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夕暮れ、後に霞は晴れ渡りて

 夏候惇との一騎打ちに敗れた張遼は曹操軍に降り、呂布や陳宮も抜けた洛陽での戦にはもはや主だった将はおらず、残党の制圧を残すのみとなり、張遼が降った事を知った残党は烏合の衆に等しく、制圧はあっけなく終わった。

 桂花とは一寸だけ目が合ったが、何かを決意したのか強い眼光で私を射抜いてきた。負けないわよ、と言うように。

そんなに噛みつかなくてもいいのに。あなたとあなたの主は袁家の改善には必要不可欠だからそっちを私達が叩き潰した後で下に付いて欲しいな。

 会話もせずにそんな思いは伝わるはずも無く、私がすっと目を逸らして田豊隊と袁紹親衛隊に指示を出し始めるとすぐに別の所に行ってしまった。

 そんな折、一つの報告が私の耳に入った。

「田豊様。郭図様が洛陽内部にて策略成功、後処理はこちらでやっておく、との事です」

 一番耳にしたくない名前を聞き、込み上げる不快感に思わず顔を顰める。

 あのクズ……私達の本城にいると思ってたけど最初から入り込んでいたのか。通りで時機が的確に過ぎると思った。しかし成功といいながらもあのクズは詰めがなってないはず。わざわざ報告を私の所に送ったのはそれを隠すためだろう。どうせ董卓や賈駆を捕えられず、それを誤魔化す為に適当な人を殺して仕立て上げようとしているに違いない。

「ん、わかった。下がっていい」

 これ以上関わりたくない気持ちと、あれは私が何を言っても反発するのが目に見えているので短く返答を行い伝令を下がらせ、一つ大きく息をついて、隣で未だ震えている麗羽の方を向いてこの後の動きを言っておく。

「本初、顔良は既に洛陽内に向かわせた。これから文醜も向かわせる。明には城外で私達と共に制圧の指揮を執って貰う。その後、最後に堂々と連合総大将として洛陽に入るから公路に伝令も送っておこう」

 こちらの意図は分かってくれるだろうか。麗羽も頭が悪くは無いからこれを機に学んでいってほしい。少し考えさせてみよう。

「どうしてそうするか……分かる?」

 尋ねると彼女は青ざめた表情のままだったが、コクリと一つ頷いた。

「……そうですわね。何も関係ありませんわ」

 麗羽の一言で全てを理解しているのが分かった。彼女はやはり頭がいい。思考させるまでもなかったか。

 二枚看板と謳われる二人を洛陽内に送ることで民にこちらの助けたいという気持ちを示し、自分達が残る事で強力な将がおらずとも戦を最後まで行いきった姿勢を見せる。その後、堂々と入ることで洛陽大火が袁紹軍とは関係ない事をしっかりと意識づけ出来る。根回しくらいしているはずだからこれで問題ない。

「さすがは本初」

 短く褒めると私の言葉の真意を悟ったのか自身の震えを抑え付けて胸をキュッと強調するように突出し、不敵な笑いを携えた口の傍に優雅な仕草で手を添える。

「お~っほっほっほ! 当然ですわ! このわたくし、華麗なる袁本初はせっかちで胸の残念な華琳さんと違って威厳に溢れているのですから! 加えて、寛大なわたくしが戦場の後始末くらい引き受けてさしあげますわ!」

 続けて高笑いする彼女を見ると、その眼尻には涙の雫が一つ浮かんでいた。

 傀儡としての役目は、ずっと彼女の心をじわりじわりと蝕んでいる。呪いにも似た精神的な重圧は、もはや日常に於いても非日常においても彼女を縛り付ける。彼女の涙の意味は自身への戒めと罪悪感の大きさを表していて、同時に自身への悔しさも見て取れる。

 彼女に掛かった大きな呪縛が解ける時、それは私達皆が助かる時だ。

 それにはまずあれが欲しい。あれなら麗羽を支えられる。政治的な負担も軽く出来るし、何より麗羽に対して全力で自分の心をぶつけてくれる存在だから。

 大陸で勇名を馳せている他の誰よりも……幽州の公孫賛が欲しい。

 ただ少し問題がある。この洛陽大火の事実を知られたらまずい。彼女は義の人だから悪徳を行う袁家には従わないだろう。それと……もしかしたらあのクズはもう既に幽州内部に毒を仕込んでいるかもしれない。今後の利を考えても幽州が欲しいのは腐りきった袁家の重役であるあいつも同じだから。

 なら捕えた上で説得するのが最善か。出来れば趙雲、関靖も欲しいかな。曹操を打倒するには優秀な人材が多めに欲しい。麗羽の本当の姿を知ったら義に厚い彼女たちは手伝ってくれるだろう。

 思考に潜りながらも戦場を見る私の視界に赤い髪を揺らしながら戻ってくる明が映った。

 身に纏う衣服のそこかしこを赤黒く染めているが、問題ない動作で近づいてくるからきっと大抵は返り血だろう。連れている隊の数を見ると被害は三割弱といった所か。

 じっと見つめていると、戦場の狂気とあのクズへの憎悪を混ぜ込んだ瞳、そしていつもの薄ら笑いが返ってきた。

「ただいま戻りました、袁紹様。張コウ隊の被害は三割弱、呂布と陳宮には逃げられましたがそれらの部隊は大きく削れたかと」

 忠誠などかけらもないが一応片膝を折って形式ばった報告をすらすらと並べる。

「よろしい。わたくし達はこれから美しく優雅にこの戦場を制圧する事にしましたわ。あなたの隊も追随なさい」

「御意」

 無感情な声は何を思ってか、きっと麗羽には分からない。

 すっと立ち上がって隊に指示を出し始めた明に近づく。気配を感じ取ったのかゆっくりと振り向き目が合う、するとやっと表情が穏やかなモノになった。

「どうしたのさ?」

「ううん、何でもない」

 少し言葉を交わすだけで瞳の色がさらに落ち着く。

 大丈夫、私はあなたの事をわかってるから。

「ふふ、夕は可愛いなぁ。……よし! じゃあもうひと踏ん張り行きますかー!」

 ふっと微笑んで気合を入れた後、私に背を向け張コウ隊に指示を飛ばす。

 さて、私もちゃんと仕事を終わらせよう。


 †


 決戦の次の日、戦後処理をある程度で切り上げ、私は麗羽と共に正装を着て都の上層部に掛け合いに向かった。詮議の日取りを決め、洛陽の復興に対して自分達が総まとめを行うために。

 しかし曹操が先に大長秋と面会して復興の許可を貰ってある事を聞いた時は驚いた。本当に機というモノを良く理解してる女だ。これで曹操だけは自由に動ける事になり、長い期間洛陽に留めておく事が難しくなった。滞在期間を延長させる事によって様々な効果を出せたというのに。

 お先に、と去り際に勝ち誇った表情で残した一言が麗羽の対抗心を強く煽ったようだが、相変わらずせっかちさんですわね、と優雅に受け流していたのには少し笑えた。

 まあいい、私達も同じように自由に動ける。ただ同等の条件になっただけ。

 そう自分を納得させようと心の中で呟いても、浮き上がる不安と苛立ちは消えなかった。

 褒賞として与えられる支配域により、こちらの領地が圧倒的に多くなるので公孫賛を無視し最速で侵略しても確実に勝つには時間が足りない。だから時間をゆっくりと掛け、外堀から埋めて行かないと。

 その為に徐州の州牧に劉備を推挙しておいた。あれには餌になってっ貰う。欲を言えば首輪付きの飼い猫の牙を一つくらいへし折って欲しい。その辺りの事は七乃に伝えるよう明に頼んでおいたけど。

 八つ時に謁見等をすませて麗羽と城の前で別れ、着々と思考を積み上げながら洛陽の街を歩いていると、劉備軍の面々が炊き出しをしている現場に着いた。将や軍師達、さらには劉備本人でさえ忙しく動き回るその場所は活気と笑顔に溢れ、戦火の後とは思えぬほど。

 なるほど、これこそが劉備軍の本質か。

 少し侮りすぎていたかもしれないと今までの自分の評価を改め、これからどう崩していくかの思考に今見ているモノを組み込んでいく。

 そこで一つのおかしな事に気付いた。

 どう考えても一人の男が当てはまらない。異質に過ぎるその男は目の前の現状に合わなさすぎる。

「ん? 夕か?」

 後ろから掛けられた声に振り向くと件の男が……身体の至る所に子供をくっつけて立っていた。背中に一人、腕にぶら下がる一人と抱き上げられている一人、両足に群がる四人。思考に潜るのに集中しすぎてこんな異常な物体に気付かなかったのか。

 しかし……その姿はあまりに滑稽だったがなかなかどうして似合っていた。

「……秋兄。無駄に似合ってる」

「ありがとう、今の俺には最高の褒め言葉だ」

 一つ返事の後、にっと笑って子供たちをあやしだす。同時に兵に指示も出しているが彼の兵達からは一寸の不満の感情さえ見当たらない。

 彼のそんな状態を見て先程の違和感が露と消え、彼への理解がまた深まった。

 この人は二面性を持っている。そして、多分違和感の一番の原因はあいつ、劉備だ。この人と劉備が違う所にいるとこれほどまでしっくりくるのだから。

 どちらも徳高き行いをするのは同じだが本質的な部分で二人は決して相容れない、そういう事か。

 子供たちをあやす彼の様子はまるで年若い父親のよう。きっと彼の本当の姿は戦場を鬼神の如く駆けるモノではなく、平穏を精一杯堪能するこの時なんだ。

 ずっと見守っていたいような衝動が湧いてきたが、ふるふると頭を振って追い払い、優しい表情の彼に声を掛ける。

「秋兄、ちょっと二人で話がしたい」

 言うと彼は少し不思議そうな顔をしたが、何か考えたのか子供たちに静かに声を放つ。

「お前達、すまないがあっちのねーちゃん達の方へ行ってくれるか? 大丈夫、後でちゃんと遊んでやるから、な?」

 その声に不満顔ながらも子供たちは渋々といった感じに離れ、劉備たちの元へ駆けて行く。彼は笑顔で見送り、こちらに向くとクイと親指で人の少ない通りを指し示した。それを見てコクリと頷くと彼はゆっくりと歩きはじめ、それに倣って二歩ほど後ろを付いていく。



 着いたのは人の多くない、それでいて開けた場所。誰にも聞かれないように配慮してくれたのか。

「それで、話ってなんだ?」

 合わせた瞳からは前のようには心の内が見透かせない。疑念なのか、警戒なのか、信用なのか。唯一感じ取れたのは一つの感情だけ。

 吸い込まれそうなほど深く、呑み込まれそうなほど昏い……絶望。先程の穏やかな瞳は何処へ行ったか、何故これほどまでに正反対に切り替わったのか私には分からなかった。

 この短期間でこの人に何かあったのか。目の下にはしっかりと確認しなければ気付かないほどだがほんのうっすらと浮き上がる隈が見て取れた。

 しかし今は気にする事ではないと意識から切り離し自分の要件を告げる事にした。

「私達を助けて欲しい。袁家に従うしかない私達を」

 この人は優しいからそれを利用しよう。嘘じゃないから見破れない。断られたとしても楔を打ち込んでおける。

「袁家はこれから二分される。あえて名前を付けるなら、あるのは欲望のみで手段を問わない濁流派と正統に大陸を救うために動く清流派。私達清流派はずっと耐えてきた。それも今回の戦でおしまい。これから本格的に袁家の改革に動く手はずになってる」

 するつもり、というだけ。今後の動きで見せかけの対立を示すことが出来るし大丈夫。

「……具体的にどうしろと?」

「私達の軍に来てほしい。今回のあなたの手柄の大きさなら所属移動も簡単に出来る。あなたの評判はこれからどんどん上がる。それは民にとっても、兵にとってもこれ以上ない標になるだろうから協力してほしい。袁家を内部から変えるためには有力な将が足りなさすぎるから」

 道すがら耳に入ったが、大義の人、大徳の将、なんて呼ばれ始めている彼はこれからの袁紹軍にぜひ欲しい。それに彼の存在はあの乱世を喰らう化け物と相対するには最重要となる。

「それは無理だな。袁家は信用できない」

 言葉と共に凍りつくような瞳に射抜かれ、少したじろいでしまうがどうにか持ちこたえた。彼はそのまま顔を寄せてきて耳元で囁く。

「……曹操が怖いのか?」

 たった一言。それだけで自分の心が恐怖に彩られた。身体が離れても自分は硬直したまま動けずにいる。

この人はどこまで読んでいるのか。曹操の名前など常人の思考ではここで出せるわけがないのに。

「交渉事は苦手だし軍の行く先を決めるのは俺じゃないから……個人の答えだけ。お前達が他国に何もしないなら考えておく。まあ、俺一人の存在で何かが変わるとも思えないが」

 飄々とした態度で軽く口ずさむように語り、自信なさげな体を装って軽く頭を掻いた。

 どの口が言うのか。私の頭の出来を予測しながら曖昧な発言でこちらの思考を縛りに来たくせに。この人がこの先どんな手を打ってくるか全く予想できない。劉備じゃなくこの人が率いていたら……苦しい戦いになっただろう。

 けどもう既にこちらの手は打ってある。彼はただの保険。そう出来ればいいなというくらいの事なのだから。

 しかし言い聞かせても震える身体は収まらなかった。私の脳髄が警鐘を鳴らす。この人は曹操と同じくらい危険だ、と。

「秋兄は……どこまで読んでるの?」

「さあ、なんのことやら。……まあ本当なら、あんまり無理するなよ」

 これ以上は乱世の話はしないという事か。

 どの程度なのかぼかして聞いてみるも軽く流され、何故か私の事を心配して頭を撫でる。その手つきはいつかのように優しく、不思議な事に頬が熱くなった。

 彼はやっぱり二面性を持っている。いや、作ってしまっているのか。暖かくて優しいのが本来の姿だからそれを無意識に守るために。瞳を見ると先程までの昏さは無く、綺麗で透き通った眼差しを私に送っていた。

「あー! 秋兄、また夕を誑かしてるー! あたしのだって言ったじゃんか!」

 明るい声を発しながらもの凄い速さで明がこちらに駆けてきて、間に割って入り私を優しく抱きしめる。

「おお、すまないな。夕が可愛いからつい撫でちまった」

「それには全力で同意するけどさ! ……夕、クズの見張りがいるかもしれないからこれ以上はダメ」

 秋兄に言い返してからぼそっとこちらに囁く。確かにあの臆病で疑り深いクズにこの人と親しくしている所を知られると困る。でももうちょっとだけ撫でて貰いたかったな。

 自分の本心を我慢してするりと明の腕から抜けて私達を微笑ましげに見ている秋兄の方を向く。

「秋兄、さっきの話は忘れて。時間を取らせてごめん」

「いいよ。こっちこそごめんな」

「……? なんの話?」

「後で話す。じゃあね、秋兄」

「わかった、そんじゃまたどっかで会おうねー」

「ああ、またな」

 互いに軽く別れを告げてそれぞれ違う方向へ歩き出したが、明が早く話せというようにちらちらと見てくる。

「明、秋兄を勧誘したけど無理だった」

「へー。ま、そりゃそうでしょ。使える駒は増やさないとダメだけど今は揺さぶりだけでいいんじゃない?」

 私の短い言葉である程度の狙いまで予測してくれたのか。

「ん、さすが明」

 公孫賛さえ仲間に出来れば特別仲がいいと噂の彼も手に入るだろう。劉備軍で欲しいのは彼だけで、自覚のない偽善者なんか一人だっていらない。

 でもどうしてだろう。秋兄と関わると何故か――――

「そういえば七乃には伝えといたよー。了解だってさ。」

「わかった。なら後は麗羽にも行動させるだけ。陣に行こう」

 頭に浮かぶ疑問を振り切り、簡単な受け答えだけして二人で自陣に向かう。

 あいあいさーと元気よく答える明の返事を聞いて、思考の中で自分達の策を確実にする方法を積み上げながら、私達はゆっくりと洛陽の街を抜けて行った。


 †


 洛陽内部の制圧と自軍が行う救援手配の進言が終わり、ゆっくりと街を歩いて兵への指示を終えてから城を後にし、城壁を出るや馬に飛び乗ってただ駆ける。

 気を抜くと零れそうになる涙を気力で抑え込み、這い上がる恐怖を自身への叱咤で叩き伏せる。されどもただ速く速くと急く心は止める事ができなかった。

 陣の入り口にて自分を見る兵に愛馬を戻しておくように簡単に指示を出し、陣内の目的の場所まで全速力で疾走する。

 すれ違う自身の将達の顔色は皆悪く、最悪の事態が頭を掠めるもすぐさま否定し脚を動かし続けた。

「春蘭!」

 天幕の入り口を切り裂くように開け放って飛び込むと真横を愛しい彼女が抜けて行った。

「待ちなさい! どうして逃げるの!?」

「……っ!」

 声を掛けても返事すら返さずに駆ける彼女を追いかけ続ける事幾分、やっとの思いで捕まえて引き倒し馬乗りになる。

 それでも両手で顔を隠す彼女のこめかみに一本の糸が見えた。

「……手をどけなさい、春蘭」

「出来ません! このような醜い姿など華琳様にお見せするわけには!」

 叫ぶ彼女の手を優しく掴み、耳元に口を近づけて出来る限り甘い声で囁く。

「戦は終わったのよ。疲れた私に愛しいあなたの顔を見せて癒してくれないかしら? それとも私の顔を見たくない、春蘭は私の事が嫌いになった。そういうこと?」

 私の言葉にビクリと跳ねる彼女からは嗚咽が漏れだし、少し時間を置いてゆっくりと手をどけて泣き顔を見せてくれる。負傷報告のあった眼には蝶の眼帯がつけられていた。

「すみません、華琳様、このような――」

「どうしたというのかしら? あなたは何も変わりない。私の愛しい、大好きな春蘭のままじゃない」

 自分の心が泣き叫ぶもそれを表情には出さないように微笑みを刻み付け、いつものように声を掛ける。

「しかし! この左目は!」

「その瞳は私への忠義の証として捧げてくれたモノ。春蘭の身体は春蘭のモノでも、その心と左目は、ずっと私のモノよ」

 本心を言いながらも心は歓喜と悲哀にねじ狂う。

「よくやってくれたわね、春蘭。これからも私の剣となって戦って頂戴」

「華琳様……うぅ……うわぁぁぁぁん!」

 これからも続く。いついかなる時にもっと大きなモノを失うか分からない。私に出来る事はもっと強大になって世に平穏を創り出し、一人でも多く人を失わせないようにすること。そしてこの子達に相応しい主であり続け、一人全ての先頭に立って皆を導くこと。死が私と愛するモノとを分かつ事があったとしても、その心はずっと共にあり続けられるようにと。

 泣き叫ぶ彼女を掻き抱いて背中を撫でつけながら、自身の覚悟を再確認して、しかしどこかに少しだけ……寂しさを感じた。



 泣き止んだ春蘭の額に一つ口づけを落とし、真っ赤になった頬を撫でてから立ち上がる。

「此度の戦、ご苦労であった。してその成果をここに示せ」

「はっ。誰かある! 張遼をここに!」

 春蘭の一声に近くを警備していた兵が走り出し、しばらくたって張遼を連れてきた。

 その堂々たる姿はまさに自身の求めたモノ。不敵な笑みを携えて、悠々とこちらに歩いてくる。立ち止まり見つめ合うこと数瞬、射抜く眼光は鋭く、どこか肉食獣にも似ていた。

「張遼よ。お前の力はこの時に果てるには余りに惜しい。我が願いを果たす為に力を貸せ」

 目を細めて彼女の放つ圧力を跳ね返し、自身の言葉を代わりに返す。

 耳に届くとすぐに目を丸くした彼女は、次に眉間に皺を寄せて怪訝な表情で返答を行う。

「あんたぁの願いってなんや?」

 今にも斬りかかってやろうかというように殺気を込めて言い放たれる。おもしろい、これくらいでなくては意味が無い。

「如何な犠牲を伴おうと、この大陸に悠久の平穏を。それを手に入れる為ならば私は英雄にも悪鬼にもなろう。この大陸に蔓延る腐敗をまるごと打ち砕き、全てを従えて世に平穏をもたらさん。

 ……私の元にて、今は亡きあなたの主の望んだ世界を作る手助けをしてくれないかしら?」

 言い終えると彼女はしばらく難しい顔をして沈黙していたが、急にからからと大きな声で笑いだした。

「クク、あはははは! おもろいなぁ。なんっちゅうか突き抜けとる。全てを知って尚、踏み越え、ぶち壊して作りなおす。せやな、優しいだけやったら世界なんぞ変えられへんか」

 最後の言葉は自身の主を思ってか。私も一度でいいから言葉を交わし、語らってみたかった。ただ一人、帝のために魔窟に飛び込む事を決めた英雄と。

 張遼はふっと息を漏らした後に私の前に片膝をついて拳を包んだ。

「うちの真名は霞言います。この命と神速、世の平穏のために使って頂きたい」

「ふふ、あなたの今後の働きに期待する。私の真名は華琳よ。それと……自由なあなたを堅苦しく縛り付けるつもりは無い。公式の場以外は言葉を崩す事を許す。私の軍でもあなたらしく、好きなようにして頂戴ね」

 私の言葉に仰天して、霞はまた大きな声で笑い出した。春蘭は口を尖らせて拗ねていたが、私の事を良く分かってくれているから何も言わずにいてくれる。

「あかんなぁ、やっぱり完敗や。ならこれからよろしく頼むで」

 そう言ってにししと悪戯っぽく笑う彼女を見ていると心が少し和んだ。

「……あ! ひっじょーに申し訳ないんやけど一つだけお願い聞いてくれへんやろか?」

「言ってみなさい」

「劉備軍の徐晃っちゅうやつに会わして欲しい」

 霞の口から思いもよらない名前が飛び出した。見つめる瞳は真剣そのもので、巡る思考の中で一つの事柄に結びつく。

「……華雄のこと?」

「あー、別に憎いから殺したいーとかそういうんちゃうねん。ただあいつの最期くらい聞いとこかと思うてな」

 虚空を見上げる寂しい瞳はいかに華雄が彼女の大切なモノだったかを映し出している。

「いいでしょう。確か劉備軍は洛陽の街に居たはず。私も個人的に用があるし、着いてきなさい。……春蘭はここで休んでなさい。またお仕置きされたいのかしら?」

 当然自分も着いていくモノと思っていたのか、隣に並んだ春蘭に掛けた私の言葉で彼女の表情は絶望に染まった。

「いい子にしてたら今日の夜にたんと可愛がってあげる」

 耳元で囁くとぱぁっと表情が明るくなった。尻尾があればはち切れんばかりに振っているのではないかと思われる。

 いってらっしゃいませー、と後ろから大きな声で言う春蘭に笑いを堪えながらの霞を連れて、私達は洛陽内部に向けて陣の外に出た。


 †


 橙色の斜陽が差し込む街角にて、慌ただしかった時間も過ぎ去り、皆が一様に休息を取る。

 兵達がそれぞれに佇み、座り、笑いあう場所のさらに端にある休憩用の天幕の中、私と朱里ちゃんの目の前には地に足をつけて座る秋斗さんがいる。

「さて、説明して頂きましょうか。田豊さんと! 二人っきりで、何を、話していたんですか?」

 お説教をする時の黒い影を纏った朱里ちゃんの、相手の名前を強調して紡いだ言葉にも、一つ肩を竦めただけで秋斗さんは沈黙を貫いていた。

 朱里ちゃんによると、シ水関では既に秋斗さんと田豊さんは内密に真名を交換しているらしく、三刻ほど前には二人で話し込んでいる所を見つけたらしい。物陰に隠れて観察していたが頭を撫でている時に張コウさんの出現で良い雰囲気が壊れて秋斗さんは戻ってきた、とのこと。

「もしかしたら……恋仲なのかなぁ」

 私への説明の途中で朱里ちゃんの零したそんな一言にズキリと胸が痛んだ。

 どうしてこの戦で出会っただけの田豊さんと……それはないはず。確かにあの人は可愛くて、頭が良くて、背は私達と同じくらいなのに胸が大きくて、噛むこともなくて……比べたらダメだ。

「この前は教えて頂けなかった事も話して頂けるんですよね? だって前にご自分で『今は無理なんだ』とおっしゃっていましたし」

 お説教時の朱里ちゃんは容赦が無い。流れるように彼の逃げ場を無くしていく。

「さあ、今回は教えて下さい」

「……秋斗さん。私も、知りたいです」

 どうして私にすら話してくれなかったのか。沸々と哀しい気持ちが湧いて来る。ああ、ダメだ。私はまた昏い感情を抱いてしまっている。

 秋斗さんは一つ大きく息を吐いてちらと私達の顔色を伺い、俯いてから少しの間をおいて語り出した。

「……そうさなぁ。夕、田豊には俺が何をしようとしていたか少し言葉を交わしただけで看破されてな、あいつ曰く『同類』なんだと。真名の交換はシ水関攻略の作戦確認に来た時、外に出たら二人が何故か俺が出てくるのを待っててそのまま話す事になったんだがその時に行った。……多分、あいつは袁紹の王佐たらんとしてるんだろうよ」

 話を聞いて彼女の特異な能力に思わず舌を巻く。あんな短時間で、しかも少ししか話をしていないのにこの人の事を見抜いたのか。

 心の底から羨ましいと思ってしまう。彼女こそ、この人の隣に立つのに相応しいのかもしれない。そう考えるとチクリと胸に嫉妬の痛みが走る。

 ふと思い立って隣の朱里ちゃんを見ると悔しさからか唇を噛んで目に涙を溜めていた。秋斗さんはそれに気付いていない。

「きょ、今日会っていたのは?」

「……朱里? なんで」

「話してください!」

 秋斗さんは震える声に驚いて顔を上げ、心配になったのか声を掛けたが、朱里ちゃんが大きな声で遮って先を促した。

「……引き抜きだ。袁家を内部から変えるには有能な将が欲しいんだと。俺が望めば袁家の力で所属軍の移動すら簡単に出来るからと言っていた。……ちゃんと断ったからそんな顔するな二人とも」

 続けられた内容に絶句している私達に彼は優しく声を掛ける。

 大丈夫。秋斗さんはちゃんと断ってくれた。だから哀しくなんかない。私達を選んでくれたんだから。

 言い聞かせても不安が渦巻く心は一向に晴れなかった。

「自浄作用が機能していない諸侯の元に俺一人が行った所でなんら変わる事は無い。どっちみち腐敗した漢を変えるにはあそこじゃ無理だ。黄巾前ならば望みは在ったかもしれないが既に手遅れだな。まあそれに……俺はお前達と平穏な世界を作りたいし」

 最後にポツリと紡がれた一言に心が温かくなり、不安が消し飛んだ。彼から直接言って貰えるだけで全然違う。朱里ちゃんの表情も泣きそうなモノから安堵に変わった。

 それを見て取ったのか彼は立ち上がり私達の頭をポンポンと軽く抑える。

「頼りにしている、二人とも。大陸で一、二を争う軍師であるお前達とならきっとできるさ」

「はわわ!」

「あわわ……」

 口々に未だに直らない子供っぽい口癖を零し、私は恥ずかしさから俯いてしまった。

「……秋斗さんはズルいです」

「何がだ?」

「そういう所です」

「……よく分からんな」

 口を尖らせて言う朱里ちゃんの言葉は正しい。無自覚の言動で私達の心をこうまで簡単に振り回すのだから。

 私達はそれから他愛のないやり取りと会話を繰り返し、しばらく笑い合っていた。


 †


 お説教もなんとか回避し、二人に暇を貰って天幕の外に出て洛陽の入り口に向け歩きはじめると曹操と張遼が近づいてくるのが見えた。

 なるほど。曹操は史実通りに張遼を得たのか。先の戦いに強敵が増えたな。

 俺に気が付いたのか曹操は笑みを深くし、張遼は厳しい面持ちになって後数歩で肉薄、という所まで来てお互い立ち止まる。

「久しぶりね、徐晃。黄巾以来かしら?」

 覇気を溢れさせてこちらを見やり一言。前よりもその威圧感はいやというほど増していた。

「お久ぶりです。そうですね、あの城壁以来でしょうか。そちらの方は?」

 軽く言葉を紡いで簡単に返答を行い、すっと張遼に視線を向ける。俺を真っ直ぐに射抜く瞳には少しの憎悪と、こちらを推し量ろうとする色。

「あなたは初めて会うものね。我が軍に新しく入った――」

「張遼や。あんたの事はよう知っとるで」

 殺気、と呼ぶには少しばかり透き通りすぎている圧力が俺に突き刺さる。

「この子があなたに話があるそうなのよ」

 曹操の言葉に思考が回り出し、一つの解が浮かび上がった。

 華雄の事か。シ水関で同時に飛び出してきたし、何より月からそれぞれの将同士が親しかったとの話も聞いた。

「華雄の最期、どんなんやった?」

 張遼が向ける瞳は真剣そのモノで、自分の頭の中に華雄の鮮烈な最期が思い起こされる。

「最後まで董卓の忠臣であり続け、己が主の誇りを守り抜いたよ。あれほど誇り高き将は他の軍にもいないだろうな」

 全ては言えず、自身に向けられた怨嗟の声が甦り、心の底に昏い澱みが溜まっていく。

 それに気付かれないように真っ直ぐに張遼の瞳を覗き込み、沈黙している彼女の反応を待った。

「……そか。教えてくれてあんがとさん。大体想像できたわ。きっと『一の臣なり!』とか言うてたんやろ。クク、ほんま最後までバカ貫きよってからに」

 苦笑しながらも目を潤ませて語り、顔を空に向けて上げた張遼は少し寂しげに見えた。その隣で曹操は目を瞑って俺達の事を見ることも無く、まるで黙祷しているかのよう。

 幾分か静かな沈黙の時間が流れ、一筋の冷たい風が頬を撫でる。

 藍を深くし暗くなり始めた空は、張遼の心の哀しみを映し出しているように思えた。

「徐晃」

 ゆっくりと流れる静寂を打ち破ったのは一人の覇王。こちらを見据えるアイスブルーの眼光は厳しく、揺るぎない。

「成果は順調、と言った所?」

 何が、とは言わなくても分かる。桃香の事だろう。曹操の言葉に張遼は不思議そうな表情で俺達を交互に見やる。

「そうですね。最低限は突破しましたから」

 多くを語らずとも彼女には伝わるだろう事は分かっている。俺の返答に笑みをさらに深めて、まるで恋焦がれる乙女のような顔をした。

「器から溢れ出るのか、器が包み込むのか、楽しみにしているわ。そうね、もし万が一行く先に困ったなら私の元に来なさい」

 曖昧な言葉の意味は理解出来た。俺が桃香の代わりに王をやるのか、それとも桃香が王として完成するのか。それが彼女の言葉の真意。

 桃香が無理な時は……俺が代わりにこの世界の『劉備』を演じる。優しすぎる桃香にとって乱世は厳しく、辛いモノだから。覇道に対抗する、大陸の民の為の自浄作用を担う希望の役割は必要不可欠だから。

 暴走というのはどんな王にも起こりうる事態で、人となりのみを信じるのは愚かな事だ。

 天下三分か天下二分、後の大陸統一が終わってからもそのシステムは暴走への対抗策として生きることだろう。

 史実の孔明や周瑜などの英雄たちは本当に凄い。そこまで見越してその策を発案したのだから。

 曹操の元へ行って己自身で自浄作用の役割を担えないのは、腹立たしい事にあの腹黒少女の任務のせいだったが、この世界の劉備が桃香であるなら納得が行く。

 俺に与えられた役割は桃香を成長させる事か、もしくは代わりに『劉備』になる事なんだろう。

 そして……この怪物を倒さないといけないのか。

「そのような事態にはなりませんよ。信じておりますので」

 自分で言って少し笑いそうになった。完全には信じていないくせに。

 曹操は目をすっと細めて俺を見やり、獰猛な笑みを浮かべて口を開いた。

「ふふ、あなたは気付いていないのね。……まあいいわ、劉備軍にはこちらから糧食を分けるから炊き出しの足しにしてほしい。我が軍は治安維持と家屋の建設、区画整備等の都の復興作業に集中したいのよ。

 軍師達と相談して後日使者を頂戴ね」

「……わかりました。伝えておきます」

 最初の言葉が気になったが思考を重ねても答えは出ず、とりあえず曹操からの提案に頷き返す事にした。

「霞、私の要件は終わったけれど、あなたはもういいのかしら?」

「おお、せやな。うちもかまへん。すまんな徐晃、手間取らせて」

 曹操に言われて少し肩を竦め、俺に向け片手を上げにへらと笑う彼女にはもう憎悪の色は見当たらなかった。

 彼女も武人。戦場の生き死には割り切っているということか。

「ではまた乱世で会いましょう」

「ええ、また乱世で」

 背を向け歩き出す二人を見ながらふっと一つの心残りが頭を掠めた。

「……張遼殿」

 思わず呼びかけると彼女は歩きながら顔だけこちらに向ける。

「あなたは酒が好きとの噂を聞いた。今日の月は地平に落ちず、詩を詠めるくらい綺麗に輝いてるから酒が美味いだろうよ」

 俺の言葉に少し悩み、やがて隠された意味を悟ったのか目を見開き、次いで優しい笑みに変わり彼女は笑った。

「あはは! あいつの事考えながら飲もうかと思うてたとこやし、お月さんが綺麗なら今夜の酒はとびきり美味いやろなぁ! そのうちあんたとも飲んでみたなったわ! ほななー」

 そんな言を残して手を振って去っていく。

 彼女らと会わせてあげたい。しかしお互いの立場からそんな事は出来ない。

 せめて出来る事はこれくらいだろう。


 見上げると、綺麗な満月が街道に一人佇む俺を優しく照らしていた。




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