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竜と詠む史は

遅くなりまして申し訳ありません


 「……何がありましたか?」


 此処は簡素なお茶とお菓子の準備された一室。帰還して直ぐ、仕事の報告書さえ見る事無く、朱里が選んだのは生に近い情報収集である。

 街の様子は変わらない。成都の外に陣取っている彼の陣にも近付いていない。普通に帰還し、普通に報告し、普通に桃香達の館に戻ってきただけ。

 連れ立ってきた小蓮は白蓮と共に行動させている。孫呉のことは今はいい。何よりも重要な問題が目の前に差し迫っている。朱里は対面する人物に言の葉を続けて投げた。


「言い方を変えましょう……彼は、桃香様に何をしましたか?」


 問われたのは一人。

 黒く艶やかな髪の毛は女としても憧憬の対象。黒、というのが朱里にとっては更に羨ましかった。

 武人としても将としても飛び抜けた実力を持ち、曲がらない芯を持つ彼と相似な在り方。

 朱里は帰ってきて真っ先に、愛紗を部屋に呼び出していた。


 同じ水鏡塾で机を並べた藍々でなく、彼の心の内を慮れる星でもなく、間違いなく真正面から応対したであろう桃香でもなく、朱里が選んだのは愛紗。

 信頼と信用。誰に対しても持っているが、愛紗は余分な情報を付けることなく生に限りなく近いモノを与える。予測も、予想も介入しない。状況を理解した上で事実を、分かりやすく伝えることが出来る。だからこそ、朱里は愛紗を選んだ。


「……桃香様の様子が変わったのは、彼が桃香様に対して“興味がない”と無関心を向けてからだ」

「無関心、興味がない……興味がない、ですか……ふふ、なるほど……」


 白羽扇を口元に当てて笑う。目の奥に光る昏い輝きは何を見るのか、愛紗には分からない。

 異なことだと思った。劉璋との謁見の様子でもなく、まず第一に聞いたのが桃香のこと。

 彼がどんな動きをしているのか、曹操軍の狙いはなんなのか、謁見でのやり取りの詳細を確認せずともいいのか。

 疑問が数多浮かんでも、愛紗はそれを黙殺する。朱里は必要なことしか確認しない。愛紗達が理解する為の確認作業として聞くこともあるが、今回は自分から聞く気になれなかった。


 その紅の眼が余りに、異質だったかもしれない。

 情欲の果てのような、しかし幼子の憧憬のような、そんな色。


「桃香様は、普通にお仕事を熟されているんですよね?」

「通常業務に支障はない、と思う。ただ、劉璋の元に行く回数は藍々の指示で減っている。要らない疑いを掛けられない為に、と。桃香様の心に掛かっている負担も大きいからな」

「……桃香様の御心にはそれでよいかと。ただ、増えても減ってももう策として価値がなくなりました。増えれば疑念を掛けられ、減ればやっぱりと思われる。益州の臣下達は私達に対して燻らせていた感情を再燃させてしまいましたから、此れから取る行動一つ一つ全てが非難の対象となるでしょう。

 桃香様が私達の策に気付かれたので、名声や人からの目を気にしない方とはいっても、それが余計に彼らの不満に繋がるかもしれません。桃香様ご自身も不和を読み取っているでしょうし、第一の策は明らかに失敗となりました。彼が、曹操軍として此処に来た時点で」

「……っ」


 失敗、と言われて愛紗は唇を噛みしめた。

 益州に来た時に、桃香が提案したのはたった一つ。武力でなく信頼で、言の葉で、態度で、心で、平和を築こうと。

 ゆっくり、ゆっくりと進めてきた懐柔策。人々に受け入れて貰おうと必死になってきた。小間使いのような扱いを受けようとも、下賤な言葉を投げ掛けられようと、人々に受け入れられるように。


 桃香の提案を朱里は是とした。第一の策、とすることによって。

 武力を用いない侵略行為はおおむね成功といっても良かった。後二つでことは成ったのだ。

 孫呉への救援、南蛮の平定による名声強化。それに伴っての益州での発言権の裏返し。

 声を大にして未だ反発している有力者の説得は秒読み状態だった。内側から浸透する毒……民の支持はもはや止まらないのだから。

 民衆という圧倒的多数の支持を受けている桃香の力は揺るがない。劉備軍という明確な力を持っていることも大きい。益州内部でもう劉備軍に敵うモノは居ないのは、黄忠と厳顔が敗北を認めたことによって、皆が理解している事でもあった。


――桃香様の元である程度の暮らしを……そうやって諦観に向かわせるつもりだった益州豪族の心を、彼は抗いの心にすり替えてしまった。元々考えていた第二の策に……強制的に移行させられてしまった。


 このままでは乗っ取られる、と不安の煽りを受けた豪族達はどうするか。決まっている。武力を用いて排除しようとするだろう。

 それを理由として立つ事が出来れば、益州は丸ごと桃香のモノに出来たのだ。益州の臣下達に桃香を認めさせる為に戦い、従えて、諦観させる。勢力をわが物とする為に一番手っ取り早いのはやはり、戦なのだから。

 つまりは、秋斗達が仕掛けているのは益州平定を加速させる策でありながら、桃香個人の思想をうやむやにし、身内同士の禍根という毒を残させる策である。


 劉璋が一声上げれば、無理やり有力者たちを抑えつけることは出来る。大きな、とても大きな蟠りを残すことにはなるが。

 そんな状態で曹操軍と戦えるのか否か……どちらが上か分からない劉家、割れている臣下達、歩調の合わない勢力が戦を行えば、どんな結果が待っているかは言うまでもなかろう。

 協力する、と口では簡単に言えても、それは非常に難しい。欲望を持っているからこそそのむずかしさを彼らも良く知っている。

 だから彼は、最も簡単にコトが済む方法を益州の臣下達に知らしめたのだ。孫呉と手を汲もうとしている漢の敵で、劉璋を誑かして益州乗っ取りを企てている元凶を滅ぼすべし、と。


 理想論を説く者と、現実的な利益を考えるモノ。どちらが己らの為になるかなど考えずとも分かる。

 安全に暮らせればそれでいい。厄介事などもってのほか。まるで疫病神のようなその女さえ居なければ……自分達の安寧は守られる。


――そうして劉璋派として立ってくれれば……単純な武力で決着が付く。旧き龍と臣下達の命を生贄に捧げることで。


 正直な所、劉備軍は劉璋軍に敗北することは有り得ない。兵士として立つのは民が大多数であり、多くの支持を得ている桃香と戦うのならば士気は自然と下がる。愛紗達のような武将の存在も大きく、正面からぶつかり合えば劉璋軍の勝ちの目などまず見当たらない。

 ここ数か月で方々に派遣されていた為、土地勘などもある程度は得ているし、紫苑や焔耶といった主力武将も桃香に賛同しているのだ。

 ただし、懸念事項は尽きない。劉璋軍と戦っても敗北は無いが、もっと大きな敵と戦うことを想定しているが故に……取りたくない選択肢であった。


「あくまで劉璋軍が先に攻めてきた場合にしか私達は動けません。桃香様の意思は協力、共存、共生。常々解いて来たその論を無視してこちらから発起してしまえば……民の信用は奈落に堕ちます」

「……劉璋軍が何もしない場合は?」

「有り得ません。西涼侵攻を開始する曹操軍に合わせて、劉備軍を防衛の名目で分断し主力を北上させ、桃香様を人質としている間に各個撃破、といったところ。それが益州勢力に取れる最善。

 主である劉璋の意向を無視してでも、彼らは自らの思い描くモノの為に行動に移します。私達の策は、劉璋という存在を軽くさせてしまいました。故に、臣下達は本人の如何によらず、己の主はかくあるべしという妄信にて団結します。私達への敵対心が育っているからこそ、その妄信は止まらない」

「……それはもう、臣下とは……」

「呼べませんよ? 主の意思を汲み取れない臣下は臣下に非ず。だから益州は……腐敗した漢の縮図なんです。その腐敗を取り除けるかどうか、それが私達の課題となります」

「そうか……」


 瞑目した愛紗の眉根が寄る。美しく長い睫毛に僅かに見惚れてしまいそう。


「それは我らにも当てはまるのではないか?」


 憂いを帯びた瞳は真っ直ぐに朱里を射抜く。自分達が何をしているのか、何を考えているのか。その全てを、愚直に、真っ直ぐに、愛紗は判断して口に出した。

 今の自分達は、主を無碍にする臣下ならざるモノではないのか、と。

 ふっと、優しい吐息を朱里は吐き出した。


「やっぱり愛紗さんは……いいですね」

「何がだ?」

「彼と同じく、それを理解して尚、率先してやろうとする所が、です。

 桃香様の剣として、桃香様の理想を叶える一助を。故に貴女は……今回のことは是と出来る。不信を抱いたままの劉璋軍を叩きのめすのは分かりやすく、貴女にとっても願ったりのはず」

「それは――」

「それよりもこんな話は止めておきませんか? 私と愛紗さんが探り合うことこそ意味がありません。互いの想いがどうであれ、思想がどうであれ、桃香様と共に歩むと決めた仲間、なんですよ」


 自分で言うと安っぽくなるな、と想いながらも朱里は言い切った。

 事実、愛紗は苦い表情で悩み始めた。素直な彼女のことだから、飲み込むことなど出来ないとは思う。今回は朱里も推し通すつもりだが。


「とりあえず、桃香様はご自身で立ち直って頂くしかありません。鈴々ちゃんは護衛として、愛紗さんは仕事の補佐として側付きしてください。始まりの三人で共に居る方が心にもいいはずです」

「……ああ。しかし、朱里はどう動く?」

「私は……」


 一寸言葉に詰まった朱里は、笑った。艶やかに、涼やかに。

 元より逃がす気はない。恋焦がれる愛しき男を、鳳凰の元になど返す気はない。


――彼は逃がしません。でも、益州は彼の思惑からは外れられない。


 しかし、彼の策は打ち破れない。

 劉璋と劉備を共に立てることは、朱里の描く未来には存在していない。

 諦観が抵抗にすり替えられたこの大地で、黒き麒麟が引いたイトを彼女も手繰る。

 久方ぶりの共同作業。僅かに頬を染めながら、朱里の心がトクリと跳ねる。


「より上手く廻るように幾つか策を重ねます。個人的な動きはまだ……ただ、彼には会っておかなければならないでしょうね」


 直ぐにでも会いに行きたい。叶うならば今すぐにでも。

 近くに居る。それだけでこれほどまでに胸がときめく。抑えがたい激情は身を焦がし、朱里の脳髄を甘く軋ませる。

 熱い、甘い吐息を吐き出した朱里を見て、愛紗は盛大なため息を吐き出した。


「昔の彼とは思わないことだ」

「はい」

「憎しみは持っていないと言っても、黒麒麟は敵には容赦しないだろう」

「はい」

「それでも、行くのか?」

「……大丈夫ですよ。彼は……甘い人ですから」


 不気味なほど妖艶な微笑みに、愛紗はぶるりと震えた。

 目の前の小さな少女は何を見ているのか、彼女には分からない。

 不安の影が胸に湧く。自分達劉備軍が、いつの間にか全く別物に代わって言っている気がして。


 ついと、朱里が白羽扇を唇に当てる。


「……やっと会える。貴方は……何処まで乱世を読んでいますか……秋斗さん」


 小さな小さなつぶやきを聞いたモノは誰もいない。


 願わくば、と朱里は思う。

 自分の予測を越えて、何処までも先まで見通していて欲しいと。


 それを越えた時、初めて自分は……空へと羽ばたけるから、と。






 †







 苛立たしげな表情は不機嫌さをこれでもかと表し、それでいて黙して語らないのでその理由も分からずじまい。

 どうしていいか分からずおろおろする猪々子は、机の上の食事をいつもよりも遅いペースで食べていた。

 ちらちらとその不機嫌な彼女――詠を見やりながら。


「……」


 今日の料理はカレーだった。固形化して持ち運び出来るルーが出来上がったのは出立前。保存にも便利であった為、兵士達も待ちに待った御馳走に舌鼓を打っている……が、詠はそんなごちそうを前にしてスプーンを手に持ったままカレーを睨みつけるだけであった。

 成都の街から一寸離れた陣内。詠の天幕の中は居辛い空気がたんまりと。

 直接聞いていいものか、それとも自分から話しだすのを待つべきか、猪々子は悩む。

 大凡の理由は分かっている。詠が不機嫌になる理由は決まって秋斗が関わっているのだから。今回もそれだろうとは思うが、何故怒るのかが分からない。


 現在、秋斗は陣に訪れた使者の対応をしていた。

 詠の方が正式な文官であるし、本来であれば二人で迎えるのが通常であろう。しかれども、ここ最近に陣を訪れる使者は少し毛色が違うモノだった。

 猪々子には分からない。詠の不機嫌な理由は分からない。

 一度目の使者を詠は笑って流していた。二度目の使者に詠は笑いながらも呆れていたようだった。三度目になるとこめかみに僅かな青筋を立てつつも笑って流した。そして四度目が今……無言のまま秋斗に任せて目の前の様子である。

 何度かは笑って対応していたから、猪々子には分からないのだ。

 反して、徐晃隊は分かっている。詠の不機嫌な理由を徐晃隊達の皆は理解し、にやにやと茶化す時の笑いを浮かべつつ、詠という虎の尾を踏むことはしない。

 

「な、なぁ、詠?」

「……」


 威圧と殺気を込めた視線が猪々子に向いた。何も言葉は出ていないのに、武器も持っていないのに、猪々子は此処が戦場であるかのように錯覚した。

 それでも、ぐ……と腹に力を込めて視線を外さない。逃げても何も変わらないと思った。この目の前の恐ろしい鬼に立ち向かわなければ、日に日にぎくしゃくしていく秋斗と詠の関係は改善されないと思ったから。


「アニキとなんかあった――」

「なにもない」

「ひっ……そ、そうか」


 けれども、彼の話題が出た瞬間に膨れ上がった殺気に、猪々子はへたれてしまった。

 哀しいかな、いかに武将と言えども、徐晃隊達がさわらぬ神にたたりなし、というような状態と見ている詠相手では分が悪かった。

 逃げちゃダメだ、と何度も何度も心の中で唱えて漸く、猪々子は意を決して口を開く……前に、詠が大きな、とても大きなため息を吐き落とした。


「はぁ……ごめん。八つ当たりするつもりはなかったんだけど、さすがにね」

「い、いいよ。でもなんでそんなに怒ってるか聞いていいか?」


 霧散した威圧、消えた殺気。僅かに穏やかになった空間にほっと一息。

 理由を尋ねて合わされた瞳には、まだ不機嫌さがあるものの怒りの矛先は別にあると思えた。


「別に怒ってない」

「怒ってたよ」

「怒ってないわよ!」

「ほら! 怒ってるじゃん!」

「う……くぅ……別に、怒ってなんか、ないし……ちょっとイライラしてるだけ」

「ちょっとどころじゃないと思うけど。とりあえず教えてくれよ。あたいじゃわかんないもん。なんか出来ることあるならしたいし、アニキと詠が仲良くない感じこれ以上続いたら嫌だしさぁ」

「……」


 ぎゅうと、詠が拳を握る。唇も噛みしめていた。どうして此処まで話したがらないのか、猪々子には分からない。

 だが、先程とは違う点が一つあった。詠の顔が、耳まで赤く染まっている所だけがその差異。首を捻り幾瞬……おずおずと、聞き取れないような声が詠の唇から零れる。


「……だ……秋……使者……もん」

「……? なんて?」

「だっ……秋斗と……使者の……に……れして……からっ」


 聞き返すもやはり声が小さい。耐えかねた猪々子が耳を寄せようとした瞬間、詠がキッと睨みを聞かせて大声を上げた。


「だって! 秋斗と友好を結ぶ為に連れられて来た使者の娘に! それも! まだ元服もしてないような幼い女の子ばっかり! その子達とご飯食べたりべたべたされたりしてあのバカがデレデレしてるからっ!」


 突然の大声によってキーン、と耳鳴りが響いた。くらくらする頭、咄嗟に抑えた耳、どうにか頭を振って落ち着かせて、やっと彼女が語った意味を理解する。


 劉璋との謁見が終わり十日以上。一月との時間制限を設けたことで、時を於いて訪れるモノも出てきた。

 とあるモノは内密に交渉をしようとして。

 とあるモノは此方の情報を探ろうとして。

 とあるモノは偽りの友好を築こうとして。

 とあるモノは服従の意を示そうとして。


 小さな豪族から大きな豪族まで、本人が直接来ることは無いが、何れも使者を使って何らかのアクションを取って来ていた。

 繋がりを持たせるという意味では政略結婚というのは一つの手段だ。許昌に居た時も少なからずそういった申し出は来ていたし、劉備軍に所属していた時も同じように在った。

 だが、遠征してきている彼に対してそういった手段を講じるというのは異質に過ぎる。彼の趣味嗜好は別としても、敵対している勢力の客将如きに取り入るというのは、長く政略に携わってきている詠からしても下策と断じていた。


 実際、秋斗は取り合っていない。連れてこられた少女と自分がどうこうなるなどまず無い。詠とて分かっている。秋斗はただ諭して聞かせるだけだ。色恋についてお堅い彼が、いきなり来た縁談を受けるはずもない。

 しかし面白くないのも事実。初めは恐れていた少女達であっても、彼の緩い空気に取り込まれてしまえばもはや手遅れ。甘いお菓子と拍子抜けするほどくだらない彼の話を聞いて、徐公明に対する評価を上げて行く。

 数時間だけの邂逅で、少女達をその気にさせる。付き合いとしての酒も飲むし、膝の上に座りたいと誰かが言えば座らせる。気を抜いている体を見せる為にデレデレした顔もする。演技だと分かっていても、詠は面白くない。

 捨て駒かもしれない少女達であれど、彼の側に引き摺り込めるなら重畳。どれだけ小さな繋がりであっても、彼は利用し組み立てる。分かっているからこそ、詠は不機嫌さを出して彼に何も言えないのだが。


 つまるところ、ただの……


「……なんだ、ヤキモチかよ」

「っ……ち、ちち、違うわよっ!」

「はぁ、心配して損した」


 呆れた、と言わんばかりに猪々子が首を振る。耳まで赤くして睨みつけてくる詠を可愛く感じて、彼女は小さく鼻を鳴らす。


「ま、アニキはその辺お堅いしいんじゃね? 幼女趣味って言われてるけど軽々しく手ぇ出したりしねぇし。女と寝台共にしてなんにもしないような男なんだからさ。

 ってかそんなに嫌ならアニキと毎日でも一緒に寝て詠の匂いを擦りつけてやればいいじゃん。アニキは自分のだーって」

「ば……ばっかじゃないの!? なんでボクがそんなこと……」

「遠慮するってのも分かる。でもあたいは好きな人には一番に見て貰いたいもん。あたいだったら絶対そうする」

「あ、あんたと一緒にしないで!」


 叩こうと手を振るも宙を切る。

 怖い怖い、と避けておどけた猪々子がペロリと舌を出した。


「一応言っておくけど、明のやつも惚れかけてるぜ?

 あいつって本気出したらアニキを監禁して堕とすくらい平気でするから気ぃつけな」

「んなことさせないわよっ!」

「えー、それじゃアニキの困った顔見れないじゃん。明も友達だからどっちに協力しよっかなぁ~♪」

「あ、あんたねぇ!」

「おっと……そろそろ交流終了の時間だ。理由も分かったし今日はあたいがアニキを呼びに行こうっと♪」


 天幕の入り口にそそくさと駆け、上機嫌な猪々子がひらひらと手を振る。

 睨みつけてもどこ吹く風。もはや先程までの殺気など出せるはずもなく。真っ赤な顔ではただの少女にしか見られていなかった。


「覚えてなさいよ」

「聴こえなーい♪ んじゃ」


 しんとした静けさは、耳に残る騒がしさの残滓を際立たせる。大きく深呼吸をして心を整えようとしても、詠の顔の火照りは全然取れて行かない。

 なんとなく、なんとなく座っている気になれなくて寝台に横になった。うつ伏せで枕に顎を置き一人ごちる。


「……ふん、なによ。あんなやつ。仕事だって分かってても、もうちょっと節度ある行動ってもんがあるはずでしょ? だからボクのは当然の怒りで、ヤキモチなんかじゃない」


 自分で口に出してまた恥ずかしさが込み上げた。

 違うといいつつも、この胸のもやもやはそういった苛立ちとは別としか思えない。

 時間が来たと呼びに行く度に見た彼の姿を思い出して、その感情がまた大きくなる。


 膝の上に少女を乗せて物語を聞かせていたり、眠ってしまった少女を優しげな眼差しで起きるまで頭を撫でて待っていたり、兵士達が暇つぶしに使っている玩具で楽しげに一緒に遊んでいたり……。


 ぼふ、と枕を叩いた。一回、二回、三回叩いて漸く止める。

 自身の恋心は認めているが、自分よりも年下の少女に嫉妬など……言い聞かせて治めようとしても治まらない。考えても考えても治め方が分からない。


 益州という遥か遠き大地にて自分だけが側にいることで、独占欲が強まっているのだ。

 まだ淡い恋を始めたばかりの彼女は気付かない。雛里や月が居ないから、今だけは彼の一番は自分だと無意識の内に認識しまっている。

 悶々と悩みながら枕に顔を埋め、今日はどんなイラつくことをしているのかと気になって仕方ない。

 大きなため息が零れた。心の内側から吐き出されたそれは枕に溶ける。


――欲張り、だよね。ボクのことを見て欲しいなんて。


 雛里や月が居ない今だからこそ、鎌首を擡げた独占欲は止まらないのか。

 いや、きっとそれだけではない。


――ううん……あいつが消えちゃうかもしれないから……


 黒麒麟と徐公明のハザマで揺れる不安定な状態を見てしまえば、焦燥感がジクジクと心を染め上げるのも当然のことで。不安の影がついて回る現状、詠は自身の焦りを把握する。


――繋ぎ止めたくて……仕方ない。


 急に、彼女は雛里や月に会いたくなった。

 心細い。弱気が湧き立つ。あの昏い瞳を思い出せば、自分だけではやはり足りない、と。


 詠は強気になんでも熟すと思われがちだが、軍師という立場上、一歩引いた物事の扱い方をする性分であり、自分が一番前に立って何かを行うという事はあまりしない。

 あくまで補佐的な役目に主点を置き、高い視点から物事を見て、その上で最善を見極める。そういった遣り方こそが彼女の真骨頂。

 故に、今回のことも、自分がなんとかしようと思っても、やはり自分だけではと思ってしまう。

 これではダメだ、と彼女は頭を振った。別のことに思考を回せば、鬱屈とした感情も振り払えるだろう。


――……益州の戦略については問題ない。朱里と公孫賛が帰ってきた時点で益州は終わる。


 戦略行動はもはや終盤。後は何もしなくともいいのだ。


――バカ達が持って行った手紙がそろそろ効く頃合いだろうし、劉備軍も動かざるを得ない状況になるはず。


 くるりと仰向けになって天井を見つめた。知性の光が宿る瞳は、ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りを入れて輝きを増す。

 一つ。彼女の心に湧く感情があった。

 コレを煮詰めたのは詠と秋斗だが、思いついたのはやはり彼一人。それが只、恐ろしい。


――未来が見えてるんじゃないか、なんて思いたくなるくらい……秋斗の思考回路は異常だ。


 益州が辿る道筋を、益州に辿り着いた時点で彼は読んでいた。否、彼は只、そっと確率が高くなるように誘導しただけ。

 軍師とも、将とも、王とも違う彼の思考は詠には理解出来ない。

 しかし彼は、詠であればこの程度思いつくと肩を竦めて自信なさげに笑うだけ。腹立たしくも、やはり恐ろしい。


――黒麒麟がまだ敵にならないように、ボクも手は打った。益州ではきっと大丈夫。


 彼には話していない事柄が、一つ。大切なモノを繋ぎ止める為ならば。

 きゅっと胸に下げた銀細工を握りしめて、彼女は目を瞑った。


――……刻限はあと、一月。朱里が帰ってきたから、ボク達はもう何もしないでいい。後は最重要地での合流を図るだけ。


 一つ一つと策を練る。確認するように脳髄に刻み、彼女は大切なモノを離さない為に積み上げる。

 劉備軍はもはや掌の上。彼女は何も恐れていない。黒が描いた道筋からは、劉備軍は逃れられないのだから、と。


 人の心を操る黒は、利用できるモノは全て利用し尽す。

 それが例え、敵であろうと。それが例え、己を想っていた少女であろうと。


――だって……朱里は秋斗の策に溺れずに居られない。黒き大徳からは、もう逃げられない。


 真面目な思考に反して、もやもやとまた心に野暮ったい雲が湧く。

 此れは嫉妬。はっきりと分かる。恋敵となりそうな輩に対しての感情は、星との邂逅で認識済み。


 もうすぐ来るであろう伏したる竜。懐かしい彼女の姿を思い描き、イヌミミフードの軍師は不機嫌を眉間に寄せて呟いた。


「あげないわよ、朱里。秋斗は……ボク達のなんだから」







 †







 夜の闇が色濃く染まる頃合いに眠ってしまった少女の髪を優しく撫でやり、睨みつけてくる共連れの女にひょいと渡してみせた。


「……心配なさんな。なんもしちゃいないよ。話してお菓子食べてただけだ」


 衣服の乱れも、独特の色香も感じられない様子にその女はほっと胸を撫で下ろす。

 豪族の子女の御付きらしい。やれやれと頭を掻いた彼はゆるりと笑って空を見上げた。


「好きに生きればいい。そういった育て方してやんな。親のいいなりになりつつも、時が来たら親を取って食っちまうような女になれって」

「……その結果が袁家ですか」

「随分と聡明な侍女さんなことで。まあ……そうさ。子供がいつまでも子供だとおおもってりゃ痛い目を見る。子供達が自分の意思で何かを望めるような、そんな環境に整えてやるのが俺ら大人の仕事だろう。お前さんみたいな侍女に出来ることは限られてるし行動も制限が掛かってると思うけどさ」

「親殺しなど――」

「何も殺せってことじゃない。ま、俺に出来ることは此処までだ。ただ……安穏と暮らしてりゃいつかは誰かが救い出してくれる、なんて甘えは捨てとけ。自分が強くならないと世界は変わらない。弱いのが嫌なら自分が変わらないと……世界は変えられないのさ」

「……その通り、でしょうね」

「他の使者にも同じこと言ってるが……俺からの提案を一つ。お嬢様同士、そんで侍女同士でも繋がりを持ってみな。色んな人間と繋がっとくと便利だからさ。んじゃ、もう行け」

「……一応、心に留めて置きます。ではさようなら、黒麒麟殿」

「ああ、二度と会う事も無いだろ。お嬢様を大切にしろよ」


 言われずとも、と言葉を残した侍女の背を見送り幾分……見えなくなった所で彼は一つ伸びをした。

 音を鳴らして伸びる背骨が心地いい。ずっと座っていたから、伸ばせた膝もジワリと暖かくなった。

 ほう、と息を一つ付いて今回の使者への感想を口から述べた。


「男が有利な俺の世界じゃあるまいし、此処は女が有利な世界なんだ。望んだら望んだ分だけ、きっと自分の周りを変えられるさ」


 自身の生まれ育った世界との差異を、そっと口に出す。誰にも聞こえないからこそ。

 政略結婚の道具として用いられる少女であっても、この女が強い世界ならいくらでもやりようはある、彼はそう思う。

 幾人モノ使者の対応をして、幾人もの少女から話を聞いた。

 繋がりを深くする為に、と来た彼女達ではあったが、皆イロイロな悩みを抱えている者達ばかり。

 彼が行ったのはただの聞き役。アドバイスと言えるようなモノはあまりしていない。ただ単に、そっと心に自身の思想を説いただけ。


 結局生きるのは自分自身で、世界を変えるのも変えないのも自分次第。

 何かをしたいと望むなら、自分が変えてやろうと言う意思を持てと。


 傷だらけの身体を見て少女達は何を想うか。

 心の底から思っている事だけを言う彼の話を聞いて、まだ無垢な少女達は何を感じるのか。


 長い長い視点で物事を見た事柄。益州に対する楔の一つ。それもこれは……乱世に対しての策ではなく、治世に対しての策。

 いつか乱世が終わって今の少女達が大人になった時に華開く……そんな策。


 彼にとっても有意義な時間であった。何せ、少女達ならず侍女たちまでも、ある程度の言の葉を交わせたのだから。


 彼女達の主に報告をするならそれでも良かった。別に引き込むつもりで喋っていたわけでもないのだ。彼がこの益州で行う全ての行動は……もはや終わっている。使者への対応はついででしか無かった。


 すっと、彼は遠くを眺めた。成都の都を。

 後に彼は、別の方角を眺めた。北東の空を。


 黒に星々が煌く空を見て、緩く笑う。


「益州での最重要地は……漢中。落鳳破で落ちるのは劉備軍の誰になるかな? 俺は近づかないし、えーりんも近づかせやしないが……劉璋軍の働きに期待しよう」


 この世界では彼の頭の中にしかない情報と道筋。彼だけが辿り着ける答え。

 彼の生きていた世界では、益州で何があったのか。劉備軍がまだ劉璋と決着を付けていないのなら、何を起こせるのか。


 天秤の傾きは彼が手繰るイトのままに。早回しのように進むこの世界で、彼は誰にも理解出来ない世界を思い返して嗤った。


「クク……史実通りじゃないけど、史実通りのことを起こしちまっても構わない……そうだろ、腹黒。

 さぁて、一緒に歴史の中を踊ろうぜ……諸葛孔明」





読んで頂きありがとうございます。


今回はちょっとしたお話。

朱里ちゃんがそろそろ動くみたいです。

次も益州。


返信や近況報告の割烹等は夜に


ではまた

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