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人中のために音は鳴る


 陳宮隊の後ろから情報通りの死兵達が押し込みにきた。

 命を捨てるも厭わず、例え首のみになろうとも目の前の敵を喰らい尽くそうとする様はまさに悪鬼の軍。

 しかしこちらの軍に向かって来るのは分かっていた。

 自分たちが連合で一番精強なのを見て陳宮はここで勝負にでる。読まれていたならここで被害を増やすしか道はない。

 それと……劉備の将が呂布を抑えてくれたおかげで袁紹軍は今回元気なまま。

 夕の思考は知っている。

 何に向かっているのかも、何を目指しているのかも。

 どうせ私の考えも読んでいる。そのために劉備軍を押しのけて後ろにきたんだ。

 袁紹軍はここで手柄が欲しい。洛陽までに、一定の線までの手柄が。

 袁家に協力して、利用してあげる。

 華琳様の望みと合っている間だけ。あなたを助け出すまでの間だけ。

 もう私は――あなたを倒すでは無く助け出す覚悟を決めたから。

「華琳様、予定通り道を」

「そうね、そろそろいい頃合いかしら。鶴翼から二列の縦列に切り替え後退させなさい。不確定要素は……予定通り孫策に当たるでしょうね」

 この方はどこまで読んでいるのか。例外が起こっても即座に対応して、戦場を思う通りに持って行ってしまう。 いや、これも読み筋の一つだっただけ。

 幾重もの情報と状況が絡まったこの戦場は、この一人の覇王の脳の中の盤上で行われている事でしかない。自分の思考はどこまでこのお方と合っているのだろうか。

「ふふ、温めていたのはそちらだけではないのよ陳宮。季衣、流琉、あなた達親衛隊は両翼最後尾にて対応なさい。季衣は秋蘭の、流琉は沙和達の後ろ。流琉は初めての戦場だから私が補佐に回るわ」

「「御意」」

「桂花。あなたは季衣の補佐を。そちらでの判断はあなたに一任するわ」

「はい!」

 曹操軍を二分し敵を引き込み袁紹軍に処理させる。

 袁紹軍の目的は虎牢関への一番乗り。

 読まれていた夜襲、それによる被害で予定よりも早くに虎牢関は放棄せざるを得なくなる。

 より悪くなった旗色が持ち越されるのは洛陽。民草の被害も考えながらでは虎牢関以上の防衛はできないだろう。

「全軍、二列縦列に変更! 後退しつつ袁紹軍に敵を流せ!」

 混戦したこの状況でいかに被害を減らせるかだけが私たちの課題。

 夕、少しでも早くあなたを助けてあげるからね。

 明、それまでちゃんと守り抜きなさいよ。


 †


 袁紹軍と袁術軍の兵がなだれ込んだことにより戦況は押し返した。

 だがあれだけが問題。あの化け物はどの軍の兵も関係なくただ喰らい尽くしていた。

 雪蓮と祭殿が対応に向かい、袁紹軍の将も協力してなんとか防げているが厳しい。

 どれだけあれが化け物なのか思い知らされる。

 たった一人にここまでされるなど戦にもならない。

「冥琳様」

 戦況を見やりながら舌打ちを一つ打ったと同時に、虎牢関に工作に向かわせた思春が帰ってきた。

「どうした?」

「それが――」

 声を潜め、耳に口を近づけて為された報告を聞き身が凍った。陳宮め、なかなかやる。

「伝令を各隊に飛ばせ。被害を抑え、虎牢関は袁家両軍に任せろ、とな」

 己が命を聞いた思春は短い返事の後に煙のように消え、伝令の統率に向かった。

 今回はこちらの情報収集能力の有能さが功を奏した。

 危うく手柄に踊らされ大打撃を受けるところだった。

 曹操軍は掛からないだろう。読んでいるわけではないだろうが運が味方したな。

 虎牢関は日を置いてになるか。


 †


 袁紹・袁術両軍はなかなか食いついてきている。曹操軍は下がってしまい思うような被害は与えられなかった。

 ここで関に撤退しておくべきか。

「全軍に通達! 呂布隊を殿に虎牢関に引くのですよ! 陳宮隊は袁術軍側に一当てして押し込み、呂布隊は後退しながら左右に広がるのです! 合図の銅鑼を!」

 恋殿は大丈夫。そう自分に言い聞かせ不安でいっぱいの心を無理やり抑え付ける。信じられなくて何が軍師か。

 しばらくして一番最先端で戦う恋殿の姿が見えた。

 勝てないと悟ったのか、有利な状況で将自身被害を受けたくないのか敵は兵の被害を減らすための防戦主体の戦い方をしている。

 しかしさすが飛将軍。武将相手に四対一でそのように戦わせられるモノなど先の世にも出てくる事はないだろう。

「陳宮様! 例の準備、完了しております! あとは虎牢関にて対応を!」

「わかったのです!」

 兵の報告を聞いて頷き、また暗がりの戦場に目を置きなおす。

 戦場での指示はこれ以上はいらない。後は城壁にて指示を出すのみ。

「ふふふ、生贄は袁家ですな。ねねたちの恨み、喰らうがいいのですよ」


 †



 銅鑼の音が三回鳴り響き、董卓軍が虎牢関への撤退を始めた。

「策殿、呂布の相手はそろそろ終わるべきじゃな」

 目の前の化け物は倒せない。せめて自軍の兵が後退しきるまで、被害を抑えるために戦っていたがあまりの強さに今の今まで引きずられてしまっていた。

「了解。呂布、あなた強すぎて倒せそうにないからそろそろ引かせて欲しいんだけど」

 四対一の状況で傷も負わずに、しかも連戦の後なのに戦いきるその姿に感嘆の念を禁じ得ない。

「……どうぞ」

 こちらが敵意を下げると撤退し始めた董卓軍の部隊を見て呂布は答える。

「文醜も顔良も引いたら? 死にたいなら別だけど」

 そう二人に言うと彼女らも撤退の意思をみせた。袁術軍じゃないし仕方ないか。

 袁術軍の兵士を殺してくれる呂布はこちらにとっても利がある。

 我が軍はほぼ後退しきっている今、もはやこれ以上ここにはいなくていい。

 次第に遠くなる暴風を見やりながら冥琳の元へ帰った。

 陣の中央で難しい顔をしていたその人に自分の疑問を投げかける。

「ねえ、冥琳。どうしてそのまま虎牢関の攻めに移行しなかったの? 思春の工作は入り込めたんでしょ?」

 冥琳の判断は信頼している。

 確かに自分の勘でも虎牢関はどこか異常な気配を感じたがそれが何なのかは分からないのだから理由が知りたい。

「雪蓮。呂布ばかりに目を取られていたが陳宮も侮れなかったのよ」

 どういうことだろうと考えていると小さく耳打ちをしてくれた。

 その話された内容に驚愕するしかなかった。

 思春、お手柄だわ。

 手柄の方を優先しようとした自分がまだまだ甘い事に気付き、仲間の有能さに感謝を伝え皆を労う事にした。


 †


「いい具合なのです。それにしても袁家の貪欲さには呆れるしかないのですよ」

 夜に関わらず勢いのまま攻城戦を行おうと、蜜に群がる蟻の如く寄ってきた敵を確認しながら呟く。

 部隊の撤退は飛将軍の殿での働きもありつつがなく完了している。

「でははじめましょうぞ! 奴らに我らが持つ怒りの火をお見舞いするのです!」

 その号令を皮切りに兵達が雄叫びをあげ、油に浸した布に石を括りつけ敵に投げる。残りの油の入った小さな水瓶も投げさせる。

 虎牢関前には火計のためにとっておいた藁や荷運び用の車を崩した木材にも油をかけて置いておいた。もちろん撤退に必要最小限な車はとってある。

 地面にも粘性の高い油を染み込ませた布をそこかしこに置いてある。

 虎牢関前の地面は連日の攻城戦で踏み固められ消火のための土は簡単には掘れないだろう。

 夜襲の最中もここにだけは近づけさせないよう戦わせた。そのために時機がくるまで虎の子の呂布隊は後方で待機させていた。

 軍師も将も飛将軍を恐れて下がっているからこそ対応が遅れる。疑問が出ても追撃のため圧して来るのに夢中で伝令はさらに遅れるだろう。

 数が多く練度の低い、かつ欲の深い袁家の思考を読んでこそ成功しうる。

 曹操軍も孫策軍も被害を抑えたいのだから攻城戦には本気で参加はしない。連日の攻城戦の被害からも夜襲後までしてくる事はないだろうと踏んでいた。

 それに夜の闇に視界が限定され策は読まれづらくなっている。

「火矢を放て! 虎牢関に集る悪い虫の全てを燃やし尽くすのです!」

 放たれる火矢は次々と敵に吸い込まれていった。

 たちまちそこかしこで火の手が上がり敵兵達は混乱に包まれた。

 車の配置は逃げ道の限定のため。

「よし! 逃げ惑う敵には通常の矢をありったけ放つのです!」

 恐慌状態で右往左往する兵同士がぶつかり合って思うように逃げられない。火に包まれ叫びながら倒れる者、煙を吸い込み呼吸困難でもがき苦しむ者、逃げようとして背中から射られる者、倒れた所を他の兵に踏まれて身動きが取れない者。いい的だ。

 恋殿の弓の腕も天下一。少しでも統率力のある部隊長は火計の前にほとんど下がらせている。残っていたとしてもここで退場してもらうだけだが。

「恋殿がいればこそ、なのですよ」

「ねねも、さすが」

 言いながらも次々と隣で矢を射ていく。本当に頼もしい。

 煌々と燃える火は、敵の戦意を削ぐにも十分だった。

 士気などあるものではなく、もはやただの狙撃練習に等しい。

「気を抜かず敵が目の前から消え去るまで矢を打ち続けるのですよ!」




 虎牢関付近にいる敵はもはやいない。まだ少し燻っている火は静かに辺りを照らしている。

「陳宮様! 敵はすべて後方に下がったようです!」

 もう一度奇襲をするわけがないが万が一を考えてだろう。攻めてくるなら日が昇ってからになるはず。

 火計による敵の被害は上々、だが奇襲の分と計算しても戦況は覆らなかった。

 今後のするべきことを考えるため思考に潜る。

 明日からも虎牢関でこのまま不利な状況を押して戦い続けるか、それとも洛陽まで引くか。

 残るなら恋殿にかなりの負担をかけてしまうだろう。しかも霞が戻ってくるまでは耐えきれず、途中で撤退を余儀なくされるのは目に見えている。

 この二、三日は兵達の士気も高く保てるだろう。だが霞の隊が抜けてしまい減った兵数によってすぐに士気は下がり始める。

 引くなら今からでもそうするべき。明日になるとまた連合との攻城戦が始まってしまうのだから。連日の攻城戦と今回の奇襲の疲れを早期退却によって癒すのも大事。

 どうしたらいいのだろうか。こんな時に詠がいれば長い目で予測して自分より最善の判断を下してくれるのだが、今この場に軍師は自分一人しかいない。

 ふと隣の愛する人に目をやる。

 頼もしいいつも通りの飛将軍。

 見つめていると目が合った。その瞳はいつも通り……とは違った。

 奇妙な違和感を感じて少しその理由を自分で考えたが見つからず、素直に尋ねてみる事にした。

「……恋殿、何かあったのですか?」

 疑問を向けるとさっと逸らされる。瞳の奥を覗いた後で見る愛しい人は、何故かとても小さく見えた。

「……月に、会いたい」

 消え入りそうな呟きに続き、頬をはらりと零れ落ちる一粒の涙。

 その言葉と涙に自分の中ではさらなる思考が巡る。

 夜戦中に何かあったんだ。この人を壊しかける何かが。しかしこれは……あまりにひどすぎる。

 こんな状態では戦い続けられない。この大好きな人が死んでしまう。肉体も、心も。

 月に会ってから残酷な冷たい人形ではなく血の通った人となったこの方は、戦で自分を殺していたこの方は、また元の人形になってしまう。そしてもう……優しい『人』にはきっと戻れなくなる。

 予測ではなく確信に行き着いた。今、この人の心は耐えがたい悲鳴を上げている。

 自然と自分も涙が出てきた。

 同時に覚悟を決めた。この人も、仲間全ても守る覚悟を。

「恋殿、戻りましょうぞ。そして皆で、戦いましょう。そうしなければ、いけないのです。華雄に続き、恋殿までもがいなくなってしまっては、月は……ねねは……」

 しゃくりあげながら語っていたが言葉が続かず耐えられなくなり、愛しい人に縋りつこうとしたが気力で踏みとどまった。

 ぐっと腹に力を込め、溢れる涙を抑え付けようと精神をも総動員するが出来ない。

 悔しくて俯いた途端にふっと頭が撫でられる。

 この人はどこまでも優しい。今は自分も辛いはずなのに気遣って癒してくれる。

 その優しい手つきに少し勇気を貰い、顔を上げて声を上げた。

「副隊長! 全軍、今夜の内に、虎牢関を破棄! 洛陽まで下がり、最終戦に備えるのですよ!」

 なんとか紡げた号令に、控えていた副隊長は応、と一つ返事をし全部隊のまとめに動いてくれた。

「……ごめん、ねね」

「いいのです。皆で、守りましょうぞ。絶対に勝つのですよ」

 ゆっくりと頷き、優しく抱きしめて背中を撫でつけてくれるその温もりは、自分が守るものを改めて確認させてくれた。


 †


「バカばっか」

 小さく呟かれたその声と、瞳の奥の昏さに心まで凍りつきそう。

 戦場の全てを予測していた彼女。火計があるのはわかっているとあたしにだけは話してくれていた。

 恐ろしい。夕はたった一つの目的のために全てを巻き込んでいく。

「明、無茶させてごめん」

 さっきの冷たさを感じさせない優しく甘い声に身体の芯まで暖かくなる。

 あたしが守りたいのは、今はこの子だけ。出会った時からずっとそうだった。

「いいよー。どうせ紀霊じゃ役不足だったし。久しぶりに本気で戦ったから疲れちゃったけどね」

 守りだけは本気だった。文醜と顔良が訝しげに尋ねて来たけど「二人を守りたかったから強くなれたのかも」と嘘を吐いたら感動してたなぁ。

「予定より捗ったんじゃないの?」

「うん。もっと削れると思う」

 この子はどこまで先を見ているのか。欲の張った年寄り達の脳内なんか看破するのは簡単なんだろうな。

 ただ不安な事が一つ。

「それより夕、本初が袁家の傀儡なのは分かってると思うけど助けるの?」

 この子はシ水関から迷いはじめた。本初も救うかどうかを。それならば本初自身も覚悟を決めて貰わないといけない。

「救うなら今回の被害はちょっとまずいよ」

「わかってる。どっちもいけるように攻城戦に向かわせた兵は弱卒がほとんど。これから本初の心を直接確かめる」

 確かめるってことはやっぱり救いたいんだ。切り捨てるつもりだったのに。

「夕のしたいようにしなよ。あたしは絶対にあなたの味方だから」

 秋兄がこの子の本来持つ優しさを呼び戻したのか。

 それとも桂花への対抗心が再燃したか。

「ありがとう、明」

 可愛らしく微笑む夕の頭をくしゃくしゃと撫でつけておいた。

 まあ今はどちらでもいいか。あたしはただこの子を救うために動くだけなんだから。



 †



 虎牢関での夜襲は終わったが、連合はまた奇襲が来るかもしれない為、警戒はしっかりと行っていた。

 私達劉備軍は兵の被害は軽微だが――

「秋斗さん……」

 帰ってくるなりこの人は眠ってしまった。

 軍医の診察では血を流し過ぎたのではないかとのこと。

 皆心配して気にかけていたが愛紗ちゃんも鈴々ちゃんも怪我が多かったため桃香様と朱里ちゃんがそれぞれ介抱している。

「う……雛里……?」

「秋斗さん!? 大丈夫です……か……?」

 つい大きな声が出てしまった。この人の体調も考えずに。すぐに声を小さく抑えた。

「……夜襲はどうなった?」

 起き掛けに気にするのは自分の事より戦の事。将としての確認ならば軍師として答えなければ。

「……秋斗さんが倒れた後、敵軍師陳宮の火計により追撃で攻城戦を行った袁家両軍の被害が大きくなりました。ただ洛陽の兵数も計算にいれると相手もこちらもまだ五分五分の状況です」

「そうか……報告ありがとう。それと、心配かけてごめんな」

 言うなり優しく頭を撫でてくれる。少しくすぐったいが暖かい気持ちになる。

 この人は相変わらずだった。無事で本当に良かった。

 副長さんからの話を聞いたが呂布さんとの戦いでかなり無茶をしていたらしい。

「無事でよかったです、本当に」

 安心したらまた少し涙が零れてしまった。さっきまで散々泣いていたのに。

「ありがとう。いつもすまないな」

 コクコクと頷いて掛け布越しの胸に耳を当てる。

 この人の鼓動を聴いて生きてることをちゃんと感じるために。ドクンドクンと脈打つ心の臓の音は力強くその証明を私に伝えた。

 無言で私の頭を撫でるその手はいつもの通り。しばらくそのままでいたら秋斗さんはゆっくりと話し始めた。

「なぁ雛里。……呂布は俺と同じだったよ。俺を殺しても、その想いを連れて行くって言ってくれた。その言葉で少し……救われちまった」

 何故この人は自分が殺されていたかもしれない話をしてるのにこんなに穏やかに話せるんだろう。死んでもよかったように聞こえる。どうしてそんな悲しい事を言うんだろうか。

「でもな、殺される間際に生きたいって思っちまったよ。俺自身が生きて想いを繋げたいって。俺は欲張りだよなぁ」

 続いて放たれた言葉は少年のように屈託のない声だった。こちらも正直に自分の気持ちを伝えることにする。

「私は、秋斗さんに生きていて欲しいです。そして私も一緒に想いを繋げたいです。欲張り同士ですね」

 自分もこの人と同じだと言う事に気付き、それが嬉しくなり笑いかける。

 そうすると秋斗さんもふっと微笑み返してくれた。

「やっぱりお前には敵わないな。ありがとう、雛里」

 今日この人は死の寸前を体感し、その手で殺してきた兵と自分を重ねた。その状況で生きる事が出来なかった兵達の想いをじかに感じ取ったんだ。

 本当は生きていたかったのに理不尽に殺されてしまった兵。

 私たちの自分勝手な理想や欲望の生贄になっていく人たちの気持ち。

 黄巾の乱の時よりも身近に感じてしまうのも無理はない。自分が殺される間際になったことでより大きく実感してしまったのだから。

 罪深さをより深く心に刻み、その想いを私にだけは伝えたかったのか。

 本当は私にだって気持ちを漏らしたくなかったはず。いつも黙って耐えているのに溢れてしまったのは今回の感じた事の大きさを表している。

 この人は、もう壊れているのかもしれない。いや、今も壊れて行く最中なんだろう。

 一つ一つ確認して、心に刻んで進んで行く。あの時からずっと変わらない。

 死んで逃げるなんて許されない。生きぬいて、救いきって、最後までやりきらないと終われない。

 それがやらなければいけない事。想いを先の世に繋げるということ。

 私もしなければいけない事。私もこの人と一緒にしたい事。

 ただ……乱世の後にこの人には何が残ってるんだろう。もし――

『この軍じゃなかったなら皆でもっと分かり合えたし支え合えたかもしれない』

 一瞬、陥った思考に凍りつく。

 いけない。私は待つと決めた。この人と一緒に信じると決めたんだ。

 桃香様はちゃんと気付いて変わってくれるだろうか。

 気付くと秋斗さんは静かに眠っていた。

 せめて夢の中でだけは幸せでいて欲しい。

「おやすみなさい、秋斗さん」

 この人の鼓動をもう少し聴いていたくて、私は静かに目を閉じた。



 †



「虎牢関から撤退しはじめている……ですって?」

「そう。多分朝には撤退完了してると思う」

 虎牢関に向かわせた斥候からの報告をまだ朝が来ていないのに起きて椅子に座っていた本初に伝えた。

 本初の大切なモノは二人の友達。

 私の大切なモノが人質になっているのを知らない。

「……元皓さんに対応は任せますわ」

「ん、わかった」

 そっけない返事を聞き出口に控えていた兵に指示を伝える。外で待っていた明が一つ頷いたのを確認して本初の前に戻った。

「本初、今は上層部の耳はいない。だから少し個人的に話をしたい」

「どの口で……っ! あなたが、あなた自身がその上層部のお目付け役ではないですか!」

 激昂して私を睨みつけてきた。その眼に宿る憎悪は深く昏い。

「……今から話すことを信じる信じないはあなたに任せる」

「今更何を聞こうと信じませんわ」

 冷たい視線を送り続ける目を細めて本初は私に告げる。でも、そう言うと思っていた。

「私は自分の母を上層部に人質にとられている。だからあなたの目付け役になっている。あなたやあなたの大事な友達と一緒」

 私の話を聞いた彼女は目を大きく見開いた。

「そんな……」

「信じてくれなくてもいい。ただ私はもうあなたに嘘をつきたくない」

 何を考えているのか彼女の眼は焦点が定まらない。

 袁紹はバカを演じているだけで本当は頭が人よりも優秀だ。

 ただ臆病だった。袁家上層部に小さいころから散々抑え付けられ洗脳され逆らう気力ももっていない。

 顔良と文醜という友達が出来て少し安定したのを見た袁家は二人を戦場で使い捨てる事も辞さないと本初に伝えた。

 二人は優秀な将だが袁家としては体のいい駒。財力と圧倒的な兵力を持つ袁家からすれば替えが効く代用品と見られている。

 彼女は大切な友達が人質にされた事を理解し自分は傀儡でいるしかないと思い、より一層言われるがままになった。

 そこで派遣されたのが私。

 本初が逆らうようなら報告しろと言われている。私自身も裏切るなら母の命はないとも。

 今回の事を話すのも裏切りにあたる。

 だが私は変わりたくなった。救いたくなった。抗いたくなった。

 母には前から気にせずに自分のために生きろと言われていた。

 でも見捨てるなんて、そんな事はできなかった。

 しかしシ水関の後、明から説明を聞きあの人の事を多く理解した。そしてその在り方に同情と憧れを抱いた。

 同時に桂花も羨ましくなった。仕えるべき本当の主を得ている事に。

 私はどうだ。この臆病な主に仕えている自分を母に誇れるのか。

 変えてみたくなった。自分の主を。

 そのためにはまず自分の事を理解して貰うしかない。

「本初。私の夕という真名をあなたに捧げる。信じて貰えるまであなたの真名は預けてくれなくてもいい。私はあなたに本当の王になって貰いたい。王となって腐った袁家を変えてほしい」

 私の言葉を聞いた彼女の顔は驚愕、そして畏れに変わる。

 真名を片方だけ預けるなど前代未聞なこと。ましてや捧げるなど、高貴な彼女からすれば畏れを抱いてしまうのは仕方ない事だ。私自身も手が震えてしまっている。

 真名とは、自身の存在そのものを表すに等しい。つまり私がした事は、自身の存在、その根幹から未来に至るまで全てを好きにしていいという事と同意なのだ。

 これが私の覚悟。真名を一方的に差し出してでも本初を変えたい、変わってほしい。

 彼女はこちらの瞳を覗き込み真剣に何かを考えている。そして唇を震わせながらゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「……あなたは……このわたくしの全てを知っていて尚、そこまでするんですか……?」

「私は母が大事。けど私に幸せになってほしいという母の想いも大切。そのためにあなたの王佐になりたい。いえ、私があなたを支えたい」

 本初は変わってくれるだろうか。自分を少しでも信じてくれるだろうか。彼女はしばらく悩んだ後に涙を零しながら話し始めた。

「……麗羽ですわ……どこかに耳もあるでしょうから普段は心の内に預かっていていただけませんか、夕さん?」

 その優雅な微笑みを私は一生忘れないだろう。

「ん。ありがとう、麗羽。今までごめんね。これから一緒に頑張ろう?」

 笑いかけると彼女は明のように私を優しく抱きしめて今までごめんなさいと呟いた。

 泣き止むまで待って天幕を出ると私の表情だけで全てを理解してくれた明。

 歩きながらこれからの事を説明し、それぞれの天幕に帰る。

 自分の天幕に帰る途中に見た朝焼けは、私の真名の色に似ていた。

 今日、私は本当の意味で軍師になった。

 今の私の姿を母は誇ってくれるだろうか。



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