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欲に惑うも歩みは変わらず



 夢幻の彼方で揺蕩うように、朧げな思考に任せるまま黒の世界を受け入れていた。


 嗚呼、と吐息を漏らしても何も出てこない。


 真暗い闇の世界の中では何も意味を為していない。


 ぽつりぽつりと輝く光が、儚く弾けて消えていく。


 代わりとばかりに現れるのは……怪しく輝く黒い光。


 希望を持ったから絶望が生まれた。


 形振り構わずに走ってきたから気付かなかっただけで、それは本当は尊いモノであったのに。


 分かったようなふりをして


 分かっていたようなふりをして


 いつだって全てに嘘を吐いていたのだ。



 不意に、頭を抱えて蹲る誰かを見つけた。


 その周りには、同じような様相の人物が幾人も、操り手を失った人形の如く倒れていた。


 その誰もの頭の上に、モニターの如く映像が映し出されていた。


 ノイズが掛かったようにソレらははっきりと見ることが出来ず、部分的にしか観測できない。




 ぶつぶつと呟きだけを零す一人の言葉は聞き取れない。


 突如、ソレがビクリと肩を震わせた。


 何かを求めるように視線をゆっくり上げて行く。


 泣きながら嗤う表情は何処かで見たことがある気がした。


 誰に向けての涙なのか、誰に向けての笑顔なのかは分からなかった。


 決して俺を見る事の無い目で宙を見つめたまま……唯々、ソレは言の葉を紡ぎ落す。




 許してくれ……と。



 続けてソレは、後悔と絶望に塗れた声で一人の名前を呼んだ。




 †






 静謐とした住処は主要人物達の移動によって様変わりし、益州内部の古今東西の古強者が集いし成都において、もはや戦の空気に支配されていた。

 民は思う。誰と戦うというのかと。脅威が迫っている事実に、彼らはただ怯えるしかない。

 街にお触れとして示された情報によれば、曹操軍の南下の可能性に伴って準備をしている事にはなっているが、文官武官はそれぞれが違う思惑を持っていた。

 内部の変革を行ってきた劉備を討つならば今この時を置いて他に無し、と。


 欲のあるモノは……前のような住みやすい益州を求めて。

 野心あるモノは……劉璋さえも喰ってやる気概を持ちて。

 忠のあるモノは……己の主こそが至高であると証明する為に。


 様々な人間が集う謁見の間にて、劉璋は静かに皆の言い分に耳を傾けていた。

 我こそが、と名乗りを上げる将達。策を練り上げる文官達。腹の内は見えなくとも、部下達が一つの目的の為に纏まっている様子を見るのは、益州平定時以来であった。


――嗚呼、いいもんだな。こうして見ると。俺の意見なんざ聞かねぇで好き勝手にしやがってるが……いいもんだ。


 自分が此処に居なくても成り立つのは間違いない。あくまで考えるのは彼らの仕事で、裁決を下すのが王というモノだと分かっているから。

 漢中に向かった劉備を討つ為の策は幾重にも上る。

 何処を戦場とするか。どの時機で戦闘をすればよいのか。どのような手段を用いて有利をもぎ取るか。

 兵数としては劉璋軍の方が上。しかし練度で言えば劉備軍が上。

 不確定要素として民の懐柔による徴兵はあるが、益州の北部はまだ劉備の名が染み渡っていない大地であり、その点は少なく見積もっている。


 一つ、彼らが献策してくる策の中に楽しげなモノを見つけた。


「おい」


 一声でその場に静寂が戻った。

 肩肘を付いて眺めていた劉璋の声は、混沌とした部屋の中でもよく響いていた。

 彼が気に留めた一つの策は……劉備では絶対に取り得ない最悪の一手であった。


「その策、気に入った。甘いことしか考えねぇあの女を絶望させるにはこれ以上無い。不確定要素を排除するにも持ってこいだ。糧食の関係上、あいつらが戦を出来る時間は限られてくるんだからよ。

 ははっ! その代わりぃ……」


 片目だけ細め、口の端を吊り上げた悪辣な表情が映えていた。


「勝てなけりゃ未来はねぇぞ? 俺も、お前らも……な」


 覇気を纏って発される声に、その場にいる男共の背筋に冷や汗が伝う。

 裏に込められた意味合いが、部下の誰かしらが持っている余裕を打ち崩した。


「いい機会だ。少し話をしよう」


 満足そうな不敵な笑みで、劉璋はゆったりと脚を組み直す。耳を澄まして聞き入る部下達に向けて、トン……トン……とひじ掛けを叩きながら語り始めた。


「誰のことかは言わねぇが、劉備だけじゃなくて俺の座を狙ってる奴がいるのは知ってる。ああ、勘違いするな。咎めるつもりなんかねぇよ」


 ざわめく室内の空気を苦笑で払拭し、ひらひらと手だけで黙せと示す。


「こんな時代だ。龍の血を蹴落として太守になりたいのは自然なことだ。野心を持つのは悪いことじゃねぇ。いや……むしろ争いは望ましいことかもしれねぇぞ。発展と進歩は戦によって齎されてきた。殺し合いが人間を成長させる」


 気分よく語る彼に、唖然とする部下達。誰も口を挟むものはいない。それは違う、という桃の少女も。論理的に相違点を述べる竜も。


「俺は誰かにこの椅子を奪われたくないから最大限の力を尽くす、奪いたい誰かは上に立ちたいから全てを尽くす。そうやって磨き上げられた力と力がぶつかって、長い安寧を齎す力が手に入る。

 だから……俺に勝てるってんなら好きにしろ。野心反骨心大いに結構。謀略の糸を張り巡らせ、俺から全てを奪い尽くしてみせろ」

「……何故、そのようなことを申されるのです」


 挑発的な言葉の後で、一番の忠義を持っているであろう男――張任が不安げに問いかけた。

 しかし劉璋の表情は崩れない。慈しみを込めた目で見返した。


「お前の忠義は理解してるぞ、張任。だがな、これは事実だ。お前も分かっていように。益州は盤石じゃない。だからこそ諸葛亮や徐庶の小賢しい策に嵌りかけ、黒麒麟と曹操に隙を与えている。外部からの手助けがなけりゃ今頃俺らは牙を折られて翼をもがれていただろう」

「しかしっ……」

「誰しもに忠義持てというのはお前の我欲だぞ、張任。人間は千差万別、同じになんてなれない。共通意思を持たせその方向に導くことは出来ても、心までは同じになんかならねぇんだ。

 とは言っても……逆らう奴は許さんけどな」


 ぐるりと皆を見回して唇を舐めとる。瞳の冷たさには悪寒を覚えさせる程の怪しい輝き。


「とりあえず、だ。忠義ありしモノも野心ありしモノも目的は一致した。劉備にこの大地を奪われることは俺達にとっちゃぁ生き辛くなるだけだろう。

 昔から生きてきた愛着もある。俺はこの大地を親兄弟から勝ち取った責任もある。王としてこの大地に生きる奴等に力を示す義務もある。全てを果たす時は、今此処だ。その為には俺が昔に放った命令をもう一度下す」


 懐かしみながら宙を見る。

 親兄弟、親類が奪い合うこの益州でたった一人の王となった劉璋の意地は、此処の王として立ち続けることだけ。

 例えどんな事を行おうと、最後の勝者が自分であればいい。非道悪逆なんでもござれ、龍の血は、清廉潔白のみならず。

 引き裂かれた口はもう居ない悪龍と同じく。


「……悪を為せ。勝利の為に手段を選ぶな。昔の、俺の兄弟を殺した時と同じように。民も、兵も、武官も文官も、全てに線無き泥沼と化せ。

 奪い、殺し、踏み躙り、犯し……その悉くを我らのモノとせよ。

 安ずるな、臆するな、逃げるな怖気づくな顧みるな。俺が貴様らの悪を全て背負ってやるのだから、貴様ら個々の覚悟と活躍を俺の為に捧げろ」


 悪逆の行いが帰するのは龍の名に。劉璋の行いとしてこれから幾歳も語られることになる。

 本来の戦とはどういうモノかと、彼らは知っている。

 この甘くなってしまった世界で語られてきた兵法は、もっと混沌としていたのだから。


 一人、また一人と部下達が膝を折って行く。

 禁は解かれた。此処から益州は血と泥に沈むことになるだろう。それを作り上げるのはほかならぬ自分達だ。


「御意に、我らが主」

「御元に勝利を」

「益州に龍の産声を」


 頭を垂れる姿はいつみても爽快だった。満足気に頷いた劉璋は、思い出したように笑う。


「一つだけ約束して貰おうか。あいつは……劉備は俺のモンだ。必ず生きたまま連れて来い。屈辱と羞恥と諦観と絶望に染め上げた上で、俺の女にしてやらなけりゃぁならねぇんだ。後は好きにしろ。あいつさえ生きてれば他は些末事だしよ」


 トン、トン、と肘かけを鳴らした。一定のリズムで刻まれる音は、劉璋の声を引き立たせるように場に響く。

 そういえば、と部下達は少し前の記憶を引き出して行く。それは彼が……劉璋がこの益州を纏め上げた時のこと。


 兄弟で殺し合うと決めた時は何も欲しいと言わなかった。ただ自分が楽な生活をしたいからと一番になっただけで。

 劉璋は無欲だと勘違いしていた。

 あの時も、兄弟でのコロシアイ事態を楽しんでいたのだ。人間の絶望を甘露として啜っていたのだ。


「信じた奴の絶望する顔ってのはさぁ……たまんねぇんだよ。アニキ達が死に床で見せたあの時より、きっともっといいもんだろうぜぇ?」


 その楽しそうな表情を見た皆は、背筋に昏い悪寒が駆け巡る。

 紅い舌が艶めかしく唇を舐め、得物を狙う蛇のように見えた。


「くっくっ……お前ら、そんな顔すんなよ。これは俺の最後のわがままだ。あの女以外俺は他に何もいらねぇ。

 民のこと考えろってんなら考えてやる。

 国のこと考えろってんなら考えてやる。

 乱世を伸し上がれってんなら戦もしてやる。

 甘い蜜吸わせろってんならたらふく吸わせてやらぁ。

 覇王に従えってんなら別に従ってやってもいい。

 嫌いな孫呉と手を結べってんならそれだってやってやろう。

 コレが終わったらもう、“お前らが願うお前らにとってのいい太守”になってやるからよぉ……あの女を俺に寄越せ」


 ゆるりと立ち上がり両腕を胸の前に伸ばす。震える拳を握りしめて……ゆっくり、ゆっくりと開いていった。


「俺の望みを聞くなら、お前らの望みも聞いてやる。それでいい、それでいい。好き放題遣りたい放題やればいいんだ。

 だってお前らはお前ら自身が身の内に宿す欲望の為に、益州の龍を主に選んだんだから」


 引き裂かれた口は、劉璋が昔に一度だけ見た事のある悪龍の本性と同じだった。


「さあ……俺と一緒に、楽しいことしようか」









 †








 からから、からからと風が吹く度に音が鳴る。


 馬を進めながら鳴るその音は、人よりも大きな体躯の男の手から鳴っていた。

 くるくると回る風車のおもちゃは、いい年をした大人が持っていても違和感しかないのだが……詠や猪々子は彼の子供っぽさを知っているからか、不思議と違和感を感じ得なかった。


 陣を退くにあたり部隊を連れ立たず進むのは三人だけ。

 各小隊に集合地点を伝えてあるからか、物資運搬の者達以外は詠達を含めてバラバラに動くことになっていた。狙いは多々ある。


 西涼に集って戦うにしても、益州で何かコトを起こすにしてもその動向は出来るだけ見えない方がいい。

 総数を誤魔化すことも出来れば、目的の曖昧化も容易なのだ。詠が判断したこの方策は、徐晃隊の特殊な成り立ちがあってこそではあるが、劉備軍と西涼のどちらにも警戒心を与える不可測の一手となり得た。

 しかし大きなリスクも背負っている。


 例えばまだ使者としての建前がある彼ら三人を兵士で取り囲めば捕らえるのは簡単だ。

 政治的な問題を度外視して戦の有利を選ぶのなら此処で彼らを捕まえるのが劉備軍にとっては最善であろう。

 西涼と密に繋がり、五大将軍として数えられる徐公明を無力化したとなれば西涼の救援に対する返答としても申し分ない。

 まあ、詠は桃香の性格、そして白蓮や愛紗等の正道を望む者達の思考を詠み切ってそれは無いと切って捨てているのだが。


 からから、からからと風車が回る。


 微笑みを浮かべて無言。秋斗はのんびりと馬の上で空を見上げていた。

 あの華佗との接触が終わってから、詠は秋斗に問い詰めた。

 記憶は戻ったのか、何を聞かれたのか、今はどんな状態か……大きな心配を抱えながら、寝台に誘ってまで尋ねた。

 其処に闇色の瞳は無かった。一寸だけ垣間見た黒麒麟の絶望に濁り切った瞳は無かった。

 ただ、彼は詠にも猪々子にも少ししか話さなかった。伝えた言葉は……ほんの僅か。


『西涼での戦が終わったら華佗が俺達の所に来る。どうやらあいつが優先すべき患者になったらしい』


 それでも、と言い掛けた詠を止めたのは猪々子だった。

 秋斗が話さないのなら待ってやれと、無言で止めた。代わりとばかりに豪快に笑って、彼女はバシバシと肩を叩きながら良かったと言った。そんな猪々子がまるで徐晃隊のように見えて、詠は唇を尖らせるだけで何も聞くことはせずにその時は終わった。


 そして現在……三人はのんびりと益州の街道を進む。


「ねぇ」

「んー?」


 クイとメガネを押し上げつつ、詠が声を投げた。振り返った彼は穏やかで、子供っぽさの残る表情は満足気。

 向けられた流し目に鼓動が跳ねる。頬を染めつつも平静を装い、目を逸らした。


「朱里……諸葛亮は必ずボク達に何か仕掛けて来るわよ」

「そうだな、えーりんはどう見る?」

「……あんたを益州から抜け出させないように、多分、西涼への助力として益州内で戦を展開する、と思う」

「使者の名目が残ってるにも関わらずにか」

「西涼の要請を呑んだ時点で劉璋の面目なんて気にならなくなってるわよ。もう民の評価は逆転してるんだし」

「なら、今の俺達の動向が分かってるはずなのに捕まえに来ないのはなんでだ?」

「軍としての動きを見せるかどうかが重要なの。ボク達が曹操軍として戦に向かうこと、そして劉備軍が救援を行うこと、最低限その流れがないとボク達に言い訳が立つから卑怯者って呼ばれることになる。それだけは朱里も避けたいんでしょうね」

「なるほど……少しの汚れも劉備には似合わないってことかね」

「戦をしない人間、悪と見なせない人間には手を出せないのがあっちの弱みだもん。ボク達が武器を持たない限りあっちは手を出せない。自分達の首を自分達で絞めてるんじゃないかしら」


 小さく鼻を鳴らし、彼はまた空を見上げた。


「えーりんには敵わんな」

「よく言う……あんただって同じこと考えてたでしょ?」

「いんや? 疑うのが俺の本質だ。俺達三人だけで行動しようなんて大胆なこと考えないよ」

「ふぅん。徐晃隊の予防線をあれだけ張っておいて?」


 指摘は鋭く、ジト目で責めるように向けられる。しかし彼はどこ吹く風。猪々子に視線を落として苦笑を一つ。


「俺達三人でってのは本当に考えて無かったさ。ただ、あいつらバカ共に任せるくらいしか俺には思い付かないだけで。漢中に着けばコトが進むように手を打ったってこったな」

「そんなめんどくさい方法取らなくても、別に細かくわけないで向かってきた奴等を叩き潰せばいいだけじゃねーの?」


 むぅ、と唇を尖らせての発言を受けて、詠が大きくため息を吐き出す。くつくつと喉を鳴らした彼はそれでいいと頷いた。


「あんたってホンット猪」

「む、バカにしやがって」

「そりゃするでしょ。二千程度で総数不明の軍とぶつかるなんて愚の骨頂じゃない。徐晃隊は万能じゃないしこんな無駄な所で数を大きく減らすのなんてバカげてる」

「まあ、そうだが。クク……それくらいの気概でいる方があいつらにとっても丁度いいと思うがね」

「にししっ♪ だろ? やっぱアニキは分かってんなぁ」

「はぁ……褒められてないわよ、猪々子」


 緩やかに時が流れる。風が優しく頬を撫で、彼らはゆったりと進む。

 不意に、詠はこうして近くで秋斗をほぼ独占出来る機会が無くなることに気付く。

 帰れば雛里も月も居る。華琳達と居る時間も多くなるのは間違いなく、益州で過ごしていた間のような時間を共有することは極端に減るだろう。

 それが少し、寂しく感じた。欲だとは分かっているが、それでも。


――もうちょっと……もうちょっとだけ、秋斗と過ごす時間が欲しい……。


 戦前に余計なことを考えて、と自分を責めたくなる。ただ、今の彼が消えてしまうかもしれないと不安を抱いているからか、切なく甘い胸の痛みは焦燥に心を逸らせる。

 猪々子とふざけ合って笑う彼の横顔を見つめながら僅かに唇を噛んだ。


「……秋斗」

「ん? どうした?」


 真名を呼べば、いつも通りに黒瞳が向けられた。

 優しい声音が耳を通る。昔と同じ、変わらない声が。


「何か、ちょっとでも……思い出したこととか、無い?」


 戻ってほしいのに戻ってほしくない曖昧で不確かな気持ちを誤魔化す為に、記憶喪失についての質問を投げやる。

 自分の恋心が何に向いているのか、詠には分かっている。

 記憶を失う前は自覚せずにいて、記憶を失ってから自覚した。余計に膨らませて来たのは、今の彼があってから。雛里や月とは違う方向性で、彼女の恋は育っていたのだ。

 前の彼を否定するような自分の心に罪悪感と嫌気を感じつつも、彼女は質問の答えを待った。


 返されるのは苦笑いと黒い眼差し。

 その答えに、詠は茫然と目を見開いた。


「……あるぞ。ちょっとだけだが」


 黒瞳の中の輝きが、濃さを増して渦巻いているように見えた。

 優しげな表情であるのに何処か感じる違和感。しかし前のあの時よりはまだマシに思えた。


 穏やかな声が流れる。それは不思議と安心感を与えるモノで、いつもの彼よりももっと優しく、思いやりに溢れたモノだった。


「黒麒麟は多分……“あの子”を切り捨てられない。何があっても絶対に、他の何を切り捨てても“あの子”だけは絶対に守り抜くだろうって、それが確信できた」


 それが例え、自分の存在全てを賭けても。

 続けられた言葉に、詠の胸に大きな痛みが走った。


 分かっていたことではある。分かり切ったことであろうに。

 彼の想いの向く先が、いつもいつだってたった一人であることは。


「どうして確信できた、の?」


 声が震える。理由が知りたかった。どんな記憶を思い出して、今の彼がそう思ったのか。


「……後悔と自責は色んなとこに向いてたけど、やっぱりあの子だけは特別だったんだ。そこまでしか分からないけど、他ならない俺のキモチだ。俺が一番よく分かる」


 ふいと顔を背け、詠はそれ以上彼の顔を見ていられなかった。

 恋心は既に知られている。勘のいい彼のことだから、詠がそんな感情を向けているのは理解しているだろう。


 昔の彼ほどに鈍感では無い。気付いていてこの話をしているのだから、惚れたもの負けとはよく言ったモノだった。

 彼自身の心はまだ語られていない。今の自分に価値は無いと考えている彼だからこそ、想いが何処に向いているのか話そうともしない。

 記憶を失ってからは雛里よりも詠や月の方が共に居たはずだ。いや……朔夜や風も数えるならば雛里よりも接点は多い。

 それであっても、やはり彼は一重にたった一人の少女のことだけしか考えていないのではないかと思えるくらい皆のさりげないアピールを躱してきている。


――今のあんたも雛里が大事? ボクや月が上、とか思ってくれなくてもいい。でも、同じだって……言って欲しい。


 度し難いな、と詠は思った。他と比べてしまう時点で自分の欲はやはり彼を求めているらしい。

 気持ちの切り替えは少し出来そうになかった。語られた彼の確信は、真っ直ぐに真実を映す瞳から分かるように事実だろう。だからこそ、心が乱される。


「へー……黒麒麟も明みたいだったってことかぁ」

「いや、ちょっと違う。明は切り捨てるなんて選択肢を考えないが、黒麒麟は切り捨てようとして切り捨てきれずに拾いに行っちまうだろうよ」

「うっわ、それって最悪じゃんか。戦で絶対しちゃいけないことだろ。それなら最初から守っとけってんだ」

「クク、欲張りだからな。全部守りたくて守れない。最後の最後にならないと自分にとって一番大事なモノに気付けない。そうして失う寸前で欲が出る。そんな愚か者は明と一緒じゃねぇよ」


 楽しそうに語りながら、彼は小さくため息を吐き出した。


「まあ、今は益州を無事に抜けられるかどうかを考えよう。劉璋の臣下に届けさせた策が上手く行くなら、多分問題は無いと思うが」


 悪戯を考える子供のように笑い、つらつらと語る。軍師としての詠を求めて、彼は少し前に出た馬の上、流し目を送った。


「えーりん」

「……ん、分かってる。大丈夫よ。上手く行く。だって……劉備も諸葛亮も、まさか“この先も乱世が続いて行くのに自分の領有する土地の畑を燃やす”なんて思わないでしょうからね。其処からは連鎖的に思惑通りに進んで行くわ」


 知性が一寸で戻った彼女から、今回の策の大きなモノが語られる。

 授けた策は幾つもある。その中の一つは、朱里達がほぼ警戒出来ないであろうモノ。

 劉備が勝つにしても今後にまで影響を与えることをすればいい。名声を得るのなら、その分だけ実を奪ってやればいい。それが詠と彼が益州の現状から出来ると判断した先に繋がる一手であった。


「ならいい。そうなれば俺達がするのは一点突破。諸葛亮に引導を渡してから悠々と出て行けばいいさ」


 遠く、北東の空を見つめて思うのは誰のことか。

 瞳に滲む優しい色が、詠の胸をチクリと突き刺す刃となる。


――雛里に会えるのが嬉しいって、無意識でも感じてるんでしょ? ほんと……あんたってズルいわよ。


 黙して語らず。詠は想いと共に痛みを飲み込んだ。


 からから、からからと再び風車が音を立てた。


 彼が心の内にだけ留めている想いは彼女の耳に入ることはなく。

 その瞳にある優しい色の中に、寂寥が大きいことには気付かなかった。


 心の内だけに封じた事実を飲み込んだのは彼女だけでなく。

 誰にも明かさない彼はいつも通り、語らないことで嘘を付く。


――なぁ、えーりん。こんなことは知らなくていいんだよ。


 茜色に色づき始めた空を見ながら、彼は緩い吐息を吐き出すだけ。

 少し肌寒い風に首を竦めて、馬に身を任せ目を閉じた。


――ゆえゆえやえーりんと一緒に駆けた乱世、そんな記憶も混ざっちまってる、なんてことは。




遅くなって申し訳ありません。

読んで頂きありがとうございます。


多忙につき今回も短めです。年度初めってやたら忙しいですね。

今回は劉璋くんのアレコレとえーりんの気持ちをお送りしました。


次とその次くらいで益州を終わらせたいです。


ではまた

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