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詠い霞むは月下にて

「月ぇっ!」


 部屋の扉を開けると同時に声を上げ、すぐに駆け寄ってきた彼女に抱きしめられた。

 薄紫色の髪を後ろで纏め上げ、服をはだけさせてさらしを見せている彼女は、記憶にあるまま。

 声は震えていた。目には涙が浮かんでいた。瞳の色は……歓喜と懺悔だった。


「霞さん……おかえりなさい」

「うん……うん! ただいま……ただいまっ、月ぇ……」


 ぎゅっと抱きしめられているから顔は見えない。ほんの少し抱きしめる腕に力を込められた。


――私達の無事を、本当に嬉しく思ってくれているんだ。


 ジワリと胸に暖かさが浸透する。瞼が熱っぽくなり、嬉しさが零れてしまいそう。

 背中越しに手を回して頭を撫でると嬉しそうに震える彼女は、まるで大きな猫のようでかわいい。

 私が知ってる、私達を助けようとしてくれた霞さんのままだった。


「何よ……ボクには何もないわけ?」


 ぶすっと拗ねた声で上げる詠ちゃんだけど、瞳を見やっても不満の色は見えなかった。

 だって霞さんが――――


「詠も……ただいまや」


 私の次に詠ちゃんを抱きしめるつもりだと分かってるから。

 照れくさそうに、でも何も言わずに詠ちゃんは霞さんの背中に腕を回し、互いに無事を確かめ合う。

 私の瞳は涙で滲んだ。どれだけ私と詠ちゃんのことを心配してくれてたか伝わったから。


 袁家との戦があって、『彼女』の軍に所属したと言っても、私達と霞さんは会う暇がなかった。

 霞さんは最前線で戦の準備と敵への警戒に動いており、私達は起きない彼に着いていったから、袁家との戦が一時的に終わってやっと再会出来た。

 詠ちゃんは今日の朝に帰ってきた所で、さっきまで黒山賊との戦の詳しい報告を、侍女仕事という名目で『彼女』に行っていた。結果は問題なく勝利。黒山賊の頭領は先ほど真名を交換した真桜さんが作った罠に嵌まって討ち取られた、との事。

 『彼女』が気を使ってくれて、私達三人で過ごせるようにと、霞さんには明日の仕事が無い。霞さんは急いで日中の仕事を終わらせて、夕食を食べた私達に会いに来てくれたのだ。

 こんなに早く、霞さんが無傷なまま、しがらみも無いまま再会出来るなんて、私は思ってなかった。

 だって……彼と『彼女』は敵対していたのだから。

 もしかしたら霞さんと彼が戦っていたかもしれない。そうなれば、私も詠ちゃんも、悲哀の渦に飲み込まれただろう。

 誰だって知り合いの所属する勢力と戦いたくなんかない。私だって親しい人同士が戦うのなんか見たくも無かった。

 そんな私達に彼はずっと何も言わなかった。

 私も詠ちゃんも分かってる。あの人は霞さんをその手に掛けるつもりなんかこれっぽっちも無かったことを。

 きっと彼は私と詠ちゃんを利用しただろう。霞さんを劉備軍に取り入れる為に。もし、彼だけが曹操軍に所属していたとしても同じこと。きっと内部で霞さんと親交を深めて、裏切らせるように画策しただろう。

 そういう人なのだ。彼は、黒麒麟という黒い大徳は。

 白蓮さんの事にしても、出来る限り殺さずに生かす為に動き、本当にどうしても足りない時だけその手に掛ける……そういった覚悟を持っていた。

 先の世の平穏のために、自身の思い描く世界の為に、全てを利用して動く人。

 でも……そうなった時、きっと彼はこう言う。


『俺を信じてくれるお前達を信じる。だから……お前達の大切な友を奪ってくるよ』


 心痛めながら、以前のように謝りもせず、徐晃隊の屍を積み上げて、私達の平穏も取り戻せるようにと。


 そんな未来はもう来ないから、ほっと安堵している自分が居た。

 もうお互いに傷つかない。否、傷つけさせない。絶対に彼を戻して、この場所から離れさせないようにする。

 思わず漏れ出た吐息を聞いてか、詠ちゃんから体を離した霞さんが私の方へと振り向いた。


「なぁ、ホンマに徐晃は記憶を失っとるんか? ウチな、洛陽で月と詠の無事をあいつに教えてもろてたんやけど、ちゃんとお礼言うてへんねん……」


 ズキリと、胸が大きく痛んだ。

 思い出す。優しい笑顔を、哀しい瞳を、私達に生きてと願って、零れた涙の跡を。

 霞さんのことも思って、彼は私達の生存を伝えてくれてた。相変わらず優しい人。戦が無ければ、冷たくなんか絶対にならない人。生き残った人の平穏の為に、出来る限り最大限の優しさを振りまく人。


「はぁ!? あのバカ、そんな危ないことしてたの!?」

「いや、さすがに直接とちゃうで? あん時は華琳も居ったし。なんやったかなぁ……『月は地平に落ちず、詩が詠めるくらい綺麗に輝いてるから今夜は酒が美味いだろう』やったっけな」

「……気障ったらしい言い方しちゃって。ふふ、でも秋斗らしいぼかし方ね。お酒がおいしいなんて戦が終わって言う言葉じゃないけど」

「ウチが酒好きなんも知っとったみたいやからな」

「あー、洛陽で飲み歩いてたの噂になってたから、徐晃隊を纏めてた秋斗の耳にそれが入ってても仕方ないか」


 一つ苦笑を漏らし、詠ちゃんは遠い目で宙を見上げた。


「秋斗――徐晃は間違いなく記憶を失ってるわ。だって雛里のことも分からないなんて有り得ない。記憶があったとしても、そんな性質の悪い手を使うような奴じゃないし、ボク達ならまだしも、雛里まで騙せるわけない」


 寂しそうな声。

 軍師として、詠ちゃんは秋斗さんが嘘をついてる可能性を示した。結論は否定。私もそれには同意だった。

 私達や雛里ちゃんにまで嘘をついて、桃香さんの為に動けるわけが無い。そんなことをしてたら彼の瞳は必ず濁ってる。自責と、壊れる寸前の絶望から。私達三人を傷つけてしまう事への後悔から。

 

「ならお礼はお預けか……しっかし、詠がそんな顔するやなんて、徐晃と随分親しくなったみたいやなぁ」


 にやにやと悪戯っぽくにやける霞さんを見て、ほんの少し彼を思って沈んでいた心が軽くなった。


――ああ、いつもの霞さんだ。私達が知ってる、自由で、縛られずにいろんなことを楽しめる人のままだ。


「ちょっ……違う! そんなんじゃない! ボクは別にあいつのことなんか――」

「ウチは親しくなったとしか言うてへんけど?」

「っ! 後で覚えてなさいよ?」


 恨めしげに見つめる詠ちゃんを飄々と流す霞さん。緩い雰囲気が流れ出す。洛陽でまだ、私達の為に全てを賭けていた頃のように。

 この空気を変えてしまうのはちょっと勿体無いけど、聞いておきたいことがある。


「霞さん。あなたは彼の事を憎みますか? 責めますか?」


 静寂。

 しんと静まり返った室内の空気は痛い。詠ちゃんの顔は昏く落ち込んだ。嘗て詠ちゃんは彼に対して怨嗟を向けた、それが理由だろう。

 何故、とは霞さんは聞かない。聡い彼女は私の聞きたい事を分かってくれてる。


「憎まへん。いや……憎めへんわ。ウチらがやっとるのは戦や。殺し合いや。友達を殺されることもある。武人になるっちゅうんはそういうもんや。確かに負けるまでは殺してやろうって考えとったけどな、ウチらだってあいつの友達を殺そうとしてたんやからお相子やろ。何よりいつまでも引き摺るんなんてウチとちゃうし。

 あと……記憶を失った事も責めへん。なんで憎んで責めれるんや? あいつは……危険があんのに月と詠を助けてくれるような優しい奴なんやろ? 月と詠にこんだけ認められてる、それが理由でええねん」


 草原に風が吹き抜けたような爽やかな笑顔を見せて、彼女は嬉しそうに笑った。

 そうだ、霞さんはこういう人だから問題ない。何も問題は無い。だけど……


「では、恋さんやねねちゃんはどうだと思いますか?」


 ビシリ、と空気が張り詰めた。

 先ほどよりもより一層重たい空気に、詠ちゃんが生唾を飲み込む音が鳴る。

 そう……あの優しい人は、私に出会ってしまったから、彼を……


「れ、恋はあかん。ねねもあかん。あの二人は多分……ウチの事も怨んどる。徐晃なんか持っての他や。顔突き合わせ次第殺しかねん」


 霞さんの震えは純粋な恐怖。

 親しかった友から怨嗟を向けられていると分かっているから。そして飛将軍とその専属軍師の扱う部隊の恐ろしさを知っているから。


「……風から聞いたけど、恋とねねは劉表の所にいるのよね? じゃあ……未だ此処に居ないのがその証明、か」

「せや。恋もねねも、ウチが華琳のとこに居るんは知っとるはずや。やのに劉表んとこに居って一通の文さえこやへん。二人は連合に参加しようとせんかったとこに居たいんやろな」


 分かってる。

 恋さんもねねちゃんも、霞さんの事を怨んでなかったら、保護された恩すら投げ捨てて真っ先に曹操軍に降ってるはずだ。

 怨んで無ければ仲が良かった友達のところに向かわないはずが無い。何かの事情で縛り付けられてる、なんて事は有り得ない。一人で三万の賊を撃退出来る人が、死を覚悟している呂布隊とねねちゃんが、一人の諸侯の軍如きを無理やりに抜け出せないわけ無いのだから。

 劉備軍では情報を集めきれず、あの二人が何処で何をしてるかすら分からなかったけど、たった一つの情報で全てが見えた。

 あの二人は私が『死んだ』から、連合に参加した諸侯全てを皆殺しにするつもりだ。

 霞さんは彼女達にとって最低の裏切り者。仲の良かった華雄さんのように忠義に殉じず、華雄さんの守りたいって想いを踏み躙って、『董卓を殺した』連合の諸侯に命欲しさに降ったと思ってるから許せないんだ。


 そして今は最悪の時期。

 袁家の目によって私が生きてることは表に出せない。

 バレたら、政治的に力の強い袁家は声を大にして言えるだろう。偽者を代わりに討ち取った袁家だからこそ、それを言ってもただの憤慨として許される。


『悪逆の徒である董卓を挿げ替えて匿っていた黒麒麟、そしてそれを受け入れた曹孟徳は大罪人である。漢の名の元にその頸を討ち取れ』


 袁と劉が手を組めばそれを言うは容易い。そこに西涼のあの人が加われば私の生存の事実確認も強固に出来る。

 私が悪政を敷いていたのはもう確かな事実として誤認されているから、今度は反曹操連合が組まれることになる。

 二度目ともなれば違う諸侯も動くだろう。正義の名の元に私達を悪と断じて切り捨てに来るだろう。桃香さんも、否、朱里ちゃんなら間違いなくこれを機と見て、徐公明の独断の失態を注ぐという理由で軍を動かせるだろう。

 そうしてドロドロの乱世が渦を巻いて濃くなっていく。私達の次は劉備軍、劉表軍、孫策軍、西涼連合によっての袁家討伐。一つ一つ潰されていく事になるが、駆け引きや貶めあいでどれだけ乱世が延びるか分かったモノでは無い。

 逃げ場は無い。それだけ『彼と彼女』は……この大陸で大きな存在になってしまった。名声は利となっていても、たった一つで裏返れば害悪にしかならない。大きくなり過ぎればなり過ぎる程に。

 そして恋さんとねねちゃんは、私が生きてる事実を受け止められない。

 華雄さんを殺した彼の傍に、私と詠ちゃんと霞さんが居られるはずが無いと思い込んでしまうから。

 普通に考えれば、誰が友達を殺した者の側に居続けられるのか。私の憎しみに対する考え方が変で、彼も異質だったからこうやって一緒に居れるだけなのだ。

 誰しもが憎しみを呑み込めるわけでは無い。霞さんだって、噂にもなった盛大な一騎打ちで負けた事による無力感が無ければ呑み込み切る事は出来なかっただろう。

 一目でも会えたらいいかもしれないけど、単純に会いになんて行けるわけが無い。せめて袁家だけでも滅ぼさない限りは。


「憎しみの禍根は根強いから、恋とねねは純粋なだけに恐ろしいわね」


 ポツリと零す詠ちゃんの瞳は、自分の事を思い出してか後悔の色。

 彼が壊れそうだった原因の一つは怨嗟の声だろう。詠ちゃんは彼にそれを向けてしまった事を後悔してる。

 私も、他者からの怨嗟の声が頭に溢れたから、彼が壊れる理由も理解出来る。

 アレは怖い。自責から来る怨嗟の声は恐ろしい。内から心を引き裂く刃は、人を簡単に壊してしまえる。

 思考に潜っていると霞さんが哀しみに暮れる表情で口を開いた。


「……すまん、ウチ――」

「いいんです霞さん。全ては私の力が足りなったせいです。あなたが背負うことではありません。それにあなたは戦場を駆ける神速でこそあなたらしいです。きっと華雄さんも、そんなあなたじゃないと許してくれませんよ?」


 謝らないで欲しくて言うと、霞さんは目を見開いてフルフルと震えだした。


「……っ……あぁ……あああっ……くぅっ」


 抑え込もうとして、それでも泣き崩れた。彼女は……苦しんでいたんだろう。

 一人裏切り者と言われてもおかしくない状況に立ってしまって、彼が曖昧に生存の事実を伝えたから何処にいるかも分からず、一緒に居たいのに一緒に入れない袋小路と、友達から怨まれてるという事実に苦しんでいたんだ。

 あと多分もう一つ。霞さんは華雄さんの事を悔いている。だから私の言葉が欲しかった。華雄さんの主であった私から直接言われたかったんだ。

 女の人なのに男らしい豪快な笑い方で、きっと華雄さんなら霞さんに戦えと言った。我らが主『董卓』の無念を、神速の好きなように生きて必ず晴らせ、と。

 泣き啜る霞さんの背をゆっくりと撫でた。詠ちゃんも、彼女の頭を優しく撫でた。


「辛い思いさせてごめん。でも、これからは一緒に居られるから。もう一人じゃないから、ね?」


 そこで気づく。詠ちゃんはそこも読み取れたのか。

 何処か一人で飄々としてて、強い所ばかり見えてたことが多かったから分からなかったけど、霞さんも寂しかったんだ。

 私には詠ちゃんが居た。でも霞さんには誰も傍に居なかった。

 詠ちゃんのおかげで誰かが隣に居ることに慣れすぎて、私はそんな大切な事にさえ気づけなかったなんて。


――私もまだまだ人の気持ちを読み取る力が足りないなぁ。


 もっと誰かを支えたくて、私に出来ることを頑張って行こうと心を高め、霞さんが泣き止むまで私達は撫で続けた。





 幾分か後、泣き止んだ霞さんは小さく笑う。


「みっともないとこ見せたな。ありがと、大分楽になったわ」

「いいえ、こちらこそありがとうございます」


 ペコリと頭を下げると、霞さんは口に手を当てて猫のような目になった。


「にひひ、月は相変わらず優しいこっちゃ。……とりあえず話し戻そか。恋とねねについて、詠はどうしたらええと思う?」


 鋭い瞳は将のモノ……では無く、友達を助けたい一心から来る優しい色が宿っていた。

 話を向けられた詠ちゃんは顎に手を当ててほんの少し悩んだ後、ゆっくりと言葉を紡いでいった。


「劉表が袁家の手助けをした……ってのが難しい所ね。連合の大本である袁家の手助けなんか、憎しみに染まってるなら恋とねねが認めるはずないから、袁家との内通者がいて、そいつが動いたって線が一番有力。劉表は病床に伏してるらしいから内部も荒れてるって聞くし……」


 ぶつぶつと予想を組み立てて行く詠ちゃんは軍師に戻っていた。

 やっぱり詠ちゃんは軍師をしてる方が生き生きしてる気がする。侍女をしている時も可愛いけど。


「じゃあ内部の再掌握、もしくは袁家の内通者による掻き乱しで荊州は荒れそうだね。しばらくは恋さん達に近付け無さそう。あの優しい人には、私が直接会わないと変わらないから機を待った方がいいかも」

「なんか他にも問題ありそうな言い方やな、月」


 驚いた霞さんを見て、ほんの少し笑みが零れた。

 詠ちゃんとは前からだけど、彼や雛里ちゃんとの関わり合いで思考訓練を積んできたから、私も色々と頭が回るようになった。


「どうにか恋さんと会えたとしましょう。こちらに来てくれたともします。でも絶望の底に堕ちた恋さんは、前のように無感情な怪物に戻ってしまっているのは確実です。会ってすぐに優しい人に戻れたとしても、何もかも感情を抑え付ける事は出来ないでしょう。徐々に溶かしていかないと壊れてしまいます……が、そんな中で記憶を失った彼に出会うとどうなるでしょうか?」


 はっと息を呑む音が二つ。二人共分かってくれたようだ。

 恋さんを変えたのは私。想いを繋ぐ人にしてしまったのは私。だから恋さんは、同じように想いを繋ぐ彼への怒りを抑え付けられない。

 これは確信。

 だって……恋さんは華雄さんの事、凄く大切に思ってたから。

 殺した相手の想いを繋げと教えてしまった私のせいで、恋さんは『想いを繋がず逃げた』と認識して、彼を、私が教えたからこそ私でさえ止められずに殺してしまう。

 そして何より、恋さんは彼の事を怖がってた。何故かは分からないけどあの恋さんが怖がるくらいだから、危険と判断してか、それとも自分を守る為か、排除しようとするだろう。

 無理やり止めたら恋さんの心が壊れる。ただでさえ、私達を苦しめた連合側に所属するのに抑え付けるであろう激情と、誰も並ぶ事の無い飛将軍が持ってしまった畏れの暴発は、たった一つのはけ口を失うと自身の崩壊へと向かわせる。

 ねねちゃんだけを引き離せば、恋さんが周りに利用されるのは確実。心を閉ざしていたら、言う事を聞いて戦場で戦うだけの怪物になっているのだからそれも詮無きこと。

 大丈夫と半々の可能性に縋って、恋さんだけを信じる事は出来ない……というよりも、私は恋さんの死者への想いの優しさを信じてる。

 だから私の大切な人達が皆助かる為には、彼が戻らないと何も始まらない。記憶が戻った彼となら、恋さんはしっかりと向き合える。

 問題は彼が戻った時に耐えられるか。それだけは……私と詠ちゃんだけじゃなくて、この軍の皆さんに手伝って貰うしかない。

 絆を繋いで、安息の場所を認識して、もう一人で背負わないでいいと知って……『彼女』が代わりに背負ってくれる事を理解させるしかない。

 チクリ、と胸が痛んだ。

 彼が壊れたのは雛里ちゃんへの懺悔と自責から。そこにはどれだけの愛情があったんだろう。

 彼にとって、雛里ちゃんを自分の為に縛り付けてしまったという事柄は、雛里ちゃんの事を認識出来なくなる程重かったんだ。

 どれだけ強い想いがあって、どれだけ雛里ちゃんの事を想っていたんだろう。

 それを私は……曖昧にしてしまうんじゃないだろうか。

 そして私は……今のあの人のことすら……


「あかんな、それ。恋は月と出会って変わってから想いを繋ぐ事に拘っとった。『人』に戻れたたった一つの指標を大切にしとったから、徐晃は恋に殺されるしかあらへん。徐晃も強いけど本気の恋はケタが違いすぎる。曹操軍の将全員で取り押さえても誰かが殺される。取り押さえても、恋の心はもう戻らんくなるかもしれへん」

「秋斗も同じような理由で自分を殺しちゃうから……似たモノ同士なのにね」


 二人が言葉を零すのを聞いて、思考に潜るのを辞めた。

 考えても、思い詰めても何も変わらない。私は彼に戻って欲しい。想いを繋ぐ皆の為に……私も含めて。


「そういや徐晃隊、今は鳳統隊やな、そいつらも想いを繋ぐ事に命掛け取ったなぁ。副長の死に様もそんなやったし」

「あんた副長を知ってるのっ!? ……どんな……だった?」


 詠ちゃんの声は悲痛に呑み込まれていた。


――徐晃隊の中でも一番親しかった副長さんの死に様……彼が一番聞きたかったはず。


 そこで思い至る。副長さんは生きてたのか、と。

 驚愕に目を見開いて霞さんを見ると、ほんの少し羨望を抱いていた。

 つらつらと、副長さんがどんな風に見つかって、どんな想いを残したのかを霞さんは話してくれた。

 それは穏やかながら鮮烈な最期。徐晃隊の在り方を体現したような、徐晃隊の副長に相応しい死に方だった。

 気付かぬ内に、私と詠ちゃんの目から涙が流れていた。


「雛里から聞いとるで。徐晃隊と月達が親しかったってな。泣いてええ。そんだけ大切に想って貰えて、副長達も幸せやろ」


 優しくポンポンと頭を叩いてくれた霞さんは、何処か姉のようだと感じる。

 でも私達は泣かない。ぐっとお腹に力を入れて、どうにか涙を堪える。詠ちゃんもぐしぐしと袖で涙を拭っていた。


「泣かないわ。副長達が悲しむもん。あいつらはバカだから、私達に笑ってくれって言うのよ」

「自分達が死んだ程度で泣くな、幸せに生きて欲しいから戦ってる、だからどうか、俺達の為には泣かないでくれ……そう言う人たちですから」


 一寸、呆気にとられてポカンと口を開けた霞さんであったが、くつくつと苦笑を漏らした。


「クク、バカばっかりやなぁ。ええ奴等のとこに居れたみたいで安心したわ。しっかし月……あんたぁホンマ、ええ王になったやんか」

「……? 私はもう王ではありませんよ?」


 疑問をそのまま口にしても、霞さんはそれもそうかと言って流した。

 どういう事だろう。私はもう、董卓じゃなくてただの『月』なのに。


「ま、ええわ。とにかく……恋とねねの事に話戻すけど、徐晃の記憶が先やな。当てはあるんか?」

「……人を殺しても戻らなければ、小耳に挟んだ程度の情報を頼りに人を探すか、恋さんが壊れない可能性に掛けるしかないかと」

「人を探すって……記憶を戻せる医者がいるわけじゃなし――――」

「ううん、詠ちゃん、涼州に居た時に聞いた事無い? 神医『華佗』って人の話」


 言うと、詠ちゃんはため息を零した。


「胡散臭過ぎて忘れてたわ。五斗米道だっけ? 不治の病も直せるなんて西涼くらいから噂が出た気がするけど……直ぐに消えたじゃない。漢中が発祥地って聞いたから足跡を探しても見つからなかったし」

「うーん、恋が壊れへん可能性も大概やけど、そっちも難しそうやなぁ。まあ、華琳はいろんな才持っとる奴集めたいやろうから、ちょっとは人手出してくれそうではあるか」

「記憶を失う人というのはあまり居ません。普通のお医者さんに見て貰っても治せなかったと彼は言ってました……やはりダメでしょうか?」

「人殺して戻らんくても、軍を率いたら戻るかもしれへん。恋とねねを無理やり入れても、内部でいざこざがあったら華琳の国も乱してまうし、そん時は月と詠が責任取らされて華琳に殺されるから……恋とねねはよっぽど状況が揃うか、戦で捕まえて月が前みたいに時間を掛けて変えて行くかしかあらへんな」

「そうね。それにねねだけが離れたら恋は利用されちゃうだろうし、ねねにだけ伝えられたとしても、近くに居過ぎたねねがいきなり変わると恋が壊れる率が高い。秋斗の経過を見ながら華佗を探して、恋達と戦った場合は二人共を捕まえられるようにするのが最善。ただし……霞は絶対に恋達と一人で相対しちゃダメ。憎しみに染まった死兵部隊と飛将軍は……やばいわよ」

「……こればっかりはウチの欲出せへんわな。恋にはまだ勝たれへんから華琳にもわがままは言えへんわ。悔しいけどな」


 悔しそうに眉を寄せる霞さんは心底そう思っているんだろう。天下無双に憧れていたから、それも仕方のない事だ。

 これで方針は決まった。

 彼を戻し、恋さんとねねちゃんを私達の元へ。全てが上手く行けば、多くの幸せが手に入る。


――そして……彼を確実に閉じ込める檻が出来上がる。


 力では、飛将軍という大陸最強の矛によって。

 心では、想いを繋ぐ事を本当の意味で分かってあげられる優しい人中と、これから繋ぐであろう幾多モノ同志の絆によって。

 『彼女』と鳳凰が逃がそうとしても、飛将軍を従える『覇王の妹』が先に命じておけばいい。黒麒麟は……覇王では無く私の命令に従って貰う。私が立場を得れば抗う事が出来るようになり、聡明な覇王とも利害交渉が許されるからそこだけが一番の難所。


――矛盾はもう、呑み込ませない。あなたは此処にいる事が一番幸せなんです。だからどうか、黒麒麟に戻っても……何処にも行かないで。


 心の内で呟き、ふるふると頭を振る。

 自分の腹黒さと欲深さに嫌気が差してきた。私は私の望みの為に、人の心を捻じ曲げ、人を利用し尽す。随分と……


――彼に似てきたモノだ


 きっと彼もこんな気分だったんだろう。

 苦しいし辛い。でも、それでも大切な人達の幸せが欲しい。


――私に幸せになれとあなたの願いを押し付けたなら、あなたにも私の描く幸せを押し付けます。


 きゅっと唇を引き結んで、目の前の神速と私の嘗ての片腕を見据えた。昔のように、ほんの少しだけ厳しく気を張って。


「では、霞さん、詠ちゃん。もうあなた達の主ではありませんが……」


 すっと目を細め、霞さんは私を見つめた。詠ちゃんも私に目を合わせる。

 嘗て、洛陽に赴いた時の、私に臣下の礼を取る前の瞳は力強く射抜いて来た。

 いつも隣に居ながらも、厳しく意見を述べてきた軍師の瞳は冷たく、暖かい。


「もう一度、私に協力してください。大切な彼女達を、私達の元に取り戻す為に。そして私の願い、大切な人達の幸せを作り出す為に」


 数瞬の間を置いて、ふっと笑った霞さんは綺麗で、爽やかだった。しょうがないわね、と呆れたように笑う詠ちゃんは大人びて見えた。


「ええよ。華雄が望んだんは月を守る事や。ウチは華琳の部下やけど、月が此処にいるならもうなんも問題あらへん。月の願い、今度こそ叶えたる。それがあのバカへの手向けにもなる。んで、ウチにとっては最高の願いなんやから」

「今度こそ、ボクは月の願いの為だけに全力を尽くすわ。たくさん大切を増やして、たくさん幸せを手に入れましょう」


 嬉しかった。

 霞さんがそう言ってくれて、変わらずに私の願いを手伝ってくれて。

 詠ちゃんが変わらずに居てくれて、いつも通りに支えてくれて。

 堪らず、彼女達をぎゅっと抱きしめて、


「ありがとうございます。またこれからよろしくお願いします、霞さん、詠ちゃん」


 私は彼が消えてから久しぶりに、心の底からの笑顔を浮かべる事が出来た気がした。

読んで頂きありがとうございます。

多分、初めての一人のキャラによる一人称オンリーです。


霞さんと二人の再会話。

そして恋ちゃんとねねちゃんの話。

恋ちゃんの在り方については独自設定です。連合時の幕間を思い出していただけると嬉しいです。


月ちゃんが純粋ながら腹黒に覚醒。これからも出番は多いです。


次話は違いますが、それ以降の数話は魏の恋姫達との交流になります。

そこで、シスターズの話を書くかどうか迷ってます。

読みたいと言って下さる方が一人でもおられましたら短くとも描きます。


次は覇王様と彼の二度目の出会いになります。


ではまた

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