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諸刃の信頼

 公孫賛と袁紹の争いは現在、膠着していた。

 不意打ちによる宣戦布告から始まり、第一、第二の関を落とし、勢いに乗っていた袁紹軍ではあったが、さすがに幽州を異民族の侵略から守り抜いてきた公孫賛の本隊を容易に蹂躙することなど出来ず、一度目の野戦では相応の被害を受けた。

 それを機に二度、三度目の野戦で公孫賛軍は逆に勢いをつけて士気高く、袁紹軍を領内の端にまで後退させる事に成功した。

 ただ、公孫賛はここに違和感を覚えていた。

 やけにあっさりと退却する様を見て、長い間防衛戦の空気に触れてきた武人の勘とでも言うべきか、追撃をすぐにかける事は止め、斥候を放って辺りを調べさせた。

 彼女の勘は当たっていた。

 案の条、左右には伏兵が潜んでおり、追撃を仕掛けていたならば左右からの挟撃と反転逆撃で甚大な被害を被っていただろう。

 袁紹軍の最初の策は失敗に終わった。

 麗羽本人を囮とする事で、初めの野戦での勢いを挫かれた様を見せて引き込みを行い、釣られた敵にも大打撃を与えるつもりだったが叶わなかった。

 しかし、実の所袁紹軍としてはそれはどちらでもよかったのだ。

 破竹の如き勢いでそのまま進軍するよりも、公孫賛は容易な相手では無い、油断を持ったままで戦うべきではないとの意識を植え付ける為にわざと退却を行うのも手の内の一つ。

 第一の関にも大多数の兵を残しており、初めから物量で無理やり押し切る事も可能ではあったが今回の策を取った。

 どちらも麗羽が出陣前に聞いておいたこの場にはいない一人の少女の策であり、今回共に戦に来ている郭図もこれを是とした。

 郭図は、二人の仲の悪さから勘違いされやすいが、別に夕の言を全て跳ね除けるわけでは無い。

 彼も軍師であり、有用であれば誰のどんな策であろうが用いる。その有用な策の範囲に外道策も入っていて、そして自身の考え出したモノの方が有用だと判断すれば押し通そうとするだけなのだ。

 袁家という膨大な人間が集まる場に於いて、何の才能も無しに筆頭軍師に上り詰めることが出来たわけでは無い。

 そんな彼は今回、大して目立った動きは行っていなかった。

 麗羽が何か策は、と聞いても機が来るまではこのまま戦い続けましょうと言うのみで、彼らしくない真っ直ぐな戦の行い方をしている。

 明はそこに耐えようもない不信感を抱いていた。

 何故、この男が正々堂々などという自身の常道とはかけ離れた行いをしているのか。

 渦巻く不安は時間が経とうとも拭えず、せめて何事にも対処できるように彼女は先陣に志願した。

 そのまま何度かの野戦を繰り返しはしたが、両軍共に一進一退の攻防を繰り広げており、この戦は長くなると誰もが考え出した矢先、一つの事が起こった。




「兵の補充も滞りなく、陣の強化も万全。本城からの糧食の予備の補充分も星が追加分を張純の所に取りに行っているので大丈夫です」

 茶髪を後ろで纏めた牡丹が現在の自軍の報告を行う。白蓮はそうかと生返事を答えるだけで何やら思考に潜っていた。

「……白蓮様?」

「現状は一進一退だが……どうにか打開策を出せないかな?」

 眉根を寄せて己が腹心に語る彼女は少し焦れていた。

 いくら自身の治める国での戦であり、糧食の数も前々からの備蓄分がかなりあるとはいえ、長い戦は民の不平不満につながる事を重々承知している。

 さらには、今回の戦が終わり次第、早いうちに行動を起こさなければ曹操に先手を取られかねない。

 その為にこの戦では兵の消費を少しでも抑え、遠征を行えるほどの糧食を残しておかなければならない。

「敵の糧食も十分なようですし、このまま続けるしか無いかと思います。迂闊に部隊を散開させると一気に瓦解しかねない状態ですし。

 こちらも兵数を増やしたとはいえ相手もそれは同じ事です。精強な我らの軍の方が圧しているように見えますが、どうしても数が多すぎまして……」

 袁紹軍はじわりじわりと白蓮率いる軍の数を減らすように細やかに戦を仕掛けてきていた。

 長期戦となれば地の利もあるこちらが有利である事は明白、と安易な考えを白蓮はしない。必ずどこかで何かしらの手を打ってくるだろうと思っていた。せめて有能な軍師でもいればより良い作戦が立てられるが、白蓮にとっては正攻法でじっくり行くことが一番の手であるとの思考しか出来ない。

 一つため息をつき、早急に戦を終わらせられる手段は他にないものかと焦る心を押さえつけて頭を悩ませていたその時、陣内が慌ただしくざわめいた。

 何事かと表情を曇らせ椅子から立ち上がった白蓮だったが、同時に天幕の入り口がさっと勢いよく開け放たれる。

「せ、星!? どうしたんだ? そんなに慌て――――」

「白蓮殿! 拙い事態になりました!」

 汗を滴らせ、息も絶え絶え、膝に手を尽きながら報告を行おうとする星に牡丹が横からさっと冷えたお茶を差し出す。

 一息で飲み干した彼女は苦々しげに顔を歪ませて口を開いた。

「駐屯中の兵からの話なのですが……烏丸に不穏な動きが見られたからと張純殿の指示で糧食を二つに分けたらしいのです。さらに張純殿は待機中の半数の兵を連れて迎撃の準備の為に本城に引き返したとのこと」

「なんだと!?」

 それを聞いた白蓮と牡丹は驚愕したが、それぞれが思考に潜る。

 あいつなりの判断なのか? しかし私の指示を仰ぐことなく独断で行ったという事は即急に対処しなければならない程の一大事だという事か。情報を届けようとしたが邪魔が入ったのか。

 今現在の状況を鑑みるに烏丸にまで対処しきる事は不可能に近い。

「袁家と事を構えている今、烏丸の侵攻は……さすがに厳しすぎる状況ですな。我ら三人の内誰かが烏丸迎撃の為に戻る事も難しい」

 荒い息が落ち着き、背筋を伸ばして星が思考に潜り続けていた白蓮に言う。

 袁家に対して三人共がいるからこそもっていると言っていい状況だった。先陣を切り拓いてくる三人の敵将にそれぞれ当たる事で対処しきれている。

 特に星は必須だった。

 張コウ個人の武は凄まじく、さらに用兵に於いても、袁紹軍の中で練度が違う部隊を率いており、頭一つ飛び抜けていた。

 その猛攻を抑えられるのは星しかおらず、他の二人が赴いた場合は討ち取られる危険性が高かった。

 例え部隊は抑えられても個人の武という点ではどうしようも無い。それほど星や張コウのような武将はずば抜けていて、戦というモノに於いてはどうしようもないのだから。対抗するには同等の武将、もしくは相応の兵数による用兵でしか対処しきれない。

「ああ、確かに誰も戻す事は出来ないな。くそっ、烏丸の奴等め。しつこいにもほどがあるぞ! それに袁家が攻め込む時を見計らっていたっていうのか!」

 白蓮は机に拳を叩きつけ、その音にビクリと牡丹が飛びあがった。

 そして、何かに気付いたように震え始め、白蓮が彼女のおかしな様子に何事かと訝しげに尋ねる。

「どうした、牡丹?」

「お、おかしいですよ白蓮様。どうして張純は私達に報告を出さずに本城に戻ったんですか?」

「袁家の斥候か何かに邪魔されて届かなかったんだろう。事実、これまでも何人か間者が入り込んでいたしな」

 さらには、報告の伝令が道中で息絶える事もあるので不思議な事は無い。白蓮は袁家の諜報能力の高さを考えて、その答えを口にした後に舌打ちを一つ突いた。

 そんな白蓮の返答に対して牡丹はさらに悲痛な面持ちになった。

「でも……まだ防衛までの時間はあるはずです。なら張純自身が本城に戻る前に、私達の伝令を待つのが普通のはずです」

「……それほど急を要していたという事だろう」

 白蓮は違和感を感じ取ったがそれが何かは分からない。

 牡丹が何に気付いたのか、それとも何を思って今の発言を続けているか分からなかった。

「ただでさえ戦の状況が切羽詰っているのに、どうして急いで糧食や兵を戻す必要があるんですか! 戻すなら連絡を待ってからでも遅くは無かったはずです!」

「お前は何を言いたいんだ!?」

 大きな声を上げた牡丹に白蓮は思わず荒い声で怒鳴り、牡丹は縮こまってしまった。

「白蓮殿、焦れてしまう気持ちも分かりますがここは落ち着きましょう。牡丹よ、お前には何が見えているのだ?」

 二人の様子を隣で見ていた星は落ち着いた声で白蓮を諭すと牡丹に問いかけた。

「……ほんの些細なモノですが黄巾の時も張純には違和感があったんです。どこかと繋がっているんじゃないかと、私は疑ってました」

 震える声で話された内容に白蓮は掴みかかりかける。

 自身の腹心がこの大変な時に同僚を疑っている。信頼や絆を大切にする白蓮にはその事が許せなかった。

 だが、すっと無言で星に手で抑えられ、続きを聞くべきだと制された。

「続けろ、牡丹」

 憤怒の表情のまま白蓮が促すと牡丹は申し訳なさげに続けた。

「だから試したんです。連合に参加を決めた時に私の部下に監視を命じました。何か事を起こすのなら私達三人がいない時を狙うだろうと思って。でも連合が終わっても何も怪しい部分は無かったと報告を聞いて、私の心配は杞憂だったと思い、監視は帰ってからすぐに解きました」

 無断で自身の部下の事を監視していた事実を聞き、白蓮の怒気はさらに膨れ上がったが無言で頷いて続きを言えとさらに促す。

「白蓮様、おかしいと思いませんか? 烏丸に対して防衛を行うにしてもまだ時間があります。国境付近に配置してある兵は勇猛で、付近の豪族から支援も貰えるようにしてあるからです。私達に確認を取る手間を掛けるくらいは時間があったはずですよ。なのにあいつは独断で糧食と兵を戻した。この戦が長くなるかもしれないと感じ始めた矢先にですよ?」

 言われて二人ともが疑問に思った。

 確かに事前忠告もあり、自身の烏丸対策は万全で、いくら大軍で攻められようと少しの時間くらいはある。糧食にしても後付けで送ってもなんとか間に合うだろう。

 ならば何故、張純は独断で糧食を戻すという事を行ったのか。

 疑問に対する違和感はさらに浮かんだが、しかし白蓮の性格上、そしてこれまでの経験上それを認める事が出来なかった。

 もし、異民族が火急を要する程の大軍で押し寄せて来ていたのなら、袁紹軍に蹂躙されるよりも酷い事態になりかねないが故に。

「……杞憂だ牡丹。お前が私の為に全てをしてくれている事は知っているが、あいつだって私の臣下なんだ。今回のお前の話の真意は聞かなかった事にする。烏丸に対しての張純の判断は少し早計過ぎじゃないかと私も感じたからな。お前の不安を取る意味も込めて国境付近にどれだけの敵が来ているか確認をしよう」

 攻めて来ている異民族の数が少なすぎれば部下の能力が足りなかったという事で納得しよう。足りない糧食や兵は今後順を追ってその都度手配すればいい。半数を連れ帰っただけなのはこちらも大事だと張純が考えたからだ。

 そう白蓮は考えた。

 牡丹はそれでも不満げに続けようとしたが、白蓮の一睨みで言葉を呑み込む。

「同時に本城に警戒の伝令を送れ。私達は袁家に対して一刻も早く侵略を跳ね返せるように攻勢を続けるからお前達だけで烏丸の防衛線を持たせてくれ、とな。星は少し残ってくれ」

 御意、と一つ返事をして牡丹は天幕を出て行った。

 その背を見送ってから椅子に力無く腰を降ろし、白蓮はぽつりと呟く。

「なぁ、星。私は何を信じればいいんだ」

 第三者視点で物事を判断出来る星の意見が聞きたくて。部下としてではなく友としての意見も聞きたくて。

「……難しい質問ですな。私とて疑問が頭を埋めておりますし。部下として言うならば、現状の判断ではどちらとも言い難いがあなたの下した命で十分かと。友として言うならば、どちらも信じているあなたが正しいかと思います。ただ……」

 星は話を区切ってお茶を入れ始めた。白蓮はその様子を疲れた目で力無く見つめて聞き返す。

「ただ?」

「秋斗殿ならばこう言うでしょうな。ごちゃごちゃと焦ったまま悩むのは止めて、お茶でも飲んでゆっくり考えながら、自分で答えを見つけろ、と」

 店長と秋斗が考案した、飲み物をある程度暖かく保つ魔法瓶と呼ばれる容器からお茶を入れ、すっと白蓮に差し出した。

 彼女は目を丸くして驚き、ふっと微笑んでから湯飲みを受け取る。

「そうだな。ありがとう星。少しさっきまでの私には心のゆとりがなかった。じゃあちょっとお茶に付き合ってくれ。だが、酒は無しだぞ?」

 言われてバツが悪そうに、それは残念と肩を竦めて星は苦笑する。

 二人は天幕の中で暖かいお茶を飲み、今回の戦に対して、この後どう動くかを煮詰めて行った。



 †



 袁紹軍先陣にて、明日の攻めはどうするかと軍議を行っていた一同の元に一つの報告が入った。

「待ってたぜぇ? やっと本気で叩き潰せる時機がきやがった!」

 三日月形に引き裂かれた口から下卑た声が響き渡る。

 不快に顔を歪めるのは三人。猪々子、斗詩、そして明である。麗羽は今ここにはおらず、後陣にて休息を取っていた。

「姫にもこれを伝えなきゃな」

 こそこそと声を抑えて猪々子は隣の斗詩に話しかけたが、明が無言で黙ってろと伝えた。

「で? あんたはどんな攻めをするつもりなのさ?」

 冷やかな眼で睨みながら問いかける明を郭図は小さく鼻を鳴らして嘲った。

「はっ、簡単なこった。しばらくは防戦に徹して、全ての軍が集まり次第公孫賛を城に押し込む。あいつらはこれ以上補充が効かなくなったんだからよ」

 そんな事も分からないのか、というように言い放たれ、明は顔を顰めた。

 明とてそんな事は分かっていた。だがどのようにしてそれを行うか、という事が聞きたかったのだ。斗詩もそれを分かっている為、慌てて問いかける。

「その、どんな手を使ってそれをするんですか?」

「あん? 別に何も策なんざいらねぇ。ただ単に力で押すんだよ」

「おっ、郭図にしては分かりやすいな。あたい達に任せて――――」

 単純な命令に感心した猪々子であったが、

「はあ……猪々子、あんたちょっと黙ってな」

 ため息をついた明に遮られる。これだから猪は嫌いだ、と言わんばかりな態度に激発しかけた猪々子を斗詩がまあまあと止めた。

「あたし達の軍がどれだけの被害を受けるか、あんたなら分かってるはずだけど?」

「ああ、問題ねぇよ。所詮、兵なんてのは数でしかねぇんだ。今の駒の命がどれだけ減ろうが後で補充すりゃいい。この戦に勝てばこの土地の人間も使えるようになるんだからよ」

 唖然。斗詩と猪々子は郭図の言葉に口をあんぐりと開き、思考が停止した。

 対して明は、強い舌打ちと共にやっぱりかと小さく愚痴を零す。

 郭図は人の命を何とも思っていない。自分が美味い蜜を吸うことが出来るのならばどうでもいい、そんな人間だった。

 通常の軍師ならば思っていても口にわざわざ出す事はしないが、戦で勝つのが全てであり、負けるとも思ってはいない袁家はこれを許している。兵に知れ渡ればそれこそ不振が多数発生するだろうが、誰も得をしない為にその事を漏らす輩もいない。

 そも、古くからの歴戦の将にして、軍師とはそういうモノであるとの認識が強い場合も、稀ではあるが確認されるのだ。

 嫌いこそすれ、わざわざ声を大にして批判するものはいない。

「それにあれだ。嫌なら本気で戦って早いとこケリつけられるようにしろよ。お前らが手を抜いてる事くらい分かってんだよ、顔良、文醜よぉ」

 ビクリと、二人は飛び跳ねた。郭図はその様子を見もせずに明ににやりと笑いかける。

 お前の考えてる事なんかお見通しだ、と言わんばかりに。

 公孫賛さえ捕えればいいというわけでは無く麗羽達は関靖も捕えたいのでどうしても力を抑えてしまう。

 明はあらかじめ二人に指示を出していた。殺さず捕えられるように戦えと。だからこそ押し負けている所も多々あった。

 見抜かれていたのか、と明は悔しさに表情を歪める……事も無く、同じような笑みを浮かべて郭図に向けて言葉を放つ。

「二人は今後を見据えて戦ってるってのに何言ってんのさ? 夕がいたならもっと早く、無駄な事しなくてもケリをつけられるんだけど。自分の無能を他人に押し付けるなんて、所詮は外道策頼りの底辺軍師じゃん」

 瞬間、郭図から笑みが消えた。射殺さんばかりの凍えるような目で睨むが、明は下らないとばかりに鼻で笑った。

「あんまり調子乗ってんじゃねぇぞ、張コウちゃんよぉ。お前こそどうなんだ、趙雲如きに抑えられやがって」

 煽り返そうとするも明は揺るがない。軍師の優劣とは違い、武力の方が分かりやすい。趙雲と張コウ、二人の実力が拮抗している事は、戦場に立つ誰の目にも明らかだった。

「はいはい、そうだねー。あたしは所詮その程度の武将だから仕方ないんだよー。あ、あんたの物量頼りの素晴らしい策のおかげで次は勝つから安心してよ」

 おどけて舌を出して答える明に郭図は不快に顔を歪めた。ふざけたまま挑発を行い続ける明に猪々子と斗詩の二人は思わず吹き出す。

「ちっ、これで軍議は終わりだ。胸糞悪ぃから早く失せろ」

 逃げたな、と猪々子と斗詩の二人は思いながら笑いを堪えて天幕を後にした。

 明も同じように出て行く寸前、

「正々堂々と物量で真正面からぶつかるなんてあんたがするわけないのは分かってるよ。あんたのゲスな策、全部止めてあげるから。兵の犠牲よりも優先されるモノはあるし」

 言い放ってから軽い足取りで出て行った。

 郭図は苦々しげに見送ってから、しばらくして口の端を歪めた。

「クカカ、止められるわけねーよ。もう仕込みは済んだ。真正面からぶつかるのだって策の内なんだよ。早めに効果が出れば万々歳だが……きっちり食いきったら七日ってとこか。まだ殺しはしねぇんだから文句は言わせねーよ」





「ありがとうちょこちゃん。私達の事、気にしてくれて」

 斗詩は天幕を出て歩きながら礼を口にした。

 明が挑発したのはボロを出さないようにさせる為。袁家上層部に対して反発する、そんな思惑は今の内に気付かれてはいけないから。

「そんなんじゃないよ。あいつが気に食わないだけだしねー」

「明は素直じゃねーなぁ」

 がははと男勝りに笑いながらの猪々子の言葉に明は肩を竦めて苦笑する。

 明は連合が終わってから二人と急速に接近していた。夕の助けになる為にはどうしても必要な事であったから。

 自分の実力を全て見せて、助けて欲しいと頭を下げた。

 まさか自分達が麗羽の人質になっているとは露とも知らなかった二人はその想いを受け取り、手を貸す事を約束した。

 元来、素直な二人は明の説明をすぐに信じ、それに対して真名を許す事もした。

 明は最近、二人と他愛ないやり取りを行う毎にこういうのも悪くはないと感じ始めていたりする。

「別にあんた達の為じゃないし。あたしは夕の為にしか動かないもん」

 人との関わりが薄かった明はこんな時どういうふうに返していいか分からない。

 そんな様をみて二人はさらに微笑む。

 いつか仲良くなりたいと思っていた。確かに自分達に実力を隠していた事は腹が立つが、それもたった一人を想っての事。

 全てを知ったからか、明のどんな態度も受け入れられた。

「ふふ、ちょこちゃんは可愛いね」

 おしとやかに、斗詩に笑いかけられて明は顔を真っ赤にして慌て始める。

「な、何言ってんのさ! あたしなんかが可愛いわけないじゃん! 可愛いっていうのは夕みたいな子の事を言うの!」

「いいや、あんたも可愛いね。あたいの嫁二号にしてやりたいくらいだ」

 照れている明をにやにやと見ていた猪々子が肩をがっしと組む。うっとおしそうに跳ね除けようとしたが……明はそれを止めた。

 夕の前以外でも、こいつらの前ならちょっとくらい気を抜いてもいいか。

 前までの彼女ならあり得ないが、そんな事を考えていた。

「変な事言ってたら斗詩がヤキモチ妬いちゃうよ?」

「うっわ、それはまずい。やっぱりあたいの嫁は斗詩だけだ!」

 慌てて猪々子は明から離れて斗詩に抱きつく。

 心底可笑しそうに、明は笑いながらその様子を眺めていた。

 うん、こういうのも悪くない。

 全部終わったら。こいつらと一緒に幸せになるのも悪くないかも。

 夕が変わった事によって、彼女の歪みも少しずつではあるが修正されつつあった。




 †




 先の、張純が本城に帰還したとの報告があってから二度の衝突を繰り返した。短期決着を急ぐ為に白蓮達は怒涛の攻めを行ってはみたが、しかし袁紹軍の守りは堅牢に過ぎ、さらには数里陣を下げられていた為に深くは切り込めなかった。

 そんな折、さらに白蓮を絶望に突き落とす報告が為された。

 くそっ、なんだその数は!

 主がそのような言葉を口に出してはいけない。白蓮は心の内で毒づいた。

 袁紹軍総勢十万弱が行軍中。

 まるで機を見計らったかのように全ての兵を集めて来たのだ。

 対して白蓮の軍は現在五万。追加の補充兵が到着しての数。国境付近に残してある兵と、張純が本城に戻した兵をかき集めれば後三万は集められるが、烏丸の情報が入らない限りは容易に動かす事など出来ない。

 ふいに牡丹の忠告が頭を過ぎる。

 本当にこれを狙って張純が帰還したのならば……

 ふるふると頭を振って否定する。

 ダメだこれじゃ。こんな気持ちのままで戦っては……私は部下の皆を信じている。

 力強い瞳を湛え、彼女は一つの決意をする。

「誰かある!」

 天幕外に待機していた兵を呼び寄せ指示を出し始める。

「一度付近の城に引く。二倍近い兵力に対してこのままではあっという間に敗北してしまうだろう。ぶつかるのも確かに手だが、早めに籠城戦に切り替えるべきだ。それと本城に追加の兵の補充をと伝令を送ってくれ。張純に数の判断は任せる、とも」

 城は包囲される事だろう。籠城を行い、本城からの部隊が到着次第、内と外から挟撃を行って抜き去り、一つ城を捨てて戦線を下げてから戦うのが最善と判断した。幸い、別働隊を送らず、未だに目立った動きはしてこないのだから。

 白蓮の選択を間違いなく受け取った牡丹は苦い顔をした。

「牡丹、幽州を守りきるためには全てのモノが連携を取らなければいけない。この戦は私の命、もしくは身柄を抑えなければ終わらない。だから敵も城での戦に乗ってくるだろう」

 自分の、軍に於いての価値は理解している。彼女が折れない限り公孫軍は戦い続けられるが、彼女が折れれば軍の士気は地に落ち、敗北が決定してしまう。

「早い内の決着は望めない。烏丸への対抗もある。そんな現状ではこれが精いっぱいなんだ。信じてやってくれ」

 最後まで逃げる事はしない、そう言っている。どれだけ絶望的な状況であろうが白蓮は折れない。ここで逃げるや従うという選択は信じてくれた民も臣下も裏切る行為である為に。

「分かっております。あなたがそういう方である事は。だからこそ私も、皆も大好きなんですから」

 にこやかに笑みを浮かべて牡丹は答えた。ふっと息を漏らした白蓮はその頭を撫でる。

「いつもすまないな。勝機はまだまだある。それまでは耐えよう」

 はい、と元気よく返事をした牡丹に頷き、彼女達は兵の撤退の指揮に動き始めた。



 †



 籠城戦を始めて五日目の早朝、眠れなかった私は城壁の上でまだ暗い空を眺めていた。

 籠城での戦はやはり慣れないモノだ。地を蹴る馬を駆り、敵を翻弄してこその私達だろう。

 敵からの攻撃は意外な事に少し緩やかだった。予測では、私達を逃がさない為にある程度余裕を残す為。

 しかし皆もよく戦ってくれている。

 圧倒的な兵数を聞いた時、私の心は挫けかけた。それに未だに烏丸の現状も入らないし兵の補充もままならない。

 隣にいる牡丹、そして星の二人が心を奮わせてくれたから、兵の全ての命の重みを感じていられるから自分を保っていられる。

 ここまででずっと一つだけ心にしこりがあった。未だに牡丹のあの目が、あの表情が気になる。

 何故、普段であれば私に対してここまで食い下がることなどしないあいつが……これほど必死になって訴えかけてくるのか。

 私の為を想ってずっと尽くしてくれたのは、自分の一番の臣下は間違いなくあいつだ。

 平等に接する事が王の務め。だから口には出さないが、それでも私は心底からあいつの事をそういう存在だと感じている。

 思考に潜るうちに渦巻く不安が形を成して来る。

 疑うな、と強く念じて追い払っても現れるそれは、自身の心を蝕んでいた。

「人を信じるという事は……難しいな」

 今は遠き徐州の地にいる一人の友を想う。

 誰よりも人の事を信じている桃香の事を、私は心の底から羨ましいと感じていた。そんな彼女だからこそ、あれだけ才豊かな者達から好かれるのだろう。そんな彼女への嫉妬に心を焦がした事もあった。

 次に一人の男を思い出す。

 あいつがここに居てくれたら、私の事も支えてくれたのかな。こんな時代じゃなかったら、皆でバカをしていられたんだろう。欲深いモノがいなくて、皆が仲良く出来たのなら、こんな世界にはならなかったのに。

 平穏な日々が欲しい、そう心の底からの願いが湧いてきた。

「おや、こんな時間にこんな場所で、どこの誰が黄昏ているのかと思えば……白蓮殿でしたか」

「星……か」

 振り向くと星が佇んでいた。ゆっくりとこちらに向かい歩いて来て、目の前で立ち止まって私を見やる。

「あなたが思い悩むのはよくある事ですが、今日は一段と深いようで」

「ふふ、さすがに分かるか。話を聞いてくれるか? 朝になれば戦が始まるから少しだけ」

 星はコクリと頷いて隣に並ぶ。私の顔を見ないように、そんな気遣いからだろう。きっと面と向かったら弱い自分をこれでもかという程見せてしまう。

「私はさ、戦が嫌いで、野心も無くて、ただ人を、この家を守りたいだけなんだ。本当は皆が与えられた地を守るだけで平穏が手に入るはずなのに、この乱れた世はそれを許してくれない。

 でも欲の張った輩が居なくなれば、きっと平穏な大陸が手に入るだろうと思ってるんだ。甘いかな?」

「甘いでしょうな。ですが、それも一つの答えかと」

 静かに紡がれた言葉は私の胸に沁み渡る。そんな暖かさが耐えられなくて、弱い心が顔を出した。

「でもな……嗤ってくれ。私は部下を心底から信用出来ていないんだ。そんな私が口にしていい言葉じゃないよな」

 自嘲の笑みが零れ、自分が情けなくて顔を下げてしまう。

「敵の事じゃなくて自分の身内の事で衝突や問題が起こると、どうしてもここが痛いんだ。そして全てを信じたいのに信じられなくなり、疑う事なんかいらないのに、疑ってしまう」

 胸をトンと一つ叩いて示すと、星が横目で見ていたのが感じ取れた。

 そのまま無言。どちらが話すわけでも無く、ただ前を向いて風を浴び続けること幾分。

「白蓮殿」

 静寂を打ち破ったのは星。ゆっくりと顔を上げて、私より身長の高い彼女に目線を合わせると綺麗な瞳が迎えてくれた。

「あなたは優しすぎる。そして、未だに友に対しての劣等感をお持ちのようだ。あなたは劉備殿では無く、公孫伯珪でありましょう? ならばそれもまたあなたなのです。

 ただ、そんな弱い部分もあなたの良さ、自分を責めるからこそあなたらしく、私が守りたいと思えるただ一人の主です」

 鋭い眼光と信頼の籠った声音、彼女は私をいつも奮い立たせてくれる。臣下として、何より友として、これほど頼りになる者はいない。私は本当にいい友を得た。

「そうか、すまないな星。こんな弱い私だがこれからもよろしく頼む」

「心得た。あなたの望む平穏を作り出す事こそ我が望み。それに……あの時の願いを叶えなければいけません故」

 にやりと普段通り妖艶に笑う彼女は、もう湿っぽいのは終わりだと言っているのだろう。

 互いに叶えようと祈った願いを思い出して私も笑い掛け、そのまま二人で少しだけ思い出話に華を咲かせる。

 心の内に、自身の家を守る為に命を賭ける決意を再び燃やしながら。



 しばらくして城壁の上で話ていた私達の耳に人の駆ける足音が届く。

 何事かと思いその方を見つめていると、

「ここにいたんですか白蓮様! 大変です!」

 息を切らした牡丹が扉を勢いよく開けて、もんどりうちそうになりながらもこちらに走って近付いてきた。

「どうした? 何かあったのか?」

 膝に手を付いたまま、牡丹は絶望の宿った瞳で私を見つめ口を開く。

「……昨夜の糧食に……何かが含まれていたようです。私の第二部隊が明け方に不調を訴え、高熱を出す者が続出。とても戦える状態ではありません。食べた糧食は……最後に星が持ち帰ったモノでした」

 ギリと歯を噛みしめながら紡がれたその報告は、私の満たされていた心を地の底まで叩き落とした。




読んで頂きありがとうございます。


今回は幽州の戦ですが、詳しく描写してしまうと話が進まないため大幅カットです。

戦記モノではないのでこのような書き方をすることをお許しください。

さて、ちょくちょく登場していた張純さんはこんな感じです。

白蓮さん達はまずい状況です。

次の話で幽州の戦は終わらせるつもりです。


ではまた

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