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魔女の想い








「かーりーんーさーまーっ♪」


 遠くから聞こえてくる声は小気味のいい高さ。竹簡に走らせている筆を止めてその方を見やる。

 幾人か使者にやっているからこの城も随分と寂しくなった。そんな中でも彼女が楽しそうなのは変わらない。

 此処での生活になれたらしい彼女――明が勢いに反して静かに扉を開いた。


「にひ、来ちゃったー♪」

「騒がしいわね。平常時の廊下は走るモノではないわよ?」

「だってー、嬉しい報せが届いたんだもーんっ」


 くるりと一回転。手に持っている紙の束を抱き締めて彼女は赤い髪を揺らした。

 愛らしい仕草。この子はあざとい。私の欲情を挑発しているのだ。無邪気に振る舞っているように見えて誘惑に長けているこの子は、百合の花に浸り切ってきた経験者。本当に……可愛い子。

 直ぐにでも寝台に押し倒してもいいのだけれど、今は仕事中。そろそろ私と閨を共にしてくれてもいいと思う。ひらりひらりと躱されてまだ叶っていないのは焦らし上手なのかどうなのか。

 この子にとっての絶望の日にあのバカとどんな夜を過ごしたのかも、誰にも教えようとしない。自分から聞くのは癪だからしてあげないが、少し腹立たしい。


「“黎明”室長のあなたが私に直接届ける程の報せなら“嬉しい”ではなく“重要”の間違いでしょう?」

「あたしにとっては嬉しくても華琳様にとっては普通の報せかもしれないじゃん? どうしよっかなぁ……華琳様から“お誘い”してくれるんなら……渡してもいいけど♪」


 次に行われるのは腰を屈めての上目使いと赤い舌。ふりふりとカタチのいい胸とお尻を揺らして……誘ってる。欲求不満なのは彼女の方。暗い部分を任せているとは言っても、長い間暗闇の中に溺れてきた彼女はそろそろ“そちら”の方でも我慢が出来ないということ。

 その手には乗らないわよ、明。“あなたが”私に跪かないと意味が無いのだから。それに私はね、待つのは嫌だけど焦らすのは嫌いじゃない。

 ふっと息を付く。見下してやれば彼女は……残念そうに、それでも嬉しそうに舌を出した。


「安い挑発ね、明?」

「えー、残念。じゃあコレはいらないんだ?」

「あなたがそうだと判断したのならいいわよ。重要ではないのなら直接処理しなさい」


 これで私の勝ち。桂花ではあるまいし、私にその手は効かない。

 言い切れば明は唇を尖らせて不足を示した。


「ちぇっ……華琳様ってば冷たいんだー」


 それでもしっかりと紙束を渡してくれる当たり、この子も何が重要かは分かっているらしく。それでこそ苛め甲斐があり、可愛げがある。

 ただ、機嫌の良くなっていた私の心がその手紙によって落ちた。受け取った途端、その紙束からいい香りが漂ったのだ。

 明の表情がにやりと不敵に変わる。


「にひ……白紙だよ? その手紙」


 白紙の手紙など普通は意味がない。しかしその香りがするということは……私をいつも苛立たせるあのバカのモノということか。


「届けた隊員の番号は?」

「千百一番。第四で馬が一番速い奴だと思う」

「そう……そういうこと。明――」

「はいはーい♪ んじゃあこの器の上で……っと」


 続きを語らずとも彼女の準備は万端。懐から取り出した器にいろいろとモノを並べて……カチリと二つの石を擦り合わせた。

 草と松やにが赤く染まった。手慣れた火付けによって、小さく炎が生まれた。


 明が袁家虐殺から帰って来てから“黎明”というモノを作った。影の仕事を割り振る担当部署として。

 何故か長を室長と名付けたが、勝手につけたのはいつも通りあいつだ。

 その部署の用途は多岐に渡る。汚れ仕事に従事していて器用になんでも熟せる明はまさにうってつけであり、補佐に七乃を付けているので情報に関しても隙が無い。

 話がずれた。

 その黎明の室長である明は……この手紙の意味を当然に知っている。


 軍師達にも話していない密書送付手段の一つ。知っているのは雛里達三人と明、七乃くらいか。

 信じていないわけではない。いつかは彼女達にも教えることになるだろう。あくまで私の可愛い妹の軍の手段として使わせたいから形式上は此処までというだけ。

 あのバカが知っていたモノで有用な手段は幾つもあったが、此れは私のお気に入り。


――やっぱり炙り出し……か。


 果物の汁で書かれた文字が、火によって浮かび上がる。紙を火で炙ろうなどと誰が思いつくのか。面白くていい案だった。

 これなら他国に細作が捕えられてもバレることはない。白紙の紙を予備としていくつも持っているし、紛れさせれば見分けもつかないし気付かない。

 果物の香りがする、というのも美しいし風情がある。砂糖水などでも代用できるらしいが。


 全体を炙り切って幾分、ふっと火を吹き消した明が目で問いかけていた。覗いてもいいか、と。

 彼女が上機嫌だった理由はこれ。あのバカからの手紙だったからで間違いない。いつも邪魔をしてくるあいつに対しての苛立ちを抑え付けて、私は頷いてから目を通していった。


 手紙の内容は……予定とは大幅にズレた自分勝手なモノ。

 益州を攪乱する為に西涼への参加が遅れるかもしれない、と。

 劉備軍による横槍封じも目的の一つであり、益州内部での事案に縛り付け、その内来るであろう総力戦で兵力低下をさせる意味合いもあるらしい。

 記憶の喪失をばらすことは止めたようだ。その代わりに劉備の心と臣下達の心をかき乱す方を取ったとも書いてあった。

 あいつの判断なら任せてもいい。隣の詠が是としたということは、それをすることで後々の利が大きくなるに違いない。

 現状と方法の詳細説明を見ても、私が取ってもいいと思える手段。部下が策を進言してきたのなら、判断し決断するのは王である私。しかし現在の曹操軍に於いてはそうじゃない。今は……


“部下が策を進言するよりも、部下が出来ると判断した時は私の決断を待たずに実行に移す”


 そういった軍になっている。

 これは黒麒麟の……否、黒麒麟の身体の在り方と同じだ。

 部下達個人の能力を信頼し、決断と協議の時間を省き、“事後報告で足り得る程度”の事柄ならば現場の判断に委ねるべき。

 王とは、決断を下すモノ……ではあるが、委細全てに関わっていては本当に大切な問題と向き合う時間が少なくなってしまう。

 ただ、あくまで私が能力を見極めた人物に限る。

 今までなら自分で全てに関わろうとした。今でも事後の確認は怠らない。でもやはり、あいつが来てから変わったのだろう。


――よきにはからえ……他人に責任を放り投げているようで嫌いな言葉だったけれど、任せたモノと信頼関係が結ばれているのなら、それはどれだけ美しき言葉になるのか。


 だからだ、任せてもいいと思えるようになったのは。

 あの官渡をあいつと春蘭に任せたのは実験的な意味合いが強く、概ね成功したと言っていい。だから、これからは皆の力量にあった自由を与えようと思った。

 差配するのは私。動いてくれるのは彼女達。信賞必罰と確かな絆を以ってして、全ては上手く廻り行く。


 是非も無し、とあのバカの判断についての思考に耽りながら、最後の数文を読み連ねる内に私の鼓動が僅かに跳ねる。

 先ほどまでの思考が全て、吹き飛ばされた。


「……なんでさ」


 同じく、最後についでのように付け足されていたモノを見てだろう。じっと黙って読んでいた明が不満そうに声を出す。


「……一寸だけ黒麒麟に、戻った?」

「『その時の記憶は無いが、えーりんの判断としては間違いないらしい。予想通りにぶっ壊れているようで劉備の元に戻るだろうとのこと。

 劉備と直接対峙したのは黒麒麟に一寸戻った一日後だから、今回は黒麒麟が何かをする前に止められた。趙雲と会って効果があったから公孫賛とも会ってみようと思う。それで戻ったとしても可愛いバカ共とえーりんに止めて貰うつもり』……って秋兄、何してんのさ」


 苛立たしげに舌打ちをして、彼女はギシリと歯を鳴らした。


「……秋兄の、ばか」


 同感だ。私達の手が届かない所で博打は打つなとあれほど言っておいたのに……あのバカは何をしている。

 戻るのは安全性が確かめられてからでいい。切片を手に入れたならそれ以上の深入りはするべきではない。戻れるという確証を得たのなら、その成果を持ち帰るべきなのだ。

 何より、戻った瞬間の記憶が無いということは……あのバカはもう……


 ビシリと胸が痛んだ。もやもやする。苛立たしい、腹立たしい。自分勝手も……大概にするべき。


――いや……これはアレだ。まだ私はあいつが、否、黒麒麟が劉備を信じていることが許せない……そういうこと。


 壊れる程に信じていたあの男は、信じて貰えなかったというのにまだ信じている。

 何故だ。何故あの男は私に抗う。どうして私のモノにならない。どうして……


――どうして……劉備なの……っ


 ジクリと胸が疼いた。

 あのバカの顔が頭に浮かぶ。黒麒麟ではないあのバカの、平穏に生きる笑みが。


――まだ! あいつは! あのへらへら笑ってばかりの女の元で! その誇り高き命を賭けると!


 苛立つ、心の芯その奥まで。

 道化師を知っていれば知っている程に、余計にあの女の元に居るあいつを想像するだけで許せない。

 誇りへの侮辱だ。其処に戻って何の意味がある? 何の価値がある?


――お前は私の元に居ればいいの。それに約束したのはあなたでしょう……く……やっぱりあいつは、厄介だわ。


 また心を乱されている事に気付く。

 これではまるで欲しいモノが手に入らない子供だ。

 それに今のあいつの約束と黒麒麟は無関係。私と道化師が個人的にした意地だらけの約束は、黒麒麟が知るはずもない。

 しかし……公孫賛と出会って戻るという確証もない。


 なのに何故、介入したくなるのか。

 何故これほどまでに、あいつの行動を制限したくなるのか。


 あの胡散臭い占いを聞いたからか?

 否、否だ。あんなくだらない予言等に惑わされてたまるモノか。

 雛里の狂おしい程の想いを傷つけるあの女……管輅。この街で次に見つけた時は出禁にしてくれる。


「……ねぇ、華琳様。あたし行ってきてもいい?」

「……却下よ。あなたと張コウ隊は西涼軍との戦闘に出て貰わなければ困る」

「あたしのバカ共なら桂花でも扱えるよ? でも狂った秋兄を止められるのは同じ五将軍しか居ない。いくら強いって言っても、徐晃隊と猪々子じゃ力不足じゃん」

「それでも却下。それに此処で将を追加するのは益州への対面的にもよろしくない。益州を落とすのは孫呉を手に入れてからと決めているのだから、今回は我慢なさい」

「やだ」

「わがままを言わないの」

「だって……」


 肩を落とした明は、目を合わせずに自分の身体を抱き締めた。


「……夕と約束したんだもん。あたしの幸せを掴むって」


 座った私を上目使いで見上げながら、彼女は哀しげに言葉を流した。


「欲しいんだもん。あたしと同類のあの人が。

 哀しくて苦しくて辛くて壊れそうだったあたしを、ただ抱きしめてくれたあの人が。

 誰に憎まれても死ぬまで生きろって、あたしの想いを掬ってくれるあの人が。

 後悔して過去に生きるよりも此処で精一杯の人生を掴めって、夕と同じことを言うあの人が。

 ひなりんとか、ゆえゆえとか、えーりんとか、朔にゃんとか……あの子達と同じなのかは分かんない。

 でも欲しい。隣に欲しい。

 それに、桂花も華琳様も春蘭も秋蘭も霞姐もふうりんもりんたんも季衣っちも流琉っちもひなりんもゆえゆえもえーりんも朔にゃんも麗羽も斗詩も猪々子も……皆が居ないと意味ないもん。

 くだらないことで笑い合って、くだらないことで貶し合って、くだらない時間を繰り返して、それがあたしの欲しい幸せの一つなんだもん。

 離れるなんてやだ。敵になるなんてやだ。殺し合うなんて……絶対やだ」


 壊れた人形のようだったこの子がよくここまで直ったモノだ。

 大切なモノ以外何も要らないと言っていたこの子が、仲間を失いたくないだなんて。

 しかし何故、この子がこれほどまでに忌避しているのか。


「黒麒麟が裏切るのなら殺し合うしかない、あなたはそう思っているの?」

「……華琳様達は奪い返せると思ってるかもしれないけど……無理だよ」

「無理と決めつけるなんてあなたらしくないわね」

「違う。無理なの。絶対無理。あの人は、秋兄は……一回裏切ったらもう帰って来ない。今の秋兄の記憶が無くなるのなら帰って来れない。

 捕まえても従えられない。理と利を説いても無駄。そんなモノで揺らぐ程度じゃ狂ったりなんかしない。あの人が信じてるのはあたしの時みたいな個人じゃなくて、“自分の中にだけ存在する、思い描いた平穏”なんだから」


 何を、と言う前に明がくるりと回った。

 トン……トン……と踵と踵を鳴らして間を保つ。


「……温いよ、華琳様。裏切った後のあの人が従ったように見えてもきっと、それは偽りでしかない。

 華琳様が思い描いた平穏を作り上げたと思った矢先に、最悪の手札を切ってくる。曹操軍は覇王が居なければ成り立たないんだよ? 例えゆえゆえを妹として認めたって言っても、それこそ秋兄の最も得意な分野に引き摺り込まれてるって分かってるはず。自分が信じるあの人を信じてばかりいたら……死ぬよ?」


 彼女のこんな目は久しぶりに見た。前髪の隙間から覗く彼女の昏い瞳が、異端への警告を伝えていた。

 信じることは器の広さ。私はきっと……誰かが裏切った場合、それを受け入れる。

 彼女は自分達がそれを策と為した前例がある。曹孟徳に唯一在る付け入る隙はその一点だと理解しているから……だからこそ、私にこんなことを警告しているのだ。


――私がこの目で裏切らないと判断したのなら、その責は全て私が背負うべき。命を散らすことになろうとも。


 だが……しかしだ。

 私はそれを曲げられない。彼女が言うように、黒麒麟に疑心を置き続けることなど出来ないししない。私は私を信じている。だから、その時の私が黒麒麟を信じるというのなら……甘んじて結果を受け入れる。


 じっと、彼女の黄金を見つめた。頬が自然と吊り上る。

 瞳の中を覗き込めば、彼女の本心も僅かに透けて見える。


 彼女はこれ以上、大切を失いたくないのだ。だから自分が死んでもあのバカを離さないようにするから任せろと、そう、言っている。

 黒麒麟に戻らなくともいい。あのバカが……“秋斗”であればそれでいい、と。


 しょうがない子。本当に。それもまた一つの、欲望か。


「抑えなさい、明。勝手な行動は許さないわ。理屈は分かるが私は許可しない。してあげない。

 あいつが裏切る? 別に構わないわ。確かに腹立たしいことではあるけれど、飼い犬に手を噛まれたくらいで騒ぐなんてそれこそ器が知れるでしょう?」


 彼女の目に殺意が乗る。それもまた心地いい。私と敵対してでも欲しい幸せだと感じているのなら重畳。

 大丈夫よ……愛しい愛しい紅揚羽。あまり私を見縊るな。


 片方の目だけ細めた。椅子に座りながら見下ろすと……彼女の身体が僅かに固まる。

 可愛い子ね。この程度で怯むようじゃあ、あなたのワガママは聞けないわ。

 代わりと言ってはなんだけど、面白い許可を出してあげましょう。


「ただ……裏切り者には制裁が必要なのは事実。でも私はあいつを殺さない。殺すなんて勿体ないこと出来やしない」

「……じゃあやっぱりダメじゃん。絶対秋兄は華琳様を殺しに来るよ」

「ふふ……慌てない慌てない。結論を急ぐクセ、直しなさいね? ちょっと近くまで来なさい?」

「むぅ……なにさ」


 唇を尖らせた彼女に手招きを一つ。

 彼女の髪に顔を近づければ甘い匂いがする。耳元に唇を宛がって、私は甘い甘い声音で囁いた。


 欲しいんでしょう?

 離したくないんでしょう?

 でもあいつは裏切るってあなたは疑って仕方ないんでしょう?

 それなら……自分の望む通りに……捻じ曲げてやればいいじゃない。


「張コウ、張儁乂……可愛い可愛い紅揚羽に教えてあげる。

 黒麒麟は必ず私に頭を垂れさせる。裏切り離れた後、再び私の元に手に入れたその時は……“手も足も切り取って構わない”の」


 彼女が僅かに震えていた。この程度であなたは恐怖しないはずでしょうに、紅揚羽。


「思い違いをしてるようだから言っておく。

 私は、裏切り者を、絶対に、許さない。

 あのバカが裏切るというのなら本人だけでなく、周りのモノを犠牲にしてでも、それら全ての人生を賭けさせ私に全てを捧げさせる。

 他人に頼りたくないあいつを、他人に頼るしかない身体にしてやって……愛しいが故に甲斐甲斐しく世話を焼く雛里が側に居続ければ……どうなるのかしらね?」


 想像しただけでも哀しい未来だ。それでもあいつが逆らうよりは……ずっとマシ。

 あいつの心の芯は、自分で動ける状況にあるからこそ保たれる。それが出来なくなった時、あいつは無力の果てに諦める。

 大人しく諦めて、私の作る平穏の中で溺死しろ。だが、やはり抗う可能性はあるだろう。その時は……


「それでも敗北を理解せずたった一人でこの覇王に抗うその時は、私がこの手で引導を渡してあげる。雛里とあなた達の為に殺してあげましょう。そんな無様な徐公明は……秋斗は見たくないでしょう?」


――私も、見たくない。


 度が過ぎた抵抗は美しさを失う。見るに堪えない。抗う手段を全て奪われながらも、雛里に泣き縋られても抵抗するなんて……想像出来てしまうのが嫌になる。

 明は小さく、御意と口にした。


 それでもやはり……私とは平穏を作らないと決めたなら、あいつは死ぬまで諦めないだろう。


 でも、許さない。許してなんかやらない。この私から逃げられるなんて思わないことね、黒麒麟。

 お前と同じ道化師が私の可愛い子達を変えたのだから……絶対にその責任を取って貰うわ。






 †





 今日もまた夜が来た。

 抜けるような青空が広がっていた今日の空は、夜になれば僅かに雲が湧いて星々を隠してしまった。

 満天の星空が見たかったのに、雲に邪魔された。


 心に広がる不安を表しているようで、私は雲が嫌いになった。

 空のようになりたい、と願った愛しい人。雲も含めて空なのだろうか。私には分からない。でも……どちらかというと彼は、抜けるような青空になりたい人だと思う。

 彼がそんな空だというのなら、それを覆い隠す雲は……嫌い。


 ため息が出た。

 カサリ、と音を立てて机の上の紙を手に取る。華琳様から渡された、益州に居るあの人からの手紙。

 炙りだしで書かれた極秘の手紙には、待ち望んでいたはずの希望の可能性が示されていた。

 “彼”は戻る。間違いなく、私が愛した彼は生きている。


 嬉しかった。読んだ瞬間に涙が零れた程に。

 思い出が溢れて止まらなかった。温もりが思い出されて暖かくなった。


 だというのに……裏切りの確率はほぼ確定だという、絶望も報せの内にあって。

 詠さんの判断なら間違いない。詳しいことは次に会った時に話すと書いてあったから、その時に詳細は聞く。

 つまり、詠さんはまだ戻すべきではないと考えたのだ。絶望の底を覗き込んで、自分の手には負えないと考えた。


 星さんと出会って戻ったなら、白蓮さんと出会えば本当に戻るかもしれない。今のあの人の判断はそう。でも……私は否だと思う。

 今のあの人も強い人だから、白蓮さんと出会っても自分を失うことはない。


 誰も気付いていないけれど、官渡の終わりに彼に戻りかけた事を……私は知っている。

 白馬義従の想いを受けて零れた涙は彼のモノ。深く昏い後悔に沈んでしまった彼だけのモノだ。

 同じモノを繰り返してもきっと戻らない。星さんとの再会と同じような白蓮さんとの出会いでは戻れないのではなかろうか。


 多分戻る時は、今のあの人の心が弱った時だ。

 益州を掻き乱す程度じゃなくて……多くの人を虐げる乱世の最中……大きな国に侵略を開始する……裏切りの為には絶好の時機を以って、彼は戻ってくる。そんな確信を私は抱いていた。彼の弱さを見てきたからこそ、そう思えた。

 あの予言のせいだろうか。まるで全てが筋書に乗せられているかのように感じるのは。


 天の御使いなんて、信じられない。

 天の筋書があるのなら、彼はこの乱世をかき乱す最悪の不可測だ。

 曹操軍も、劉備軍も……多くの人間が掻き回されることになる。


 あの人は天じゃない。青空になりたいと望んでも成れない人。


 きっと、昼にも夜にもなれる空。


 私達が見つめてきたあの時間の……




「軍師様よぉ」


 窓の外を見上げる後ろで声が一つ。

 早馬の後、遅れて運ばれてきた傷だらけの第四部隊長さんの太い声が響いた。振り向くことなく背で受け止める。


「えーりんが……言ってたぜ」


 どうにか紡いでいるような弱々しさは、まだ直り切っていない傷を押して出しているのだろう。


「……“御大将”は、必ず帰ってくるんだ」


 少年のように晴れやか。憧憬に溢れ、期待と歓喜を映し出し、部隊長さんは想いを吐き出した。

 直ぐに後、部屋の空気が重く沈む。急な切り替わりが何を意味してかは、分かっている。


「でも……部隊長達にだけ伝えろって……えーりんに言われたことがある」


 重く、冷たく、その声は身に沁み込む。

 事実は残酷だ。彼らにとって、希望に満ち溢れていたはずの可能性は残酷に過ぎた。


「そりゃそうだ。“忘れられない”あの人が、想いを裏切れるはずがねぇ。御大将は、あのバカは、いつか俺達の敵になるんだろ?」


 肯定を求める彼の言は、私の心を悲哀に染め上げる。

 大切な大切な彼らの主は、ずっと予防線を張っていた。


 狂信でありながら狂信に非ず。

 忠義でありながら忠義に非ず。

 疑問と不審を感じたその時は、自らの刃を以って主に向けよ。

 世の平穏を想うなら、己の主さえ踏み潰すべし。


 信じるな、と彼は言う。

 信じてくれと、願いながら。


 哀しい哀しい彼らの在り方は、黒麒麟の裏切りを止める為には最効率だった。


「……はい」

「そうかい……」


 まるで彼のような返答が、私の胸を締め上げた。

 やはり嬉しそうに、彼らはその後に笑うから。


「ははっ……ならよ、許可をくだせぇ」


 彼の代わりに戦う部隊長の一人であるあなたが代表として、私の命令を受けたいと……そういうから。


「狂い切って無かったら俺達が止める。手足の一本ぶった切ってでも止めてやらぁ。黒麒麟と一番戦い慣れてるのは俺らだから、此れは俺らにしか出来ない仕事でしょうよ。

 でも、捕まえても叩き潰しても、何をやっても狂い切ってどうしようもないその時は……」


 いつでも最悪の場合まで考えておかなければ、彼らは彼ら足り得ない。

 否定せず、私は現実を受け止める。分かってる、彼が狂い切っているその時は、平穏な世界には害悪でしかなくなるのだから。


「“徐公明と御大将”の願いの通りに……」


 あの人と彼が望んでいたこと。絶対に起こすつもりはないけども、私も彼と同じように最悪の場合を想定しておかなければならない。


「黒麒麟は……俺達が殺します」

「……よろしく、お願いしますね」


 それがどれだけ、残酷な世界になろうとも。彼が思い描いた平穏は、もう皆の胸の中にあるのだから。

 彼を愛するというのなら、狂った彼を止めなければならない。


――だから私は彼らと共に、彼を……


 戻ればきっと、彼は私を見ないだろう。

 絶望の底を覗き込んだ闇色の瞳の中に私は居ない。見てくれない。

 抗い続けるのが彼の本質だ。想いが繋がった私よりも、彼は彼の思い描く道筋の方が大切なのだから。




 だけど、ほんの些細な希望も捨てたりしない。

 詠さんが呼びかけて戻れたというのなら、皆で呼びかければ戻るはず。

 華琳様が道化師と呼ぶ徐公明と混ざり合ったのならきっと……此処で繋いだ大切な想いを思い出すはず。

 死せる想いを掬いながら、生ける想いを救えるはず。


 その時に、彼に私が伝えよう。

 彼の真実に対する予想を、伝えよう。


 あの予言のおかげで、彼を世界の異端と呼んだ戯言のおかげで、彼の正体の欠片がまた手に入った。

 天に与えられた役割は劉備軍の勝利なのかもしれない、と。

 劉備をこの乱世で勝利させることこそが、彼の矛盾の原点なのかもしれない、と。


 成り上がり劇はまるで物語のように語られる。都合のいい世界なんてモノは、本来有り得ないはずなのに。

 古くからの王族と、才に溢れる強大な覇王を相手にして……潰されてしまいそうな仁徳への救済を。

 そんな物語を、皆が救われて欲しいと願う仁徳の勝利する世界を、天は望んでいるのだろう。


――それが世界の選択だというのなら、私が共に天に抗います。


 不穏な雲の掛かる空を見上げながら、心の中に決意を一つ。


 私は世界の敵でいい。

 小さな魔女、と出会った時に彼は呼んだ。 

 なんとも皮肉だが、おあつらえ向きだった。


 私は、天の下した命に従う彼を誑かす、魔女になろう。


 それで彼と共に幸せを探せる、平穏な世が手に入るというのなら。 



読んで頂きありがとうございます。


今回は心の動き等を。

華琳様と雛里ちゃんの違いを感じて頂けたら幸い。

徐々に雛里ちゃんが彼の存在に近づいて行ってます。


次は動かしていないあちらを。


ではまた

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