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竜の見る泡沫

遅くなってしまい申し訳ありません

 集まっているのは四人。もうすでに朱に色付き始めた空の下ではなく、薄暗い天幕の中。

 曹操軍の陣内にて向かい合うのは、三人と一人。

 彼に会いに行く、と言った朱里についてきた三人……白蓮、星、そしてここ最近白蓮の後ろをついて回っている小蓮が、イヌミミフードの軍師と相対していた。


 沈黙は肌を突き刺すように鋭く、視線に浮かべられた敵意は戦場とは別種であっても大きい。

 星と白蓮の目の前に居る少女の睨みはいつも大バカ者どもを震え上がらせるモノではあっても、今回は悪感情を乗せている。

 まるで大切なモノを奪いに来た輩を見るように……星と白蓮はそう感じる。彼女が瞳に浮かべているモノは誰かに似ていた。

 ああ、と思い出したのは二人の内どちらであったか。いや、どちらもがほぼ同時に、目の前に居る詠のような目を見たことがあると気付く。


――あいつと一緒だ。あいつと……秋斗が桃香に付いて行くのを止めようとしてた牡丹と。


 幽州からの旅立ちの時、そして洛陽で帰って来いと引き止めた時、牡丹は今の詠のような目をして桃香に悪態をついていたのだ。

 白蓮はきゅっと唇を噛みしめる。星はやれやれと肩を竦めながらも哀愁の吐息を零した。

 このまま黙っていても何も進まないと、口を開いたのは星だった。


「……些か酷くはないかな、荀攸?」

「何が?」

「せっかく久しぶりに我ら三人が揃ったのだから少しくらいは楽しんでもいいだろうに」

「却下よ。あいつの所に通すのは劉備軍の使者として訪れた諸葛孔明だけ。あいつはもう“話し合い”も“旧交を温めること”もしない。これはあいつの決定事項」


 ジト目で返される返答に疑問を持ったのは二人共。

 よく知る彼であれば、星や白蓮が同席していようとなんら気にせず自分のしたいようにするはず、と。

 しかし、もはや彼と彼女達は敵同士。これも詮無きことか、と二人は思考を割り切った。


「でも挨拶くらいはするもんじゃないの?」


 詠の敵意を認めながら、コトの外に位置する小蓮からの意が飛ぶ。礼節を重んじる今の時代、小蓮の言い分は至極真っ当であろう。

 脚を運んだモノに顔を見せないのは体面上よろしくない。使者として赴いているのなら、礼を失しては華琳の顔に泥を塗ることになるのだから。

 ただし、礼節を重視する格式ばった交流であればこそその話は通じる。白蓮と星は個人的な理由で着いて来たと自分で言ってしまった。親しき仲ならば場を弁える時も必要であろう。それが敵対している主を掲げるモノ同士ならば余計に。

 小さく鼻を鳴らした詠は呆れの笑みを浮かべた。


「その肌の色、蒼い目、桃色の髪……ふーん、孫呉から連れてきたんだ。

 公孫賛……あんたまさか劉璋との謁見の内容を確認せずに此処に来たんじゃないでしょうね?」


 小蓮の問いかけには答えない。取り合うことすら無駄とでもいうように。

 むっとした小蓮が頬を膨らました。子供に向けるような目で見られれば不機嫌にもなる。


「……知ってるさ。その返事の意味も含めて小蓮と一緒に来た。

 私達は、劉備軍は孫策とコトを構えない。桃香だけの意思じゃない。これは劉備軍の総意なんだ。劉璋はどうか知らない……もし、あいつらが揚州に対して何かをするなら、私達は全力で止める」


 真摯に見つめてくるその視線に詠は一寸だけ目を瞑る。こうまでまっすぐ言われては毒気も抜けるというモノ。

 驚いて白蓮を見た小蓮は、グシグシと頭を撫でられて目を細めた。子ども扱いするなと頬を膨らましてはいるが、何処か穏やかにも見える。


「そう。一応聞いておくけど……帰らないの?」


 詠は指を一つ立て、冷たく鋭く、言の葉を流す。視線に乗るのは憂いか、はたまた呆れか。


「“幽州”はあんた達のことをずっと待ってるわよ」

「……」


 目に見えて表情が曇る。白蓮の心に思い出されるのは幾多もの過去。

 大切な大切な宝物。自分の存在全てを賭けて守ると誓った……家族が暮らす大事な家。

 手に入れたモノは数え切れず、失ったモノは数多い。楽しい時間も、苦しい時間も、辛い時間も、穏やかな時間も、もう遥か昔の出来事のように思えて、まるで全てがまほろばの出来事のよう。


 それでも……拳を握った。


「……ああ」

「あんたの命令を無視してでも、あんたに帰って来て欲しいからって戦に向かった、白馬の王に義を捧げた兵士達が居るのに?」

「……」

「想いよ届けと歌を歌い続け、新たな主よりもたった一人の王の帰還を待ち続ける、そんな優しい民達が心待ちにしてるのに?」

「……っ……」


 情報を集めていたから知っている。

 彼女の心を救った幽州の人々は、今も尚白蓮だけを王としているのだ。嬉しくないわけがなく、戻りたくないわけもない。


 全てを投げ捨てて帰れたならどれだけ楽になれるだろう。

 皆が望む通りに戻れたならどれだけ安息の日々を過ごせるだろう。

 大好きなあの場所で長老達と街のことを語り合いながら、ゆったりのんびりとお茶でも飲めたなら、どれほど幸せだろう。

 そして……


「……“秋斗”とあんた達がした一つの願いを、あんた達がお互いで壊してしまうっていうのに?」


 遠き日の願いを叶えることが出来る。どれだけ……彼女達が望んできたことだろう。


 夜天の願いと名付けたそれは、三人にとって特別な約束なのだ。


 白蓮は家を守りたい。

 星は己の正義を貫きたい。

 そして彼は……この世界を変えたい、と。


 半分の月が微笑む夜天に謳った願い。大きな想いを宿した始まりの刻。

 悲哀の色が濃くなった白蓮の目が僅かに潤む。宝として胸に刻んであるあの時を思い出せば、今にも泣きそうになる。


「……ああ、そうさ。私は秋斗が誓った願いを――――」


 けれどもぐっと堪え、瞳の中に輝く意思の光は些かも衰えることは無かった。

 数瞬だけ言葉に詰まった。口に出してしまえばもうあと戻りは出来ない。曖昧で温い関係は終わりを告げる。いや……彼女達がまだ繋がってほしいと思っていた過去の繋がりを、断ち切ることになる。

 ゆっくり、ゆっくりと噛みしめるように、白蓮は唇から声を流した。


「……この手で潰す」


 苦渋の元に語られる決意は揺るがない。

 どうしてこうなってしまったのか。そうして幾重も後悔を繰り返しながらも、やはり争うことは避けられないと分かってしまった。

 元々、桃香の思想と秋斗の在り方の違いには気づいていたのだ。その齟齬を指摘せずに成り行きに任せてしまったのは白蓮の失態でもある。

 あの幽州で介入出来ていたなら違った結末もあったであろう。彼が心の内に秘めているナニカを引き出してやれば、劉備軍でずっとやっていったはずだろう。

 あの時徐州で彼は絶望に落ちなかったはず。桃香が間違っているわけではなく、彼が間違っているわけでもない。目指しているモノが同じだからこそ手を取り合えたのは間違いない。ただ……秋斗は人の暗い部分を信じ過ぎていて、桃香は人の明るい部分を信じすぎていたというだけ。


――これは私の責任だ。桃香と秋斗、どっちとも友達である私だけがあの二人の間に立てたのに。


 痛む胸は自責から。もはや過ぎたことであっても、いつまでも痛みは消えない。

 だから……だからこそ、今度は間違わない為に……と。

 小さく口の端があがる。悩まずともよいのだ。白蓮はいつも通りに自分に出来ることをコツコツとやるだけしか出来ない。


「だってさ……いつも無茶ばっかりして、乱世のことばっかり考えて、あいつ自身に好意を向けてる女の子のことさえ気付かずに突っ走って……見知っている人々を想いながら顔も見たことのない人を想い、不確定の未来に縛られすぎて今を見る事の出来ない秋斗のこと……大好きだから」


 白蓮にとって大切なのは今。宝物を奪われたからこそ、もう誰にもそんな絶望を与えたくなかった。そして、友達に誰かの大切を奪わせたくなくて、友達が誰かに憎まれるのも嫌だった。

 星は彼女の心を理解して優しく微笑む。 詠の目は、彼女の言葉を聞いて見開かれた。


「あいつってバカで自分勝手なんだよ。いっつも他人のことばっかり想ってさ、自分が幸せになれるなんて思ってもいない大バカ野郎。

 そんなあいつと一緒に生きて行きたいから、たった一人になっても戦い続けるようなあいつを止める」


 綺麗な笑みは、彼を想っている心の証明。

 雛里、詠、月……他の誰も浮かべないような親愛の笑み。


「くくっ、然り……どうしようもない男ですからな、秋斗殿は」

「だろ? 生きてくれ、なんて他人に言う癖に自分は進んで死ににいく。自分の命に価値なんてないと思ってそうだもんな」

「そ、そうなの?」

「自分が幸せになりたいからとか、家の繁栄の為とか、そういうのはよくあると思う。けどあいつの場合は逆なんだ。自分が死んでも誰かが幸せならそれでいい、個人の生存なんてもんは二の次三の次で、生きたいって気持ちが極端に薄い」

「まったく骨が折れる。まあ、部下や仲間、皆から慕われていてもお構いなしに己の道を行く彼と関わってしまったのが運の尽き。精々出来ることと言えば私達の願いの中で彼に別の願いを叶えて貰うことくらい。そうなった時にこそ、曹操とは離れて幽州でゆっくりと暮らして頂こう」


 挑戦的な眼差しで詠を見やる星が言うのは華琳と同じ理論。

 欲しいモノは力付くで奪い取る。白蓮と星が欲しいモノは過去の時間で、彼の居る時間。この乱世が終わったらまた優しく甘い時間を過ごしたい、ただそれだけ。


「……相変わらず甘いのね、公孫賛。あいつはコロシアイになったら容赦なんかしないわよ」

「ふふ、私は甘くていいんだ。友達の目を覚まさせるのに命のやり取りは必要ない。あいつが殺すつもりでも、私達は殺すつもりはないよ」


 甘さなんかいらないと、嘗ては望んだことがあった。

 切り捨てて切り捨てて、そうしないと何も守れないと思った。しかし甘さを捨ててしまうと自分の後ろを着いて来ていた“彼女”が好いてくれた自分ではなくなってしまう。それを教えてくれたのも彼。


「ふーん……あいつに殺されたあんたの部下達とか、その家族はどう思うでしょうね?」

「これは私のわがままだ。でも私の大切なバカ達はこんなわがままに付き合ってくれて、命を賭けてくれる。贖罪……って言い方は卑怯になるけど、あいつと一緒に失われる命の分まで働くことで償うさ」


 似たような言い分を詠は知っている。彼や華琳が語る論理とほぼ同じ。自身の行動への対価と、自身の責任への対処。

 我を通した後まで見越して白蓮は考えている。それを理解して、詠は大きな……大きなため息を吐いた。


「はぁ……分かった。北の英雄、白馬の王が帰って来てくれるならこれほど心強いモノは無かったんだけど、意思は固そうね。

 じゃあ幽州の民にもそう伝えて置いてあげる」


 眼鏡のつるを持ち上げ、理知的な瞳に光が輝く。


「ああそれと……もう二度と、幽州を守る兵士はこの乱世の舞台には乗らないから。

 内応や増援は期待しないことよ。いくらあんたが呼んでも幽州に居る白馬義従は動かない。あんたが幽州に帰らない限りね」

「……どっちみちさ、私は裏切りが出来ないんだよ。曹操の元に降って桃香と戦うなんて出来ないし、桃香の為にと内応なんかも出来ない。愛しい私の部下達もそんな奴等ばっかりだ。だから……うん、正直ほっとした」


 納得、といったように頷く白蓮を見ながら、詠は呆れたように肩を竦める。

 星は何処かおかしそうに喉を鳴らし、小蓮は白蓮の正直さに驚いていた。


「あんたってあれね、秋斗と友達になるだけあってどっか変」

「そうかな? ふつうって言われてばっかりなんだけど」

「まあ、ふつうですな。普通も過ぎると変だということでしょう」

「……お前はもうちょっと私に優しくしろ」

「私は白蓮殿と違って普通ではないので」

「変でも普通でもいいじゃん。白蓮のそういうとこ、シャオはいいと思うよ?」

「……小蓮、なんか恥ずかしいからそういうのは口に出さないで欲しい」

「えー? だって言わないと伝わらないでしょ?」

「ああ、白蓮殿は彼と同じく鈍感ゆえ、真っ直ぐに言ってやらねばならん。くく、いいぞ小蓮、これからももっと言っていい」

「あいつの鈍感と一緒にするなよ!」


 緩い空気が漂い出す。白蓮が中心に居る時は、いつもこんな感じになっていた。

 星は懐かしさから、胸がじわりと暖かくなる。此処に彼も居ればと願ってしまうのも詮無きこと。


「なぁ、荀攸」

「あいつとは喋らせないわよ」


 そんな心の内を読み取ったかのように、詠は即座に否定した。


「でも、見送りくらいはするかもね。話したいならその時にでもすれば?」


 つっけんどんな言葉であったが、少しくらいは許してやるらしく。僅かに目を伏せて星は感謝した。


 夕刻の中、天幕の中では穏やかな時が過ぎる。

 懐かしい味のお菓子とお茶を前にして、旧い話に華を咲かせる二人と聞き入っている一人。

 その様子を見つめながら黙して語らず、詠は一人だけ思いを馳せていた。


――乱世が終わったら、あいつはどうするんだろう? こいつらと一緒に居たいのか、それとも……


 少しだけ、彼女の心に疚しい欲が湧く。彼女が望んではいけない欲が。

 この時、詠は……記憶が戻って彼女達に奪われる可能性が増えるなら戻らないで欲しいと、そんなことを一寸だけ思ってしまった。






 †





 時は少し戻る。

 詠が白蓮達と別の天幕で話している最中、軍議用の幕内で脚を組んで机上を眺める男が一人。

 広げられた大陸の地図の上には、碧、蒼、紅の三つ。茶色の駒はこかされていた。

 言うまでもなく最後に残るであろう三勢力を表しているソレの前で、うっとりと頬を綻ばせる少女も一人。


 やっと出会えた彼の前、まずは何を話そうかと思って踏み込んだ幕内には、朱里の望む乱世の様相が準備されていたのだ。

 出迎えの挨拶は無かった。こちらを見ることも無かった。じっと動かない彼が、座っていいと手だけで合図して今の状況である。


 警備のいかつい兵士がお茶を並べてどれだけの時間が経っただろうか。朱里は何も言わなかった。言えなかった。

 何から話していいか分からない……のではない。


――嗚呼……


 嘆息。一息が熱く甘い。熱っぽくなる頬と胸。じわりと湧き出してきそうになる情欲。


――もう少し……もう少しだけ……


 もう二度と手に入らないと思っていた時間が此処にある。

 夢にまで見た彼との二人きりの時間が此処にある。

 ただただ朱里は、彼の側に居たかった。


 何か言葉を交わしてしまえば終わってしまう時間。永劫に続けばいいとすら思えてくるような甘美な一時。

 何を想って、何を描いて、何を狙っているのか。

 二人で描く共同作業の乱世は、朱里が壊してしまった過去のモノ。だからこそ、今この時が愛おしい。


 しかしながら、彼女の儚い願いは叶わず泡沫と消え行く。

 ゆったりと、ゆっくりと、彼の手が伸ばされる。

 こかされた茶色の駒を机上から取り除き、ベキ……と指で真っ二つに折った。もう一つの手で碧の駒を動かし、益州の中央へと導いていく。

 最後に彼は百の文字を蒼に宛がい、二十五の文字を碧に宛がい、三十五の文字を紅に宛がった。


「……これでいいかね?」


 ゾクリ、と朱里の背筋に快感が走る。

 願ってやまなかった彼の声が耳に入ったから、そして机上の絵図が……最終戦を示唆したモノだと理解して。

 描いて来た未来のカタチは幾重もある。その中で最も兵力差の少ない絵図が此れである。


 最終的に徴兵して集めることが出来るのは各々……百と、二十五と、三十五。


 自分達の四倍、孫呉の約三倍の兵力を曹操軍は持っているのだ。二つが組んでも足りず、足並みを揃えるとなれば通常の兵力として考えることも出来ない。

 きゅうと締まる胸を抑えて、朱里は桜色の唇を震わせた。


「南蛮、益州の新参兵、西涼の残党、荊州の劉備派を入れて二十五。

 孫呉には荊州での新たな兵数も含めて三十五。そして曹操軍は……」


 途中、ふっと彼が息を付く。目線はまだ合わせてくれなかった。それが寂しくて、求めるように彼女は眉を寄せてじっと見つめた。


「察しの通り、幽州の全てと河北の半数は入れてない。

 “お前さんらと違って外敵への対応力を残してこの数だ”」


 元より華琳と彼は目の前の戦だけに重点を置かない。華琳は本気で戦いたい時は盤外からの横やりを嫌い、彼は不可測の一手こそ恐れる。故に大陸の乱世にとって一番の邪魔ものである外敵に意識を向けている。

 華琳と秋斗が麗羽を生かしているのも、月を華琳の義妹として扱うのも、幽州を彼の色に染めずに居るのも、全てはその為。


――絶望的な兵力差と自力の差。それに時間を稼がれれば稼がれる程に開いてしまう。私達にはやはり、猶予が無い。


 分かっていた。安穏と懐柔策などしている場合ではないと。

 知っていた。立ちはだかる壁は、己の主が思っているほど低くは無いのだと。


 なればこそ推し通した孫呉への救援による総合兵力の拡充も、彼自らが赴いて来た今回の出来事でプラスマイナスゼロ……いや、マイナスである。

 油断のならない隣人は得たが、内部不振という不可測が与えられた。後々まで響かせないようにするには戦しかない。


――そう、戦しかない。


 クスリ……と朱里は笑う。

 彼が此処に来たのは僥倖だった。彼でなければこうはならない。黒麒麟が掻き乱しに来たから、劉備軍は益州で戦をするしかなくなった。

 例えば他の誰かが同じことをしても、劉璋への忠義は発起しなかっただろう。

 曹操軍の誰かが同じ論理を口にして、あまつさえ曹孟徳自らが出向いたとしても、それは死への恐怖に駆られた怯えからの反抗でしかなく……桃香が説く優しい世界は身内同士の諍い程度ならば収束させられる。恐怖に駆られ、脅しに屈したモノを……劉璋以外を殺せば済むだけで落ち着けるのだから。

 しかしながら忠義を持たされてしまうと侵略者への抵抗力は否応にも増す。元々益州は血への信仰が根強く、忠を宿した臣は頑固モノで曲がらない。桔梗しかり、紫苑しかり。


 自分なりに納得する理由がなければ従わない傾向はあった。それを危ういと思っていたからこそ、最有力な戦力である桔梗や紫苑を朱里はまず無力化した。

 残るは地方を任されている幾人かだけ。本来なら紫苑や桔梗を向かわせて和睦に導くはずであったが、擽られた想いは止まらない。なにせ、ほぼほぼこちら側に引き込めたと実感していた桔梗でさえ、劉璋への忠義が再燃したのだから。

 益州にとっては最悪の事態になっている。地方からの使者が訪れていると聞いているし、彼がこんな場所で手を拱いているだけのはずもない。

 もうすぐこの地は血に塗れることになるだろう。


――でも、それでいい。


 朱里は思う。益州は戦火に沈んでもいい、と。

 今回は“益州にとっては最悪”だった。

 しかし裏を返せば……劉備軍にとっては追い風でもある。


 なにせ劉備軍は、劉璋を失墜させれば益州全てを手に入れられるのだから。

 桃香の力である民の風聞を失わず、内部の不和に繋がる禍根を元から断つことが出来て、万全とはいかないまでも不安が解消された状態で曹操軍と戦えるのだ。


――だから私達は今回、如何に“人”を失わずに勝つか……それが課題。


 そっと、朱里は唇に指を当てた。

 彼が仕掛けてきた策を有効活用するにはどうすればいいか、最近はいつでも考えている。今日はそれとは別の思考が胸を焦がす。

 見つめても見つめても合わせてくれなくて、やはり切なさに胸が痛む。

 温もりを求めるように、彼女は白羽扇を腰から抜く。どうにか表情を隠そうと口元に持って行き、唇を噛みしめた。


「……お久しぶりです、秋斗さん」


 唐突に口に出したのはそんな言葉。話題の流れも断ち切り、彼女はそちらを優先した。どちらにしても彼はその程度分かっているはずだと知っていたから。

 自分のことを見て欲しくて、彼と目を合わせたくて、どうにか紡いだのが他愛ない挨拶だった。

 机上にやっていた彼の目が細められる。ゆるりと閉じて行く瞼。やはり彼は、朱里と目を合わせようとしなかった。


「……旧交を深めるつもりはないんだ、“諸葛亮ちゃん”」

「っ!」


 ぐ、と言葉に詰まる。

 前まで呼ばれていたはずの真名が呼ばれず、朱里の心に引き裂かれるような痛みが走った。

 出会った頃はそう呼ばれていた。あの時とは違う自身の心が、そう呼ばれることを拒絶する。

 もしかしたら、雛里が桃香に行ったような真名を返還されるのではないかと恐怖が滲み出る。

 ふるふると首を振った彼から目が離せない。次に何がその唇から出てくるのかと、朱里の呼吸が緊張と恐怖に荒くなる。


 憎しみを受ける程のことをしたのだ、怨まれるような裏切りを行ったのだ、彼を信じなかったのは……自分なのだ。

 頭に巣食う黒いケモノが己の罪を突き付ける。しかし同時に、甘い提案も囁いてくる。


 欲しいのなら奪い取ればいい。憎まれても怨まれても、絶対に離れないようにしてやればいい。

 自分達がやっている事の最果てはきっと其処なのだ。信念を以って曲がらないモノを諦観に塗れさせ、己の欲望ねがいを叶えよう。

 心を捻じ曲げて溺れさせれば、いつかはこちらを向いてくれる。


――だからもう、逃がさない。


 この程度の痛みは、二度と会えなくなるよりマシだ。憎しみという歪なカタチでも繋がっているならそれでいい。

 どうにか恐怖を振り払う。この益州でのコトが終わりさえすれば、きっと彼との時間が手に入ると信じて。


 思考に潜る中で不意に、ちゃり……と彼の胸元から音が鳴った。彼がナニカを握って音が出た。

 目を向けた其処には羽の首飾り。

 凝視した。頬が引き攣る。胸の中に負の感情が入り混じって行く……嫉妬の冷たい炎が、燃え上がる。


――雛里ちゃんばっかり……ズルいよ。


「……分かりました。では建設的なお話をしましょう」

「そうしてくれると助かるよ」


 どうにか声には乗せずに言い切った。対する彼の声も、昔のような暖かさは無かった。

 悲鳴を上げそうな心を抑え付けて、朱里は漸く彼から目を切った。


「クク……それじゃあ取引きと行こうか。

 劉備軍は益州を安定させたい。俺達は西涼との戦を邪魔されたくない。これはどっちにとっても利のある話だと思う」


 久しぶりに聞く楽しそうな声は渇きに満ちていて、戦をしたくない彼らしいと今なら思えた。

 気付きながらも合わせて、朱里は言葉を紡ぐ。


「……西涼侵攻に伴って益州の要所を奪取される恐れがある、そう偽って劉備軍と劉璋軍を完全な別個として分ければ後は貴方が着けた火種によって戦火が灯る、ということですね?」

「疑心暗鬼に駈られている重鎮達は挙って劉璋に献策するだろう。劉備軍をこのまま放置すれば袁術の二の舞になる故、曹操軍に気を取られている今を於いて排除の好機は無い……ってな」

「曹孟徳という強大な敵がいつかは侵攻して来るというのに?」

「愚問だな。わざわざ曹孟徳自らが益州を治めるわけじゃあないんだから、従っている振りでもなんでもして今まで通り好き勝手生きるだろうよ。

 ぬるま湯に浸かった人間は変化を厭う。例え住んでいる場所が井戸の中だろうと、蛙は水がありゃ満足なのさ」


 自分が考えていることと同じく、秋斗も益州を井戸の中と言ったのが嬉しくて、朱里の胸がトクリと跳ねた。

 しかし抑えて、静かで冷たい思考のまま、彼女はまた口を開く。


「私達が西涼を見捨てる為の理由付けをくれる、というわけですか」


 しん、と静寂が訪れる。ひりつく空気は感じない。

 ただ彼の口元が目に見えて変わる。三日月型に引き裂き、より悪辣に。

 反して、やっと合わせてくれた黒瞳は……昔よりも綺麗に澄んでいた。


「益州で内乱が起こったから救援には行けなかった。

 お優しい仁君サマはまだ力が足りず、全てを救うことなど出来ない。だからせめて益州をなるたけ早く安定させて西涼の救援に駆けつける。

 しかし……なんということ。願い叶わず大敵である覇王によって西涼は壊滅させられ、助けることは出来なかった。益州の民は内乱を治めた事実に加えて、他者を思い遣るその心に感銘を受け、責めるはけ口を劉璋達に向けることで過去よりも今と未来を向き直ってより深い妄信に染まり、この大地は今までにない安寧を手に入れることだろう」


 芝居がかった口調はつらつらと。

 彼と結んだ視線を繋げたまま、自身の淡く染まった頬に気付きながらも朱里は冷たく見えるように笑みを浮かべた。


「その通りに、行くとでも?」

「ああ、行くね。政治を上手く進める為には民の信頼が不可欠だ。劉璋や臣下達を疑う必要もなくなるし、安心して政策を進める地盤が何より欲しいんだろう?

 徴兵するにしても、街の改革をするにしても、理想を叶えるにしても……何をするにも今の現状じゃ時間が掛かり過ぎる。それがお前さんは嫌で嫌でたまらないはずだ」


 確信を持って突き付けられた言葉に、彼女の鼓動がまた早まった。

 軍師として智者として、何よりも求めるモノを……彼は分かっているのだ。


「誰だって最短を歩みたい。誰だって無駄を省きたい。頭がよければそれだけ無駄が見え過ぎて苛立ちや焦燥に駆られるもんだ。

 どうしてこの程度が出来ない? どうしてこの程度が進まない? もっと効率的に出来る方法は分かっているのに……でも、自分の主が望むから、それが出来ない」


 知力が高ければ高い程、何をするにも作業の効率化を図るのはいつの時代でも同じこと。

 朱里の生きる時代よりも如実にその力が欲される現代を生きていた彼は、朱里の焦燥を看破していた。


 それはこの世界に来て出会った貪欲な少女のおかげでもある。

 彼の知識を求め、彼の思想を求め、彼の発想を求め、彼の全てを吸い尽くさんとする……賢き狼。

 小さな世界で育っていた狼は、自分の頭の中だけで完結する世界に飽いていた。悪い言い方をすれば、彼女は人の頭の悪さに辟易としていたのだ。

 極論、無駄を全て取り除いてしまえば其処に残るのは堕落だけ。ある意味で彼女は効率の極地に居たと言えよう。

 最短式を立ててしまうことが日常の彼女にとって、異端とも言える方策を打ち立てる彼の存在はどれほど魅力的なことか。


 閑話休題。

 雛里や詠から聞き込みを行っていた彼は、諸葛孔明という天才がこの世界の劉備に対して抱いている焦燥を予測したということ。

 だからまた、益州にて時計の針を進めようと思ったのだ。時間を短縮して何が齎されるかを理解していながら。

 読み誤ることはない。さらに、きっと朱里もその程度は分かっているだろうと、史実で天才と呼ばれるモノと同じ名を持つ彼女を侮りもしない。


 すっと細められた目が彼女を射抜く。


「さて……分かってると思うが、益州で内乱が起こることは劉備軍にとって利が大きくとも問題点が一つある。時の短縮は脆さを生み、思考と行動が限定化されるってとこだ。

 簡潔に言えば筋道が決まって来る。乱世の終端まで一本道になってくる。お前さんらが勝利する為の戦を何処で起こすかある程度決まっちまうってこった」

「ど……どうしてそれを……自分から言うんですか……」


 朱里の身体が目に見えて強張った。

 瞳に浮かんでいたのは、怯えと憧憬。抑え切れない程に高鳴っている心臓は、逃げ出したいのにずっと居たいと二律背反を呼び起こす。

 彼の行動はいつも意味が分からない。黙っておけばいいのに今此処で語る利も見えない。

 対抗策はあると公言するバカが何処にいるのか。掌で踊らせるには、沈黙は金であろうに、と。


 そんな彼女の心を見抜いてか見抜かずか、彼は小さく笑った。


「少し歩かないか? こんな辛気臭い天幕でする話じゃないだろうし」










 外に出ると空が夜に近づき、朱が薄く広がっていた。

 一歩前を歩く秋斗の後ろ、朱里はその美しさに想いを馳せる。まるで焦がれる恋心を表しているようだった。


 しばらく無言で歩いた先に、木で組まれた簡易な椅子が一つ。現代で言えばベンチのようなモノが陣幕から離れてポツンとあった。

 ストンと腰を下ろした彼に倣い、朱里は少しだけ離れて隣に座った。


「……燃えてるみたいな空だな」

「……はい」


 他愛ない言の葉。乱世のことを話すでなく、彼は空のことを語った。

 そういえばと思い出すのは、前も二人きりでこうして空を見上げたことがあった過去。

 空のような人になりたいと願った彼。その話を聞いたのは朱里だけ。人の心を映し出す鏡だと、あの時の彼は言った。自分には焦がれる恋心だと思えた……なら、彼にはどう見えているのか、朱里は気になった。

 しかし尋ねる前に、彼の口から言葉が流れる。


「夕暮れの空に溶けた想いがある」


 ぽつり……寂しそうな声は何を想ってか朱里には分からない。


「救いたくても救えなくて、変えたくても変えられなくて、それでも止まることなく世界は回る。いつか変えられるって信じながら進むしか出来やしない。そうやって走って、足掻いて、もがいて、這いつくばって……それでも手に入らない時ってのはあるもんだ」


 朱里に語っているようで、自分に言い聞かせているようにも見える。やはり何が言いたいのかは分からない。

 ふっと小さく息を切って、彼は天を仰ぎ……


「けど変えてみせよう、今度こそ。確かにあった想いを嘘にするわけにはいかないんでな。俺は止まることなんかしてやんない」


 声のトーンが重く、冷たく落ち込んだ。

 朱里はこの声を聞いたことがあった。桃香に洛陽で問いかけた時、徐州で幽州への救援如何を確かめた時、決まってこんな声を出していた。

 一気に張りつめた心を落ち着ける為に、朱里はするりと腰から白羽扇を抜いて口に当てる。

 目だけは、彼から逸らさなかった。


「……本来の流れからはもうズレちまったんでな」


 黒の瞳に影が渦巻く。冷たくて無機質な色には、嘗てあったはずの信頼など欠片も無かった。


「まずは……ラク城から成都。これは確定」


 口から出たのはただの地名。それも益州のモノ。何が、と言う前に彼は続けて行った。


「あとは樊城と……夷陵、かな」


 次は荊州。こちらは安定している為、何かコトを起こすにしても曹操軍が其処まで侵攻して来ない限り有り得ないと朱里は考える。何か繋がるモノがあるか。どうすれば繋がるのか、思考がゆるりと回り出す。

 しかしまだ、彼の言葉は続く。


「んで定軍山、あとは街亭、陳倉もか。他にもいろいろあるけど、終わりまでで主だったのはこれくらいかね」


 気付けば掌に汗が滲んでいた。回転する思考が弾き出し始めている答えが、これ以上聞くなと警告を促している。

 心に湧き立つ恐怖とは別に、もっともっとと黒い獣が喚いていた。


――ただの地名なのに、どうしてこんなに胸がざわめくの?


 彼はいつでも重要なことはぼかす。相手に考えさせて答えを掴ませる。

 一つ一つと確認していくと……定軍山、というモノに一番引っ掛かった。


――城のないただの山……? そんな所で何が出来……あ……うそ……


 ぞわりと、恐怖から彼女の全身が震えた。唇が震える。この予測がそうであるのなら、彼は今、人では出来ない話をしているのだ、と。

 ただの山で出来ることなど多くは無い。


 否……国同士がやれることなど、一つしかない。


――全部……戦が起こせる……しかも戦略的に最重要になり得る地点。こんな……こんなの……


 正しく、目の前の男は化け物だと、朱里は思った。

 政治的な理由を作り上げれば、いとも簡単に戦は起こせる。


 まずはラク城と成都。彼はそう言った。

 今回、彼はわざわざ使者として付いて来てまで益州をかき乱しに来た。荀攸だけでも事足りるというのにわざわざ、である。

 彼が来なければただの宣戦布告で終わったはず。いつかは奪いに行くから首を洗って待っていろと言うだけで、益州が戦火に沈むことは無いはずだった。


 しかし彼が来たことで益州では戦が起こる。何処で起こすかは朱里達次第。益州平定の為に必要だと思うからこそ、朱里にとって戦をすることは絶対。

 では何処で……と考えた時、彼が言った地名は一番コトが起こし易い条件がそろっていた。


 ならば他に出した地名も、其処で戦を作り上げられるということだ。


――いつから、違う、何処まで……この人は読んでるの?


 彼の黒瞳には確信が浮かんでいた。

 見えないはずの未来を覗いて来たように、そう朱里には感じられる。

 口の端だけ吊り上げた彼が、朱里のルビーレッドを覗き込んだ。


「最後に二つで終わる。一個として当てるよりも個別で当たった方がそっちの二国は強いだろ? なら、これで勝てる可能性は一番高くなる。その為に準備を進めりゃいい。当然、対策はさせて貰うが」


 楽しそうに、嬉しそうに、それでも渇きを映し出して、彼は笑った。

 すっと近付けられた唇。耳元で囁かれる甘い声音が、朱里の心を掴んで離さない。


「最後の二つは、合肥と……五丈原だ」 


 嗚呼、と朱里は声を漏らす。もう抑えられなかった。

 震える手が、唇が、身体が、目の前の化け物の恐ろしさを理解していた。


「あ……あなたは……本当に……人、ですか……?」


 朱里は知っている。

 黄巾の時にはもう、大陸を三つに割ることを考えていただろうことも。

 桃香が唯一、覇王に対抗出来る大徳に成長すると初めから理解していたことも。


 自分では辿りつけない異質過ぎる読みは、もはや彼女にとって未来予知に等しい。

 言われて考えてみれば、段階を踏んだその流れが一番勝ちに近付けると気付いてしまった。


 総力戦で戦おうと考えていた自分が愚かしかった。

 違うのだ。あくまでそれは、人々の、大陸の疲弊を考えた優しい優しい乱世の遣り方。

 本当に勝ちたいのならば……真綿で首を絞めるように、ゆっくりと弱らせてから仕留めるべきなのだ。

 博打のような決戦を挑むでなく、勝利を確信出来る状況を作り上げてから戦うべし。

 彼の描いている乱世の絵図はそういった類のモノ。実現できると確信しているから話しているのだ。


 僅かに翳った黒瞳は輝きを失わず、渇望が見え隠れする色が渦巻いていた。


「……もう人には戻れないんじゃねぇかな」


 一寸映し出された哀しみの意味を、朱里には読み取ることが出来ない。


「話は終わりだ。俺の提案に乗っても乗らなくてもどっちでもいい。どちらにしろ俺達の行動も、乱世の流れも変わらない」


 確信する。もう自分は目の前の男から逃げられないと。

 わざわざこれからの戦の全てを語ったということは、そうなるように手はずと整えたと同義なのだ。

 彼の予測を超える事が出来なければ自分達は勝てない。彼が描く乱世を崩すことが出来なければ自分の望みは叶わない。


「まずは漢中。其処で手を打てば時間を早めることは出来る。その代わり、お前さんら劉備軍は乱世の勝利に必要な兵数を失うがな」


 自身の甘さを自覚する。

 この益州だけで彼を閉じ込めることなど不可能に近いのだ。何せ、彼はもう次に何を起こすか決めているのだから。

 じわり、と朱里の中の欲望がカタチを持って現れる。

 やはり必要だと思った。自分の考えは間違っていなかった。


「どうしてそんな事が分かるのか、なんてもう聞きません」


 一時的に噂になった存在。

 自身の主や覇王、それらの英雄と呼ばれるモノよりも上位の存在。

 例えどの勢力に属していようと、きっと後の世界を平穏に導くであろう天よりの使者。


「……あなたは……天の御使い、なんですね」


 心を決めて朱里は彼の首に腕を回した。

 熱っぽく火照る頬を彼の頬に押し付けて、確かに此処に居ると感じ取る。

 自分にしては大胆な行動に出たが、無理に押しのけようとしない彼に安堵しつつその優しさに甘えてしまう。

 早鐘を打つ心臓をひた隠しにして、ほんの間近にある彼の瞳を覗きこむ。

 今から伝えるのは自分なりの宣戦布告。ずっと彼の隣に居る親友に対して。そして、世界の意思をもう一度味方に引き入れる為の。


「きっと……あなたを手に入れてみせます」


 見えた黒瞳には悲哀の色。

 天の御使いという呼び名に浮かべる嫌悪をカタチに表しても、やれやれと首を振ってから朱里の頭をぐしぐしと撫でた。


「はわわっ」

「話は終わりだって言っただろ? これ以上は話をしてなんかやんないね。俺はあくまでお前さんらが勝利する確率の一番高い事象を示したに過ぎないんだから、後はこの白羽扇で切り拓けばいい」


 首に回されていた腕を外して彼は立ち上がる。

 いつの間にか落ちていた白羽扇を彼女の手に渡して、彼はゆっくりと背を向け……ピタリと止まる。


「あー……一応聞いておくけど、益州での硝石の採集高はどれくらいだ?」

「しょ、硝石、ですか? それほど高くないと思いますが……」

「そっか。娘々の食材保存の為に硝石が必要なんだが、それならこっちから補充させた方がいいな。教えてくれてありがと」


 最後に向けられた他愛ない質問が余計に、平穏な時間を好きな彼らしくて泣きそうになった。

 もっと……と欲が出る。過ごした時間はあまりに短い。


「ま……待ってっ……」


 手を伸ばす。届かない。

 するりと離れる外套。朱里の身体は椅子から大地に落ちた。


「ま、待って……秋斗さん……」


 切ない呼び声にも答えることなく、彼は一歩一歩と離れて行く。

 遠くなっていく背中を見つめるだけで……


――“また、私は空に届かない”


 擦りむいた掌から赤い血が滲んでいた。

 大地に沁み込む涙に反して、自分の口元は自嘲の笑みを刻んでいた。

 彼に出会えば何かが変わると思った。決意は固められたモノの何も変わらず、突き付けられたのは壁の高さだけ。


 しかして遠く、彼が立ち止まった。僅かな希望が胸に湧く。

 ゆっくりと振り向いた彼の眼は、黒く黒く澱んでいた。


「……ああそうだ。お前さんにだけ話しておこうか」


 遠いはずなのにやけにはっきりと聞こえる声は、朱里の脳髄に刻まれる。

 聞きたくないと耳を塞ぎたくなった。それは彼の眼が、全く自分を映していなかったからかもしれない。


「俺は劉備軍所属時の記憶を失ってんだ。“鳳統ちゃん”との思い出も、公孫賛や趙雲、関靖との思い出も、全部が無くなっちまった」


 真っ白になる思考はどれだけ回そうとも紡げない。

 彼の言っていることが何も理解出来なくなった。

 やけにはっきり聞こえた親友の名前は、彼がいつも真名で呼んでいたはずだから……これが事実なのだと理解するしかなくて。

 真名を呼ばなかったのではなく呼べなかったという事実をも読み取ってしまい、胸が……引き裂かれる。


「全ては俺の弱さが招いた事態だが、そのせいで誰かが悲しむのは見たくないんだ」


 虚ろに響くその声には、寂寥と懺悔が宿っていた。

 渇いて仕方ない飢えの感情は、より深く色付いていた。

 その笑顔だけは、昔見た大好きだった微笑みのままで。


「この乱世が終わったら鳳統ちゃんと仲直りしてくれな? 友達同士で争うってのは、やっぱり哀しいことだからさ」


 茫然と膝を着いたまま、朱里は去って行く彼の背を眺めるしか出来なかった。

 ジクジクと苛む胸の痛みが誰に対する懺悔なのかも分からなかった。

 頬を伝う雫の冷たさに、やがて嗚咽を漏らし始める。


 愛しい人を壊したのは自分のわがまま。

 大切な親友を絶望させたのは自分の欲望。

 たった一つを欲しいと願っただけで全てが崩れてしまった。


 忘れられるというのはどれだけの絶望だろうか。

 今感じているこの心の痛みが、彼の中から自分の存在全てが消えてしまった事に対するモノならば、親友が受けた心の痛みはより大きいモノだと分かってしまった。


 本当は此処で止まってしまった方がいいのかもしれない。

 しかして止まれない。止まれるはずもない。


 優しい主は苦悩しながらも平和な世界の為に命を積み上げる。

 優しい仲間達は心を痛めながらも理想を目指して抗い続ける。

 ついて来てくれる人々は、彼女達に理想ゆめを見て命を捧げてくれている。


 故に彼女は……どれだけ後悔と懺悔に苛まれようと、もう止まる事など出来なかった。 








 闇夜に染まり始めた空の下。黒は竜の翼にキズを付ける。

 其処に居るのはただ一人の少女。彼女一人でしか背負えない業を背負わせて、彼は薄く笑っていた。


「此処からは賭けだ。劉備軍が益州入りしてるなら赤壁は終わってないとおかしい。それに二面戦略にしてくれた方がこちらとしても有り難い。硝石の状況から見ても火薬が使われないのも分かった。これで懸念事項はほぼ消えた。

 願わくば……俺の描く“乱世の確率事象”に捉われてくれ」


 黒の外套を揺らして彼は陣内を進む。

 決して嘗ての友には出会わないように、一人の兵士に朱里の居場所だけを伝えるよう言伝を頼んで。

 入り口とは真反対の陣の外で、彼は柵に腰かけて一息付いた。

 ジジ……とノイズの入る思考と、ぐらつく身体。顔を片手で覆って、掌の隙間から見える瞳には闇色が渦巻いていた。


 小さく、ほんの小さく唇が動いた。

 誰にも聞こえない囁きは、闇夜に溶けて消えてしまった。


――赤壁で会おう、朱里。



読んで頂きありがとうございます。


今回は朱里ちゃんメイン。

朱里ちゃんにだけ記憶喪失の事実を伝えたようです。


歴史の歯車を自分で組み立てる逆転思考。彼は合肥と五丈原で戦をしたいようです。多分こんな感じ。


??「好き放題暴れてええってほんまか!? 行くで凪ィ!」

??「……生きてる人なら、相手取るのは得意、です。蜀を滅ぼすなら、今」

??「ふっふー♪『要塞☆合肥新城!』の建設は任せときぃ!」


ディフェンスに定評のある満寵さん居ないけどこれなら大丈夫そうですね。



ではまた

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