っ張り合っているのは、そんな事情からです」

「夕さんが沮授さんの為に此処から抜けないと分かっていてそれをした、というわけですわね」


 麗羽は空を仰いだ。


「ちょこちゃんを殺そうとすれば田ちゃんが感付きます。田ちゃんを殺そうとしてもちょこちゃんが気付きます。人質を取られながらもある程度自由に動けるのは、その二人の能力を買っている上層部が反発を恐れているからです。排除したくても返しが怖くて手が出せない、従っている内は確かに有効な力となる……だから二人は牽制と腹の探り合いの泥沼の中、周りに監視の目を盛大に置かれながらも、叛意は無い、とその後にずっと行動と結果だけで示してきたらしいです。対して、郭図さんへの上層部の信頼は、ちょこちゃんの暴走に耐えて首輪も付けられたからいつでも揺れる事は無かったらしいです。飼っていた狂犬の牙を知れた事が、上層部にとっては恐ろしくとも何よりの利であった、と」


 涙が湧いてきた。袁本初の仮面の下から零れそうだった。


「わたくしは……夕さんと儁乂さんを……いえ、周りをもっと見ないといけませんでしたわ……そして……」


 勇気を……と聞こえない声で溶かした。

 自分の愚かしさを呪った。傀儡として全てを諦観していた自分が知らなかった事実を聞かされて悔いた。

 しかし麗羽はまた、心を高めていく。

 死ぬのは怖い。怖くて堪らない。でも……救いたい、と思った。幸せにしてやりたいと願った。どうすればいい。そう、簡単な事だった。


「斗詩さん」


 幾分かの沈黙の後、名前を呼ばれた斗詩は顔を上げる。

 翳りのある表情で、されども目に強い輝きを宿した麗羽が其処には居た。彼女がふっと漏らすは自嘲の微笑み。


「わたくし、この間地方外交に向かった時に耳に挟んだ話が一つありますの。張コウさんと夕さんに対する監視の目は厳しいようですから、あなたに頼み……いえ、あなたの友であり主である“麗羽”として命じます」

「……っ! なんで……しょうか……」


 驚き、訝しげに聞き返した斗詩は、


「沮授さんの病を治せる人が居るかもしれない、とのことです。場所は……西涼。間者と斥候を上層部と郭図さんにバレないように送り、“華佗”という人物を捕えて連れて来させ、沮授さんの治療をさせなさい。もしかしたら郭図さんも既に動いているかもしれませんから、華琳さんとの戦と同時進行で行きます」

「は、はいっ! 必ずや成し遂げてみせます!」


 麗しい唇から零された言葉に……歓喜の色を浮かべた。

 誰かに言われたわけでなく、自発的にそれを命じたのだ。そこにいるのは間違いなく友で、自分の主だった。


「わたくしも、わたくしの王佐も、斗詩さんと猪々子さんの二人も、儁乂さんも……全て、この華麗なる袁本初、そしてこれから雄々しく美しく羽ばたく“麗羽”が掬い上げてみせますわ! 袁家を……変えますわよ!」


 昼下がりの東屋で、声を抑えた麗しい宣言が上がる。

 開けた場所のおかげで誰にも聞かれる事は無く、彼女は堂々と、本物の当主になると天に示した。


「おーっほっほっほ!」


 いつもと変わらない、されども芯の通った、優雅な高笑いを添えて。























 蛇足 ~彼女の苦手な人~





「あーもう! 抱きつくな! うざい!」

「斗詩に追い払われて寂しいんだ。だからあたいに構えー」


 遅れて昼食を食べていた明の元に辿り着いた猪々子は、のしっと背中にもたれてにやにや笑いを浮かべていた。

 言いながらも食事を取り続ける明は、何処に監視の目があるか分からない為に、ツンケンとした言葉を投げつける。


「知るかっ! どっかいけ貧乳百合猪!」

「ぐぬぬ……ちょっと胸がでかいからっていい気になるなよ? そんな事言う明には……こうしてやるっ」


 言葉と同時に、猪々子の白い両の手が明のたわわな胸を揉み始める。

 カラン、と箸が落ちた。カタカタと椅子が脚を鳴らす。


「ひゃん! なんっ……昼間っからっ……んっ……」

「おおう……斗詩とは違った心地よさが……たまんねぇ……」

「やめっ……ぁんっ、やめろって……ばかぁ……」

「むふふ、そうは言いながらも嫌じゃないんだろ? あたいに全てを任せてくれていいんだぜ?」


 いちゃいちゃと繰り広げられる百合の園。

 昼過ぎである為に食事をとっていた他の文官や武官達は少ないが、男の誰しもが、その刺激的な光景に思わず前かがみになっていた。


「斗詩の胸で鍛えたこの手なら、明でさえ天国に連れて行って――――」

「このっ……いい加減にしろクソ女ぁっ!」

「うおっ! ぐへぇっ!」


 あまりのしつこさに、プツン、とぶちぎれた明は足を払い、猪々子を床に引き倒した。揉んでいた手を極めて、受け身も取らせずに。

 背中を打った猪々子は呼吸が出来ず、短い呻きを上げるのみである。


「このあたしにあんな事するなんていい度胸じゃん。あんたの勇気に免じて、しばらくオイタ出来ないように恐怖を刻み込んであげる」


 ハイライトの消えた瞳で笑う口元は引き裂かれていた。猪々子は冷や汗がじわりと額に滲む。

 明は……傍に落ちていた箸を手に取り……


「や、やめっ、な? やめようぜ……うあ、ああ……アッー!」


 猪々子の二つの穴に突き刺した。





 鼻を真っ赤にして涙目の猪々子は、廊下を明と歩いていた。ククク、と腹を抑えつつ未だに悶えそうになっている彼女を見て、猪々子はぶすっと一言。


「何もあの場にいる全員に見せつけなくてもいいだろ?」

「ひひ、猪らしい姿になれて良かったでしょ?」

「だからって……まだ鼻痛い」


 コスコスと摩る。突き抜けなくて良かったと、心の底から安堵して。


「っていうか、なんで付いてくんのさ。あたし、この後も練兵とかで忙しいんだけど」

「あたいは暇だ」

「うざい、失せろ」

「あーあ、ホント明はひっでぇなー」


 にししと笑った。突き放されながらも、猪々子は決して離れない。歩く速度を速めても遅めても、ピタリと立ち止まっても、ずっと明の隣に並んでくる。

 ため息を一つ落とした明は、すっと目を細めて……急な動作で彼女の身体を壁に押し付けた。


「っ! ってぇな……なんだよ?」


 鼻先がぶつかりそうな距離で殺気を込めて睨みつけてきた明に、猪々子はかみつくように犬歯を見せた。


「そういうのうざいって言ってんの」

「暇なんだからあたいはあたいのしたいようにする。お前の指図なんか受けてやんない」

「……めんどくさい奴」

「ふん、お互い様だね」


 凍りつくような瞳を跳ね返し、猪々子はまた笑う。

 何処か前とは違った強さを猪々子の中に感じた明は、爛々と輝く瞳を直視出来ずに目を逸らした。


「猪々子……徐州で何かあった?」


 過程を脳内で組み立てた明は、身体を離して問いを投げやる。

 ぽりぽりと鼻を掻いた猪々子は俯いて、くくっと小さく笑った。


「……なんかさ。あたい、おかしいんだ。明は死んでも誰かを守りたい。あたいは生き抜いて誰かを守りたい。どっちも似てて、やっぱり違う。違った……はず、なのにさ。姫とか、斗詩とか、明とかの為なら最後は……って、最近になって思えてきちゃったんだ。この気持ちが何か分かんないから、おかしくなってるんだと思う。多分、“あいつら”のせいだ」

「……」


 背中で吐露された気持ちを受けていた。

 ああ、やっぱり……心の中で呟きながら。


「あたいは明を……友達だと思ってる。どんな事があったのか知んないけど、“あたいが”友達だと思ってる。バカだからさ……なんにもしてやれないし、考えてもやれないけど……あー、わかんない! めんどくさい!」


 叫んだ。心に渦巻くもやもやとしたモノを言葉に出来ずに、苛立ちを口から放った。

 がしがしと頭を掻いた猪々子は、がっしと、背を向けている明の肩に腕を掛けた。


「難しいこと分かんねぇ! とりあえず明にうざいって言われてもあたいはこうする! それでいい!」


 そうしてがはは、と男勝りに笑う。

 横目でそれを見ていた明は、クスリと、小さく笑った。


「何さそれ? もういいや、めんどくさい」


 聡い明は、猪々子がどんな事を想っていたのか気付いた。

 ほんの少しだけ、心に温かさが灯った。

 ずかずかと他人の領分に踏み込んで押し付けてくる彼女は、読み取って傍に居てくれる夕とは全くの逆だった。うっとおしいのに、めんどくさいのに、払いのけたいのに、やはり前と同じでそう出来なかった。


――悪くない、なんてさ。あたしの方がバカ。絶対どっかで切り捨てるのに、さ。


 本当に、本当に少しだけだが……明の腹は膨れた気がした。



読んで頂きありがとうございます。


麗羽さんのお話と明と夕の過去。


とりあえず袁家はこんな感じです。

麗羽さんは原作でも生に縋りついている感じが見て取れたのでそう描いてみました。


郭図くんはいつも現状の袁家の望む事をしているのである意味忠臣。


政治的な部分は難しいですね、やはり。


次は主人公達の様子、その次は劉表と華琳様の邂逅……になると思います。


ではまた

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